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2006年9月30日 (土)

同世代作家 村上龍の 「69」

Sixty nine 69(村上龍、講談社文庫)

69というのは、連想でエロチックなことを考えないでもないが(作者を考えれば)1969年地方の高校3年生を描いた、青春小説。 なかなかの傑作だと思う。 作者の本は、芥川賞受賞作も含めてほとんど読んだことがなかった。 小生よりちょっと年上だがほぼ同世代の作家。 

「限りなく透明に近いブルー」も合わせて読んだが、20歳のころこれを読んでも理解できなかっただろう。 麻薬と乱交パーティーに明け暮れる毎日。 20歳前後のパワー満開の時期、勉強して一流大学に入って既成の社会秩序に居場所を確保しようというコースを放棄し、何をどうしたらいいのか、まだ目的すらつかめない若者がひたすら快楽の世界に浸かりながらも、それゆえの不安の中で彷徨する自画像が村上龍の肉体言語で描かれていると言えば良いのだろうか?

それに比べると、69は作家として地位を確立しつつあった村上龍が、すでに過去のものとなった自画像を距離を置いて、ユーモア小説仕立てで綴った小説と言えると思う。 彼自身は略歴を読むと、早熟で文才もあり中学時代から目だっていたようだ。 

作品の舞台は、村上龍の母校、地元佐世保市の進学校。 かわいいESSの女の子の気を惹こうと左翼かぶれの同級生や自分の子分を巻きこみ、いたずらを校長室に仕掛け(机の上に何とウンコをした)、過激な横断幕を屋上から吊るし、バリケードを気づいて学校閉鎖を試みる。 もちろん周りは騒然となり、停学を食らう。 ねらい通り女の子の気を惹くことに成功。 デートに誘い出すが、キスも結局出来なかった。 結局、卒業して上京した直後に振られる。 

同級生の友人達は皆カリカチュアライズされている。 実際も、友人とは言え、本人達には気の毒なくらい、村上龍は一人目だって周りを振りまわしていたのかも知れない。 

時代はベトナム戦争の真っ最中。 アメリカ第七艦隊空母エンタープライズが佐世保港に入港しようとして反対運動が盛り上がっていた時代だった。 

サイモンとガーファンクルのレコードを女の子に貸したりするシーンに思わずニッコリしてしまう。  そして、ランボーが映画のシルベスター・スタローンではなく、まだフランスの詩人として文学青年達に認知されていた時代だ。 

小生は、氏の良き読者ではないが、文学が尊敬に値する高い価値を有するとまだ人々が素朴に信じていた時代が去った後に(三島由紀夫の死が最後と言ったのは桃尻娘を書いた橋本治氏だった)、颯爽と登場した伝統的な日本文壇とは無縁の戦無派によるアメリカナイズされた同世代として喝采したい。

2006年9月29日 (金)

ベトナムを舞台にした映画 その2 「愛人 ラマン」

ベトナム生まれのフランス人女流作家マルグリット・デュラス原作を、フランス人ジャン・ジャック・アノ-が監督した見ごたえのある映画。   

舞台は1920年代のフランス領ベトナム。デュラスの自伝らしいが、15歳で大金持ちの中国人華僑青年の愛人となる。演じるジェーン・マーチンが素晴らしい。貧しい、植民地で父親が早世し母親は騙されて不毛の土地に全財産をつぎ込み破産。失意のどん底にあるフランス人一家のすさんだ家庭事情。少女は、帰省からサイゴンの寄宿学校に帰る途中で運転手附きの車に乗った中国人青年と知り合う。

少女は、お金の為に?進んで?愛人になる。華僑青年はパリ帰りの無為の青年。セックスをする以外、何もすることのない男なのだが。熱帯のけだるいベトナム。ショロン地区で外の喧騒が聞こえる小さな部屋で激しい性愛に溺れていく2人。 愛を告白する青年に、自分は愛していないと告げる少女。

やがて一家ともどもフランスに帰ることになる。少女は、港を離れる船の甲板でひっそりと自分を見送る中国人青年を乗せた車を食い入るように見つめる。

ポール・ニザンの 「その時僕は二十歳だった。。。」の女版 「その時私は15歳だった。。。」

夜の静かな船内から奏でるショパンの音楽を聞きながら、自分を通りすぎたある情念がヴィヴィッドに沸き起こり少女は激しく涙するところで映画は終わる。デュラスはこの映画を認めなかったらしい。

2006年9月28日 (木)

ベトナムを舞台にした映画 その1 「青いパパイアの香り」

なかなか見事な映画だ。 ショット、ショットが凝っている。 ハッとさせられる。

小津安二郎を思い出してしまう。 フランスとベトナムの合作だ。 ハリウッド映画では絶対できない映画だ。フランスとアジア(ベトナム)の繊細さが紡ぎだす、ベトナム版小津映画である。 

時代は1950年代のホーチミンか。 住み込み奉公の女の子の目を通して、ベトナム人社会を淡々と描いている。 子供の目線で描いている。カエルや昆虫も登場する。 家主の男の子が女の子に意地悪をする。 男の子が、溶け出した熱い蝋燭をたらして蟻を殺すシーンもある。 時折、野鳥の囀りも聞こえて、気になった。1カット、1カットが、計算されていて、見事だ。

後半では、その奉公していた少女が別の奉公先に移った。 そして、場面は、数年後の美しい女として成長した奉公女の登場となる。 はっとするぐらい艶かしく少女は変身していた。 そして、彼女は、フランス帰りの芸術家(音楽家)青年と目出度く結ばれる。 これだけの映画である。 セリフが極端に少ない。 しかし、最初から、最後まで、画面に惹きつけられた。 そして、美しいものを見たなあ、という印象が残った。 

ある映画評論家は、大変出来のいい作品だけれど、「オリエンタリズム」の視点から描かれたベトナムである、と批評していた。 かも知れない。 しかし、フランスというモダンで洗練された感性というフィルターがなければ、このような映像もこのようなストーリーも出来なかったであろう。 アメリカで生まれたジャズが黒人だけでは出来なかったのと同じだ。 白人の持つ感性がぶつからなければ、永遠にあのジャズは出来なかった。 オリジナリティなんてそんなものだ。 監督は、ヴェトナム系だけれど、フランスで育ったフランス人だそうだ。 この映画の後、別の映画を作ったらしいが、これは、極めつけの駄作だったそうだ。

2006年9月27日 (水)

金木犀と赤とんぼとハゼと・・・・

秋の気配が日々深まってくる今日この頃。 ある芳香にはっとさせられた。最初は、朝、家を出るとき。 うーん、この匂いは、昔から記憶あるいい香りだ。 花が発する芳香だ。 忙しいだけの1日の仕事を終えて、夕方、徒歩で35分、大学キャンパスから帰宅する。 私の家は、住宅地の奥まった突き当たりだ。 陽はとっくに落ちてあたりは暗い。 手前50メートルの角を曲がって路地に入ると、また、辺りからツーンと、今朝、鼻を心地よく刺激してくれた香りがする。 うーん、いい香りだなぁ・・・ 金木犀である。 花は自体はたいしたこと無い。 香りを楽しむ花だ。 子供お頃は、トイレの消臭剤と間違えたこともあったような記憶がある。 

匂いで楽しむ花、というと他に思いつくのは、春先の沈丁花がある。 この花の香りもまた言いようのない刺激がある。 冬が去って、春の鬱陶しさを感じる夕刻、住宅街の道端で、つーんと、この匂いに圧倒され、足をとめてしまうのだ。 

嗅覚というのは、視覚、聴覚、味覚に比べると、人間に備わった五感の中では、触覚とならんで、4番目か5番目を競うランクの感覚ではないだろうか? 最初のベスト3に比べると、使用頻度が低いのではないだろうか? いや、そんなことは無いだろうという声もする。 いやいや、そうだ・・・・・。 考え出すと、迷路に入り込んでしまう。 快楽の最たるもの、セックスにおける五感の活躍度は? 私の場合、まずは視覚、それから、触覚、味覚、嗅覚、聴覚という順番になるだろうか・・・・・。

話が危なくなりそうなので、ちょっと話題を変えよう。

先週、新学期が始まった日。 早朝、誰もいない大学のキャンパスを歩いていると、エナガ(野鳥)の群れに出会った! なかなか可愛い小鳥である。 

こんな鳥です

→ http://www.gt-works.com/yachoo/zukan/tori/enaga/enaga.htm

シジュウカラや日本で一番小さいキツツキであるコゲラも混じっていたが、キャンパスで出会えるなんて! 

