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2006年11月28日 (火)

「自殺」についての雑感

渡部昇一氏の本は若い頃は敬遠して読まなかった。「右翼・反動」という先入観があった。当時は、日本共産党は学生の間では、もう馬鹿にされていたが、新左翼の影響が残っていた。 吉本隆明なんかはよく読まれていたものだ。 私も、いくつか本を手にしたが、難解さに辟易した。 

渡部氏だが、本を書きすぎるのではと思うくらい著書が多いのだが、いろいろ読んでみて、尊敬に値する第一級の知識人であると思うようになった。博覧強記に飲み込まれない、氏独特の息使いと鋭い判断力には舌を巻く思うこと度々である。

氏の本に「教養の伝統」(講談社学術文庫)というのがあるが、その中で、自殺のことに触れる個所がある。夏目漱石とラフカディオ・ハーンという日本の明治時代の代表的な知性の二人を取り上げた鋭い批評なのだが、渡部氏自身が戦後の貧しい頃、田舎(山形)から上京して、寮に閉じこもって「真面目」に勉強している自分を回想する個所があり、高校時代には分からなかった漱石(特に「こころ」とKの自殺の謎)がある日、豁然と分かったこと、思い詰めて、本の中に没入して、煮詰まっていく内に、ふと、死んでも良いのではないか、という瞬間があること、を実感として書いておられる。 

この個所を読んで、私は、原口統三の「二十歳のエチュード」を思い出した。大連生まれの早熟な青年で、旧制第一高等学校在学中に自殺した男である。ニーチェやヴァレリーの引用やら、彼らの影響から沸きあがるインスピレーションから、若者特有の純粋さを象徴するようなアフォリズムが縦横に書かれているいわば、遺書のようなものである。 「言葉」が最初にあって、「想念」に取り付かれて、「現実」が希薄になっていくのだ。 渡部氏もそれを経験したということだろう。 原口氏は自殺してしまったが、渡部氏は、自殺しなかった。

「本当にわかる」というのは実は大変コワイのだという。 英語の「パセティック」という言葉を取り上げ、渡部氏は、漱石の孤独な子供時代と日本仏教会の至宝と言われた山本玄峰老大師の多難な生い立ちやデル・カーネギー「モーツァルト伝」を引き合いに出して、「禅的なものを見てしまうこと」と「何か神秘的なもの、美しいものが魂の中に入り込んでしまうこと」、「人の心の琴線にふれるものがこの世にはあること」に触れながら、本当にわかるということの恐ろしさを簡潔に教えてくれるプラーテンの詩を引用している。

死に捧げたる者  Totgeweihter 

眼もて美を観たる人は Wer die Schoenheit angeschaut mit Augen,

既に死の手に落ちたるなれば、 Ist dem Tode schon anheimgegeben,

もはやこの世のわざに適はざるべし。Wird zu keinem Dienst der Erd taugen.

ちょっと、話が重くなってしまった。 ちなみに、私は、自殺の衝動を感じたことなど1度もない。 死に対する恐怖感を子供心に感じたことはあるのだが。

最近、イジメによる子供の自殺があい次いでいる。死ぬというのはそう簡単には出来ないものだ。 生きていく上では、楽しみが半分、苦しみが半分というのが私の実感である。 50歳を過ぎた自分を振り返ると、特に40歳過ぎからは苦しい場面が増えたような気がする。逃げ出したくなることが多々あった。 幸運にも、体を壊すこともなく、結果は出ても出なくても?乗り切ってきた。駄目なものは駄目だ。くよくよしないのが私の性格だ。落ち込むこともあるが、立ち直りが早いということか?プレッシャーをどう撥ね退けるかも大切だ。 

死に急ぐ子供たちを見るたびに心が痛む。 相談する人がいないのだろう。死ぬということはよくよくのことで、逃げるところがなくなったときに取る手段だろうというのは、なんとなく分かる。 渡る世間は鬼ばかりではなく、人の情けというものがあるのを知ってほしいと思うのだが、時代は変わってしまったのか? やはり、学校での対応に問題があるのだろうか。もともとの原因は家庭教育だと思うのだが、それを言ったら始まらない。子供の心が分かる大人なぞいないのだが、子供駆け込み寺とか、もう出口がなくて、もがいている子供がいるのだから、ひとまず逃げて、周りから自分を遮断して、一息ついでもらい、自分を立て直す機会と場所を用意するしかないだろうと思う。一端、引きこもるしかないのだ。そして、自分を立て直してまた、嫌な社会、世間に向き合って、自分の居場所を探すしかないのだ。失敗しても、失敗しても。 

2006年11月24日 (金)

チェーホフから~「美女」その2

二人目の美女は、主人公が大学生のころの話し。こちらは、一人目より描写が短い。ある年の5月、主人公が列車で旅をして何処かの駅での話し。夕方プラットホームをあるいているとある車両の前で人が行ったり来たりしているのに気づく。近くにいた汽車旅で知り合った将校に聞くと、一人の女性を眼で示す。車両の窓の前に佇むロシア風の身なりをした17歳前後の若い娘だ。駅長の娘か妹か。

「自分が眼にしたものがまだはっきりとわからない内に、わたしは不意に、かつてアルメニア人の村で味わったあの感情に襲われた。娘は素晴らしい美人だった」

そのあと、その描写が続くが、個々の顔の特徴はありきたりであり、「本当に美しいのは頭の上で黒いリボンで束ねた、やわらかに波打っている豊かなブロンドの髪」だけだった。それでも、この娘は「本当の美人だという印象を見るものに与えた」

「ロシア人の顔というのは、美しく見えるためには、輪郭の厳密な正しさなど必要ではないのだ。それだけではなく、かりに、この娘に、心持ち上を向いた鼻の代わりに、あのアルメニア人の少女のような、彫刻的に一点非の打ち所のない、輪郭の正しい鼻をつけたならば、おそらくそれだけで、彼女の顔は魅力をすべてなくしてしまうに違いなかった」

「彼女の美しさの秘密と魅力は、限りなく洗練されたさりげない動作や、微笑みや、めまぐるしく変わる表情や、私たちにさりげなく投げる素早い視線の内に秘められているのであり、これらの動作の、えもいわれぬあでやかさが、若さや、みずみずしさや、笑い声とか話し声に感じ取れる心の清らかさや、私たちが子供とか小鳥とか、若い鹿とか若木などの中にみいだしてとても愛しいと思う、あのかよわさなどと結びついているところに秘められているのだ」

「それは、ワルツや、花園の散歩や、笑い声や、明るい気分などのしっくり似合う、蝶の美しさであり、きまじめな考え事や、悲しみや静謐などとは結びつかぬものだった」

汽車の出発のベルがなる。「さて、と…。」という言葉と溜息まじりに呟く顔見知りの将校。「さて、と…。」は何を意味するのか?「美人や春の夕暮れをあとにして息苦しい車室へ去るのが心淋くて気が進まないのか、それとも私と同じように彼も、この美人や、自分自身や、その他物憂げに自分の車室へしぶしぶ引き上げて行く旅客たちなどが、なぜともなく、あわれに思えたのかもしれない」。

将校と2人で車室に戻る途中で見かけた、「青白い、頬骨の張った、しなびた顔付きの電気技師」の様子から、将校は、電気技師が、あの美女に惚れこんでしまったことを指摘する。「なんという不幸な話し、何と言うお笑い種。技師は妻子ある身。どちらも、猫背で、そそけ髪で、退屈極まりない律儀な人たちなのだ」

汽車の車掌も、美女が立っていた辺りを眺めている。寝不足の中年男。人生の苦労の皺を刻んだ顔。自分の失われた青春、幸福、実直さ、清らかさ、妻子の面影などを、あの美しい娘に見出したのだろうか?

太陽は沈み、うら寂しい気分が垂れ込めていた。車掌は、車室に入って明かりをともすところで、短編は終わる。

本を引っ張り出して、批評しようと思ったら、抜書きになってしまった。

チェーホフは、かなり身持ちの固い人だったらしく、晩年のトルストイに女のことで、ずいぶんからかわれたらしい。汚れを知らない清らかな美少女趣味だろうか?世に言うロリータ趣味。清らかな美しい娘が、男を知り、女になり、美貌と才覚で男を振りまわし、骨抜きにする悪女に変身する女の妖しさについては、残念ながらチェーホフとは無縁だったのか。 彼には、続編で「美貌の悪女」を書いて欲しかったのだが・・・・・。

2006年11月23日 (木)

チェーホフから~「美女」その1

アントン・チェーホフ (ロシアの作家)  「美女」 (原卓也訳)

ロシアの作家チェーホフは好きな作家です。 それも有名な戯曲よりも彼が生活の為にチェホンテのペンネームで学生時代から書きなぐった短編が私の好み。ちくま文庫で全集が安く手に入りますが、とても全部を読んだわけではありません。彼が手当たり次第に書きなぐったように、自分は20代後半に手当たり次第拾い読みしただけです。

そして一番記憶に残っているのは、本屋で立ち読みした「美女」という短編です。 チェーホフは、ロシアの文豪トルストイやドストエフスキーとは比較になりませんが、生まれが開放農奴という低い階級出身でありながら、モスクワ大学で医学を修めた苦学生。 いろいろ苦労もあったのでしょうが、彼の魅力は普通の人を描写する眼差しにあるのだと思います。 そしてその行間から匂いたつ雰囲気と情感は独特です。 

「禅機に触れる」というのでしょうか、「生命の根源に触れる」ものがあります。ふっと、眼差しを落として、ため息をつく。そして、何事もなかった様に、生活に戻る。日本語にある「仕方ないという諦観」ということでしょうか?肯定もしなければ否定もしない。うーん、ちょっと違うか?うまく言えません。チェーホフにはいたるところ、このモチーフがあって、読み終わると、ウーン、とうなずき、黙ってしまうところがあります。 20代は、これで何度も「身動きできなくなる」ことがありました。 土曜日が休みだったりすると、夜から朝まで徹夜して読んだものです。 といっても一年に1度か2度、忘れていたことを思い出したようにです。

