Ken FollettのTriple

たまりにたまった本を整理しはじめることにした。何しろ中学校時代からの本が整理されずに残っているのだ。さすがに本の置き場に困り始めている。

 

整理しながら本を手にする。旺文社文庫、そう、もう絶版になっている旺文社文庫がある。

モンテクリスト伯爵

ジャン・クリストフ

野生の声

 

なつかしいなぁ。でも、ストーリーは大方忘れてしまった。でも、もう2度と読むことはないだろう。

 

創元社文庫だと、いまだに出版され続けているものがある。

グリーン家殺人事件

Yの悲劇

Xの悲劇

フランス白粉の謎

チャイナ橙の謎

ガーデン殺人事件

シャーロック・ホームズ冒険

シャーロック・ホームズの帰還

赤い館の秘密

 

推理小説が多い。これらももう再読することはないだろう。

 

Book Offに持って行ったが、段ボール2箱で500円にしかならなかったが、引き取ってくれるだけましである。

 

整理している中でケン・フォレッとのペーパーバック版が出てきた。1979年印刷となるから大学卒業直後のことだ。手にしてベッドにもぐりこんで読み始めたら目茶目茶おもしろい。先週末の軽井沢旅行にも持参して昨日朝読了した。

 

主人公は、ロンドンはイーストエンドの貧しいユダヤ人家庭に生まれ、第2次世界大戦では連合軍のイタリア作戦に参加、ドイツ軍の捕虜になり強制収容所で地獄の体験をするも生き延びて、戦後はイスラエルに移住、イスラエル諜報機関のスパイである。

時代は1968年前後のこと。戦後オックスフォード大学で主人公と出会った旧友が物語に絡んでくる。

Yassinはパレスチナ生まれのアラブ人で、ルクセンブルクの金融機関に勤めるがエジプトの諜報機関のエージェントである。

ロシア人のRostovは、KGBの諜報員として登場する。

物語は、エジプトがロシアの支援を受けつつ核施設を密かに作って核兵器を作ろうとする情報をキャッチしたイスラエルが自らの安全保障上の危機を乗り切るために、プルトニウムを手に入れる作戦を展開するところから始まる。

 

当時核兵器は、アメリカ・ソ連・英国・フランス・中国の5か国独占の状況であった。主人公はルクセンブルクにあるヨーロッパの原子力機関の職員から情報(ホモの職員を脅して核処理燃料の輸送データを入手)を得海上輸送される船を乗っ取りイスラエルに持ち帰るというプランである。

 

この計画を巡って、ルクセンブルクで偶然再会したYassin(エジプトの諜報員)とKGBRostovが阻止するために動き出す。彼ら3人の恩師でオックスフォード大学教授のイギリス人の妻の娘Suzaが主人公Dicksteinの恋人となる。彼女の母はヨルダン人、つまりアラブ系であり教授もアラブ寄りの人間である。

 

エジプトの諜報機関には、イスラエルのモサドにソ連・アラブ側の情報をリークするダブルエージェントがいたり、それを知っているKGBが偽情報を流したり、国益を巡る諜報員の活動を実態さながらに描いていてスリリングである。

 

モサドは主人公が恋に落ちたスーザがアラブ側の諜報員であると疑い、KGBもそのように彼女を扱ったが、冷徹なKGB諜報員のRostovは最後の最後で墓穴を掘ることになる。

 

手際よくジブラルタル海峡を過ぎた輸送船を乗っ取っろうとした主人公だが、Yassinの計らいで一足先乗っ取りに成功したパレスチナ解放戦線の一味と戦う羽目になり多大な犠牲を払って何とか確保する。

 

その船を抑えてイスラエルが秘密裏に核兵器を持とうという意図を世界に暴露して漁夫の利を得ようとするKGBRostovの目論見は最後の最後で頓挫する。Rostovの船に囚われの身となっていたスーザは、通報受けた主人公が単身船に乗り込んで来て救われる。

 

エンターテインメント小説だけにハッピーエンドではあるが、作者ケン・フォレッと氏の才気がいたるところで垣間見えるなかなかの出来だった。30年近く眠っていた本がやっと日の目を見た瞬間だった。

 

ところで、小説の最後のエピローグでパレスチナ問題の難しさをアラブ人政治家がたとえる話は示唆に富むものだった。

 

「パレスチナ問題は、イスラエルが核兵器を持ったことによって、永遠に解決しないだろう。アラブ側に核兵器はないのだ。パレスチナとはいわばイギリス連合王国のウェールズみたいなものだ。ウェールズ人(スコットランド人と同じくケルト人)は、1000年くらい前にアングロ・サクソン族に占領された被占領民族なのだ。1000年間彼らは屈辱に耐えてきた。出来ることというのは、最近もそうだが、警察署に爆弾を仕掛けることくらいだ。」

 

中東におけるイスラエルとパレスチナ問題に解決の糸口はない。パレスチナ人はウェールズ人のような運命を辿るのだろうか。

 

中東で現在唯一核兵器を持っていると思われるイスラエル。イスラエルはNPT に加盟していない。イランの核問題はイスラエルの存亡にかかわる安全保障問題なのだ。極東に住む平和ボケした日本人からは彼らの緊張感を理解することは不可能だろうか。

 

極東にも核問題はある。北朝鮮だ。北朝鮮は、核を持つことで金王朝政権と取り巻きの特権階層(軍人)の存続を図っている。現在五か国協議の枠組みで解決を図ろうとしているがようとしてその糸口は見えてこない。しかし、脅威の最前線にいる韓国はもちろん、日本には緊迫した脅威の実感がないのも事実である。何故なのだろうか。