昼休みは、久しぶりにお弁当を持って、近くの雑木林へ1時間のピクニック。 ススキの穂、セイタカアワダチソウ、コスモスの花と秋を感じさせる草花がいつの間にか目立ち始めながらも、まだ、ミンミンゼミとツクツクボウシの声も聞いた。モンキチョウ、モンシロチョウ、ヤマトシジミ、ショウリョウバッタ、ダイミョウセセリ、スズメバチ、ジョロウグモ、キノコ類、自然はじっと凝視すれば、名前は知らないものの、まだまだ、豊饒そのもの。 複数のアキアカネがツガイになって飛んでいる。

肩に来て 人なつかしき 赤とんぼ (漱石) 

大好きな句である。 子供の頃、お盆で父の実家に墓参りに行くと、無数と言っていいくらい赤とんぼが舞っていた。 あの豊饒さは、しかし、もう失われてしまった。

一ヶ月前、車の運転練習で、涸沼に出かけた。 汽水湖で子供のころは父に連れられて、ハゼ、ボラ、セイゴ、フナ、コイなどを数え切れない程、釣ったものだ。 時折、クロダイやサヨリなども釣れた。 明治時代のころは、幸田露伴も釣り糸を垂れたことでも知られる。

しかし、今はさっぱりらしい。 4年連続でハゼはさっぱり釣れないらしい。 岸辺を散策すると、沖合いに今、話題になっているカワウが盛んに潜水して、魚を食べている。 カワウが原因か? ブラックバスも影響しているか? 涸沼特産である大粒のシジミはまだ取れるらしい。 

少年時代、明日、釣りに行くとなると、神経が高ぶって、前日の夜はなかなか寝付けなかったことを思い出す。 そして、当時の涸沼の釣れ方は半端じゃなかった。大型のハゼが、潮が動く時間帯となると、次から次へと釣れたのだった。 

昔の豊饒さは、半端じゃなかったなぁ。 物思いに耽りながら、辺りをしばらく散策する。近くの田んぼでは、夏の日差しを浴びながらツバメ達が舞い、遠くでセッカが鳴いていた。

2006年9月26日 (火)

強烈な人 「田中清玄自伝」

本人の筆になる自伝ではない。ジャーナリストがインタビューを行い膨大な証言からまとめられた、田中清玄氏の波乱万丈の記録である。私が読んだ自伝の類では、まれに見る傑作である。とにかく話が面白い。

明治維新で敗れた没落会津藩士の家に生まれ、青森を経て函館で育つ。当時の函館は、海外に開けたばかりのモダンな町だったらしい。ロシア正教の教会もある。旧制弘前高校では共産主義思想にふれマルクスボーイとなる。東大に進学して活動を続けるが、忽ち特高に検挙・監獄に収監される。誇り高き会津藩の母は、これを恥として自決する。田中にとっては、これが全ての原因ではないにしても、出所を許され禅師のもとに身を寄せながら、改心する。いわゆる転向である。

親の財産を元手に、土建屋請負で財をなすと、戦後は政界のフィクサーとして活動を始める。私には、児玉誉士男や笹川良一らと何が違うのか、この本を読むまではよく知らなかった。武士の末裔としての自覚からか、自分はかれら成り上がりチンピラヤクザとは違うんだという、「プライド」をもち、彼らとは常に一線を画して生きてきたきたという。同じ右翼でも、獄中で出会った橘孝三郎(農本主義者として「愛郷塾」を水戸市郊外に設立。 5.15事件の首謀者。因みに、評論家の立花隆は彼の甥に当たる)を、本当の右翼と敬愛していたという。

戦後は、マルクスボーイ時代に培った人脈を見込まれアメリカ進駐軍の諜報活動に従事する。いわゆるCIAのスパイとなり、対ソ連共産主義の諜報である。 読んでいて一番スリリングだったのは、このくだりである。

戦前、東大新人会(マルクス・ボイーズの巣窟)に籍を置いて地下活動をやっていた当時のモスクワのコミンテルンから東京に派遣されれてきたソ連大使館員のスパイ(女性)が、戦後になって田中氏にコンタクトしてくる。共産側も当然再度のリクルート活動をしかけて来たのだろう。

田中氏の例は氷山の一角であり、どれだけの左翼転向者がどちらかのスパイになりすまし、カウンター・インテリジェンス(二重スパイ)をやっていたのだろうか? 田中氏がスターリンに疑義を覚えるのは、自分たちを指導する(オルグする)モスクワから派遣される人間が、出世してモスクワに帰ると次々と姿を消す指摘である。これは、のちに明らかになったスターリンによる惨憺たる大粛清劇で犠牲になった人たちである。

朝鮮戦争の経緯もソ連の崩壊とともに、北側がスターリンに了解を取って仕掛けたことが今日判明しているが、田中は、モスクワから派遣されたスパイとのやり取りから、察知し、当時の吉田茂首相に情報をもたらしている。吉田からアメリカ側に伝えたらしいが、アメリカ側、最後まで相手にしなかったようだ。

マルクス主義転向者が、何故に土建屋業で財をなし、戦後は政界の黒幕としてのし上がって行けたのか、このあたりの事情ははよく分からない。毛並みのよさはともかくとして、本人は痩身で強そうには見えないが、喧嘩は、子供のころから滅法強かったと言う。強かったのは、体だけではなく、「意思」「信念」の強さ、つまり今日の日本人が忘れてしまった
「気骨」のあるサムライという姿が浮かび上がってくる。

安保闘争当時は、新左翼に近づき資金援助するが、これは自民党の吉田派が行った岸内閣打倒劇である。新左翼は代々木系・正統派共産主義を批判する同じ共産主義を奉ずるセクトであるが、共産主義を内部分裂させるアメリカおよび日本保守派の巧妙な意図が、CIAの資金を流し込んで行った反米闘争なのではないか? このあたりは、冷戦終了後、アメリカで続々と公開されるCIA文書をもとに書かれた共同通信社の記者が書いた「CIA対日工作」ではからくも、明らかになった。田中清玄氏は、l児玉誉士男が放った刺客に命を狙われ、被弾するも命を取り留めたりするが、児玉氏は何を隠そう、岸信介の懐刀であった。

余談だが、とっくに冷戦が終了し、歴史の見直しが可能になった21世紀の今日から振り返ると、1960年安保というのは、正に茶番劇であったと言えないか。 なぜなら、同じ自由民主党の中で、党人派=鳩山派 対 官僚派=吉田派の権力闘争とその妥協の産物であったからだ。吉田派はCIAの資金を利用して、一方で安藤組傘下の右翼青年・チンピラを動員しつつ、もう一方で、反代々木系の新左翼にも金をばら撒き日本の左翼運動を分裂させるという巧妙な左右挟み撃ちをしたというのが真相ではなかったか?

田中氏の人脈で驚かされるのはその幅の広さである。暴力団安藤組の組長との交流を始め、世界的経済学者のフリードリッヒ・ハイエク教授*** 注参照 との交流、(京都大学の今西錦司氏との対談をセットしたりもした)、はたまた、アラブの王族たちとの付き合いなど、並みの日本人ではない。田中角栄のことを聞かれてのコメントが面白い:

「彼は偉大な政治家だが、生まれは百姓である。私は、武士の末裔である」。

明治維新とともに武士階級は滅んだが、この強烈な自覚こそは、胡散臭く見られがちな政界のフィクサーでありながら、戦後の「成金・拝金主義」が跋扈する世相のなかで凛として、「ノブレス・オブリージェ」を全うした本物の日本人サムライであったのかも知れない。少なくとも本人はそう自覚していたに違いない。

いずれにしても、下手なスパイ小説より断然面白い自伝であり、且つ又、戦後日本の政治の実相が伺い知れる時代に対する貴重な政治的証言となっている。皆さんに是非一読を薦めたい好著である。

注)
***
ハイエク教授
オーストリアはウィーンの出身の経済学者。
ユダヤ系であった為、ナチスによるドイツ併合とともに、ロンドンへ亡命。ロンドン大学経済学部で教え、戦後は、アメリカのシカゴ大学に移る。自身、ノベール経済学賞をもらっているが、教え子には、同じくノーベル経済学賞を受賞したミルトン・フリードマンがいる。

日本では、アメリカのベストはハーバード大学というイメージがあるが、ハーバードはリベラル派のトップ。 一方、シカゴ大学は保守派のトップ大学である。したがって、ケインズの流れを組むハーバードとは一線を画し、反ケインズ派でレーガン政権時代に主流となるマネタリストを多く生み出している。言ってみれば、共和党のブレインを多く輩出している。亡命ドイツ系ユダヤ学者が多く活躍しているのも特徴(ハイデッガーの不倫でも話題を撒いたハンナ・アーレント、レオ・ストラウスなど。 レオ・ストラウスはアリストテレス学者で、弟子には「アメリカ精神の終焉」を書いたアラン・ブルーム、その弟子が、冷戦終了直後「歴史の終焉と最後の人間」という世界的ベストセラーを書いたフランシス・フクヤマ氏である)

ハイエク氏は、ケインズより1世代若いが、戦前からライバルと目され、ケインズ経済学が全盛時代にあって、「隷従の道」を著し社会主義的計画経済を批判(ファシズムも国家社会主義として批判している)し、終始一貫して、イギリスの伝統である自由主義派であった。晩年は、ヨーロッパに戻り、フライブルク大学教授。又、モンペルラン・ササエティーの
会長も務めた。 田中氏は、ハイエク氏のノーベル賞を受賞式に招待され晩餐会のテーブルで同席の栄誉を得たという。日本人としては稀有な
ことではないだろうか?