前置きが長くなりましたが、この「美女」に登場する2人の美女についてチェーホフの語りを見てみましょう。

一人目は、主人公が中学生の頃(10代の半ばか?), 祖父に連れられて、8月のある日、ある田舎の住んでいる村からドン川沿いにある大きな市へ旅行する途中でのアルメニア人の村でお茶を飲んで休憩した時に出会った、お茶屋の娘マーシャという美人です。 長旅、土ぼこり、暑さとけだるさでウンザリしていた主人公がはっとする。

「わたしは、コップをさしだした少女の顔をちらりと眺めやった。 と急にまるで、さわやかな風が私の心を吹きぬけて、今日1日の不快な印象を砂埃や退屈感もろとも吹き払ってくれたような気持ちをおぼえた。いつの日か現実に出会ったり、夢に見たりした数多くの顔の中で、もっとも美しい、目鼻立ちの魅惑的な顔を、私は見たのだった。わたしの前に立っていたのは、すばらしい美人だった。わたしは一目見たとたんにそれを理解した」

文中で主人公は言う。「彼女は本当の美人だった。だが、それを証明して見せることが、私にはできない」。

主人公は、「おさない感じを白い首や若々しい胸に残している、端正な古典美を持つ」美女が、自分にさっぱり注意を向けてくれないことに、腹立たしさと情けなさを感じる。 彼女の、満ち足りた「幸せそうな、傲然とした、一種独特な空気が、彼女と私を分け隔て、ねたみ深く私の視線をさえぎっているかのように思われた」のである。

しかし、しばらくすると、「自分自身のことなど次第に忘れ、美の感覚にすっかり見をまかせた。もはや、荒野の退屈さも砂ほこりも思い出さなければ、蝿の羽音も耳に入らず、お茶の味さえわからないで、ただただ,自分のテーブル一つへだてた所に、美しい少女がたっていることだけを感じていた」。

しかし、主人公は気づく。自分の美に対する感じには奇妙なものがあると。「マーシャがわたしの心に呼び起こしたのは、欲望でも、よろこびでも、楽しみでもなく、快くはあるが重苦しい淋しさだった。 この淋しさは、夢にも似て、そこはかとない、あいまいなものだった 。なぜか、わたしは、自分自身にも、祖父も、アルメニア人も、その娘のマーシャも、気の毒になった。 まるで、わたしたち、4人が、もはや2度と見出せない、人生にとって必要な、大切なものを失ってしまったような感じが、心の内にあった」。

80歳を越して、自然美や女性にはほとんど無関心な一徹者である祖父も同じような「淋しい思い」をしているのか、「ひっそりと黙って、物思わしげにマーシャを眺めていた」。

場面は、その後このアルメニア人の家族の生活振りを主人公が観察する描写が続く。 美少女マーシャはその都度「ふわりと風を匂わせて」素足で歩きまわる。自分の馬車の御者、荒くれの男もこのマーシャを見ると一瞬黙り込み、しばらく荷馬車のほうを無言で眺めやり、少女が通り過ぎて行ってしまうと、がっかりしたような声で。 馬を怒鳴りつける「えい、くたばりやがれ、畜生ども!」。そして、マーシャが美しい姿を何度もちらつかせるにつれて、「私の淋しさはますばかりだった」。やるせない視線を送る御者もあわれに思える。

「それが彼女に対する美しさに対する私の妬み心なのか、あるいは、この美少女が自分のものではなく、また決して自分のものになる筈もなく、自分なぞしょせん彼女にとっては赤の他人にすぎないことを、心惜しく思ったのか、それとも類まれな彼女の美しさも、かりそめの無用なもので、この地上のあらゆるものと同じように、たまゆらの生命に過ぎないことを、漠然と感じたのか、あるいは私の淋しさが、まことの美をしみじみと眺めていることによって人の心に生まれる、あの一種独特な感情であったのか。それは知るよしもない」

3時間の休憩後、一行は出発する。押し黙ったまま。そして2時間ほど経って、御者のカルポがポツリと呟く:「あのアルメニア人とこの娘は、いい娘でしたね!」。そして、ピシリと馬に鞭を当てる。

(続く)

2006年11月22日 (水)

世界カタコト辞典 ~ その2

If shit were valuable enough, the poor would have been born without asshole. 

(もしウンコが十分に貴重なものであるなら、貧乏人たちは、お尻の穴なしで生まれたであろう)

汚い言葉ですみません。しかし、人間の根源に関わる言葉です。普通、言葉にはしませんが、毎日付き合うものです。いろいろな瞬間に人は、この言葉 shit(ウンコ)を口にします。 私の記憶から、鮮明に残っている場面を列記すると:

1) ロンドンで仕事をしていたことの話。 中国系のイギリス人呉恵さん(実名です。発音はWai-Ling。 ワイリンさん、お変わりないですか?こんな場面で登場させてすみません)が、何かとSugar ! Sugar! Sugar! と語気強く発音するのを耳にした。 どういう意味?と聞くと、「ミスター・シミズ、わかるでしょ! 女だって、頭に来ることがあれば、ののしり言葉をつかうものよ」とのことだった。 つまり、クソッ!と言いたいのだが、女性がハシタナイ言葉は口に出来ないので、代わりにSugar!と叫ぶのだそうだ。 (人によっては、韻を踏むShoot ! を多用する人もいるようだ)。

2) フランクフルトの空港で。 出張で到着したばかり。 ビールが飲みたくて到着ロビーのパブでビールを一杯引っ掛けてたら、隣の憔悴した男のドイツ語が聞こえてきた。

Also, Lufthansa ist Scheisse ! (兎に角ルフトハンザは最低だぜ)という意味だが、どうも、安チケットでリゾートに出かけ、オーバーブッキングで予約を落とされ、ドイツに戻ってくるので大変な苦労をしたらしい。 Scheisseというのはドイツ語でウンコの意味である。英語のshitと同じ意味である。最初の文字が大文字だが、強調の意味ではない。 ドイツ語では名詞の最初の文字はいつも大文字なのです。

3)フランスはパリで、出張でマルセイユまで出かける朝。 オルリー空港までタクシーを拾って出かけた。 交通渋滞に巻き込まれて車が全然動かない。出発の時間が迫っている。運転手に腕時計を示して、急げ、急げと催促。 運転手が一言呟いた:Merde! これもフランス語でウンコの意味。 「クソッタレメ」とフランス語で苛立ちを表現したのであろう。私を侮辱したわけではない。

さて、最初の英文ですが、私は、東京駅のトイレで見たことがあるのです。たしか、1980年代前半のこと。お腹の具合が良くなくて、あわてて東京駅のトイレに駆け込んで安堵した直後のこと。ふと、何気なく落書きを見ていたら英語で書かれたのがあった。眼で追って読んでみて、思わずニヤリとしてしまった。傑作じゃないかぁ!感心しました。仮定法過去の絶妙な表現です。ナンセンスだが、思わずニヤリとして、そうだ、と頷いてしまう名言ではなかろうか?下ネタと言えばそれまでだが、形而下的なものが、形而上的なものに昇華されている。下品ではない。トイレの落書きでは傑作ではないだろうか?

2006年11月21日 (火)

憧れの野鳥「ウソ」と出会う!

19日の日曜日、大学の学生達と、北茨城に出かけた。先週末は、アメリカ人の留学生と日光研修旅行に同行したのだったが、今回は、中国人の留学生と一緒だった。2週連続の週末旅行である。

朝出かけるときに、ふと、思うところがあって、双眼鏡を用意した。午前中は、ガラス工芸の体験をしたのだが、学生達が熱中している間に、15分ほど外へ新鮮な空気を吸いに出た。 別に、予感があったわけではないが、近くでホオジロの地鳴きがした。 何か、出会いがありそうだな、と思った直後、聞いたことのない、フィーッという声が断続的に聞こえてくる。 ン? さては? ひょっとして「ウソ」じゃないだろうか? 口笛みたいな音。 よく訪問する地元のバードウォッチャーのブログサイトでも、昨日ウソを5羽観察したという情報を見たばかりだった。

心をときめかして、双眼鏡を取り出す。音源を探り当てる。最初は遠かったのでなかなか特定できなかったが、どうも、私の直感はあたっていて、あの「ウソ」のようだ。でも、確信が持てない。 もっと、こっちに来ーい、と思っていたら、何と、幸運なことに、やがて近くの枯れ木にやって来たのだった。 全部で3羽。 双眼鏡でしっかり捉えると紛れもなくあの「ウソ」だぁ!!! ウッソー!!! ホントー!!! 本当だった!!!やったぁ!!!

永年、是非見てみたいと憧がれていた野鳥である。すると、さらに幸運なことに、私が立ち尽くしている地点から10メートルくらいの至近距離の小さな枯れ木にやって来てくれたではないか!!! 心臓がバクバクするほど、興奮してしまった。至近距離での「ウソ」。何という幸運だろうか!!! 「ウソ」情報を聞いた翌日に「ウソ」に出会えるなんて!!!