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Kissinger氏の「On China」を読む (その2)

1970年前後の国際情勢は、今日からするとまったく違っていた。

アメリカ合衆国は、194910月に毛沢東率いる中国共産党が樹立した中華人民共和国と国交がなかった(蒋介石の中華民国を承認していた)。

西方では、インドと国境紛争を抱えて敵対していた。

南方のベトナムではアメリカが介入して55万の軍隊が派遣されていた。ベトナムと国境を接する中国は北ベトナムを支援していた。

 

そして、肝心の社会主義の同盟国ソ連とはスターリン死去後のフルシチョフ政権を修正主義と批判・対立しウスリー江では島の領有をめぐって軍事衝突があり、嘗ての友好関係から一転して敵対関係となり、ソ連は国境付近に軍事力を結集していた。

もちろん、アメリカの子分となってしまった日本とも国交はなかった。

外交的には八方塞り状態だった。

 

内政も混乱の極みだった。毛沢東主導で行った1950年代後半の大躍進政策は2000万とも3000万とも言われる餓死者を出すという惨禍を招いた。劉少奇副主席らの実務派に批判され主導権をうばわれた毛沢東は面白くなかったらしい。

 

ここらあたりが凡人の我々には理解に苦しむのだが、唯我独尊、嫉妬深い毛沢東は、実務派の経済立て直しは必要と感じつつも、共産主義革命=永久革命に情熱を持ち続ける、というに満ちた「確信犯」だった。「共産党の親分は自分なのだ」、という自己顕示と権力闘争のために、両派を戦わせながら(劉少奇、周恩来、鄧小平の実務派と毛沢東の3番目の妻・江青らの4人組)や林彪ら人民解放軍らの永久革命派)、権謀術数の限りを尽くして周りの人間を使い捨ての駒のように犠牲にしては、自らの正当性を維持しつつ権力を掌中に維持し続けたのだった。

 

キッシンジャー氏が周恩来首相と秘密会談を行った1971年から72年にかけての中国内政情勢は、外交と同様に出口なしの状態だった。その極め付けが「林彪事件」だった。謎が多いとされる事件だが、文化大革命の過程で、劉少奇の追い落としに功のあった林彪を自分の後継者にしたものの、人民解放軍の実権を握りナンバーツーとなった林彪の影響力に自分の地位が脅かされる不安を感じた毛沢東の粛清劇だったらしい。クーデターを試みた林彪は、失敗し逃亡を企てたものの飛行機がモンゴル上空で墜落(撃墜?)して死亡した。

 

キッシンジャー氏の周恩来や毛沢東との会談と回顧しながらの氏のコメントは現代史の生き証人の言葉だけに読んでいてゾクゾクしてしまう。当時、キッシンジャー氏は40歳後半後半の若造だった。片や、毛沢東、周恩来はたたき上げの革命家で日中戦争とその後の国民党との内戦を勝ち抜いて大混乱の中国を再統一した「超大物」であり半端な政治家・革命家ではなかった。

 

周恩来に初めてあったときキッシンジャー氏は周恩来氏の存在(圧倒的な存在感、優雅さ、炯々と輝く眼光、鋭い知性、包容力等)に圧倒されたことを正直に告白している。(同氏に、「まともに戦略の話などできない」と酷評される日本の政治家・外交官とはまったくレベルが違うということだろう)。

 

話は脇道のそれるが、日本の政治家のレベルが何故にかくも見劣りするのか。宮崎市定氏の指摘に納得せざるを得ない。 つまり豊臣秀吉級の人間が中国にはゴロゴロいるというのだ。人口一億の日本を束ねる指導者が人口13億を束ねる中国の政治家と比較するのが間違っているということだろう。しかも、中国は多民族国家である。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康級の人物が各地域に割拠しているのだ。このレベルの指導者が、ベストエイト、ベストフォーで戦い、決勝で勝ち残ったチャンピョンが、中国の歴代の皇帝であり、毛沢東だったのだ。

 

キッシンジャー氏は、近代ヨーロッパ外交史の権威だが、そもそも16世紀に現在のヨーロッパ地域に於いて「主権国家」が登場して勢力均衡による外交が確立し伝統となり、第一次世界大戦前まで続き、その結果として両世界大戦による惨禍の結果EC,EUという統一欧州共同体が出来たことを踏まえて、16世紀から20世紀世紀前半までのヨーロッパを紀元前の中国春秋・戦国時代になぞらえている。

 

このブログは、この本の要約ではない。気になるところを記そう。 最終章を先に読んだのだが、キッシンジャー氏は、21世紀の現在、中国の台頭を、19世紀後半のビスマルクによるドイツ統一事業がヨーロッパの地政学的状況に根本的な変革をもたらし、結果として第一次、第二次世界大戦につながった事実に触れながら、アメリカ合衆国をイギリス、中華人民共和国をドイツになぞらえたアナロジーに注意を促す。

 

歴史がそのまま繰り返せばとてつもない悲劇となる。そうはならないだろうと、キッシンジャー氏は言う。単純な人は米中戦争を考えてしまうが、第一次大戦まえのヨーロッパの指導者は、近代兵器の惨禍を予想できなかった。21世紀の今日の指導者達はそれを知っている。

 

米中は相互の国益を追求しながら、破滅的な対立にならないよう、おもに非軍事的に調整を図りながらともに「進化」していく関係を築くべきであると提言し、それは可能なはずだと言う。

 

(続く)

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Kissinger氏の「On China」を読む その(1)