2006年9月25日 (月)

愛着のある本 その4 世界カタコト辞典

文春文庫で出ていた。 もう大分黄ばんでいるけれど、2冊もっている。 もう絶版になっていると思う。 故開高健とまだ現役の小田実氏の共著である。 小田氏の「何でも見てやろう」は傑作だと思うし、学生時代は熟読したものだ。 ベトナム反戦とかまでは良かったけれど、どの後の氏にはついていけないが。

この本は、両氏が精力的に海外を歩き、いろいろな折に耳にした印象の残る言葉を、記憶と共におもしろおかしく語ってくれた得難い本である。

例えば、開高健氏からは、フランス語でPompier et minette (消防夫と子猫ちゃん)の裏の意味を教えられた。 実際に、この言葉をあるフランス人女性に言って確認したら、「その通り」だと確認できた。

小田氏の場合だと、例えばインドを旅行したとき、ヒンズー語の会話でよく間投詞で出てくることばに「アチャ」といのがあるという。 意味としては、「まあ、おや、なるほど、さて・・・」という意味らしい。 

この本を読んだのは、大学卒業した頃だろうと思う。 この「アチャ」に出会って、この本を思い出したのは、ロンドン赴任の時だったから、本を読んだ20年後のことである。 

ロンドンには100メートルに一軒の感じでインドカレーレストランがあったような記憶があるが、当時住んでいたアパートの近くにもあって、毎週日曜日の夜は、必ず、カレーのTake Awayをしていた。

イギリスではとにかく通うこと、顔なじみなることが、買い物のコツだとは、いろいろな経験者に言われたが、まさにその通り。 通算で、1年近く通ったのだが、まず、レストランに入り、挨拶。 それから、野菜カレー、シシケバブ(羊のひき肉)のインド風グリル、チッキンティッカ(チキンのグリルインド風)、ニンニク入りナン1枚を注文し、最後に、ハーフパイントのビールをオーダーして、ビールを飲みながら、料理が出来るまでの10分から15分を待つというパターンである。 途中からは、私の顔見るだけで、ビールが自動的に出てきて、オーダーもこうですね、と先方が確認をするまでになった。 そして、最初は、気づかなかったが、私のオーダーを注文表に書きながら、メニューの合間に、アチャ、アチャ、アチャというのがしきりに入るのに或る時気づいてから、さらに、インド人に妙な親近感を抱くようになったものだ。

閑話休題。 以下、私の「世界カタコト辞典」を少しばかり披露したいと思う。 最初は、ハワイ語である。 スタイルはあくまで、オリジナルの開高・小田風にしてみようと思う。

Ia te aloha ia te oe

(ハワイ語で、私はあなたが私を愛するようにわたしもあなたを愛するの意)

それは、小生がまだ20代の半ば過ぎの頃の話である。 オランダはアムステルダムに1年住んでいたことがある。 昼間は会社の仕事があったけど、夜は全く自由。 独身で(今もそうだけれど)、パワーがまだ十分あって人生が楽しくてたのしく仕方がなかった頃のある日。 あるローカルパブで、チャーミングな女性と出会ったのだった。 オランダ人は言葉の天才である。 准英語国民であり、英語以外にヨーロッパの言語を複数話す人間がざらにいる。 東南アジアの華僑にあたる。かつてタイで出会った日本語ガイド氏は台湾出身の華僑で、日本語はもちろんタイ語、マレー語、広東語、北京語、福健語そして英語をすべて流暢に話す語学の天才であり、将来は実業家を夢見る好青年であった。 オランダ人はヨーロッパの華僑である。

ところで、彼女の名前は、Alma!!!(マーラーの奥さんの名前と同じ)。 カタコトの英語を操りながらお互いに冗談を交わしながら、だんだん酔いがまわり気が付いたら、周りのオランダ人をさしおいて二人で長い長いDeep throatではなくDeep Kissを交わしていた。 お互いにカタコトのいろいろな国のことばを使って冗談を言いながら笑わせながら、最後に彼女が一言呟いた。 「イアテ・アロハ・イアーテ・オエ」。

それってどこのことばとポカーンとする小生に彼女はいたずらっぽく笑って、英語で意味を説明してくれた。二人とも相当よっていたと思う。 閉店間際に彼女のボーイフレンドが店に現われべろべろの彼女をエスコートしてTot ziens (オランダ語でまたあいましょう=さよなら)。 

一期一会ではないが、数年に一度はこの言葉と彼女のことを思い出すことがある。」

以上は、本当にあった話で、脚色はありません。 証人は、当時同じ研修でアムステルダムにいた、情報関係のA君です。 上記の中で、お互いにジョークを言い合ったことになっているけれど、そのジョークについては、また、別の機会に、ブログでアップする予定。 乞うご期待!

2006年9月24日 (日)

味の記憶 その3 「じゃがいも」

今回も、ロンドン時代のメモをまとめてアップしてみた。 1998年のころのものだ。

「ジャガイモ」が今回のテーマである。私の記憶をたどると、ジャガイモが私の意識にきちんと定着したのは、小学校の理科の時間でジャガイモを自分の庭で植えた頃からでは無いかと思う。植えてから毎朝庭を見て芽が出るのはまだかまだかと心を躍らせた記憶はあるが、芽を出してちゃんと実りがあったのかどうかとなると思い出せない。人は死ぬ直前に、生まれてからこの方記憶が走馬燈の様に脳裏を駆けめぐる体験をするらしいが、そのときこれを思い出すかも知れない。

ジャガイモの記憶は、それから母がよく作ってくれたジャガイモバターに繋がる。アルミホイルにバターを敷いてその上に大きな皮付きのジャガイモを乗せ塩をふってからくるんで、蒸し焼きにする簡単な料理なんだけれど、それを何故かご飯のおかずとして食べた。栄養学的に考えると澱粉質の取りすぎに思えが....。 アルミホイルを開けたと時のバターの香りが何とも言えなかったけれど、社会人になって札幌に行って、大通り公園でその匂いを思いだした。北海道名物のジャガイモバター。人はおいしいと言うけれど、母の作ってくれたじゃがいもバターの方がうまいと思った。母の料理は偉大なり!

大学3年の時、ドイツ人の先生が主催する夏ゼミでドイツに3ヶ月滞在した。 私のあらたなジャガイモとの出会いである。ドイツ語でKartoffel。 ドイツ人はジャガイモが主食と言われていたが、ジャガイモにはいろいろ食べ方があることを知った。 いわゆるポテトサラダ(ジャガイモを茹でて適当に切って、ソーセージやタマネギを刻んでマヨネーズやワインビネガー、塩胡椒で味を調える)という一大ジャンルがあり (母が良く作ったポテトサラダもこのジャンルに入る。 確か、スパゲッティーも入っていたと思う))肉料理の付け合わせに、マッシュポテトやベークトポテトや茹でただけのポテト添えてを肉のソースと一緒に食べる。

それからPommes Frites - 私は、ポメス・フリテスと言ってオーダーしたのだけれど、よく聞いていると周りはポム・フリと言っている。ラテン語か?フランス語か? ゼミの最後に、パリヘ行ってフランス語でジャガイモは、Pomme de terreと言い、文字通りには「地中のリンゴ」と知った。 Fritesは、油でフライにする意味だから、ポテトフライとなる。 いわゆる日本では、当時日本に進出して銀座に一号店をだしたマクドナルドのマック・ポテト!マック・ポテトは、塩をふって食べるだけだったけど、ドイツでは、マヨネーズをかけたり、ケチャップをかけたりオニオンを刻んだのを加えたりして食べていた。 

後年、アムステルダムで生活した時にもこのPommes Fritesにはだいぶお世話になった。オランダ語では、Patatfiritte。 但し、ジャガイモそのものは、Aardappel  (フランス語と同じで地中のリンゴ)と呼んでいる。オランダもドイツと同じで町中のスタンドのあちこちでこれを売っていて、みんな立ち食いする。3時のおやつと言う感じ。このPommes Fritesについては、ドイツやオランダのものがかりかりと揚がっていて香ばしい、ベルギーやフランスより(ちょっと油っぽい)勝る言っていたのは故開高健氏だったように記憶する。

30代半ばになって自分で料理に凝りだした頃最初に覚えたジャガイモ料理はフランスのリヨン名物のポテトグラタンだった。 ジャガイモを薄切りにして、耐熱皿に薄く敷き、ニンニクの薄切りを置いてシナモン、胡椒、塩を振り、その上に又ジャガイモを敷いて.....繰り返し。最後に牛乳と生クリームを半分半分に混ぜた物をジャガイモがちょっとかぶるくらいまで入れて、電子レンジ(230度位)で約30分位。10分前に、適当に溶けるチーズをふりかけ(種類はあなたのお好み次第)て出来上がり。 出来上がってから、15分くらい寝かせるのでその間にステーキを焼いて(ビーフに黒胡椒をまぶしたペッパー・ステーキ)、ブロッコリーの塩茹でなどを付け合わせて一緒に食べればちょっとしたフランス料理の醍醐味を味わえる。

かと思うと、スウェーデンのこんなおいしいレシピもある。 じゃがいもを切り(薄切り、フレンチフライスタイル切り何で可)、薄切りのタマネギと一緒にオリーブオイルで炒める。胡椒のみ振り、塩は絶対に振らない。耐熱皿にジャガイモとタマネギの半分を敷き、その上にアンチョビーをお好みで5から6匹敷き、その上に又ジャガイモとタマネギを乗せる。生クリームをひたひたになるくらいまでかけて、電子レンジで20から30分。15分位寝かしてビールと一緒に寒い冬に食べるとたまらない。アンチョビーの塩分がジャガイモとマッチして旨い。 

母の手料理やヨーロッパ大陸では大変お世話になったジャガイモだが、原産地は南米と聞く。コロンブスが梅毒とジャガイモとトマトを南米から持ち帰って15世紀以降ヨーロッパにアッと言う間に広がったらしい。日本にはいつどういう経路で入ったのだろうか? 種子島への鉄砲伝来と一緒だろうか? 梅毒はそうらしいが。 このジャガイモによってヨーロッパは人口が増えたのかも知れない。 永い中世時代からルネッサンスを経て、英国を皮切りにヨーロッパは産業革命を起こしいわゆる近代に突入すると歴史の本には書かれているがこの時期、ヨーロッパでは人口が爆発的に増えている事実は何を意味しているのか。何故? Why?  Warum?  Pourquoi?  私は、当時普及したジャガイモが人々の腹の足しとなり大人数を養い、労働力を提供し産業革命に至ったのだとと密かに思っている。 「ジャガイモ無しに、近代はあり得なかった」! マックス・ウェーバー先生のとなえる「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」なんて言うのは「後から見て結果に付けたさかしい台詞」にしか過ぎない。 世の専門家は、私のこの声に少し注意を向けるべきである!