残念ながら1分もしないうちに、またもとの木に戻り、1羽が飛び去ると、残りの2羽も後を追うように飛び去って姿を消してしまった。 後は、初冬の静けさの中に、私が一人ぽつんと残された。しかし、この「ウソ」君(帰宅後、図鑑で確認したら皆♂だった)と出会った事で、体一杯に幸福感が漲り、午後は、生憎の雨模様だったが、花園渓谷を約2時間半、美しい紅葉の中を学生達とうきうきしながら散策を楽しんだ。双眼鏡も持参したが、さすがに、野鳥たちの姿はさっぱりだった。

憧れの「ウソ」はこんな鳥です。

→ http://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/9.html

→ http://www.asahi-net.or.jp/~yi2y-wd/a-uta/uta-uso.html

2006年11月20日 (月)

私のヨーロッパ体験記 ~ その6

さて、話が支離滅裂気味になってきました。まとめです。私の体験を思い出すままに、メモを見ながら話してきましたが、

1)ヨーロッパというのは一つの世界で、他民族国家であること。言語も沢山あります。たまたま仕事の関係で、私は、ドイツ語と英語が仕事に差し支えない範囲で一応できますし、オランダ語は生活するに困らない程度に出来ます。フランス語はレストランのメニューが読めて注文が出来る程度です。それ以外にヨーロッパには沢山の言語があります。最近、密かに思うに、ヨーロッパというのは、中国と同じレベルの概念です。違いは、ヨーロッパは今、EUというまとまりに進化しておりますが、先にドイツとかフランスとかオランダとか国があって、それが、ヨーロッパという経済統合体にまとまりつつあること。(厳密に言うと、中世は今の国という概念はなかったようで、ヨーロッパのキリスト教共同体というおおきな単位があった)。中国の場合は、最初から大きな括りとして国家という枠があることでしょうか(北京を中心とする地域がドイツなら、上海周辺地域はフランス、広州地域はイタリアという感じではないでしょうか)? 突飛な飛躍と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、本学で少し前まで教えておられたxxxx先生の本を読んだことがあり、私はこの考えはあたっているとの思いを強めております。

2)30年前と比べて、日本文化というものの存在感は間違いなく、ヨーロッパでは高まったこと。文化というのは定義は難しいんですが、アメリカ文化(文明)というものを、American way of lifeと見なせば、日本文化(文明)はJapanese way of lifeと定義して良いと思います。食文化の普及というのもそのひとつです。特に、寿司については驚きます。 30年前の当時、生魚を食べるのは野蛮人だ、みたいにヨーロッパ人には思われていました(例外は、ノルウェーとか、南イタリアとか南フランス)が、今日では、ロンドンなどは寿司バーが沢山あって、握っているのは、日本人ではなく、ミャンマー人だとか、タイ人です!回転寿司もあります。デザートにドラ焼きがのってたりもします。ベルリンにも沢山すし屋があったのには驚きました。ベルリンで評判になっているというので行ったすし屋ですが、オーナーは上海出身の中国人で、出てきた寿司は、日本のすし屋で食べるのとまったく遜色がなく美味しくて、値段も安かった! 日本人の手を離れて、寿司という食文化が広がっているということ。余談ですが、ロンドンでもサラリーマンをしてましたが、北海では美味しい鯖が取れるんですね。で脂ののった鯖の塩焼きが美味しいですが、金融街に勤めるイギリス人も鯖の塩焼き定食を食べるのをよく見かけます。

3)マンガに戻りますが、フランクフルトの駅の本屋にマンガコーナーを見つけてびっくりしました。しかも、日本と同じ若者が一心に立ち読みしてるんです。これまた、新たな発見です。ミュンヘンの本屋にもマンガコーナーありましたし、以前、NHKのニュースでフランスでのマンガの浸透ぶりの報道も見ました。本物だと思います。若者の心を捉える新鮮さとメッセージ性があるということだと思います。

4)カラオケですが、これも、日本とはスタイルが違いますが、浸透しています。ロンドンの場合ですが、ある中華レストランでは、テーブル席の手前のバーにスクリーンが設置されていて、そこで、ロンドン子は歌合戦をやっています。テレビ番組もあります。ちょっと、日本の趣とは違いますが、男性チームと女性チームに分かれて、得点を競うという趣旨で長寿番組です。(2000年当時)。いわゆる、カラオケボックスははやらないようですが、こういうオープンなスタイルで好まれるようです。

5)そして、日本の作り出す製品というのが高品質で、信頼に値するという評価が浸透していることです。 製品の向こうに日本人そのものに対する信頼性というものもあります。ヨーロッパ人と付き合っていて心地よいのは、そういう意味で、30年前の保護者的な立場で日本人に接する人が姿を消して、対等な人間として話しているというのには感慨深いものを感じます。

最近、ベストセラーに「世界の中の日本人ジョーク集」というのがあります。 これだけジョークネタになるというのも、それだけ、注目されている証拠でもあります。私が20数年前オランダで聞いた日本人ジョークは以下のものでした。

無人島に漂着した二人の男性と一人の女性という想定:

ドイツ人の場合: 一人の男性が女性と結婚して、もう一人の男性が、戸籍係になる。

スペイン人の場合: 二人の男性が女性の取り合いで、決闘して、二人とも死んでしまう。

ロシア人の場合: 女性は好きでもない一人の男性と結婚して、3人とも何と人生はつらいことかと、皆で嘆き悲しみ、涙を流す。

フランス時の場合: 女性は一人の男性と結婚し、もう一人の男性と浮気する。

イギリス人の場合: 紹介してくれる人がいないので、3人ともよそよそしく打ち解けないまま終わってしまう。

日本人の場合: 本社にテレックスを打って、指示を仰ぐ

というものでした。日本人の会社人間振りを皮肉ったジョークです。このベストセラー本を覗いて見ると、「テレックス」が「携帯電話」になってました。e-mailでもいいと思います。当時はインターネットも携帯電話もありませんでした。オランダ時代は1984年ですから、ファックスが普及し始めた頃ですね。

                    

さて、私の人生はまだ終わっておりませんが、長い異文化交流を通して良かったと思うのは、日本とは違うものを触れることで、日本と言うもものを強烈に意識すること、自分とは、日本とは何かと考えること、又、自分を突き放して、客観的に見つめる視点を獲得したことではないかと思います。上で紹介したジョークはまあ、あたりさわりのないものですが、実は、ジョークには、相手の痛いところついた鋭いジョーク、皮肉、当てこすりなどもふんだんにあります。

多文化社会では、当然文化摩擦があるのですが、彼らはジョークを一種のガス抜き、笑うことでストレス解消してる部分があるようです。日本人も自分の滑稽さを自分で対象化して外国人と笑えるようになれば、もっと、外国人とのコミュニケーション(相手を理解し自分を説得する)が上達するのではないかと思います。 

以上で、私の話を終わりにします。 ご清聴ありがとうございました。

(終り)

2006年11月19日 (日)

私のヨーロッパ体験記 ~ その5

さて、写真ですが、2枚の町の風景が写ってます。これはドイツのリューネブルクという町で、1枚は1976年のもの。もう一枚は2005年にとったものです。1976年は友人のペーターさんのご両親に食事に招待されて出かけました。 

中世は岩塩で有名な町として栄えました。この町は日本とゆかりがあり、徳島県鳴門市と姉妹都市を結んでいます。第一次世界大戦で日本は日英同盟にもとづいて中国・青島のドイツ人と戦ったんですね。捕虜となったドイツ人捕虜が鳴門市に抑留されたのが縁らしいですが。又、近くには日本企業の工場もあって、地元の雇用に貢献しているそうです。

たまたま今回の話をするので写真を見ていたら、同じアングルで30年後にまた写真を撮っていたのでびっくりしました。景観はほとんど変わってないですね。 

次の写真はこのリューネブルクを訪問した前に通った、ハンブルク郊外のアルテスラントという町で、白い花はりんごの花です。ちょうどりんご祭りをしているところでした。リンゴで作った蒸留酒もあります。 もう一枚の写真は、北ドイツの農家の写真です。 わら葺き屋根ですね。 実は、私の母の実家の家ですが、15年前に築100年以上の年代もののわら葺き屋根の家を改築したんですが、そのわら葺き屋根の家が妙になつかしくなってとったものです。特に意味はないんですが、いいですね。自然の素材というのは。

そして、もう1枚は、現在の私に近い写真ですが、ベルリンで取ったものです。壁がなくなった後のベルリンです。それとアスパラガス料理です。これは春先にドイツでは良く食べる料理です。グリーンアスパラでなく、根っこのホワイトアスパラを湯がいて、バターソースをかけて食べるんですね。旬のものをシンプルに食べる、家庭料理です。 

最後の写真4点は、2003年秋のハンガリーはヘレンドという陶磁器で有名な町に行ったとき、ヘレンド製の食器で食べた昼食です。前菜は、グヤーシュというパプリカ(唐辛子)を使ったスープ、メインは、鹿のステーキ(10月、11月の狩猟のシーズン)柔らかくて、とても美味しいステーキで、赤ワインとよく合いました。ハンガリーは実は、ハプスブルクのオーストリア人=ドイツ語をはなすドイツ人がワインつくりを導入して、とても美味しいワインを造ってます。最後は、ラズベリーソースのかかったあまいデザートです。

30年前の貧乏学生では味わえないヨーロッパの料理です。実は30年前の貧乏学生のときは、工場で食べる毎回のお弁当以外は自炊してました。だいたいサンドイッチを買ってきて食べたり、焼きソーセージやポテトフライを食べてましたが、貧乏学生なりに、発見して病み付きになった料理があります。

ギリシャ料理で、スフラキという料理です。ドイツにはギリシャ料理屋がたくさんあって、ご飯が食べたくなると、当時は、中華かギリシャ料理なんですね。「スフラキ」というのは串に赤ピーマンや玉ねぎと豚や牛、羊の肉を刺してグリルしたものとお米の種類は違いますが、オリーブオイルであえたご飯と野菜の付け合せ(たいてキュウリとトマト)のやはりギリシャの家庭料理です。とにかく安かった。 お互いお金のないペーターさんとよくギリシャレストランに出かけてお腹一杯食べました。何度いったかわかりません。後で知った話ですが、このスタイルの食事はトルコとか地中海沿岸の地域では共通する食事スタイルで、はやり家庭料理なんですね。