キッシンジャーの「On China」を読み始めた。2011年の春に出版されて評判になった。Timesにはイギリス人の歴史家Niall Ferguson氏の書評も出ていたし是非読んでやろうと思ってアマゾンですぐ注文した。しかし、なかなか熟読する時間を見つかられずに半年が経ってしまった。

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やっと時間が出来た連休前に読み始めた、と、皮肉なことに新聞広告で岩波書店から「キッシンジャー回顧録」という名前で翻訳が出たことを知った。題名が良くないと思う。やっぱり、原題のニュアンスは尊重すべきだろう。「キッシンジャーの中国論」が妥当ではないか。

 

読みながらつくづく思うのは、欧米の政治家がどれだけ中国を中心とする東アジアの歴史と現状を理解しているのか、という疑問である。旧西ドイツの首相だったシュミット氏も彼の著書で「無知ぶり」を正直に告白している。彼らは、驚くほど自分たちの文明・文化圏以外の世界については無知なのだ。彼らにとっての教養とは、あくまでも同じキリスト教共同体から発展したヨーロッパ史であり、その枝分かれした北米アメリカ史なのだ。

 

裏を返せば、日本の政治家を始め、アジアの政治家がどれだけ欧米(ヨーロッパ・北米のキリスト教圏)の歴史・文化を理解しているかという、問いになるが、状況は同じだろうか。いや、明治維新で西洋化に目覚めた日本を始め、いわゆる近代化路線を取らざるを得なかった東アジアのみならず全世界の非西洋諸国の政治家たちはいやがおうでも手本として主要欧米諸国についての知識と理解を持たざるを得ないのだから、欧米のカウンターパート達よりは少しは上回っているのではないだろう。

 

キッシンジャー氏は、南ドイツの片田舎に生まれたドイツ系ユダヤ人だ。ヒトラーの迫害を逃れてアメリカに移住。どういう経緯でハーバード大学に入れたのかはわからないが、秀才ぶりを発揮して、ハーバード大学院で19世紀のヨーロッパ外交史の論文を書いて博士号を取った。米ソ冷戦真っ最中だったニクソン政権時代に大統領と二人三脚でそれまで国交のなかった中華人民共和国と国交回復を実現して世界をあっと言わしめた辣腕の外交官にして冷徹な戦略家、というのが私の知る大まかな氏について知るところである。

 

日中国交を回復した故田中角栄氏がロッキードスキャンダルで失脚して刑事被告となって晩節を汚しても「井戸を掘った恩人」として中国は彼に敬意を表し続けた。キッシンジャー氏は、そのアメリカ版である、とは言っても彼は晩節を汚している分けではない。キッシンジャー氏と中国との繋がりは深い。

 

大革命家にして大戦略家かつ暴君であった毛沢東とその子分(毛沢東に死ぬまでいじめられ続けたらしいが)周恩来との出会いから始まって今日までの歴代の中国のトップとの付き合いは長い。1972年から今日までの50年、半世紀である。国際政治学者として日本では紹介されるキッシンジャー氏だが、正確に言えば、彼はstrategist、つまり、戦略家というのが正確なところだろうと思う。

 

読みながら思ったのは、21世紀は中国が19世紀半ばごろから強いられた「150年」の屈辱をようやく清算して、かつての大国へ回帰する過程なのだ、ということだ。過去20世紀のうち18.5世紀において中国の力は圧倒的だった。その圧倒ぶりは、島国に住む現在の日本人には実感しずらい。

 

満州事変から日中戦争を戦って日本は中国に負けたのだが、大方の日本人の認識は中国に負けたのではなく、アメリカに負けたと漠然と思っている人が多いだろう(最近は、日本とアメリカが戦ったことを知らない世代が結構いると知って私はショックを受けたのだが)。

 

歴史をきちっと勉強すれば、日本は中国に負けたことが良くわかる。大戦略家であるキッシンジャー氏は、最初のほうの章で「孫子」に触れている。中国の古典「孫子」は、「戦いで最上は戦わずして勝つこと」としている。19世紀のプロイセン軍人クラウゼヴィッツの「戦争論」は、兵力の運用に重きがあるのに対して、「孫子」の戦略的観点(心理戦、謀略)はその上を行っているのだ。しかも、紀元前200年~400年のころの話なのだ。

 

日本は、中国の戦略に負けた。蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党(八路)軍は、西安事件を契機に2度目の国共合作を実現した。彼らの伝統的な戦略である「遠交近攻」政策に基づき、当面の敵である侵略者・大日本帝国と戦うために同じ帝国主義で苦しめられたイギリスやアメリカ、ソ連と手を結んだ。日本が真珠湾攻撃をした時点で、アメリカの第2次世界大戦の参戦が実現し、イギリスのチャーチルも国民党の蒋介石もこれで、日本に勝てる、と狂喜した。

 

冒頭でキッシンジャー氏は、中国の「独自性」(singularity)を強調している。そして、その独自性は、性質は違うが、アメリカ合衆国の「独自性」(exceptionalism)と対をなしている。どちらも、本来であれば、自足的で、周りに気遣う必要がない。違いは歴史の集積からくる中国独特の儒教文明に対し、アメリカは「Manifest Destiny」に象徴される使命感(民主主義とキリスト教を世界に広める)である。

 

どちらの国、というか私に言わせれば「文明圏=一つの世界」なのだが、我々日本人やヨーロッパ人が考える「国」=nation state (通常「国民国家」と訳される)とはmagnitude(度合)がまったく違う。ヨーロッパ大陸国は、ドイツ・フランスおよびベネルクス3国を中核に「ヨーロッパ合衆国」らしきものをつくろうとしているが、アメリカ合衆国も中国も国家としての度合いはこの「ヨーロッパ合衆国」規模なのだ。

 

(続く)

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村上春樹の「1Q84」を読む

開したにもかかわらず半年また沈黙してしまった。新緑の季節を迎えて気分爽快。忘れていたわけではないのだけれど、身辺がやっと落ち着いてきた。これからしがらくは読書日記のエンジンを全開しよう!!