今日のアメリカがあるのは何故か? 私が思うにやはりジャガイモである。 何?と怪訝に思う向きもあるかと思うが、19世紀に何人のヨーロッパ人がアメリカに渡っただろうか? 今日のアメリカの基礎は確かにもっとそれ以前の時代にピューリターンと一攫千金を夢見たならず者たちが作ったに違いないが、19世紀の気候の関係もあったのだろうか、ジャガイモが獲れなくて、食いはぐれたちが大挙してアメリカへ向かったと言う。 特にアイルランドのPotato Famine (ジャガイモ飢饉)はひどかったらしい。 ジャガイモが縁でアメリカは後の大統領Kennedyや映画の巨匠John Fordを輩出することになったのだ。

さて、現在私はロンドンで生活しているが、再びジャガイモのお世話になっている。 ジャガイモを食べない日など考えられない。 先ず、フィッシュ・アンド・チップス 。13年前に始めてロンドンに来た時には、屋台があちこちに有ったと記憶するが、そういう屋台は姿を消してしまった様だがフィッシュ・アンド・チップスは健在である。 食事をだすパブのメニューを見れば大抵一番最初に出ているのはこのフィシュ・アンド・チップスだ。 フィシュ・アンド・チップスの単語を連発しているが、フィシュは無視してチップスの方を注意してほしい。 フィッシュ・アンド・チップスのチップスは、ポテトチップスでは無く、Pommes Fritesであり、Patatfrittesであり、French Fryであり、マック・ポテト或いはフレンチ・ポテトである。 イギリスでは、いわゆるポテトチップスは、チップスとは言わずCrispと言うのだそうだ。 フィシュアンドチップスは、魚(普通は鱈)のフライにフレンチフライを付け合わせた簡単な料理だ。 フィッシュはもういい、と思ってチキンやラムをオーダーすると、ウェーターがwith chips ?と必ず聞いてくる。 そしたら、にっこりほほえんでYes, please.と応えれば、山盛りPommes Fritesが一緒に出てくる。 唯一、イギリスがヨーロッパ大陸と違うのは、このchipsmalt vinger (奇妙な味のするお酢-麦から作った酢)を掛けて食べることだろうか?

又時折、道を歩いていると、パブの入り口に「Jacket Potato」と書いてあるのをよく目にする。「ジャケットをまとったジャガイモとはこれ如何に」と思われる向きもあろうか思うが、ジャガイモが服をまとえる筈は無い。これは、皮付きのジャガイモをオーブン(又は電子レンジ)で焼いたジャガイモの丸焼きでのことである。 このように、誰もが簡単に出来る料理を、平気でレストランのメニューとしてでだすのがイギリスである。 びっくりしたが、このジャケットポテトにベークトビーンズ(大豆みたいなゆで豆をトマトソースであえた物、缶詰めで売っている。ゆで豆なのに何故ベークトなのかは、イギリス人も分からない)を付け合わせてメニューにしている所もある。

私も、自宅のキッチンにある電子レンジで早速作って見ることにした。ペーパータオルにくるんで(これがポイント、と電子レンジの操作マニュアルのjacket potatoの項には英文で書いてある)、一番高い温度の10番を選び、約10分電子レンジに入れ(5分後にひっくり返す-これもポイント)、10分寝かして、ハイ出来上がり。 ジャガイモに切れ目を入れてバターを乗せてみる。付け合わせは「ビーツのサラダ」(日本にはありませんが、赤蕪みたいな野菜をワインビネガーであえた物)。 一口頬張ると、少年時代に母がよく作ってくれたジャガイモバターと同じ味が広がる。

2006年9月23日 (土)

味の記憶 その2 「カレー」

今回はカレーをテーマにしてみよう。 私はカレー大好き人間だ。 以下は、過去の日記のメモから抜き出して、アップすることにした。

ロンドンでカレーを食すの巻 

事務所の引越しも終えて一段落した、1998年の12月の或る夜、会社の同僚であるF氏とA氏とLiverpool stationの近くのインドレストランで舌鼓を打った。 ロンドンには、かなりのインド人が住んでいて(大英帝国の遺産)、インド料理店はかなりある。 一度研修員とピカデリーの近くのインド料理に行ったことがあるが、油との相性が悪かったのか、胃腸が疲れていたのか、お腹をこわしインド料理にはその後手を付けずにいたのだった。

もともとカレーは大好き。母親が作る日本的な家庭料理カレーも好きだし、お蕎麦やで食べるカレーどんぶりやカレー蕎麦・うどんも好きだし、本格的なインド料理(カレー)も好きである。 東京は赤坂見附のMotiに、会社の先輩に連れられて行って初めて本格的なインド料理がこんなに美味であることをしったのは、もう20年前近くになる。 

銀座・有楽町の歌舞伎座近くのナイルという老舗も忘れがたい。 もうなくなられたご主人のナイルさんは、戦前の京都帝大で橋梁建築を勉強したインテリでもある。 本も出版しており、かつてはインド独立闘争に深く関わっていたと聞く (いわゆる、ガンジー一派とは別で、チャンドラ・ボースらと同様、日本をイギリス帝国主義の開放者と位置付けて手を組み、インド独立をもくろんだが、その後の経緯は、その後の歴史が語る通りである)。 ナイルの「ムルギランチ」は、店の看板メニューだ。

そう言えば、当社のレセプションで働くHのスリランカ風カレーも絶品である。一度フィッシュカレーを味わったが美味しかった。使った肴がサバなので小骨が多く食べにくかったが、ドーバーで取れる鱈を使ったらと提案した。 なぜ鱈かというと、東京秋葉原のベンガルというカレー屋のカレーで思い出したからだ。ここのカレーも旨かった。フィッシュカレーは、あっさりした、小骨のない白身の鱈だった。 何度、ベンガルのフィッシュカレーを食べたことだろうか!

さて、リバブール・ステーション付近のインド人街のとあるレストランに入ってみると、満席、仕方なくパイントのビールを頼み待つこととする。 A氏は、クラシックの愛好家であるが、引っ越したばかりの、当社のビルにかつて、Anton Brucknerが滞在していたことを知らなかったらしい。 建物の入り口を注意深くみれば表示があるのですぐ気がつくのだが。 それによれば、19世紀後半の或る時期にアントン・ブルックナー氏はここに滞在し、かの交響曲2番の構想を得た……。 

クラシックの話がはずもうとすると、F氏から「俺は、音楽も絵画もわからん、女は別だがなあ」と邪魔が入る。 Fさんは、女以外の「美しさ」に虜になったことないのですか?と話はやおら哲学的になる。 小生が得意とする「桜の花の美しさ」にまつわる話をひとしきりすると、「ふーん」と納得したのか、キミは「哲学者」だなと一言。 と席の用意ができたとの案内に従い着席する。

周りを見回すと皆男ばかり。 ひょっとして、などと変な考えがよぎったが、良く観察すれば皆ノーマルな男達ばかりであり一安心。 結局、この手のレストランは、これから、ベッドをともにしようとする男女には不向きなのだろうか? 確かに、男女のカップルが極端に少ない。 こちらで習った英語にいわく:Dinner is a prelude to bed. とにかく男・男・男達の世界。  給仕たちも、皆彫りの深い哲学者然としたインド人たちだ。 勢いわれわれの話も。哲学的となる。 「えーっと、レンティル豆のスープと、タンドリー・チキン、それと、ビリヤニ(五目炊き込みご飯)、普通のご飯、ナン三つ、チキンカレー、ホーレンソーカレー、それから…・・」 一通りオーダーして、先ほどからの続き…・。

話は、モーツァルト音楽から、チベット仏教と修行のこと、オウム真理教の麻原氏のこと(氏の修業体験はかなり本物である)、最近話題になった、「7years in Tibet」という映画、 F氏がかつてインドツアー添乗した時の体験談特にベナレスのすさまじさ(ガンジス川にまつわる生・死のもろもろ、路上に群がる乞食や、らい病患者たちなどなど)、遠藤周作氏の「深い河」(主な舞台はインドのベナレス)のこと、ビジネスでは、インド人とは付き合いたくないこと(とにかく、振り回されて、銭にならない)、 最後は、日本食レストランで食事する英人男女は食後に必ずセックスをするという珍説(英人に取って、日本食はかなり高級料理である。まして、日本料理で食事をしながらデートする英人カップルならば、特に男としては、大枚をはたくわけだから、食後は必ずパートナーにセックスを要求するはずである。もっともらしい話だが)など森羅万象に渡る楽しい一時となった。

もちろん、オーダーしたものはすべて胃袋に収まる。 最後に、デザートのヨーグルトと何故かカプチーノ・コーヒーを飲んで、ようやくTHE END。  時は、金曜日の深夜0時に近かった。 外は、気温ゼロ度の寒さ。 小生は、F氏、A氏と気持ちよく別れ、地下鉄で帰宅した。「週末の楽しみは、金曜日の夜にあり」とはよくいったものだ。