パリで同じような体験をした友人は、チュニジア料理の「クスクス」で毎日空腹を満たしていたと言ってました。 クスクス料理をご存知の方いらっしゃいますか?これは、パスタを粉々にしたものに、羊と野菜のシチューをかけて食べる料理なんですが、パスタがシチューのスープを含んで膨張して、お腹にはいるとものすごい満腹感が得られます。 若い学生の見なさんが、ドイツかフランスに言ったら、是非、試してみてください。お金持ちになった日本人からすれば、どうってことない料理ですが、私は、機会があって、ドイツ・フランスに出かけるときは、かならず、一度はこの料理を食べて、若かりし頃の感傷にひたることにしてます。

(続く)

2006年11月18日 (土)

私のヨーロッパ体験記 ~ その4

いずれにしましても、2ヶ月は、あっという間に過ぎてしまいました。締めくくりは、ドイツ人の大学生・日本に興味を持つ一般社会人といっしょにベルリン・パリ・ゼミ旅行をしました。ドイツに散らばっていた学生がみな一端ドルトムントに集まり、ベルリン1週間、パリ1週間の旅行をしました。博物館めぐり、美術館めぐり、ジャズの生演奏を聴きにいったり、オペラ鑑賞、学校訪問などいろいろ体験しました。 

印象的だったのは、陸の孤島ベルリンから東ドイツを抜け、西ドイツのライン川を渡りドイツを抜け出て、フランスに入ったことです。風景がガラリと変わりました。色彩が変わるんですね。やわらかく、太陽がさんさんとして、ほっとする雰囲気になったのを記憶しています。パリは、ヨーロッパ大陸最大の都会です。そして、華やかさもあり、言葉も違います。食事が、これまた、段違いにおいしかった(朝食だけは、パンとカフェオレで物足りなかったのだが)。セーヌ川左岸のユースホステルに泊まりました。ここでは、チェコからやってきた学生と知り合ったり、カナダはケベック州(フランス語圏)からやってきた学生と知り合って、夜を通して語り合ったりした記憶があります。そして、強烈な記憶は、私がちょうどパリに滞在していたこの時にあの毛沢東が死んだことでした。

パリは、たった一週間の体験でしたが、その後、仕事で何度もパリには足を運びました。ドイツと比較すると面白いです。 

実は、今日、マンガにも触れてください、とのことで、フランスのマンガもって来ました。これです。 Asterixというマンガなんですが、これ、ヨーロッパのベストセラーです。私が持っているのはドイツ語版です。ヨーロッパの言語にはほとんど翻訳されています。英語版ももちろんあります。残念ながら、日本語訳はないみたいですね。

なんで、この話をするかというと、このマンガは、ヨーロッパの記憶のおおもと、ローマ帝国時代が背景になってるんですね。ヨーロッパ人は全てとはいいませんが、子供の頃からこれを読むんですね。フランスが中心なんです。シーザーとかローマ軍団は制圧者として描かれてます。ローマ軍に頑強に抵抗するゴール人(ガリア、ケルト人)というのがフランスの基層にあるそうです。フランスという国は、その後、ゲルマン人の一派のフランク人が君臨してゴール人と混じって出来たのが今のフランスということらしいです。

ちなみに、ドイツは同じゲルマン部族のフランク人の末裔なんですが、ローマ帝国に占領されず、ローマ化=文明化が遅れた地域だったんですね。今日でもフランス人から、ラインの向こうは、野蛮人と揶揄されることがあります。

で、Asterixのマンガでは、ドイツやフランスやイギリスやベルギーやギリシャ、コルシカ島やいろいろな国への冒険譚がおもしろおかしく描かれて、最後はかならず主人公が笑うハッピーエンドの物語です。国民性の比較というのが随所に出てきて笑わせられます。ドイツ人は田舎者として笑われています。

読んでいて面白いのは、あと、ラテン語の成句が出てくることです。皆さんは「賽は投げられた」というのをご存知だと思います。日本で言えば、古典漢文の名言でしょうか?「水魚の交わり」とか「三顧の礼」とか、三国志とか中国の古典にはいろいろ名言ありますね。それと、同じです。 ですから、マンガの中の国名も、ラテン語表記です。 

みなさん、ここで、ちょっとクイズです。このマンガで出てくる国名つまりラテン語を言いますので、現在のヨーロッパのどの国か当ててください。当たっても、賞品はありませんが・・・

まず、ブリタニア。 さあ、どこでしょう? これは類推できまそうですね。(答えは「イギリス」)

それでは、カレドニア、これは? (答えは「スコットランド」

ヘルベチア は? これは難しいですね。 答えは、これはスイスですね。スイス発行の切手なんか注意して見るとHelvetiaって書いてあります。

じゃあ、最後に、ルーテチアは? これは国ではなく、ヨーロッパのどこかの都市なんですが、これがヒントです。 どなたか? (パリのことです)

ついでに、ロンドヌムは?はい、これは、ロンドンのことですね?ローマ軍団はドーバー海峡をわたって、ロンドンはおろか、スコットランド(カレドニア)のほうまで行きました。ロンドンのシティーには、当時のローマ軍の砦の後がまだ残ってます。

(続く)

2006年11月17日 (金)

私のヨーロッパ体験記 ~ その3

職場での体験はそれなりに勉強にもなり楽しいものでしたが、やはり、何といっても、いっしょに遊んだ学生たちとの交流です。工場は、16時には仕事が終わります。日が沈む22時までの6時間は外は明るいんです。たっぷりと時間がありました。若くて、元気でしたら、遊び歩きました。付き合ったのは、工科大学に全ヨーロッパから集まる私と同じような学生たちです。定期的な集まりがあり、仲良くなる機会がありました。

国籍をあげて見ます。ドイツ人、ポーランド人以外に、韓国人(よく喋る青年でした。韓国の人というのは、積極的でどこに行ってもアクティブです)、スイス人、オランダ人、イタリア人、アメリカ人、ユーゴスラビア人、フィンランド人、スウェーデン人、エジプト人、フランス人、ノルウェー人、カナダ人、パキスタン人、オーストリア人、イタリア人と仲良くなりました。何ヶ国ですかね。16カ国、自分も入れて17カ国ですか。すごいですね。皆が皆、職業訓練体験と語学の勉強でハノーバーに集まってきて、こうやってドイツ語を介して、楽しむんですね。 少し、紹介しましょう。

特に仲良しになったのは、例のポーランド人なんですが、その友達の女性3人が全員バルバラと言いまして、ポーランド人の女性にはバルバラが多いんですね。3人もなかなかチャーミングな美人でして、気後れしました。が、一緒に映画にいったりしました。ポーランド人というのは何かと親日的なんですね。それで、周りが、ポーランドは美人の産地なんだ、と教えてくれました。ドイツ人はみな体が大きいんですが、ポーランド人は皆小振りなんですね。見た映画はよく覚えてます。フェデリコ・フェリーニ監督の「アマルコルド」やブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」を見ました。 

それから、ギリシャ人ですけれど、これがまた男ばっかりで、5人くらい友人がいたんですが、3人が「ヤーニ」と言うんです。英語のジョン、ドイツ語のヨハンです。アテネの町を歩いていて、石を投げて、誰かに当たる。痛い、といわれたら、ごめんね、ヤーニ、と言えばいい、というジョークがあるそうです。ハノーバーの市内の湖によく皆で水泳に出かけたものです。それで、ギリシャ人なんですが、ギリシャ彫刻とは趣が違って、どうも、印象が、トルコ人と似ているんですね。後で知ったことですが、現在のギリシャ人というのは、ローマ帝国時代を経て、その後の長い歴史、特に、オスマントルコの長い支配を受けたりして、血の混合があって、今日の姿になったということだそうです。

スイス人は、ニコルと言いまして、知ってる方もいると思いますが、スイスはドイツ語圏とフランス語圏とレトロマン語圏の3ヶ国語が共通語です。彼は、フランス語圏出身で、ドイツ語にはものすごいフランス訛りがあり、とてもチャーミングに聞こえて、女性に人気がありました。

ユーゴスラビア人は、髯を生やして、キューバのカストロにそっくりで、カストロとあだ名されていました。今回、この話をするに当たって昔の写真と手紙を見てたら、かれは、スロベニアのリュブヤーナ出身だったことに気づきました。ユーゴスラビアはなくなってしまいましたね。当時はまだチトーさんが生きていて、独自の社会主義路線でソ連と距離をとり、西側諸国とも交流があったんですね。彼には、「インターナショナル」という歌を教えてもらいました。今でも、私はドイツ語で、歌詞を覚えていて歌うことが出来ます。

フランス人は女性のモニカ。写真に写ってますね。ピンクのパンタロンはいてます。9月に帰国した直後、当時のソ連の空軍パイロットがミグ戦闘機で日本に亡命した事件があり、フランスの彼女から問い合わせの手紙をもらい、返事を出した記憶があります。

これは、ベルリンのゼミ旅行ですね。写真には、ポーランドのバルバラの一人も写ってますね。ちょっと太めですね。それと、アメリカ人のキャサリンです。彼女は、ベルリン旅行参加者の中では一番の美人で、男性学生は皆で彼女の気を引こうとやっきになってました。誰も失敗しました。平等に付き合ってくれまして、私も2時間ほど、ベルリンの目抜きとうりを腕を組んで散歩しました。ブランデンブルク門の前の壁です。もうありませんが。 階段で撮っている写真には、他に、オランダ人、彼の名前は忘れてしまいました。宿舎で、アメリカ西部劇ドラマ「ボナンザ」をビールを飲みながら見て、話し込んだ記憶が残ってます。それと、エジプト人のモニー。 彼女は、エジプトの裕福な家の出で、カイロのドイツ学園を卒業してましたから、ドイツ語は一番よく出来ました。 利発な人で印象に残ってます。

それと、フィンランド人のガールフレンドが出来まして、いい思い出を作りました。写真はここにはありません。秘密です。ヘルシンキから電車で1時間くらいのヒュビンカというところの出身で、北欧人らしく、真っ白な肌、金髪に青い目でした。 が、北欧でもフィンランドは北欧人とは違ってました。フィンランド語はヨーロッパの言語とは隔絶してまして、話によるとウラルアルタイ語の仲間で日本語とは遠い親戚にあたるという話でした。少数民族のラップ人は狩猟民族で蒙古斑が出るそうです。ハンガリーなんかもそうです。それで、お互いに親近感を持ったのかもしれませんね。彼女は、黒澤明の映画や、生け花とか日本文化も知っていたのも親しくなった原因だったかも知れません。 

 

それから、ルームメートですが、最初はオーストリア人でしたが、その後、なんと、パキスタン人でした。彼は、パキスタンからやってきた労働者で、経験なイスラム教徒でした。パキスタン特性のカレーをご馳走になったり、コーランを詠唱しながらメッカに向かって祈る姿も一度見せてもらいました。

写真でツーショットで写っているのは、ステファニーというドイツ人の女子学生で、数学専攻の子でした。背景は、何と、フランスはパリの郊外のベルサイユ宮殿のお庭です!