 

連休前半は野暮用で東京へ。久しぶりにシングルマザーの母娘と楽しい時間を過ごして来た。娘はバレエを習っていてその発表会もあった。かわいいですねぇ。良かったですよ。招待してくれてありがとう!!

 

一緒に食事したり、遊園地に出かけたり、買い物に出かけたり、自転車乗りの練習に付き合ったり、疲れましたねぇ、でも、自分はとても元気になってまた田舎に戻って来た。

 

往復の移動中やや深夜、早朝の自由時間は一人で久しぶりに小説を読んだ。村上春樹の「1Q84 」の文庫本(14)を携行したのだった。彼の本を読むのは「ノルウェーの森」を1990年前後に読んで以来だろう。 

 

1984年というと、もう28年前のことだ。1984年のその年、私はアムステルダムで仕事をしていた。若かった。主人公の天吾くんとほぼ同じ年だったなぁと思いながら、第一巻から読み始めたら、面白くてずんずん引き込まれて昨夜遅く4巻まで読了。

 

ストーリーのことはまだ読んでいない人のために書かないけど、子供のころに心の傷を負った二人の登場人物、予備校で数学を教えながら小説家修行をしている男・天吾くんと戦闘的フェミニストにして女版「必殺仕置き人」(すでに3人の男を殺している殺人者)である青豆(あおまめ)さんを中心に、60年代から70年代に盛り上がって消えていった新左翼運動に関わった若者達のユートピアの果てに、80年代のバブル景気がまさに始まったばかりの1980年代に登場してきたオウム真理教を連想させる宗教団体を巡って物語は展開していく。

 

月が二つ見える、空気さなぎ、リトル・ピープル。「巫女」の役割を果たしているらしき発達障害と思われる17歳の美少女の口から語られるこれらの謎に満ちた言葉。小学校時代にたった一度手を握っただけだが惹かれあう天悟と青豆は、この「巫女」=ふかえりさんの狂言回しに乗って1Q84年という「捻じれた?」奇妙な現実の世界へと誘われていく。読んでいて刺激的で楽しい。これが村上ワールドなのだろうか。

 

個人的には、1984年というとジョージ・オーウェルの「1984年」を思い出す。リトル・ピープルとういのは、オーウェルの「1984年」に出てくる独裁者ビッグ・ブラザーのパロディである。当時、冷戦は続いていたし、ソ連が5年後に崩壊するとはまったく想像も出来なかった。

 

学生時代に、すでに新左翼運動は下火にはなっていたが、新左翼崩れの先輩と話したこともあるし当時の雰囲気はよく覚えている。自分は、考え方に付いていていけないなぁと思いつつ、同級生と同じようにリクルートスーツに身を包み何とか就職(オイルショックで就職は厳しかった、2012年の今日ほどひどくはなかっただろうが)して数年経過し、仕事に没頭する毎日だったが、何か飽き足らない日々で、ヨガに興味を持ったり、哲学書や宗教書を読み漁ったりしていた。私にとっての1984年は、バブル景気に突入する直前で日本中が沸き立ち始める兆しがあり、世の中が何か変わったな、と思えるそんな年だった。

 

小説にはいたるところで音楽が重要な役割を果たしている。基調音はヤナーチェクだ。映画「存在の耐えられない軽さ」で出会ったピアノ曲を愛好する私だが、「シンフォニエッタ」は聞いたことない。聞きたくなった。

 

続巻の登場が待ち通しいい

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映画「パピヨン」、モーム、ユンガー

大分前のことだ(もちろん大地震の前)、ある日の夕方仕事が終わって帰宅して遅い夕食を取ってコタツにはいりテレビのスイッチを入れると、BS3で映画「パピヨン」をやっていた。 金庫破り(無実の罪???)で終身刑を受け、中南米フランス領ギニアにある脱出不可能と言われる流刑地に流されたスティーブ・マックイーン演じる主人公パピヨン(胸に蝶の刺青がある。フランス語で蝶はパピヨンだ)が不屈の闘士で最後は脱出に成功する話だ。

2度脱走を試みて連れ戻されその都度5年間、合計10年の独房生活を強いられながら耐え抜き、最後は絶壁に囲まれる孤島に島流しになるのだが、ここでも不屈の精神を発揮して椰子の実を袋につめた浮き袋を作って海流に乗って30数キロ先の陸地に一か八かの脱出行を敢行して生還したという実話にもとづく話だという。

途中で切り上げて寝ようと思いながらついつい最後まで見てしまった。最近の映画はさっぱり見なくなったが、こうして昔の映画を見るとなかなかいい映画があるなぁと思う。何がいいのかうまく言えないが、ロケ映画の美しさ(「アラビアのロレンス」は何回見ても感動する」)とか当時(たぶん1920年代前後)の植民地の風俗などを見ているのが興味深かった。それとともに、最近の映画をあまり受け付けなくなったのはやっぱり歳をとったからだろうか、という疑念も密かにわが心に忍び寄る。

