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2006年11月15日 (水)

私のヨーロッパ体験記 ~ その1

10月終わりに大学の学園祭があって、学生の企画で自分の異文化体験を話す機会があった。 以前のブログで、「二十歳のころドイツ」で、というのをアップしたけれど、それを思い出して原稿を作り、30分ほどの発表をした。 結果は? よく分からない。 今の若者にとって、異文化とは言え、ヨーロッパというのは、遠い存在でしかないのかも知れない。

大学の語学履修にしても、英語の次が、中国語であり、その次が韓国語が多い時代である。 フランス語、ドイツ語は凋落してしまった。 かつての教養語という地位はもう失われてしまったのか? 私にとって、ドイツ語とは、ヨーロッパの教養人が言うギリシャ語であり、英語とは、ラテン語である。 単なる語学屋で勉強したのではない。 Z会の通信添削も夢中でやったけれど、真剣に英文和訳をやって、日本語を鍛えたものだ。 ドイツ語だと、やはり難解な哲学書に挑戦したりして、脳みその訓練をしたものだ。 以下、その講演まがいを6回に分けて、恥を忍んで紹介してみよう。 (写真掲載は、ご勘弁ください)。

ただ今、xxx先生がお話になりましたアメリカのお話に続きまして、お話させていただきます、国際センターのxxxと申します。 私の今日のお話は、アメリカの対比としてのヨーロッパ、それも、自分のドイツ体験、学生時代の3ヶ月のドイツでの語学の勉強や、留学生との交流体験や、その後の民間企業でのビジネス経験などを経まして、ずーっとヨーロッパと関わって来たことなどを、19枚の写真スライドショーで辿りながら、簡単にお話させていただきたいと思います。 大した話は出来ませんが、私のドイツ体験とその後のオランダ、イギリス体験を踏まえて、多国籍の学生との交流、工場での体験、食生活などのトピックに焦点をあてながらの、私というフィルターを通してのヨーロッパの紹介、それも、ドイツ風の、という留保がついた個人的なもの、という位置づけでお話したいと思います 企画しました、学生の皆さんから、マンガのことなんかも触れてほしいとのことなので、それについても触れます。

今ご覧になっている写真は、19766月後半のコペンハーゲンです。二十歳のことでして、当時、すでに日本は先進国の仲間入りに入っておりましたが、そう簡単に海外に行ける時代ではなかったように記憶しています。 バックパッカーが、定期航路で横浜~ナホトカ、その後、ウラジオストック経由、シベリア鉄道で、モスクワ経由北欧に入ってアルバイトして・・・というヒッピースタイルの旅行はありました。

当時、1ドルはまだ350円、アメリカに行ったとしても、物価は今の3倍近いんです。

今はユーロとなってしまったドイツマルクですが、当時1マルク=140円くらいだったと記憶します。 円が最強だった頃は、60円を切ったこともありますから、まだまだ、ヨーロッパは日本から言えば、見上げる国でした。

本日いらっしゃる皆さんの中で、ヨーロッパに旅行とか留学とか何らかで行かれたことのある方はどれくらいいらっしゃいますか?日本という位置から考えるとヨーロッパはやはり遠いですね。私が始めてヨーロッパに出かけたのは1976年ですから、今から30年前です。 日本人にとってはまず、アメリカがあり、そして中国を始めとするアジアの国々というのがより身近な外国という意識だと思います。

全国から集まった約15人ぐらいのドイツ語を勉強する学生が、羽田空港からモスクワの経由(10時間)、給油トランジット後、さらに6時間で、最初に到着したのが、夕方の霧の中から現れた絵のように美しいコペンハーゲンでした。レンガが美しいんですね。私の最初の海外です。 1泊して、それからとことこ電車に乗って、ユトランド半島を下ってドイツに入りました。夜行列車です。途中、私たちは、フィリピン人に間違えられたり(ヨーロッパ人にはアジア人は区別がつかないんです)、荷物の置き引きにあって慌てふためいているドイツ人女子学生に遭遇したり、断片的なことを覚えています。ラジオをつければ、ドイツ語とかデンマーク語の放送が流れていて、心が時めきました。ああ、外国に来たんだなぁと。