(続く)

2006年11月16日 (木)

私のヨーロッパ体験記 ~ その2

さて、ハノーバーの2ヶ月ですが、私にとっては、とても楽しい経験でした。1976年は、記録的に暑い夏(最近、異常気象でヨーロッパは35度とかになって亡くなる方が出るくらいですが)でした。ドイツの緯度はずーっと日本の北で、夏は、朝は4時前に日が昇り、夜は22時近くまで太陽が輝いています。空気が乾燥していて、日本のような湿気はなく、熱帯夜というのはありません。すごく、心地よい季節なのです。

当時のヨーロッパでは、たまに、経済記事で日本の経済の成長振りを伝える程度で、いわゆる文化も含めて日本というのはまだよく知られていなくて、新聞を読んでも記事にでることは滅多にありません。唯一、記憶があるのは、当時の首相田中角栄氏がロッキード疑惑で逮捕されたことでした。 

若かったですから、すべてが新鮮で日本のことなど忘れて、集まった若者たちと定期的に大学に集まって、ブレヒトの「三文オペラ」を見に行ったり、「ハーメルンの笛吹き」で有名なハーメルンの町に出かけたり、34日のベルリンゼミに旅行に出かけたり、真夏で暑かったですから湖には友達とよく泳ぎに行きました。

そこで知り合ったドイツ人学生が写真のペーターさんです。当時30歳。すでに離婚経験者で、大学に戻って教育学を勉強しているということでした。左隣にいるのがリシャで、ポーランドはポズナン出身で、一番気があって、ペーターさんがアルバイトしていた「裸足」というパブ、ドイツでは「クナイペ」といいますが、よく落ち合って駄弁ってました。

リシャは、日本のゼロ戦はすばらしい、日本のことをいろいろ褒めてくれまして、私は、とても気持ちよかったのを記憶してます。そして、二人でドイツ人の悪口などをいったりして、笑ったものです。 というのも、ドイツ人というのはやはり大国意識、先進国意識が強くて、周りの国の人たちを下に見るんですね。 表立って不愉快な思いをする、ということはなかったんですが、そういう態度をすることがあります。日本人としては、まだ、当時は戦争の記憶があって、同盟国というのもあったのか、私は不愉快な思いをしたことは実はありませんでしたが。 

ある日、ハノーバーの市電の停留所で電車をまっていると、白髪の初老の男に「日本人か?」と話しかけられ、「広島の原爆の話」になり、いろいろとたいへんだったなぁ、という親切にしてもらった記憶もあります。何年かあと、大学を卒業してしばらくして、オランダはアムステルダムで研修で1年いたんですが、そのとき、あるパブでビールを飲んでいたら、となりに、やはり初老の男が座ってきて「日本人か?」と聞かれて、「俺は、戦争捕虜で福岡にいたことがある」と言われたこともありました。一瞬、何をいったらいいのか困りましたが、相手は、とても友好的で、ビールで乾杯、お互いに一杯ずつおごりあって別れました。海外にいるとこういう出会いと別れもあるんですね。まあ、余談です。

それで、2ヶ月間、工場で働いたんですが、螺旋なんかを加工する工場で、写真に写っているのはオーナー社長のミュラー夫妻です。大変お世話になりました。ドイツは働く時間が早いですね。毎朝6時に起きて、市電でLangenhagen(空港のそば)まで出かけて7時から仕事が始まりました。私は、仕事の補助をいろいろやりました。 9時ごろになると、休憩がはいるんですね。30分くらい。みんな、黒パンとブレーチェンという小型のフランスパンみたいなものにハムとかチーズなんかを挟んだサンドイッチを食べながら休憩したり、トランプ遊びに興じたりしてました。 

休憩が終わると12時まで仕事。そしてまた1時間休憩。私は、お弁当をとってもらいました。 ドイツにもあるんですね。毎回、ドイツ料理を食べてました。マッシュポテトに豚肉とか鶏肉とか牛肉と野菜が付け合せのシンプルなものです。時々、ソーセージとザワークラウト(酢漬けキャベツ)なんかもありました。量も多いし、美味しかった。ドイツ料理というのは実はなかなか美味しいです。フランス料理のような洗練はないんですが、家庭料理です。お袋の味です。おししい。当時は若かったですから、豚肉とジャガイモでも問題ない、と大いに思ったものです。ただし、問題は飲み物。水道の水は飲めないんですね。硬水というやつですね。それで、炭酸入りの水を飲んでました。最初は、なんだ、これ、という感じでしたが、毎日肉食していると、妙に、旨いなぁとおもう瞬間があって、それで病み付きになりました。普通の日本人のお腹というか食生活だと、絶対駄目ですね。炭酸のない、プレーンな奴ですね。 

食事はともかく、工場で印象に残っているのは、いわゆるGastarbeiter(お客さん労働者)がいて、親切にしてもらったことですね。トルコ人、スペイン人、ポルトガル人、イタリア人、イラン人、パキスタン人、韓国人(女性で、病院の看護婦が多い)、ギリシャ人、ユーゴスラビア人たちが多かったようです。 だいたい、単身赴任でやってきて、母国の家族に送金してました。 私の工場の場合は、ユーゴスラビア人でした。

 

彼らは、訛りの強いドイツ語を喋ってまして、よく聞き取れなくて困りました。 一緒に物を運んで、「さあそれをおろして」、と言われても、最初は分からなくて、ぽかーんとしたりしてましたが、怒鳴られることもなく、ラッキーでした。

(続く)

2006年11月15日 (水)

私のヨーロッパ体験記 ~ その1

10月終わりに大学の学園祭があって、学生の企画で自分の異文化体験を話す機会があった。 以前のブログで、「二十歳のころドイツ」で、というのをアップしたけれど、それを思い出して原稿を作り、30分ほどの発表をした。 結果は? よく分からない。 今の若者にとって、異文化とは言え、ヨーロッパというのは、遠い存在でしかないのかも知れない。

大学の語学履修にしても、英語の次が、中国語であり、その次が韓国語が多い時代である。 フランス語、ドイツ語は凋落してしまった。 かつての教養語という地位はもう失われてしまったのか? 私にとって、ドイツ語とは、ヨーロッパの教養人が言うギリシャ語であり、英語とは、ラテン語である。 単なる語学屋で勉強したのではない。 Z会の通信添削も夢中でやったけれど、真剣に英文和訳をやって、日本語を鍛えたものだ。 ドイツ語だと、やはり難解な哲学書に挑戦したりして、脳みその訓練をしたものだ。 以下、その講演まがいを6回に分けて、恥を忍んで紹介してみよう。 (写真掲載は、ご勘弁ください)。

ただ今、xxx先生がお話になりましたアメリカのお話に続きまして、お話させていただきます、国際センターのxxxと申します。 私の今日のお話は、アメリカの対比としてのヨーロッパ、それも、自分のドイツ体験、学生時代の3ヶ月のドイツでの語学の勉強や、留学生との交流体験や、その後の民間企業でのビジネス経験などを経まして、ずーっとヨーロッパと関わって来たことなどを、19枚の写真スライドショーで辿りながら、簡単にお話させていただきたいと思います。 大した話は出来ませんが、私のドイツ体験とその後のオランダ、イギリス体験を踏まえて、多国籍の学生との交流、工場での体験、食生活などのトピックに焦点をあてながらの、私というフィルターを通してのヨーロッパの紹介、それも、ドイツ風の、という留保がついた個人的なもの、という位置づけでお話したいと思います 企画しました、学生の皆さんから、マンガのことなんかも触れてほしいとのことなので、それについても触れます。

今ご覧になっている写真は、19766月後半のコペンハーゲンです。二十歳のことでして、当時、すでに日本は先進国の仲間入りに入っておりましたが、そう簡単に海外に行ける時代ではなかったように記憶しています。 バックパッカーが、定期航路で横浜~ナホトカ、その後、ウラジオストック経由、シベリア鉄道で、モスクワ経由北欧に入ってアルバイトして・・・というヒッピースタイルの旅行はありました。

当時、1ドルはまだ350円、アメリカに行ったとしても、物価は今の3倍近いんです。

今はユーロとなってしまったドイツマルクですが、当時1マルク=140円くらいだったと記憶します。 円が最強だった頃は、60円を切ったこともありますから、まだまだ、ヨーロッパは日本から言えば、見上げる国でした。

本日いらっしゃる皆さんの中で、ヨーロッパに旅行とか留学とか何らかで行かれたことのある方はどれくらいいらっしゃいますか?日本という位置から考えるとヨーロッパはやはり遠いですね。私が始めてヨーロッパに出かけたのは1976年ですから、今から30年前です。 日本人にとってはまず、アメリカがあり、そして中国を始めとするアジアの国々というのがより身近な外国という意識だと思います。