2006年9月22日 (金)

映画 「夕陽のギャングたち」

昨夜は、19時過ぎに帰宅。 新学期が始まり、ちょっと疲れた。 いつものようにビールを飲みながら、ゆっくり夕食を取り、20時丁度、居間でごろりとなり、BS2にチャンネルを合わせると、「夕陽のギャング達」が始まった所だった。 大学生のころロードショウ公開された映画だが、見そこなってしまった映画だ。 はっきりと覚えている。 ロンドン時代に、テレビでやっていたのを記憶しているが、ソファでごろごろして見ているうちに眠ってしまい、はっと目が覚めたらすでに終了で、何の印象も残っていなかった。 ただ、エンニオ・モリコーネの美しい音楽が記憶に残っているだけだった。

セルジオ・レオーネ監督の映画は独特の美学を持っていると思う。 マカロニ・ウェスタンの傑作「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続夕陽のガンマン」は大好きで、何度も見ている。また、「ウェスタン」という見事な西部劇も作った。 一方で、「ワンス・アポン・ナ・タイム・イン・アメリカ」という傑作もある。 映画のそれぞれのシーンの中での個々の俳優のアップ、間合いに独特のリズムがある。 ちょっと、間延びしすぎじゃないかなぁ、と気になるところもあるのだが、ずるずると最後まで映画を見てしまい、終わってみるとずっしりとした、余韻に包まれて、何かいいものを見たなぁ、というフンワリとした満足感がある。

レオーネ監督の作る映画に共通するのは、セリフが少ないこと、汗臭くて、髯が似合う、無頼漢や反骨者などの男たちが多数登場することではないだろうか? この映画も、極端にセリフが少ない。女性はほとんど登場しない。

舞台は20世紀前半のメキシコだが、原題の題名がa fistful of dynamiteが暗示するごとく、「荒野の7人」では、見事なナイフ使いで登場したジェームス・コバーンが、この映画では、派手な爆破を得意とするアイルランド人革命家として登場し、ロッド・スタイガー演じるメキシコ山賊の頭領との奇妙な出会いと友情が描かれている。 単なる山賊のスタイガーは、この強力な武器の使い手と組んで、銀行強盗を働き、一攫千金を夢見て、コバーンを誘うが、逆に利用されてメキシコの革命の英雄になってしまう。 

ストーリーが展開していくうちに、コバーンのフラッシュバックメモリーの中で、アイルランドで反英闘争の場面が繰り返し出てくる。  ション、ション、ショーンというバックのコーラスが、ライトモチーフのように随所に出て来て、印象的だ。 革命、反革命そして裏切り。 期待、幻滅、そして怒りの反撃。

同じことが、このメキシコでの革命運動でも起こる。 山賊の抱える大家族を含めた革命家同士達が、一人の革命家仲間の裏切りで政府軍に皆殺しにされる。

メキシコ反革命側(政府側)と革命側の激しい殺し合いはマカロニ・ウェスタンの乗りである。 コバーンのダイナマイト爆破がこれまたすごい。 サム・ペキンパー監督の映像を彷彿とさせる。 爽快な気分になるくらい、殺戮と爆破の場面が続く。

政府軍側には、まるで、ナチス親衛隊のエリート将校を彷彿とさせる極めつけの殺戮魔が登場する。 この殺戮魔が、コバーン、スタイガーの革命軍を抹殺すべく執拗に追いかける。 最後は、コバーンが、ダイナマイトを積み込んだ機関車で、革命の裏切り者と一緒に、このエリート将校に率いられる1000名の軍隊を乗せる列車に正面衝突の自爆攻撃を仕掛ける。

裏切り者は機関車と一緒に自爆を遂げる。 この爆発もまたすごいが、政府軍のこのエリート将校はまだ死なないのだ。 結局、 コバーンは、エリート将校にピストルで打たれて死んでしまう。 ロッド・スタイガーの腕に抱かれて、葉巻に火をつけてもらい、スタイガーは助けを呼んで来るとその場を離れた直後、スタイガーがいやな予感にとらわれて振り返った瞬間、残りのダイナマイトともども、大爆発をして、自身粉みじんになって。

2時間はあっという間であった。 エンニオ・モリコーネの物悲しく、美しいメロディーとション、ショーンというバックコーラスが、押し寄せては引いていく波のように、いつまでもいつまでも繰り返す。 画面は、髯面の、ちょっとユーモラスな感じの山賊 ロッド・スタイガーの凍りついた顔がアップのままで静止し、映画は終わった。

2006年9月21日 (木)

味の記憶 その1 「スフラキ」

8月のブログで、二十歳のころのドイツでひと夏過ごしたことを書いたけれど、今日は、食べ物のことを書こうかと思う。 

日本では、グルメブームとなって久しいけれど、これは、日本が豊かになったからだと思う。 イギリスに2年間住んだことがあるけれど、人はイギリスの食事のまずさをあげつらう。 けれど、ロンドンで住んでいた限りの記憶では、皆おいしかったぞ、というのが偽らざる印象である。 豊かさこそ、人が美味しいものを求め、口が肥える為の条件ではないだろうか? もちろん、天才的に美味しいフランス料理と中国料理は別格であるが。

ロンドンは大都市で旧植民地の人間も多く、とにかくインターナショナルなレストランが山ほどあって、どれもこれも旨かった。 (確かにハズレはある。 フランスが大好きな友人によれば、フランスでは、ハズレがまったくなく、どんなところでも、美味いのだそうだが)。 特に、インドカレーとトルコのケバブは病みつきになった。 いずれ、そのことも話題にして、ブログにアップするつもりだければ、今日は、手始めに、ギリシャ料理の「スフラキ」と行きたい。

「スフラキ」は串に肉と赤ピーマンとか玉ねぎとかを交互に刺してグリルしたものと、オリーブオイルで和えた?パサパサのライスと一緒に食べるギリシャ料理の定番である。付け合せにトマトとキュウリがついていたと記憶する。 肉は、羊、豚、牛、チキン、魚までチョイスがあるが、初めてこの「スフラキ」なるものを食べたのは、1976年、今からもう30年も前のドイツはハノーバーであった。 1976年は記録的な猛暑に襲われたヨーロッパだったが(最近は毎年、猛暑らしいが)、私はポーランド人の友人と毎日泳ぎに出かけた。 そして、ヌーディストクラブで偶然知り合いになったドイツ人ペーターさん(私は二十歳でむこうは30歳でもうすでに離婚経験者だった)に誘われて食べたのが最初だった。 とにかく、美味しかった、そして、お腹が一杯になった。 又、安いという利点もあった。 特に、ご飯が食べられる!というのがうれしかった。 当時、日本食レストランなんでなかった。 会っても、貧乏学生が食べられるような値段ではなかった。とにかく、この「スフラキ」は、何度食べても飽きなかった。そして、満足感があった。 (グルメのフランスかぶれの友人は、これに当たるのがパリでは、クスクス料理だそうだ)。 たっぷりと食べた後は、トルコ・コーヒーと同じで、コーヒーが沈殿しているとても濃いどろどろしたギリシャ・コーヒーとウゾ(ギリシャのウォッカ)で締めくくるのを常とした。 何度この「スフラキ」を食べただろうか!!!

学生時代の記憶は、長らくよき思い出として脳裏に残った。 1984年、オランダで1年研修生活を送った時に、市内で偶然、ギリシャ料理屋を見つけた。 一瞬にして、あのハノーバーのおいしかった「スフラキ」を思い出して、中に入りオーダーした。 が、昔の感激はどこにいったのか、ああ、こんなものかという感じであった。

時は過ぎて、40代に、ロンドンで激務をこなしていた頃。 若い研修員君が、住んでいるところ(Prime Rose Hill)の近くにおいしい評判のギリシャレストランがあるんです。 道を歩いていると、イギリス人に何度も、行き方を聞かれるんです、おいしいに違いないですよ、という話を聞いて、又、「スフラキ」を思い出した。 よし、行こう! ある日思い立って、出かけた。 前菜は、イワシの塩焼きとタラモ・サラダ(タラコとマッシュポテトを和えたものを、ピータという中近東風のパンで食べる。 とても美味! ワインに合う!)と白ワインで、まずは、乾杯する。 そして、メインは、「スフラキ」である。 学生のころ食べたお肉は、ポークだったと思う。 このレストランは洗練された!ギリシャ料理で、牛、豚、鶏、魚とチョイスもあり、盛り付けもなかなか美しかった。 私は牛を頼んだ。 そして、お味は? やはり、ドイツで食べたときの[スフラキ]が一番おいしかったような気がする。 ここの「スフラキ」ももちろん、オランダで幻滅したときとは違って、洗練されていて、とても美味しかったのだが、それほどの感激はなかったのだ。 

たぶん、自分が変わってしまったのだろう。 生意気にいろいろ贅沢しすぎたからだろう。 よくよく考えると、「スフラキ」は、ギリシャの家庭料理である。 ご飯付きの串焼きバーベキューというシンプルな料理なのだ。 以来、「スフラキ」は食べていない。 そして、1976年、ハノーバーで食べた「スフラキ」は、作家 梶井基次郎が短編小説「檸檬」で書いたように、ますます、輝きを増して、時折、私の記憶の中に蘇っては、また、記憶の奥底に沈んでいく。

日本で敢えてギリシャ料理屋を探して、高いお金を出して食べようとは思わない。 海外に出る機会があって、ふとギリシャレストランに出会ったら、ひょっと入って、「スフラキ」を又試すかも知れないが・・・。 

2006年9月20日 (水)

野鳥の囀りはα波 クロウタドリ編

クロウタドリ

日本にはいない鳥だ。 たまに、迷鳥として目撃されることもあるらしい。ツグミの仲間のようである。 日本では夏鳥のクロツグミをもっと黒くしたような鳥のようである。

20045月、麗しき5月。 ドイツを仕事で旅行したとき初めて聞いた。 というか、以前にも同じ時期にヨーロッパを旅行した経験があるから、鳴いていたはずだけれど、心ここに在らざれば、聞けども聞かず、という奴である。 野鳥観察を始めてから、外に出かけると、自然には、野鳥に満ち溢れていることに気づいた。 こんなにもいるのかと!

