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2006年11月23日 (木)

チェーホフから~「美女」その1

アントン・チェーホフ (ロシアの作家)  「美女」 (原卓也訳)

ロシアの作家チェーホフは好きな作家です。 それも有名な戯曲よりも彼が生活の為にチェホンテのペンネームで学生時代から書きなぐった短編が私の好み。ちくま文庫で全集が安く手に入りますが、とても全部を読んだわけではありません。彼が手当たり次第に書きなぐったように、自分は20代後半に手当たり次第拾い読みしただけです。

そして一番記憶に残っているのは、本屋で立ち読みした「美女」という短編です。 チェーホフは、ロシアの文豪トルストイやドストエフスキーとは比較になりませんが、生まれが開放農奴という低い階級出身でありながら、モスクワ大学で医学を修めた苦学生。 いろいろ苦労もあったのでしょうが、彼の魅力は普通の人を描写する眼差しにあるのだと思います。 そしてその行間から匂いたつ雰囲気と情感は独特です。 

「禅機に触れる」というのでしょうか、「生命の根源に触れる」ものがあります。ふっと、眼差しを落として、ため息をつく。そして、何事もなかった様に、生活に戻る。日本語にある「仕方ないという諦観」ということでしょうか?肯定もしなければ否定もしない。うーん、ちょっと違うか?うまく言えません。チェーホフにはいたるところ、このモチーフがあって、読み終わると、ウーン、とうなずき、黙ってしまうところがあります。 20代は、これで何度も「身動きできなくなる」ことがありました。 土曜日が休みだったりすると、夜から朝まで徹夜して読んだものです。 といっても一年に1度か2度、忘れていたことを思い出したようにです。

前置きが長くなりましたが、この「美女」に登場する2人の美女についてチェーホフの語りを見てみましょう。

一人目は、主人公が中学生の頃(10代の半ばか?), 祖父に連れられて、8月のある日、ある田舎の住んでいる村からドン川沿いにある大きな市へ旅行する途中でのアルメニア人の村でお茶を飲んで休憩した時に出会った、お茶屋の娘マーシャという美人です。 長旅、土ぼこり、暑さとけだるさでウンザリしていた主人公がはっとする。

「わたしは、コップをさしだした少女の顔をちらりと眺めやった。 と急にまるで、さわやかな風が私の心を吹きぬけて、今日1日の不快な印象を砂埃や退屈感もろとも吹き払ってくれたような気持ちをおぼえた。いつの日か現実に出会ったり、夢に見たりした数多くの顔の中で、もっとも美しい、目鼻立ちの魅惑的な顔を、私は見たのだった。わたしの前に立っていたのは、すばらしい美人だった。わたしは一目見たとたんにそれを理解した」

文中で主人公は言う。「彼女は本当の美人だった。だが、それを証明して見せることが、私にはできない」。

主人公は、「おさない感じを白い首や若々しい胸に残している、端正な古典美を持つ」美女が、自分にさっぱり注意を向けてくれないことに、腹立たしさと情けなさを感じる。 彼女の、満ち足りた「幸せそうな、傲然とした、一種独特な空気が、彼女と私を分け隔て、ねたみ深く私の視線をさえぎっているかのように思われた」のである。

しかし、しばらくすると、「自分自身のことなど次第に忘れ、美の感覚にすっかり見をまかせた。もはや、荒野の退屈さも砂ほこりも思い出さなければ、蝿の羽音も耳に入らず、お茶の味さえわからないで、ただただ,自分のテーブル一つへだてた所に、美しい少女がたっていることだけを感じていた」。

しかし、主人公は気づく。自分の美に対する感じには奇妙なものがあると。「マーシャがわたしの心に呼び起こしたのは、欲望でも、よろこびでも、楽しみでもなく、快くはあるが重苦しい淋しさだった。 この淋しさは、夢にも似て、そこはかとない、あいまいなものだった 。なぜか、わたしは、自分自身にも、祖父も、アルメニア人も、その娘のマーシャも、気の毒になった。 まるで、わたしたち、4人が、もはや2度と見出せない、人生にとって必要な、大切なものを失ってしまったような感じが、心の内にあった」。

80歳を越して、自然美や女性にはほとんど無関心な一徹者である祖父も同じような「淋しい思い」をしているのか、「ひっそりと黙って、物思わしげにマーシャを眺めていた」。

場面は、その後このアルメニア人の家族の生活振りを主人公が観察する描写が続く。 美少女マーシャはその都度「ふわりと風を匂わせて」素足で歩きまわる。自分の馬車の御者、荒くれの男もこのマーシャを見ると一瞬黙り込み、しばらく荷馬車のほうを無言で眺めやり、少女が通り過ぎて行ってしまうと、がっかりしたような声で。 馬を怒鳴りつける「えい、くたばりやがれ、畜生ども!」。そして、マーシャが美しい姿を何度もちらつかせるにつれて、「私の淋しさはますばかりだった」。やるせない視線を送る御者もあわれに思える。

「それが彼女に対する美しさに対する私の妬み心なのか、あるいは、この美少女が自分のものではなく、また決して自分のものになる筈もなく、自分なぞしょせん彼女にとっては赤の他人にすぎないことを、心惜しく思ったのか、それとも類まれな彼女の美しさも、かりそめの無用なもので、この地上のあらゆるものと同じように、たまゆらの生命に過ぎないことを、漠然と感じたのか、あるいは私の淋しさが、まことの美をしみじみと眺めていることによって人の心に生まれる、あの一種独特な感情であったのか。それは知るよしもない」

3時間の休憩後、一行は出発する。押し黙ったまま。そして2時間ほど経って、御者のカルポがポツリと呟く:「あのアルメニア人とこの娘は、いい娘でしたね!」。そして、ピシリと馬に鞭を当てる。

(続く)

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