全国から集まった約15人ぐらいのドイツ語を勉強する学生が、羽田空港からモスクワの経由(10時間)、給油トランジット後、さらに6時間で、最初に到着したのが、夕方の霧の中から現れた絵のように美しいコペンハーゲンでした。レンガが美しいんですね。私の最初の海外です。 1泊して、それからとことこ電車に乗って、ユトランド半島を下ってドイツに入りました。夜行列車です。途中、私たちは、フィリピン人に間違えられたり(ヨーロッパ人にはアジア人は区別がつかないんです)、荷物の置き引きにあって慌てふためいているドイツ人女子学生に遭遇したり、断片的なことを覚えています。ラジオをつければ、ドイツ語とかデンマーク語の放送が流れていて、心が時めきました。ああ、外国に来たんだなぁと。

ホテルで始めて朝食を食べてまず驚いたのは、パンが食パンじゃないこと。いろんな種類のパンが山ほどあるんですね。それから、ハム、チーズがすごく美味しいこと。朝食だというのに、沢山の果物、ジュース類があって、当時の貧乏学生からすれば、豪華な夕食に思えたほどでした。ヨーロッパは豊かだな!というのが第一印象でした。

オランダと当時の西ドイツの国境、北ドイツ西にオスナブリュックという町がありまして、そのちかくの村の研修施設で2週間の集中語学ゼミに参加しましした。次の2枚の写真は、そのとき親しくなった現地の若者です。大学生とか日本に興味のある若者たちと一緒に研修施設に泊まりこみで、ドイツ流の生活を体験しながら、勉強しました。マンフレッド君と言って、高校を卒業して、実務学校(職業訓練を受けながら、学校でも勉強する)コースの生徒でしたが、気があって、仲良くなりました。聞く・話すというコミュニケーション能力がまだ十分でないので、子供と仲良くなってよく遊びました。ちょうど釣り合うレベルなんですね。肩車にしたり、卓球したり、近くの川で泳いだり、サッカーをしたり、記憶が蘇ってきます。

生活とか基本的な言葉にも2週間で慣れたところで、参加者は皆ばらばらになり、みなドイツ中に散らばって2ヶ月間、オペア(ホームステイだが、家事の手伝いをしたり、子供のベビーシッターをしたりして、実質無料でドイツ人家庭に滞在する)、私のように、ハノーバーの工科大学に登録して、工場で労働体験(語学学習が目的)をしたりということで別行動になりました。 単独行動です。2ヶ月間、まったく日本人と離れて一人での生活です。 全て自己責任、心細さもありましたが、何といっても、「あの時君は若かった」、意外と平気で、駅で切符を買って、早朝に、電車にのり、いまやはっきり覚えてませんが、乗り換えも無事済ませて、昼過ぎには、ハノーバーに一人到着しました。出迎えがあると聞いていましたが、誰も迎えに来てませんでした。 日本では考えられないことです。すこしうろたえました。 

まずは、お腹がすいたので、駅の近くのウィーナーバルトというチェーンレストランに入って、ウィーナシュニッツェルというのを注文してお腹一杯にして、それから、徒歩で、宿泊施設まで行きました。ドイツでは徒弟制度というのが確固としてあって、そういう修行者たちが宿泊する施設が各地にあるんですね。Kolpinghausって言うんですけれど。で、住所を頼りに到着したんですが、どうやって中に入っていいのかわからない。扉が開かないですね。押しても、ひいても、叩いても。 今でもよく覚えています。途方に呉れてしばらしていると、中からたまたま人が出てきて、入り方を教えてくれました。建物の入り口の右手にボタンがあるんですね。それを押すと誰ですかって、フロントの人が出て、名乗ると、自動ドアになっていて空けてくれるんですね。 びっくりしました。 こういう次第でやっと中に入って、チェックインを済ませて、部屋に入ることができましたが、緊張した、ながい長い1日で、今でも鮮明に覚えています。 

ところで、昼食で食べたウィーナーシュニツエルというのは、もともとはイタリアはミラノの名物料理(コットレッタ・ミラネーゼ、ミラノ風カツレツというもの)を、ハプスブルク帝国領時代(イタリア北部はオーストリアの領土になっていた。北イタリアには今でもドイツ語を話す人がいるんです)にオーストリア人が旨いと思ってウィーンに持ち帰って広めた料理なんですが、私にとっては、ハノーバーのチェーンレストランで食べた初めての料理だったんですね。 とりたてて、大騒ぎするほどの料理じゃないんですが、空腹にまずいものなし、美味しい食事の記憶として、今でも鮮明に覚えてます。

(続く)

2006年11月 8日 (水)

雑木林での夢想 ~ その1

職場では、BBCニュースが一日中流れている。 今日は、朝から、アメリカの中間選挙速報が流れている。 騒がしい。 さすがの共和党も、失速して、今回は民主党が挽回しているようだ。 アメリカの留学生によれば(彼らは皆カリフォルニアの出身)、民主党支持者で、今回は、必ず民主党が勝つそうだ。 自分たちも支持している、と自信の程である。

私には、関係ないことだ。 井上陽水に「傘がない」というイイ歌ががあったなぁ~。

朝から、不機嫌なのだ。 バイオリズムが悪いのか? 職場の女性に、虫の居所が悪いでしょう、と見抜かれてしまった。 言動の端々にイライラ振りが出てしまうのだろうか?男だって、生理(精神の生理)はあるのだ、と言いたいのだが、女たちは、煩い。 とてもよく気がつく。 彼女たちがいないと仕事が流れないのも事実である。 

昼休みは、また近くの雑木林に出かけた。 昨日は昼過ぎから風が強かった。 そして、夜は今年初めての木枯らしが吹いた。 帰り道は、体が震えるほど冷たい風に吹かれた。 帰宅すれば、ニュースで北海道では竜巻で9人が命を落としたという報道。 何と運の悪い9人だろうか? 冥福を祈りたい。 仕事の打ち合わせ会議をして100メートルも飛ばされて命を失ったという。

さて、アメリカである。 私は一度もアメリカに行ったことがない。 物心ついてからの自分を思い出すと、アメリカの影響なしには考えられない。 アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ。 ドイツ語を勉強してヨーロッパにのめり込んだけれど、結局、遠い遠い回り道をして、今、アメリカについては猛烈に勉強したくなっている。 でも、なかなか、いい入門書がない。

トクビルの「アメリカの民主主義」は古典に上げられているけれど、何度読もうと取り組んでも挫折してしまう。 中屋健一氏の「明解 アメリカ史」も時折紐解くのだが、もうひとつという感じだ。 インターネットでアメリカ関連の本を検索すると山ほど出てくるのだが・・・。

決定版がないのだ。 アメリカは中国と同じで「ひとつの世界」であろうことは、なんとなく想像がつく。 自宅に貯め込んでいた本の中に、批評家江藤淳氏の「アメリカと私」がある。1960年代のアメリカ。それも、プリンストン大学での体験にもとづいた本だ。 しっくりこない。 さすが、江藤氏の話には、氏の才気が感じられる鋭い指摘もある。 しかし、アメリカの本質?はなかなか見えてこない。 

高校生のころ、小田実氏の「何でも見てやろう」に熱中した。 海外への憧れを掻き立てられた本である。 とてもいい本だと思う。 この本が扱う時代は、アメリカの絶頂期1950年代後半のころの話だ。 司馬遼太郎氏の「アメリカ素描」というなかなかいい本もある。 しかし、皆、直感で体当たりして、鋭い指摘はあるけれど、個人の体験の枠を出ていない。 

アメリカに住んだことのある人が、アメリカに行ったことのない私があれやこれや言うと、お前に分かるわけがない、というようなことを言われたことがあるが、そうだろうか?アメリカにずーっと住んでいても、アメリカが何なのかさっぱり分かっていない人は、当のアメリカ人も含めてゴロゴロいる。 一人ひとりの体験がそれぞれアメリカのイメージを持つことは間違いではない。 それらをひっくるめて、アメリカで起こっていること、個々の体験から、政治の意思決定まで含めて、総合的にアメリカとはこうなんです、と説明する何かを私は知りたいのだ。

小室直樹氏の「アメリカの逆襲」を見ると、「アメリカの強さの本質とは、国民の4割が人間は死なないと信じている(ファンダメンタリズム=キリスト教原理主義者)宗教国家であるという事実、人類史上はじめて社会契約で出来た国であるという歴史にある」 - これが日本人には絶対見えない謎であるという。 アメリカの政治とは「神政政治(テオクラシー)と人間政治(デモクラシー)」との間の激しい緊張によって生まれた独特のものだそうだ。

国家というのは普通自然発生するものらしい。 一つの宗教、一つのイデオロギーが生んだ人造国家、これがアメリカである。 これと比較できるのは、新約聖書が生み、パウロという天才が育み育てたローマ・カトリック教会と資本論が生み、レーニン、スターリンの天才が育てたソ連(もう崩壊したが)があるのみだそうだ。 この3者は類似点はまったくないのだが、アメリカを真に理解しようとすれば、3者の比較分析によって可能であろう、と言う。 誰か、やってくれないものだろうか?