ハンブルク空港に到着直後、送迎バスに乗るとき、いきなり、ハクセキレイがチチッ、チチッと鳴きながら飛んでいたのは感激した。 ハクセキレイは全世界的に分布するのだ。 この年の2月、ドバイを旅行したときも、ハクセキレイを見かけて、感嘆したものだ。 カザフスタンのアルマアタでは、長旅の直後、早朝チェックインしたホテルのテラスでぼーっとしていたら、まだ残雪があって寒い中、尻尾の長いカササギが近くの木で羽を休めていた。 これまた感激!

ハンブルクでは、毎朝早起きして、美しいアルスター湖畔を散歩したものだが、ガンの種類が芝生で草を食み、シジュウカラがあちこちで囀り、ホテルの屋上のアンテナではカワラヒワが日本と同じようにビーン、ビーンと囀っていた。 これまた感激であった。

さて、このクロウタドリ。 早朝、薄暗いときから、午前中、午後、夕方、夜中と一日中、どこかで囀っているのがうれしい。 それも、建物の煙突の天辺とか、大変目立つところで堂々姿を見せて、いつまでもいつまでも、囀ってくれるのである。 一遍で大好きになってしまった!

この年の夏、今度は、ニュージーランドをやはり仕事で旅行した。 現地は真冬である。 にもかかわらず!? 夕方と言わず暗くなってからも、また早朝まだ陽が上らないうちから、あちこちでクロウタドリはとても美しい囀りを聞かせてくれた。 もともと、在来種ではなく、移民がヨーロッパから持ち込んで繁殖したらしい。 ドイツ語ではAmselと呼ぶらしい。 英語では、Blackbird。 日本にいないのが残念である。

野鳥の囀りを文字で表現することが出来ないのは、これまた本当に残念だ。 持っている、野鳥の囀りを録音したCD-ROMにも入っていない。 

しかし、ビートルズのホワイトアルバムという2枚組みのCDにBlack Birdというタイトルでポール・マッカートニーの弾き語りギターソロで録音されている美しい曲がある。 Black Bird すなわち、クロウタドリである。 昔は、ポールのギターテクニックに惚れて、このレコードを聴いたものだが、いまでは、その中に録音されている囀りに興味が移った。 興味のある方は、是非、この曲を聴いてみてください。 途中で、たっぷりとクロウタドリの生の囀りが聴けます。 α波です。 美しい囀りですよ!

こんな鳥です!!!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%89%E3%83%AA

http://www.gt-works.com/yachoo/zukan/tori/tugumi/kuroutadori.htm

2006年9月19日 (火)

愛着のある本 その3 George Mikes

イギリスのユーモア作家にGeorge Mikes(ジョージ・ミケシュ)という人がいる。 既に故人であるが、高校時代に、How to be an alienという本と出合った。これはZ会の通信添削問題の出題であった。 Z会に、感謝、感謝!

英語の勉強の積もりで、同氏の著書は出来るだけ沢山集めて読むようになった。 絶版になっているものが多いが、コレクションした本を列挙してみると

1)      How to be an alien   (イギリス論その1 1946)

2)      How to be decadent (イギリス論その2 1950年代から1960年にかけて)

3)      How to be inimitable  (イギリス論その3 1960年代後半から1970年にかけて)

4)      How to a Yank and More Wisdom  (アメリカ旅行記、他のエッセイ)

5)      Italy for beginners (イタリア旅行記 1950年代)

6)      Switzerland for beginners (スイス人論 1960年代)

7)      How to tango (南米旅行記 1960年代)

8)      How to be Seventy (自伝 1984年、死の3年前。 傑作だと思う)

9)      English Humor for beginners (イギリス人のユーモアについてのエッセイ)

10) Arthur Koestler The Story of a Friendship  (同じハンガリー人で世界的に著名なジャーナリ

スト、作家、哲学者の友人であったアーサー・ケストラー氏へのオマージュ)

11) The Land of Rising Yen (日本旅行記。 1960年代後半)

12) Prophet Motive (イスラエル旅行記)

13Gedanken sind zollrei (ドイツ語版、ババリア地方、オーストリア、ユーゴスラビア、ハンガリー

の旅行記。 時代は冷戦の真っ只中、1970年前半)

14Tsi-Tsa The biography of a Cat (野良猫との出会いを綴ったユーモア譚)

15How to be God (人生論その1)

16) How to be Poor (人生論その2)

17) How to be Guru (人生論その3)

18) Dr. Mikes Goes Around the World (ミケシュ作品のオムニバス)

19)スパイになりたかったスパイ(翻訳で、ユーモア・スパイ小説。ソビエトのスパイがロンドンで活躍するのだが、ドジで失敗の繰り返し。ロシアの諺がスパイスとして前半、効果的に使われているところは、腹を抱えて笑ってしまう)

良くも集めたものである。 ちょっと、マニアック過ぎただろうか? 一部は、アムステルダムに住んでいたころ、オランダの書店で買い集めたのもあるし、ドイツ語版はオランダ人からプレゼントされてもらったものである。 神田の古本屋街で偶然見つけたものもある。

1940年代から70年代のものがほとんどで、自伝は1980年代に書かれた。 ハンガリー生まれのユダヤ人で、ミュンヘン会談のあった年に取材でロンドンにやってきて、それ以後、ロンドンに留まり、イギリスに帰化し、イギリス作家教会の会長にもなって来日したこともある。

同氏の徹頭徹尾のユーモア作家であり、日本人作家ではこのタイプというのはお目に掛かれないのではないかと思う。 How to be an alienには、例えば、イギリス人の性生活を揶揄して、

Continental people have sex life; the English have hot-water bottles.

と一言で片付けているが、これは、当時かなり評判になり、イギリスはもちろん、ヨーロッパでもかなり人口に膾炙してるらしい。  同様に、まずい食生活に関しても、

On the Continent people have good food; in England they have good table manners

と笑わせてくれる。 

ユーモア作家というのは、皮肉屋とは違って、どこかにいたわりがあるのだろうか、相手をばっさり切ってしまう、辛らつなフランス流のウィットとは一味違う感じがする。 同氏によると、イギリス人はユーモアというのはイギリス人の独占物だとおもっている節があるとのことで、English Humor for Beginnersは、それに対する鋭い分析をいろいろなジョークを紹介しながら語っていて、楽しませてくれる。 

日本だが、第1回目の旅行記(East is East)では「Yes, I Am Not という「にやり」としてしまう章があったり、第2回目の旅行記(The Land of Rising Yen)は1960年代後半、学生運動が盛んだった頃の時代背景で、おもしろおかしく、しかも、日本への愛情も感じられて(リップサービスか)、ペンギンブックでは今でも版を重ねているようだ。 今から30年以上も前の日本を取材旅行した本なので、現在の日本一致しないところもあるけれど、鋭い指摘もあって時折読み返している。 イスラエル旅行記やアメリカ旅行記などとにかく、時代背景の制約はあるけれど、今読んでも面白いし笑わされるが、出色なのは、スイス人論ではないかと思う。これは、めちゃめちゃ面白い! ホントに。

最後に、East is Eastのマレーシアの章から一部を紹介してみよう。

Malaya is supposed to be a country of Malays but it isn’t really.  Before going any further, I had better define certain terms. A Malayan is an inhabitant of Malaya,  irrespective of race or creed;  a Malay is a member of the Malay race and a Moslem;  while a Malaysian comes from the common stock of Malays and Indonesians.  So, for example,  a Chinese can be a Malayan but he cannot be a Malay any more than a Malay can be a Chinese.  A Malay can be also a Malayan and so can an Indian but the Indian can never be a Malaysian.  And so on.  I shall open classes for more advanced pupils in the autumn………

分かりましたかぁ? これが分かればあなたの英語は本物です。 私もやっと笑えるようになりました。

2006年9月17日 (日)

秋が来た!