ホテルで始めて朝食を食べてまず驚いたのは、パンが食パンじゃないこと。いろんな種類のパンが山ほどあるんですね。それから、ハム、チーズがすごく美味しいこと。朝食だというのに、沢山の果物、ジュース類があって、当時の貧乏学生からすれば、豪華な夕食に思えたほどでした。ヨーロッパは豊かだな!というのが第一印象でした。

オランダと当時の西ドイツの国境、北ドイツ西にオスナブリュックという町がありまして、そのちかくの村の研修施設で2週間の集中語学ゼミに参加しましした。次の2枚の写真は、そのとき親しくなった現地の若者です。大学生とか日本に興味のある若者たちと一緒に研修施設に泊まりこみで、ドイツ流の生活を体験しながら、勉強しました。マンフレッド君と言って、高校を卒業して、実務学校(職業訓練を受けながら、学校でも勉強する)コースの生徒でしたが、気があって、仲良くなりました。聞く・話すというコミュニケーション能力がまだ十分でないので、子供と仲良くなってよく遊びました。ちょうど釣り合うレベルなんですね。肩車にしたり、卓球したり、近くの川で泳いだり、サッカーをしたり、記憶が蘇ってきます。

生活とか基本的な言葉にも2週間で慣れたところで、参加者は皆ばらばらになり、みなドイツ中に散らばって2ヶ月間、オペア(ホームステイだが、家事の手伝いをしたり、子供のベビーシッターをしたりして、実質無料でドイツ人家庭に滞在する)、私のように、ハノーバーの工科大学に登録して、工場で労働体験(語学学習が目的)をしたりということで別行動になりました。 単独行動です。2ヶ月間、まったく日本人と離れて一人での生活です。 全て自己責任、心細さもありましたが、何といっても、「あの時君は若かった」、意外と平気で、駅で切符を買って、早朝に、電車にのり、いまやはっきり覚えてませんが、乗り換えも無事済ませて、昼過ぎには、ハノーバーに一人到着しました。出迎えがあると聞いていましたが、誰も迎えに来てませんでした。 日本では考えられないことです。すこしうろたえました。 

まずは、お腹がすいたので、駅の近くのウィーナーバルトというチェーンレストランに入って、ウィーナシュニッツェルというのを注文してお腹一杯にして、それから、徒歩で、宿泊施設まで行きました。ドイツでは徒弟制度というのが確固としてあって、そういう修行者たちが宿泊する施設が各地にあるんですね。Kolpinghausって言うんですけれど。で、住所を頼りに到着したんですが、どうやって中に入っていいのかわからない。扉が開かないですね。押しても、ひいても、叩いても。 今でもよく覚えています。途方に呉れてしばらしていると、中からたまたま人が出てきて、入り方を教えてくれました。建物の入り口の右手にボタンがあるんですね。それを押すと誰ですかって、フロントの人が出て、名乗ると、自動ドアになっていて空けてくれるんですね。 びっくりしました。 こういう次第でやっと中に入って、チェックインを済ませて、部屋に入ることができましたが、緊張した、ながい長い1日で、今でも鮮明に覚えています。 

ところで、昼食で食べたウィーナーシュニツエルというのは、もともとはイタリアはミラノの名物料理(コットレッタ・ミラネーゼ、ミラノ風カツレツというもの)を、ハプスブルク帝国領時代(イタリア北部はオーストリアの領土になっていた。北イタリアには今でもドイツ語を話す人がいるんです)にオーストリア人が旨いと思ってウィーンに持ち帰って広めた料理なんですが、私にとっては、ハノーバーのチェーンレストランで食べた初めての料理だったんですね。 とりたてて、大騒ぎするほどの料理じゃないんですが、空腹にまずいものなし、美味しい食事の記憶として、今でも鮮明に覚えてます。

(続く)

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