私の直感で言うと、アメリカは確かに限りなく自由な国である。いろいろな人から話を聞いたり読んだりしたものを総合すると、選択肢の幅が広いのだ。 やろうと思えば、何でも出来る。 すべて、自己責任。 失敗するのも自由。 そして、現実は大方が失敗する。 ほんの一部の成功者=既成勢力と稀な成り上がり者と多くの貧困層。 グローバリズムの成れの果て。 こういう言い方は、すでに価値判断を含んでいて、ネガティブに言っているように取られるかもしれない。 

アメリカの政治だが、「世論」に左右されながら、その時の「ある勢力」が国を乗っ取って、好き放題のことをする、ということだろうか? 「世論」が足かせになっているが、一端「世論」がOKすれば、イラク戦争のような滅茶苦茶なことも出来るわけだ。「ある勢力」とは、やはり、「世界の資本が集まるアメリカにとって、その利益を最大限上げるような組織体の当事者と関係者」と言えば良いのだろうか? 世界の資本は一端アメリカに集まり、そこから全世界に再投資されているのが現実である。

真昼時の雑木林周辺は、誰も居ない。 静かだ。 相変わらずカケスが元気に飛び回っている。 ヒヨドリの数もめっきり増えた。 シジュウカラに混じって、ヤマガラの姿も見える。一度など、数メートル近くまでやってきた。 私は石のようになって、じっとして、観察する。お弁当を食べて、ぼーっとしながら、いろいろな想念が頭の中を流れていく。 

昨日寝る前に、ベッドの中で少し読んだ、江藤淳の「文学と私」の文章が浮かび上がる。戦後、サルトルを読んでいたこと。「嘔吐を読んだとき神経症気分の表現が哲学的厳密さの表現に使われているのを見て、ヒントを与えられた」こと、「音楽(ラグタイム)が救いになっているのも気に入った」こと。しかし、「サルトルには少し下品なところがあると感じていた」こと。 江藤淳氏の本など読んだことがなかった。 たまたまダンボールの中の本を整理したら、出てきたので手にしただけなんだけれど。 最近は、さっぱりフランスものは手にしていないな。 今読みかけなのは、ジュリアン・グラックの「シルトの海岸」ってやつだったな。 これって、ドイツの作家ユンガーの影響を絶対受けていると思うのだが。

頭の中では、いつの間にか、先週、東松山で飲んだカラオケパブのママさんの歌が鳴り響いている。 中国語の歌なのだが、そのメロディーが実に美しかった。 頭に取り付いて離れない。 仕事中も、風呂に入っているときも、何度も蘇ってくる。 そういえば、中国の本で、ヨーロッパの小説とか日本の小説のようなものが全然ないな、読んだことないな。 魯迅とか林語堂とか読んだことあるけれど、その後の世代はずーっと空白だ。そういえば、「上海ベイビー」というのは読んだことがある。 私より、一回り以上若い世代で、上海でドイツ人の愛人体験をもとに書いたなかなか出来た現代小説だった。

私の憂鬱、苛立ちは一向に解消されない。 雑木林の中を昨日ほどではないが風が吹き抜けて行く。 13時近い。 トボトボとキャンパスに向かって歩き始める。 雑木林を出たところで、ヒッ、ヒッ、ヒッというジョウビタキの声。 電線を見上げると、美しいオスのジョウビタキであった。

2006年11月 7日 (火)

東京で、両親を「鉄板焼き」でもてなす ~ ステーキ編 その1

ステーキは何と言っても大好きである。 子供の頃の記憶を辿れば、始めてステーキらしいステーキを食べたのはいつ頃のことだろうか? 関東は豚肉が主流である。 肉じゃが、といえば、豚である。 関西は牛らしい。 子供の頃のステーキといえば、ポークソテーのことだった。 大学時代は、牛とは無縁に(マクドナルドのハンバーガーは別)、ひたすら、豚肉のしょうが焼きとポークソテーを食べたものだ。 

すくなくとも、私にとっては。何千円もする牛ステーキは社会人になってから覚えた贅沢だと思う。社会人になってすぐ、先輩と一緒に松坂牛のステーキを食べたのは忘れられない。今でも鮮やかに記憶に残っている。 牛ステーキはこんなに美味いのか! 鉄板焼き、韓国風の焼肉、英国風のローストビーフ、オランダで病みつきになったTボーンステーキ、パリで味わったアントレコット(つまり、サーロイン)、イタリアはフローレンスで味わった700グラムのビステッカ・フィオレンティーナ、 記憶を辿っていくと、いろいろおいしい記憶が蘇ってくる。

先日、両親を連れて東京に出かけた折り、鉄板焼きを食べた。 昭和初期の生まれの両親は贅沢が出来ない。 たまに、牛肉を食べるといえば、スーパーの大安売りでくず肉を買って来てのすき焼きならぬ、牛丼まがいを作ってみたり、海老を食べようと思えば、大振りのものを買ってきてお腹一杯食べればいいのに、小振りのものを申し訳程度に買ってきて、つい最近もパエリャなるものを食べたのだが、どこに海老があるのか?と文句を言いたくなるくらい、つましいのである。 コレばっかりは、生まれ育った環境が体に刷り込まれて、贅沢が出来ないのだなと諦めた。

とは言え、自分の懐とは関係なければ、やはり、人間である。 一人15000円!!!!!、税金・サービス別の鉄板焼きをペロリと平らげ、おいしい!と喜んでくれた次第である。 都内のレインボーブリッジを望む某ホテル最上階のレストランで夜景を眺めながらの鉄板焼きフルコースである。 こんな贅沢をするのも、現金には換えられない旅行券で、期限切れ前日という特別な事情があったからこそ出来るものである。さすがの私も、現金だったら・・・と思ってしまう。(金額を書くなんてハシタナイと思われる方もいるかと思いますがご容赦願います。田舎の普通の庶民の束の間の贅沢なんてこんなものだのです!)

18時過ぎ、高層階のデラックスルームで、お風呂に入って禊を済ませ、十分くつろいだ我々は、まだ誰も居ないと思った三十階のレストランに入る。 すでに、品のよさそうなオバサマ達3人トリオが、食事を始めていたのにはびっくりした。 両親は少し緊張していたが、東京湾の夜景を見て、リラックス。 白装束のコックさんの前のテーブルカウンターに着席した。

第一ラウンドは、ムール貝と牛肉の佃煮とキノコのマリネ。 前菜である。 ワインと熱燗とウーロン茶で乾杯して、食事は始まった。 

第二ラウンドは、魚介類のメニューである。 帆立貝と海老が出てきた。 目の前で担当のコックさんが、鮮やかな手つきで、海老の殻を取り、背綿を取ったりして、最後は、シェリー酒とバターに檸檬を絞ったソースを作ってくれて、お皿に美しく盛り付けてくれた。 これだけで絵になるような、そんな技である。 これまた、あっという間に胃袋に収まる。 我々は、無言で、ただひたすら食べる。 

そして、第三ラウンド、いよいよ、ステーキの登場である。 母は脂身を避けたいということでヒレステーキ。 父と私は、サーロインを選んだ。 隣の席に北欧出身らしきビジネスマン男3人がやってきて目で挨拶して着席した。 肉の焼き方は、母がウェルダン、父がミディアムレアー、私がレアーということで決定。 目の前では、ステーキを焼く前に、美しく下ごしらえした、エリンギ、玉ねぎ、サツマイモ、茄子が、またまた鮮やかな手つきで見事に調理されて、用意された。 お塩や、トマトと玉ねぎのソース、それからポン酢と薬味が容易されて、いろいろな味を楽しみながら、賞味した。 上品な味である。

隣の外人だが、母の目の前で、イセエビを焼き始めた。 この野郎! 負けてるぜ・・・と思いつつも、やがて、ステーキがコックの見事な手さばきでサイコロステーキ風に調理されて食パンをひいた皿にキレイに盛り付けられて出てきた。

3人ともうっとりして、ステーキに舌鼓を打つ! 美味い! 言葉も出ない! 牛肉の銘柄はどうでもいい、特選国産牛としか知らないが、柔らかくて、口の中でとろける。 母はあっという間に平らげてしまった。 驚くべき食欲である。 75歳である。 80歳になったばかりの父は、小食である。 5切れほど食して、残りは、私が食べることに。 モヤシと脂身をカリカリに焼いてくれたものが出てきて、それから、ガーリックライス(母はニンニク・チャーハンと理解していた)が出てきた。 それに、野菜サラダ(ドレッシングが悪魔的に美味い!)、香の物とお味噌汁が出てきて、もうお腹はパンパンである。 いやーっぁ、食べた、食べた、食べた。

やがて、案内があり、席を移る。 岡山で取れたマスカットと何とかというブドウを掛け合わせた甘いブドウの一種、大粒のもの5粒のデザートである。 甘くてとてもおいしい。 それとミルクティーをオーダーして、目の前の東京湾を見る。 イルミネーションに輝く東京湾が美しい。 屋形船が結構浮かんでいる。 昔話やら、ホテルは外国みたいなところだとか、両親の率直な印象を聞く。 ホテルで迷子になってしまう。 カードキーの使い方が紛らわしい。 電話1つかけるのも大変などなど。 

お腹一杯になり、幸福感につつまれた我々は、その夜、豪華ホテルで熟睡し、翌朝は、京風会席の朝食を堪能し、父念願の築地周辺を散策、買い物をして、無事に帰宅した。 父は、一言、ステーキは美味かったけれど、俺は、やっぱり、魚(刺身、煮魚、焼き魚)だ・・・・・・・。

私から一言: 東京湾の夜景は美しかったが、やはり、香港の100万ドルの夜景にはかなわないような気がした。 シドニー湾のオペラハウス周辺の夜景にも負けているような気がしてならない。 趣味の問題といってしまえばそれまでだが。 それでも、昔、旧ソ連の客船が入港していたころのお台場とは比較にならない華やかさであることは確かであった。

2006年11月 5日 (日)

南蛮阿房列車と開高健

南蛮阿房列車、南蛮阿房列車第2列車 (新潮文庫) 阿川弘之著

積読しておいた本である。昨年、帰郷して本を整理したら出てきた本だ。ある日、何のことはなしに読み始めたらたちまち引き込まれてしまった。 同氏の著書はじつはこれが始めてだ。 評伝「志賀直哉」や「山本五十六」は読もう読もうと思ってまだ読んでいない。氏の列車に対する情熱のほとばしりが余技となって実に楽しい本に読み物となっている。「阿房列車」といえば、元祖は内田百閒氏である。内田先生の場合は、日本国内の列車だが、阿川氏は、その海外版ということになる。