8月末まで囀っていたウグイスの声が聞こえなくなって、コオロギの声が聞こえるようになったと思ったら、いつの間にか、涼しくなり秋の気配が濃くなってきた。まだ、ツクツクボウシが時折鳴いているし、この間は、2度目の子育てで巣立ったツバメの幼鳥を見かけたりはしている。 が、空の色は完全に秋の色だ。

田舎に戻って、半年ぶらぶらして、幸運にも?職を得て、5ヶ月が過ぎようとしている。 ゆっくりしようと思っていたが、母が病を得て、看病をしたりで、夢の海外放浪はまた、お預けとなってしまった。 20年くらい前の映画で「白い街で」というスイス製?の舞台がポルトガルといういい映画があった。 これを思い出してしまう。 放浪は憧れだ。 

大学のキャンパスで良いナと思うのは、周辺とキャンパスの一部が雑木林になっていることだ。さすがに、双眼鏡で野鳥を追い回すのは気が引けるが、昼休み時は、弁当を持って雑木林で野鳥の囀りを楽しんだ。 勤め始めたばっかりの頃は、アオジの美しいソプラノを聞けたし、勤務途中にはホオジロの美しい囀りを聞いたり、桜川でカワセミのコバルトブルーの姿が水面すれすれを飛ぶところも見かけたし、雑木林には、シベリアに渡る直前のツグミがまだ沢山いたし、センダイムシクイキビタキの囀りを5月連休前後には聞いたものだ。 通勤途中の湿地の葦原では、オオヨシキリが精力的に鳴き、ケーン、ケーンと近くではキジが鳴くかと思えば、ヒッ、ヒッ、ヒッ、チャチャッ、チャチャッとセッカの声が聞こえる。 アオサギのグァーッという素っ頓狂な声と姿を何度も耳にして目にした。

上司の教授から、君の英語はもう少し、鍛えないと、と言われ、ビジネス英語の授業に出ていたある日など、作文をしながら、ホトトギスコジュケイの鳴き声がひっきりなしに聞こえてきたりして、思わずひとり笑ってしまうことも何度かあった。 さらに、モズ(小鳥だが、猛禽である!)やオナガ(カササギの仲間で、鳴き声にはがっかりするが、姿は尻尾が長く、なかなか美しい)の群れを見かけたり、7月のある日は、何度か、ツミと思われる猛禽(鷹の仲間で一番小さいもの。大きさはキジバトと同じくらい)も見かけたものだ。 一度などは、スズメが犠牲になっていて、片足で摑んで、近くの巣に持ち帰るところでなかったか?

本当に自然に恵まれた環境にあるのだな、と納得した。 そして、今、9月である。 今日も、夕方薄暗い時間、キャンパス内の雑木林を歩くと、あたりはコオロギの大合唱であった。 これから、10月を迎えて、夏鳥が東南アジア方面に引き上げ、今度は冬鳥がやってくる。 また、どんな出会いが待っているだろうか? 

2006年9月16日 (土)

映画「悲情城市」と台湾

この映画を見るのは3度目ある。1990年代にレンタルビデオで2回、そして今回DVDを購入して3回目となった。やっぱり、何度見ても、いい映画だなあと思う。日本人の描かれ方も、中国本土とは違って、絶対悪としての対象では描かれていないのがうれしい。描かれ方に違和感がない。

舞台は大東亜戦争で日本が敗戦した直後の台湾(中華民国)。日本には2.26事件というのがあったが、台湾には19472.28事件というのがあった。日本敗戦からこの映画は始まる。

日本人が戦争で敗れ、桜が散るように去っていくと、今度は、蒋介石の中華民国の軍隊がやってきた。やっと、日本帝国主義から開放されたと思ったら、今度は、大陸本土から、威張り腐った割には、ぼろ雑巾のようなみすぼらし身なりの国民党軍がやってきた。最初は、これで台湾は良くなるだろうと皆が漠然と思っていたら、国民党軍は、とんでもない奴らだった。 これじゃ、民意を失い、共産党軍に追い出されても仕方が無いくらいだった。台湾人にとって、犬(日本)が去って豚(中華民国)がやってきただけだった。 およそ近代国民国家制度と無縁にして、秩序そのものがない中国大陸の慣習が持ち込まれた台湾住民は、卒倒した。 これなら、まだ、日本時代のほうが、抑圧はあったけど、まだましだった。

戦後の混乱のなかで、国民党軍は中国本土からの密輸物資を垂れ流して大もうけしていた。 たまたま、密輸タバコを街頭で売っていた地元民が密輸・闇物資の取り締まりの揉め事の際に殺された(大元の国民党軍の悪を罰せず、とかげの尻尾きりよろしく、弱者が犠牲になった)ことがきっかけになって、台湾全土で暴動が発生した。 大陸で内戦を戦っていた蒋介石は、国民党派遣軍の陳儀将軍に徹底した弾圧を命じた。 死者・行方不明の数は数万人にも及び、未だ、その真相は明らかにされていない。映画では、そのあたりの悲劇的経緯をある家族を中心にその人間模様通して、淡々と描いている。

台湾とは何か? 台湾語という土着の言葉があるそうだが、国民としてのアイデンティティを作ったのは皮肉なことに日本らしい。歴史的には、隋だか唐のころの中国の文献に小琉球だか大琉球という名前で出ていたらしいが、もともとは、高砂族などの太平洋島嶼民と同じ民族が住んでいた島らしい。地理的に中国大陸に近く、明から清朝時代にかけては、海賊の基地になったり、人口爆発(清朝になって始めて、中国の人口は1億を超えて、4億まで増えた)に伴う窮乏化で、対岸の福建省から多数の流民が入り込んだ。ポルトガルやスペイン、そしてオランダもやってきた。西洋に発する主権国家なる概念がもともとなかった東アジアでは、まさに、帰属はあいまいな島だった。

19世紀にはいって西洋帝国主義諸国が砲艦外交でアジアを次々に植民地化していくなかで、日本が日清戦争の結果、台湾を清朝から割譲し、植民地にしたが、それまで、そこは清朝も化外の地としていたくらい蒙昧な地域だった。

台湾人が国民として意識し始めたのは、日本語という強制された国語と近代化政策(社会インフラの設置と教育制度の確立)だったらしい。 もともと土着の南方ポリネシア系の住民や、福建省から移り住んだ福建人(福建語を話す)や、客家(客家後を話す)などが混在して、統一言語などなかった状況に初めて共通言語をもたらし、国民意識を作ったのは日本だった! 日本語を強制されて日本語を通して、彼らは、台湾人というアイデンティティを作ったのだそうだ。

台湾人(中国人という胡散臭い言葉は使いたくない)達にとっては、日本植民地時代も差別されて嫌だったけれど、蒋介石の中華民国はもっと酷かった。 戦後の中華民国政府によって、台湾人達は、日本語が禁止されると同時に、台湾の本来の土着の言語である台湾語は禁止され(家庭の中や外で遊ぶときや使用されていた)、学校ではいわゆる「普通語」(北京官話)が国語として教えられた。 

2.28事件をきっかけに敷かれた戒厳令は、冷戦期間を通じて、1980年代後半まで続けられたようで、その間、蒋介石の息子の政権から李登輝に引導が渡され、1990年代の歴史的な大統領選挙(中国の歴史上初めて、首長が選挙で選ばれた! 台湾は中国ではないという人もいるだろうから、中国史上初めてというのは???かも知れないが)が行われ、客家にして台湾人としてのアイデンティティを持つ李登輝大統領の時代を迎え、選挙で国民党を破った民進党がその後与党となり、台湾人の政権が誕生した。

私にとっての台湾の記憶は、19862月に仕事で旅行したときの台北だけである。未見だが、「さようなら再見」という傑作台湾映画で描かれているパターンで旅行したのだった。 映画というと、ヨーロッパやアメリカ一辺倒で見てきたのだが、アジア各地でも良い映画が続々と出来ていることは、評論家の佐藤忠男氏の紹介でいろいろ勉強し機会があれば出来るだけ見るように心がけている。 

2006年9月15日 (金)

野鳥の囀りはα波 コマドリ編

この野鳥との出会いは思いがけなかった。 普通、標高の高い山で近くに清冽な水が流れる場所などの環境で出会う小鳥と聞いている。 欧州では、ロビンと言って普通に庭先にやって来て、皆の人気者らしいのだが、日本では、平地で目にすることは珍しいらしい。

 

まだ、大学職員として勤め初めて直後の今年5月連休のこと。自宅近くの普通にある雑木林で何と出会ってしまったのだ!!! 早朝5時に目を覚まし、いつものように、近くの小川と雑木林沿いを歩いて、50段近くある神社の境内に上がりかけた途中のこと。ピロロロロロッ!?!と思いがけない囀りが聞こえてきた。 CD-ROMで何度か聞いていた声が聞こえてくるではないか! コマドリに違いない!!! 一気に、胸が高鳴った。 じっと立ち止まると、すぐ近くで囀りだした。 心臓はもうバクバクドキドキ、血圧も上がる。 CD-ROMの囀りとは違う節回しもあったが間違いない、あの小鳥だ! 

双眼鏡を持って、静かに足音を聞かれないよう、抜き足差し足で音源に近づいて双眼鏡を覗くと! 一瞬だが、あの図鑑で見たことのある、顔から胸の部分が鈍いオレンジ色っぽい小鳥がひらひらと小枝を伝っているではないか! やったぁ! コマドリだぜ! 