サマーセット・モームの短編集を英語の勉強と思ってこのところ時間を見つけては古びて黄ばんだペンギンブックスで読んでいる。この作家は大英帝国の絶頂から凋落の兆しが見え始めた20世紀前半に太平洋諸島をあちこちほっつき歩いた人だ。日本にも来ているし、中国をはじめマレーシア、シンガポール、太平洋の諸島をくまなく巡り歩いた。ポール・ゴーギャンに会いにタヒチにも行っている。

その短編にもパピヨンが収監されたギニアの刑務所を扱った短編もある。モームの作品は、ヨーロッパ人やアメリカ人が流れ流れて住み着いた太平洋の国々・島々で赤裸々に見せる人間のおかしさ、みにくさ、残酷さ、愚かさを描いている。どれも最後に結構な「落ち」があってその語り口はエンターテインメントそのものだ。

短編の名手を上げろと言えば、ロシアならチェーホフ、フランスならモーパッサン、アメリカだとヘミングウェイとするとイギリスはモームだろう、と思うがいかがなものだろうか。ドイツ語圏の軽妙短編の名手がなかなか思い浮かばない。カフカの短編はそれなりに好きだが気楽に読めるものじゃないしねぇ。多作のトーマス・マンはいい短編を結構書いてはいるのだが。

パピヨンの映画に戻ると2度目の脱出では、追跡から命かながらに一旦は逃げたが意識を失ってしまう。目が覚めると、現地土民の集落で介抱されていた。海辺での原始的ながら一種の桃源郷にいるがごとき生活をするのだった。土着の文明化されない人たちは心優しく、貞操観念も西欧キリスト教社会のような堅苦しいタブーもなく、主人公は夢のような安らぎの中で時間を忘れて生活するのだったが、ある日目がさめると、誰もいなくなって主人公一人が残されていたのだった。(映画ではその後、修道院に保護を求めたものの彼女たちの通報結局刑務所に戻されてしまう)。モームの短編にも現地土着民のこの手の話があちこちに出てくる。

ストーリーとは直接関係ないが、囚人たちが流刑地の官吏たちの金儲けの為に捕虫網でモルフォ蝶を取るところが印象的だった。欧米の大金持ちが蝶のコレクションをするために作った捕獲・輸送のネットワークの末端ではこのような仕入れと流通ルートがあったということだろう。

蝶のシーンを見ながら、連想が広がった。1980年代前半のこと、自分がアムステルダムで研修をしたころT君という仕事仲間がいたのだが、彼は蝶のコレクターだった。私は後任で彼のアパートを引き継いだのだったが帰国の前日の荷造りを見てびっくりした。身の回り品はすべて船便・航空便で送ってしまい、スーツケースの中は採集した蝶のサンプルと蛹だったのだ。彼は日本に帰国後もオーストラリアのシドニー、北米アメリカはニューヨーク、そして自分が職場を離れる頃はシカゴと仕事で渡り歩いたはずだが蝶に対する情熱はその後も続いるのだろうか。ちなみに、彼はアニメ「おばQ」(古いと言うなかれ)に登場するキャラクターでいつもラーメンをすすっている小池さんにソックリだった。

連想はさらにドイツ人の作家エルンスト・ユンガーに繋がる。映画「パピヨン」を見た翌朝のこと、寝床のどこかに置いてある「2度目のハレー彗星」(1986年に70数年ぶりにハレー彗星が地球に接近した際に90歳を超えたユンガーがシンガポール・マレーシア・インドネシアなどを旅行した日記)を引っ張り出してパラパラと拾い読みをした。本人は、蝶ではなく甲虫類のコレクターだった。

同氏の著作は全集版が出ているのであるとき思い立って買い揃えたのだが、仕事の忙しさと言うか、辞書を引きながら地道に読んでいく根気が続かないのと、趣味のアウトドア(釣りと野鳥)にかまけて、積読状態が続いている。学生時代に脇圭平氏の「知識人と政治」(岩波新書)に出会って以来、20世紀前半のドイツ思想史に興味を持ち続けているのだが、登場する人物で最後まで執拗に私から離れないのがこのユンガーだった。

著者の本質は一番最初の著作に現れておりそれ以後の変遷はその「変奏曲」にすぎないということを誰かが言っていたと思うが、映画」「パピヨン」が引き金となって再び読みかけたまま長い間放って置いた「InStahlgewittern」(「鋼鉄の嵐の中で」)の英語訳版「Storm of Steel」を読み始めた。この本は、2000年の夏に仕事でイギリスを旅したときにバーミンガム市を散策しながら偶然入った本屋の片隅で見つけ興奮しながら衝動買いした本だった。「Zweimal Halley」(2度目のハレー彗星)を購入したのは1987年新宿の紀伊国屋書店の洋書コーナーだった。Juengerという名前が中に飛び込んできてハッとさせられ、これまた衝動買いしたのだった。

長い眠りから覚めて再び手にしたこの本は、第一次世界大戦の従軍日記だが、凄惨な塹壕戦の中で生と死に向き合いながらも、戦場の日常のなかでせっせとパイプを吹かせながら読書をしたり昆虫採集をしたり、仲間と酒を飲んでの狂騒を演じたりしたり、地元の女性(ジャンヌ・ダルクと命名している)とのエピソードなど様々な身に起こることを淡々と突き放して書いている出色のドキュメントだ。ヒュマニスティックな抒情が一切ないのがいい。

私がユンガーに惹かれ続けている理由はわからない。何故だろうと思いながら1年前の冬のある冷え込みの厳しい日曜日の午前中に読了した。ドイツ語でざっと読みした時は深いもやの中をさまよった感じだったが、英語版ではかなり霧が晴れたようである。

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中国人は100年前と変わっていない?