読んでいるうちに、阿川氏が非常に短気で瞬間湯沸かし器タイプであることが良く分かった。頭の回転が速い。 そして、驚くのは昔の海軍の同期生達の人脈の華々しさ。 行く外国では、商社の重鎮やら、大使館の大使やらそうそうたる顔ぶれである。

さて、私のお気に入りは、開高健氏が登場する「第2列車」の「マッキンレー阿房列車」と「ニューヨーク国際阿房列車」である。 故開高健氏の本はほとんど読んでいるが、同氏の釣り紀行は、傑作だと思う。 開高氏の友人にして批評家の故向井敏氏は、開高氏の「もっと遠く、もっと広く」(北米、中米、南米縦断釣り紀行)は「現在のオデッセイ」と評したが、私も美しい自然の写真と開高氏の文体に魅了されたものだ。

さて、阿川氏のこの本で開高氏は、「憂鬱なエスキモーの詩人哲学者」として登場してくる。 昔、そういえば、サントリーの宣伝でアラスカで髯もじゃの開高氏が登場するのがあったなぁ、と思いつつ、このときに阿川氏も登場していたのである。 開高氏の大食振り、大きな声の饒舌は伝説的だが、鼾の轟音もすごかったらしい。 それと、釣りの名人であるはずの開高氏だが、阿川氏の前では、さっぱりだったという裏話。 阿川氏は密かに、自分が開高氏から疫病神・貧乏神と思われていると気遣いつつも、自称「釣りの名人」にして大法螺吹き男が、一匹も釣れずジレンマで悩んでいるところを「意地悪く」高笑いしている。

カナダの提督として登場する阿川氏の友人宅で感じ入った漢詩だが、これは魯迅作の「自嘲」という漢詩らしく、「カナダの提督」が香港駐在のときに中国人書家に書いてもらったらしい。

以下その、読み下しと開高氏訳を記す。(もっと遠く 下巻 131ページと134ページ、 文春文庫)

運ハ華蓋(カガイ)ニ交(ア)イ何ヲ求メント欲スル

今ダ敢テ身ヲ翻サズ己ニ頭ヲ碰(ア)ツ

破帽モテ顔ヲ遮(カク)シテ闇市(ドウシ)ヲ過(ヨギ)リ

漏船(ロウセン)ニ酒ヲ載セテ中流ニ泛(ウカ)ブ

眉ヲ横タエテ冷カニ対ス千夫ノ指

首ヲ俯シテ甘ンジテ為ル儒子(ジュシ)ノ牛

小楼ニ躱(ノガ)レ進(イ)リテ一統ヲ成シ

牠(ソ)ノ冬夏ト春秋タルニ管センヤ

(開高氏訳)

凶運に出会ってどうにもならぬ

身をかわすすきもなく、頭、ぶっつけた

破れ帽子で頭をかくして雑踏をよこぎり

ボロ船に酒を積んで河をさまよう

みんなが何をいおうと知ったことかい

家で背中に子供をのせてオ馬ドウドウ

二階にこもってこぢんまり家族を守り

この世は春だの秋だの、勝手にしやがれ

尚、インターネットで調べたら、偶然以下の解説にぶつかった。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p4zichao.htm

読み下しがところどころ違う。 漢文を読んで解釈するのは実際大変である。

ところで、阿川弘之氏の話から、開高健氏になって、最後は漢詩になってしまった。 南蛮阿房列車は、阿川氏が、出版社の方々や遠藤周作氏、北杜夫氏などを引き連れて世界各国の列車に乗りまわる楽しいエッセイである。 阿川氏の瞬間湯沸かし器振りは、随所に出てくる。 登場する相棒だが、他に「奇人幽霊」とか「葱」とか「砂糖」とか、いろいろ綽名をつけられて出て登場るのだが、とにかく可哀想になるくらい、阿川氏の毒舌の犠牲者になっている。 この辛口ぶりと随所で出てくる瞬間湯沸し器のフィルターを通した文明論というと大げさなのだが、珍道中ぶりと、氏の列車にまつわる執着振りと情熱が何と言っても魅力である。 今は、もう絶版になっている本だが、時折、手にしたくなる本である。

2006年11月 4日 (土)

ツグミもやって来たぁ!

10日ほど前からジョウビタキが住宅地のあちこちのアンテナの天辺で活発に囀っているのだが、何と、今日は自宅のピラカンサ(サンザシの赤い実)を啄ばみにツグミのつがいがやって来た。 びっくりである。 こんなに早くツグミの姿が見られるなんて。 

昨日は、東京で友人に会い、酒を飲み、その足で東松山まで出かけて、昔からの馴染みの人たちと1年ぶりに再会、盛り上がったのだが、職場のスタッフの家に不幸があって、それで、今朝は、秋の美しい武蔵野の田舎を歩くことを断念、急遽帰宅する羽目に。

昼過ぎに帰宅して、ぼーっとした頭で、今頃、武蔵野を歩いていたはずなんだが、残念と、未練たっぷりだった。 ぽかぽか陽気で、ふと2階の窓からピラカンサの赤い実に目を見やり、窓を開けると、ケスケスッとツグミが驚いて、少し離れた柿の木に避難するではないか? 私も一瞬、我が目を疑った。 こんなに早くツグミがやってくるなんて! 例年、早くても11月半ば以降である。 昨年は、山形県に自動車免許を取りに出かけていて、戻ったのが12月7日の夜。翌朝の12月8日、ケスケスッという鳴き声で、ツグミがやってきたのを知ったのだが、今年は、1ヶ月以上早い。

ツグミに対する私の愛着は強い。 バードウォッチングをしようと双眼鏡を購入して、始めて観察したのが、何を隠そうこのツグミであった。 なかなか美しい鳥である。 孤独な平和主義者でもある。 温和な目。 極端な臆病者。 ピラカンサの実をついばんでいると、時折うるさいヒヨドリがやってくるのだが、いつも追い払われて、すこし離れたところでシュンとしている。 ヒヨドリがいなくなると、またこそこそとやってきて、食事をするのだ。

2002年冬から2003年春にかけては、毎朝のように北小金のアパートの南向きの桜の木にやってきてくれたものだ。 毎朝、決まった時間にやってきては、ケスケスッと地鳴きを発し、地面に降りてミミズを捕らえたりする、足元のたわわに実るピラカンサを啄ばんだり、春先は5月の連休直前まで、やってきてくれたのだった。

先週は、大学の近くの雑木林で、アカハラにも出会った。 アカハラもツグミの仲間なのだが、気が荒く、力関係はアカハラ>ツグミである。 とにかく、ツグミは争いごとはきらいなようだ。

これから真冬を迎えて、極端に餌が少なくなっていく。 越冬するのは野鳥たちにとっては大変である。 見沼を歩いていてた2年前のある2月のこと、雪が残る公園で、力尽きて死んでいたツグミを見つけて、涙しそうになったこともある。 モズなんかに襲われて命を落とすツグミも結構いるそうだ。 

ツグミはこんな鳥です→

http://www.gt-works.com/yachoo/zukan/tori/tugumi/tugumi.htm

2006年11月 3日 (金)

ジョウビタキ来る!

野鳥情報で、ジョウビタキやビンズイやアカハラなどが次々と姿を現している情報を得ていた。 そろそろだと思っていたが、先週、土曜日、とうとう待ちに待ったジョウビタキに会うことが出来た。今秋初である。 

両親を連れて東京に一泊二日の大名旅行をする手配を、前の会社の後輩が実は、この地方都市の営業所長をしているので、手配を頼んでいて、その書類を引き取りに行く途中だった。 出会う予感はあった。 自宅からゆっくりと静かな住宅街を歩いていくうちに、沼手前は雑木林や大きな木が生い茂る庭を持つ邸宅があったりで、散歩すれば、いろいろな野鳥の群れに出会うスポットがあるのだ。

今年の春のある日も、美しいアオジが庭先でこれでもか、というくらいソプラノを聞かせてくれたものだ。 シジュウカラの群れとモズの高鳴きを聞きながら歩いていると、予想していたとおり、近くからヒッ、ヒッ、ヒッとあのジョウビタキの囀りが聞こえてきた。

今秋始めてのジョウビタキだ。 心が高鳴る。 姿を探す。 この時期のジョウビタキは民家のアンテナの天辺なんかの目立つところで囀っていることが多いが、今回はなかなかその姿が見えない。 閑静な住宅街を、挙動不審な中年男が屋根の上を見上げながらうろうろしている。 第三者が見たら、変態の覗き魔と間違われそうである。

しばらく、うろうろしていると、一羽の鳥がすーっと飛んで来て、空き地の柿木に止まった。カッ、カッ、カッという地鳴き。 ジョウビタキだ! メスである。 落ち着きのないメスのジョウビタキは、すぐさま、近くの電線に移動。 またまた、カッ、カッ、カッと地鳴き。 数秒後には、空中移動しながら、ヒッ、ヒッ、ヒッと囀りながら、民家の屋根を越えて姿を消した。

用事を終えて、市内の本屋をうろうろして、カキフライカレーを食して14時過ぎ、帰宅する。 明日は、翌日の日曜日は学園祭で、私のヨーロッパ体験を20分ほど話す羽目になり原稿を準備していると、またまた、外から、ヒッ、ヒッ、ヒッとジョウビタキの囀り。 双眼鏡を持って、2階の窓から東向きの空き地と周辺を探す。 いたいた、右手の柿木、それから、近くの低木に移った。 今度もメスだ。 そして、落ち着きがなく、盛んに囀っては移動してまたたくまに姿を消した。

又、原稿に集中する。 そうすると、又ヒッ、ヒッ、ヒッと囀る声がする。 再び双眼鏡であたりを探す。 何と、今度はオスである。 いやあ、今日はジョウビタキが盛んに姿を見せてくれた。 この日は、一日中、うきうき、ほのぼのとしていたことは言うまでもない。

ジョウビタキについては以下をクリック:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%93%E3%82%BF%E3%82%AD

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