姿を捉えてたのはこの一瞬だけだった。 1時間近く、このコマドリは場所を変えて、あっちで囀り、こっちで囀りしてくれた。 体がぶるぶる震えるほどの興奮を味わった。 翌日早朝、再び、この神社に足を運んだ。 しかし、コマドリの声も姿も無かった。 たった一日でこの雑木林から抜けてしまったようだった。

コマドリはこんな鳥です。

http://www.gt-works.com/yachoo/zukan/tori/tugumi/komadori.htm

2006年9月14日 (木)

B級映画の楽しみ? ~「お熱い夜をあなたに」と「ラムの大通り」

最近、さっぱり映画を見ていないのだが、時折、中古ビデオやDVDを取り寄せては見るようにしている。 新しい映画にいろいろいい映画があるようだが、1970年代の映画にも見直していて楽しい映画はごろごろある。 B級映画?かも知れないが、私の好きな映画にリノ・バンチュラとブリジット・バルドー主演の「ラムの大通り」とジャック・レモンとジュリエット・マイルズ主演、監督はあのビリー・ワイルダーの「お熱い夜をあなたに」がある。 何度見たか分からない。 時折、ふっと時間が出来たとき、ごろりとなって、ついつい何度も見てしまう。 

「お熱い夜をあなたに」は、イタリアはイスキア島を舞台にしたコメディーで、ジャック・レモンが代表するアメリカ文化とジュリエット・マイルズが代表するイギリス文化が太陽がさんさんと輝く神に祝福された南国はカトリックのイタリア文化を舞台に3者がそれぞれの役割でおもしろおかしくぶつかりあうという出色のコメディーである。 随所にワイルダー監督の考え抜かれた捻りある場面とセリフが用意されていて、見るたびに発見があって楽しい。これに匹敵するのは1980年代後半にイギリスで作られた「ワンダと優しい奴ら」A fish called Wandaになるだろうかと思う。 印象に残っている場面を拾うと、

(1)   冒頭のアリタリア航空でローマに到着するとき、イタリア訛りたっぷりのスチュアーデスの英語アナウンスが、Please extinguish your seatbelt and fasten your cigarette になっている(これはワイルダー流のおふざけである)

(2)   ジャック・レモンがイタリアの非能率に腹を立てるので、必死にイタリア流何でもありの「裏の手」を使ってレモンの意に沿うように動いたホテル支配人に、レモンはイタリアの腐敗・不公正をなじると、支配人はシニカルに一言:「ザッコとヴァンゼッティ」とアメリカの不正に抗議・応酬する。

(3)   地元のマフィアに脅されて、賄賂の支払いを要求され、レモンが米ドルの小切手を切ろうとすると、マフィアはすかさず、「落ち目のドルはノー、ドイツマルクか円じゃなきゃ駄目だ」、と一言。 

その他、髯の生えたイタリア人メイドが登場したり、躊躇するレモンを差し置いて、おしとやかなはずのイギリス娘のちょっと太めのジュリエット・マイルズが「素っ裸」になって海を泳ぎ、近くを通る船のイタリア人船員が、やんや、やんやの喝采をすれば、レモンは一言「Where is the English reserve?」(映画では、その後、マイルズが島を散歩していて、停泊している船員たちに偶然遭遇して、追い掛け回されるというシーンもある)と苦言を呈したり、あるいは、イスキア島のロケで写されている島の風景の中に、当時、世界中でロードショー公開されていた映画「ある愛の詩」と何と「ラムの大通り」!!!の看板が出来たり。 

とにかく随所に楽しみが隠されていて楽しい。 

そんな中で、ホテル支配人の役者が妙に味があるなあ、イタリア訛りの英語も見事だし、と思っていたのだが、某夜、「ラムの大通り」を見ていたら、リノ・バンチュラのライバル役のイギリス人で登場していて思わず、ニヤリと笑ってしまった。 この役者は、クライブ・レヴィルという役者だ。 Clive Revil。 渋い脇役の役者である。 ところで、「ラムの大通り」は、ひょっとして、バルドーが出た映画ではベストワンではないだろうか(彼女の全部の映画は見ていないのだが)。

2006年9月13日 (水)

久しぶりに仲間と飲む

某月某夜、東京で飲んだ。 メンバーは、もともとは同じ会社にいた人間であるが、3人は私も含めて転職組みである。一人なぞ、16年前に海外駐在の職を投げ捨てて、転職した口である。 一人だけはもとの会社で頑張っている。

1000円でビールの見放題のセット、おつまみは、スペアリブとマグロのカマ、大根とキュウリの漬物、ブロッコリーのニンニク風味など。よく飲み、よく話した。 

お互いに背負っているものが違う。 先週末、高校を卒業して30数年ぶりに同窓会に参加した金融界某氏曰く「誰が誰だかさっぱりわからない。特に女性は変わっていた」と感想を述べる。 一方で、娘が、来年から1年南米の某国に留学するという話は、家賃収入がある余裕の某氏だが、店子が突然行方不明になり、数か月分の家賃を踏み倒されたというボヤキ。(保証人ともどもとんずらしたのだろうか?そのあたりは、酔いもあってか敢えて突っ込まなかった)はたまた、結婚はしているものの、家庭内離婚状態である愚痴ともつかぬ苦笑。 

身の回りの話から始まった話は、やはり、仕事の話になる。 もとの会社の方では、部門がひとつまたクローズするらしいから、景気は悪い。 転職組みの金融某氏は、年収の半分に近い夏のボーナスが出たというのに。 私は、年俸制で、ボーナスなどない。そして、転職直後は、大変であることの実感。 期待されるものが違うのだ。即戦力! これは大変なことなのだ。 所詮、サラリーマンは甘いのである。一端、その会社を辞めれば、どんな一流会社で年収1000万を越える給料を貰っていても、マーケット・プライスは、200万~300万になってしまう。 特定の限られた、本当に能力のある人以外は・・・。 能力のない私はラッキーか?

 

日本は住みやすい国なのか? 今夏、パリに家族で大名旅行した金融業界某氏は、物価が高いことに改めてびっくりしたとのこと。 ユーロ導入で便乗値上げしたんです、と私。 オーストラリア、ヴェトナム、フィリピンは物価が安いし、使うお金に対して、十分なサービスが受けられるのに対して・・・ しかし、グルメの同氏は、毎日ミシュランの星つきレストランやらフランス料理を堪能したという。 

カナダも暮らしやすいらしいですよとは、家賃収入ありの余裕の若旦那。私もうなずく。 フィリピンは治安が?ですよね。 海外も良いが、個人的には、日本の田舎がいいと思う。空気がきれいで、治安もいいし、人口密度も少ないしゆったりしている。 野鳥観察を思う存分できる環境があるし、子供の頃親しんだ釣りだっていつでも出来る。 夢だが、農業もやってみたい。従兄に、雑草取りが大変で、皆挫折するぞ、と言われたが。 

それぞれの背負っているものと、まだまだ10年、20年、30年、ひょっとして40年は生きていられそうな?この国で、さあ、何をしようか、との思いが交錯する。 わくわくドキドキとまでは言わないが、楽しく充実したいという思いがある。 自分で時間を自由にすること、が何より大事だと思う。 そして、その自由に出来る時間にあとは何をするかだ。 サラリーマンから折角足を洗ったのに、また半年もたたないうちにサラリーマンに戻ってしまった自分は何なのだろうか? との自省する声も心のなかで響く。 21時過ぎ、さてとぉー、そろそろお開きにしますかぁ。 家路について田舎に帰り着いたのは23時過ぎだった。

2006年9月 6日 (水)

愛着のある本 その2 「2度目のハレー彗星」

ドイツにエルンスト・ユンガーという作家がいた。19世紀末に生まれ、21世紀に入る直前にこの世を去った。 ロンドンで仕事をしていた1998年の冬のある日、102歳で大往生したというニュースが新聞にも載った。日本語の新聞にも死亡記事が出ていた記憶がある。

この人は、ドイツでも毀誉褒貶の激しい人で、プロイセンの軍人として高校を繰り上げ卒業して、第一次世界大戦に従軍。 傷を何度も負いながら戦場に復帰、最後は、第2次世界大戦でも勇名を馳せたロンメル将軍と同じプール・ル・メリット勲章を当時のドイツ皇帝からもらった人である。このときの体験を日記につけていたらしく、敗戦後、本にして出版したところベストセラーになった。 フランスのアンドレ・ジッドは第一次世界大戦について書かれた本でももっともすばらしい作品だと激賞した。

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内容的には、戦場の凄惨な場面も含めて日常生活を客観的に叙述し、レマルクのような、戦争=悪とかヒューマニズム的センチメンタリズムとは無縁なスタイルだった。後年、ナチスが政権をとり海外亡命したトーマス・マンからは、ワイマールの墓堀人と揶揄されたりもした。同氏の著書には、SF風の小説や哲学的評論とかいろいろあるが、出色なのは日記ではないかと思う。第二次世界大戦中、従軍してパリに駐屯したパリ日記もなかなか面白いし、死の直前までずっと日記を書き続けて、出版している。

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1980年代の終わりごろ、世はバブル真っ盛りのころであった。 新宿の紀伊国屋で偶然、ユンガー著「2度目のハレー彗星」のドイツ語版を見つけ、このご老体、まだ生きているのか、と不思議な感動を覚えながら、購入した本だ。 90歳にならんとする歳だが、マレーシア、シンガポール、インドネシアなどを旅行した日記風の旅行記である。 目的は、1986年に地球に接近したハレー彗星(76年に一度大接近する)を見ることだった。 ユンガーは子供のころ、つまり1910年に両親や兄弟と一度この彗星を故郷のハノーバーで見ている。 つまり、生涯2度目のハレー彗星との遭遇である。本の中で、同氏は同様に2度ハレー彗星に遭遇する幸運に恵まれたマーク・トゥエインに言及している。 _091 同時にこの書は生涯の趣味、甲虫類のコレクターとしての昆虫採集の旅でもあった。 昆虫を通した文明論でもある。 昆虫にまつわるエッセイは日本語訳も出ていて(「小さな狩」ある昆虫記)、子供の頃、胸をときめかしてハンミョウやオサムシを追いかけた日々の追憶からマレーシア、アフリカ、イタリアはサルジニアなどの昆虫採集と旅にまつわる楽しいエッセイである。 

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