ほぼ2年間休眠していたブログの復活となる。もともとは野鳥の観察といろいろな本について自分で呟いて見たいと思って始めたのだったが、2008年夏場から少年時代に熱中した釣りに再び目覚めてからはご存知のとおり釣りブログとなってしまった。

(ご存じない方はこちらを覗いて下さ→http://sasurai-no-angler.cocolog-nifty.com/blog/)

復活ブログサイトは、本を中心に時折野鳥に触れたいと思う。

2011年も今日が10月最後の日だ。3月11日のあの大地震で何かが変わったような気がする。それが何だかはよくわからない。個人的には、今年はあまり良いことはなかった。鬱々とすることは齢を重ねて少なくなったが、このところ仕事もそうだし、個人的にはここで書けないトラブルに遭遇したり、ストレス多き年だ。厄年だ。今年も残すところあと2ヶ月だが、何とか乗り切れればなぁ、と思っている。

9月の健康診断でびっくりしたのは体重がなんと4キロも減ったことだ。別に減量に注意していたわけではないのだが、重苦しさで気分がへこんでいる時は、体重が減るものなのだと改めて思った。

さて、本の話題に移ろう。中国で最近2歳の子どもが車にぶつけられて路上放置されたまま、通行人が9人も無視して通り過ぎた上に、もう1台の車にも轢かれて、病院に搬送はされたが、とうとう亡くなったという報道を見た。この時思ったのは、あれだ、アーサー・スミスの「中国人の性格」で100年以上も前に書いてある通りじゃないかと。

日本では戦前(つまり大東亜戦争前)に翻訳されたようだが、アマゾンで検索しても出てこない。ならと、英語版を探したらちゃんと出てきて購入したのが6年前。当時のベストセラーだというが、21世紀の今日でも中国理解のためには欠かせない基本的な本として読まれ続けているということだろう。時折英語の勉強も兼ねて拾い読みしながら最近読了したところだった。

その本の21章がAbsene of Sympathyという表題が付いている。その中に、当時の川で座礁したイギリスの船から多くの人が川を泳いで溺死から逃れようとしているのに、中国人たちはいたって無関心か、必死で泳いでいる人間を殺して所持品を奪う姿を目撃して衝撃を受けたという報告されている。当時、つまり清朝末期の中国は、4億を越える人口を抱えているものの、内乱と天候不順(旱魃・洪水)で過酷な生活状況、ほとんどの人はその日暮らしだったというのも衝撃的だった。 これは古代中国から慢性的な中国の問題であり、2000年以上もこの過酷さを生き抜いてきた彼らの頭にあるのは、生存のために必要なもの、つまり、「金」と「食事」しかないのだ、と断言している。

中国人は変わっていないということだろうか。3年前に他界した中国通のS君も、中国には日本でいう(あるいは欧米社会)「社会」が存在しないのだと、自説を述べていたがが、その通りなのだろう。あるのは、宗族=家族(日本とは意味合いが違う)の絆という我々には想像できない血と情のどろどろした共同体とそれ以外は敵、つまり、三国志的世界なのだという。中国人には家族以外の関係がないわけではない。三国志的世界で言えば、「義兄弟の契り」というのがあるのだ。日本のヤクザを思い出してしまうが、血縁家族とは違う人間共同体があるという。が、断じて、公共心をはぐくむような社会は存在しないらしい。

とは言っても、中国に詳しい先生からお話を聞く機会があって、北京オリンピック後に久しぶりに北京に行ったら、北京の人たちのマナーがすごく良くなっていて、驚いたという話を聞くと現代中国には我々日本人と価値観を共有出来そうな世代・層が経済発展の結果として生まれているのだろうか、という甘い幻想を持ちたくもなる。

本当の中国はどうなのだろうか。中国は広くて大きい。多民族国家であり、豊かになったとされる4億の外に、戦前の日本の農村よりもっとひどい、農民がまだ9億もいるという現実を考えると、やっぱり、アーサー・スミスの観察はまだまだ有効なのではないか、と思わざるを得ないのである。

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ブログアドレスを変更しました。

ブログアドレス変更しました。ログイン名やパスワードが混乱して新しいページを作りました。

http://sasurai-no-angler.cocolog-nifty.com/blog/

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間奏曲~サッパ釣り

不振にあえぐイシモチ釣り。ビギナークラスの私にとっては超えなければならない山なのだが。インターネットサイトでいろいろ情報を検索すると10匹だ、20匹だ、30匹だとある。何故なのか?釣れないのは、釣っている場所に①魚がいない ②魚がいるけれども食い気がないのどちらかだろうと察しがつく。

魚が居る場所、つまり釣れる場所が大事だ。これまで2箇所しか試していないがそこそこ釣れる場所だから結構な釣り人もいるわけだ。ところで、魚がいるけど食い気がないというところが味噌だろう。「時合(じあい)」が大切だ。お魚さんたちは24時間食事をするわけではない。潮の干満(上げ潮、下げ潮)、潮どまり前後、朝・夕マズメなどなど。

鹿島方面が釣れるとは聞いているが、自分としては地元にこだわりたい。観察していと、やはり地元の日焼けした漁師風の人は釣れないながらに数を上げている。自転車でさーっとやって来て竿一本で2時間。その間に10匹とは行かないがポツン、ポツンとコンスタントに25cm前後のサイズを釣り上げるのだ?何故なのか。

釣れる時間と場所が分かっているのだ。先週の自分のように「これは無理だな」と思ったら、さっさと諦めること、釣れるとなったら手返し良く、私のように仕掛けを絡ませたり、隣の人とお祭りして時間をロスしたりしないで集中して釣ること・・・・・。私のようにとにかく一匹上げるまではとバカな粘り方はしないのだ。

8月に国際イベントを控えて日に日に忙しくなる此の頃。しかし、仕事中も時折、イシモチが亡霊のようになって私の脳裏に現れてくる。

昨日は、待ってましたとばかりに午後から竿を担いで(実際には車のトランクに入れて)釣りに出かけた。ただ、「保険」が欲しかった。半日やって何も釣れないのは辛い。それで気になっていた涸沼川に寄り道した。大貫橋周辺は一ヶ月前にサッパ釣りで盛り上がっていた。あれなら、自分も出来るし、ちょっとやって見ようという気持ちだった。

14時過ぎ、途中釣具店によってサビキ仕掛けなるものを買って、釣り場に到着した。サビキの種類の多さには呆れる。何を買ったらいいのかビギナーには分からない。安売りの3セット180円、6本針の5号と6号をとりあえず一つつず買ったのだった。

現場は一ヶ月前ほどの賑わいはなかった。もうシーズン終了間際ということだろうか?しかし、彼方此方で銀色の魚体が水面から上がっているのが確認出来た。早速、超安値で購入したサビキ釣り用の磯竿らしき竿(4.5メートル)にとりあえず5号針と3号の錘をセットして投入した。流れは上げ潮になって涸沼の方にゆったりと逆流している。これが大潮ならサビキしかけの下の3号錘はあっという間に岸の方に流されてしまうところだ・・・

第一投は空振りだった。隣の人が少し遠めに投げてサビキながらやるといいとアドバイスしてくれた。第二投で2度、3度サビいていると、コツツン、コツツツ~ンと小さいアタリが来た。リールを巻くと約12センチの小型のサッパが一匹付いていた。サッパ釣りの開演である。

16時過ぎまでの2時間、一度根掛かりで仕掛けをなくし、本日2本目投入の6本針仕掛けが根掛かりで下から一本ずつ針がなくなり最後は4本針での釣りとなったが、かなりの数のサッパを釣った。ほぼ入れ食い。時折、2度、3度の空振りはあったが。サイズもだんだん大きくなって15cm~20cmのものも結構混じった。

右隣に陣取った年配の人は6メートルはあろうかと思われる延べ竿で針が10本くらい付いてる竿で私より後から来て私より沢山のサッパを釣っていた。針は3号か4号?ハリスは大丈夫?柔らかい竿なので15cm超えのサイズが来てもハリス切れしないようだ。

サッパというと関東では外道扱いされる魚らしい。岡山県では「ママカリ」と言ってとても美味しいお惣菜になる魚だというが。しかし、近年関東でも徐々に食べる対象として浸透してきているのだそうだ。このサッパは寿司でもお馴染みのコハダの仲間だという。酢で締めた青魚は私の大好物だ。しめ鯖には目がない。オランダで味わった酢漬けニシンも大好物。だから、サッパ釣りも悪くない。下の写真は今日の釣果だ。何匹いるでしょう?答えは一番最後です。

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16時半前、前半戦を終了して大洗へ。アオイソメ2パックでのイシモチ釣りである。砂浜から遠投をしようと目論んでいたがどこも海水浴客でごったがえしている。諦めて那珂湊漁港の堤防へ移動した。2週間前に終日粘って一匹も釣れなかったあの場所である。2000円分のアオイソメと秋刀魚餌をクサフグに献上してしまった悪夢の釣り場である・・・。

帰宅したのは深夜だった。17時過ぎから釣り始めて3時間はまったく釣れなかった。何度かアタリらしいものはあった。一度はフグに針を切られてしまった。しかし、前回のような投入してすぐにチリチリと竿先が震えるようなフグ攻撃はなかった。我慢、我慢と自分に言い聞かせてながら、バシバシバシッとあの強烈なアタリが来たのは21時を過ぎる頃だった。日が暮れたせいもあり、50歳を過ぎた老眼気味の私には餌付けはもちろん、身近なところの視力がぐっと落ちる。投入した2本の竿にそれぞれトラブルがあって、片方は仕掛けを力糸ごとロスしてしまった。片方は何とか回収できた。今回はなれない夜釣りで竿先につけたケミホタルと道糸のトラブルだった。

待望の25cmサイズのイシモチを釣り上げて時合が来るかぁと、期待したが、その後また1時間は沈黙。徐々に意気消沈。餌もだんだん無くなってきた。22時過ぎ、バシバシッではなくヒクヒクヒクという微妙なアタリがあった。フグとは違うナ、小型のイシモチかナとリールを巻いて見ると目測16cmの超小型のイシモチだった。残り少ないアオイソメをたっぷり付けて再び投入。もう一方の竿を片づけた。と、またヒクヒクヒクという微妙な竿先の動き。ソーレ、とばかりに竿をあおってリールを巻くと軽い。空振りかぁ?と思ったが上げて見ると目測17cmの先ほどより1cm大きめのイシモチだった。

あと一回分のアオイソメを針に付けてラストチャンス。しかし、空振りだった。諦めきれずにサッパ2匹を取り出し身餌にして30分ほど釣りを続けた。1度ヒクヒクヒクとアタリが来たが、空振り。時計を見ると23時を回っていた。ヤバイ、ヤバイ、家に帰らねば・・・。

20cmサイズを5匹以上釣ろうとというビギナーの儚い目論みは残念ながら露と消えてしまった。周りは小雨ならぬ霧雨だった。

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サッパの釣果:

57匹(2匹はイシモチ釣りの身餌に)。

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ニイニイゼミの声を聞く。そしてイシモチ釣り・・・

昨日の金曜日。キャンパスを歩いていいるとニイニイゼミが落ちていた。絶命していた。♀みたいだった。縁起が悪いなどとはまったく思わず、拾ってカバンにしのばせ、帰宅後写真を撮った。もうニイニイゼミが鳴く季節なのだ。今年はまだ聞いていないが。

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一週間仕事に追われて家と職場を往復していそいそと食事を掻きこんで睡眠を取るという日々が続く。そんな折の気晴らしは、懐かしの名画を見ることか?BS放送で先週だが、「荒野の用心棒」を見た。クリント・イーストウッドが若い。眉間に皺を寄せ寡黙でマッチョな男を演じている。「太陽にほえろ」の石原裕次郎もそうだった。悪役のジャン・マリア・ボロンテとの最後の決闘シーンも良かった。しびれたね~。同じ週に「荒野の決闘」や「シェーン」をやっていたけど、断然「荒野の用心棒」だと思う。のこりの二つは見ていてまだるっこい感じがして途中でチャンネルを変えてしまった。マカロニ・ウェスタンは変な理屈がなくて男の美学にあふれている。やっぱり、監督のセルジオ・レオーネだね。黒澤明の「用心棒」の西部劇版だというけれど、その黒澤明は「荒野の決闘」や「駅馬車」を作ったジョン・フォードからいろいろ盗んでいるという話だ。

このところ天気が安定しないが、今朝はヒヨドリのうるさい声で4時半に目が覚めてしまった。先週の釣りは散々だった。腰が重い。またボウズが怖い。餌取りフグの猛攻撃で戦意を喪失してしまった。の、だが、やっぱり、3時間くらい釣り糸を垂れて見ようか?幸い雨は降っていない。

ということで、今朝は那珂湊ではなく大洗へ。釣り公園に足を運んだ。超満員だった。釣り始めてすぐ隣の人がフグを釣り上げた。いやな予感。 右手には、やたらに声の大きいもと野球部という感じの日焼けした長身の男とたぶんガールフレンドにもうひとり先輩格の釣り師という3人組が陣取っていた。どういうわけか、この3人組に次々とアタリが来る。また来たぁ~を連発する日焼けした長身の男には参った。おまけに、ガールフレンドは、超ビギナーズラックか、第一投だかなんだか早々と20cmを超える良型のイシモチを釣り上げた。

右目で睨みながらイライラする私。しかし、アタリはサッパリ来ない。喧嘩したガールフレンドの呪いがまだ解けていないのだろうか?やっと、釣り始めて2時間ごろ、16cmほどの超小型イシモチが3.9mの投げ竿に掛かったのだった。泣きたい気持ちだった。そして、そのまま、また竿は沈黙続けた。左手の太平洋側に突き出た奥の場所と右手の3人組以外はサッパリ釣れていない。どうしたことだろうか?うーん、帰ろうかぁ、目がチラチラし始めたとき、やっと、あのバシバシバシッというアタリが来た。一呼吸置いて竿をしゃくるとグーンと重みが乗った。来た来た来たぁ、やっときたぁ。これをどれほど待っただろうか!水面から姿を現したのは目測23cmの銀色に輝くイシモチだった。

時計を見るともう12時だ。時間切れだ。これを潮に納竿として家路についた。結局イシモチ2匹と外道にカニが2匹という貧果だったが、一応イシモチの姿を拝むことが出来てとりあえずは納得したのだった。明日は母の77回目の誕生日である。もうちょっといいサイズのものをあと2匹、3匹は釣りたかった。

次回は釣り公園が締まる19時以降に、浜からの遠投で夜釣りをやってみようと思う。

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イシモチは何処へ?

このところ曇空と時折の雨の日々。昔の梅雨とはいささか趣きが異なるのだが、なかなか釣り日和とならない。

6月の始めに孵ったコブハクチョウの雛はすくすくと育っている。

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職場の近くを歩いていたら超ミニサイズの蛙君に遭遇した。それが下の写真だ。

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このところ訃報が多いし、毎日蒸し暑いし、彼女と喧嘩したり、イライラし通しである。週末は雨の天気予報にも関わらず釣竿を持ってイシモチ釣りに出かけたが、心の中は落ち着かない。いつもなら無心に釣りに没頭するはずが、雑念が心の中に入り込んで来るのだ。どうした、君ぃ~・・・。

秋刀魚の切り身とアオイソメ3パック、合計2000円分の餌を準備して早朝から午後遅くまで一日釣り糸を垂れたのだが釣れるのはフグばかりだった。イシモチ一匹の姿を見たら帰ろうと粘ったもののとうとう最後までその姿を見ることは出来なかった。舶来のアオイソメはすべて餌取りのフグに献上してしまった。

外道のフグ君だが、釣れたばかりの君は美しい。目の淵はオレンジ。目の色はエメラルドグリーンだ。口は小さいくせに鋭い歯で投げ入れた仕掛けの餌を30秒で食い尽くしてしまう餌取りであった。しかし、美しいものには棘どころか、猛毒が隠されている。君はどのみち食えないのだ・・・。

Ca1flvgf_3   イシモチの姿が消えた。一体何処へ。まさか、喧嘩中の彼女の呪いではあるまいに・・・。

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«S君死す・・・ああ、合掌。