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2007年1月27日 (土)

生まれて始めて、ワシ類(オオワシ)に遭遇!

今年は暖冬だという。昨年は日本を寒波が襲い北国は連日の大雪だった。除雪作業中に怪我をしたり、命を落とした方もいたほどで、日本全体が冷凍庫の中にあったような状況だった。今年は、確かに暖かい。昨日は、野鳥観察しながら、遅番なので、歩いて勤務先に出かけた。早春の匂いがする陽気だ。いつもの観察スポットを歩きながら、いつもの通りの野鳥がいるのを確認して安堵した。まるで私が飼っている鳥のように。

ここに来て、もうシジュウカラの囀りがぽつん、ぽつんと聞こえるようになった。大学手前の雑木林でシジュウカラの遠慮がちな囀りが聞こえてきたので、じっと立ち止まって聴いていると、段々、その囀りのキーが上がってきて、そのうち、合いの手が入ってきた。それが、どうも様子がおかしいなぁ、と思っていると、違う小鳥の囀りだったのだ。なかなか美しい囀りなのだが、声の主は?さっぱり分からない。初めて聞く囀りなのだ。心臓が高鳴る。じーっと耳をこらす。なかなかテンポがいい。まさかキビタキじゃないだろう。キビタキは夏鳥だからこの時期は日本にいるはずがない。 しかしいろいろなバリエーションで鳴いてくれるキビタキの囀りを彷彿とさせるようなテンポのいい、心地よい囀り。私の脳内はα波に満たされつつあった・・・。しかし、雑木林をごそごそ歩いてやって来た年配者の登場で、この美しいソプラノは中断してしまった。残念の一言。野鳥の姿を探し当てて、双眼鏡で覗く機会を永遠に失ってしまったのだった。

今日は、また、朝から近くの野山をほっつき歩いた。ぽかぽか陽気だ。いつものコースを歩くと、重装備のバードウォッチャーにも3人ほど出会う。そして、自然を管理するための作業があったりで、とてもとても、野鳥観察する雰囲気ではない。うーん、困ったナ。私は、仕方なく、取って置きの、一人っきりになれる場所に避難して、1時間、じーっと、自然と一体になって野鳥たちを待った。観察した野鳥は以下の通り:

1)ルリビタキ(♀1) 2)モズ(♂1) 3)カケス(多数) 4)ウグイス(1+笹鳴きあちこち) 

5)アカゲラ(♂1、♀の地鳴き) 6)アオゲラ(1) 7)コゲラ(5+、1羽は突然変異種なのか全身が白い)7)ジョウビタキ(♀1) 8)アカハラ(1) 9)シロハラ(1) 

10)シジュウカラ(多数) 11)エナガ(5+) 12)ヤマガラ(多数) 13)カシラダカ(10+) 

14)キセキレイ(1) 15)ツグミ(2+) 16)メジロ(多数) 17)シメ(1) 18)アオジ(多数) 

19)ムクドリ(群れで多数) 20)ヒヨドリ 21)キジ(♂1) 22)キジバト 23)ハシボソガラス

シジュウカラが一度だけ、囀ってくれた。帰り道、久しぶりに桜川沿いの雑木林を歩き、最後は土手と雑木林の間の広い枯れ草で覆われた野原を散策した。そして、昨年末にも出会っている猛禽ノスリ(鷹の仲間)に又再会した。今回は、目立つ木立の天辺近くに止まって辺りを伺っている様子。ネズミや小鳥などを捕食する為だ。双眼鏡で覗いていると周辺にいる小鳥たちが皆、一目散に逃げていく様子がはっきり分かる。しばらく、じーっと観察していて、ふと、大空を見上げると一羽の見慣れない大きな鳥が空を舞っている。ん?!な、な、何だぁ!慌てて、双眼鏡をこの得体の知れない対象に向ける。嘴が黄色い。尻尾の部分が白い。トビより大きいゾ。猛禽だ。ひょっとして、ワシじゃないか?心臓がどきどきして来た。オジロワシ?オオワシ?確か、近くの涸沼では数年前に連続して1月~2月にかけて観察されている。

ノスリと交互に観察しながら、何だ、何だ、何だ、と呟く。しかし、はっきりしない。まさか、ワシ類にこんな平地で出会えるとは思ってもいなかったし、図鑑は家にある・・・。何度目かにまたこの空の王者に双眼鏡を向けようとしたとき、そこには、もう姿がなかった。しかし、私の神経はまだ、興奮している。びっくりしなぁ、もう。しかし、ここはいろいろ出るなぁ。

時計は12時半近い。さあ、引き上げよう。帰宅して、早速図鑑を調べる。90%の確立でオオワシのようだ。双眼鏡で見えた固体は確かにこんな姿だった。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%AF%E3%82%B7

2007年1月25日 (木)

気ままにおしゃべり(3) 日本人の食生活が豊かになったのはこの30数年だ。

連想と飛躍をしながら、お喋りを続けます。

映画「1900年」で小作人の農家の一家が、ガツガツ食べるシーンを見ながら、昔は世界どこも貧しかったのだなと思う。地主の倅だった父の記憶によれば(2006年12月7日のブログ参照)、小学校で、洋服を着て、靴を履き、お弁当にはご飯に卵焼きがついていたのは父だけで、普通の小作農の子供たちは、ボロボロの着物で裸足、鼻水をたらして、お弁当は白米と梅干しだけ、だったそうだ。 映画「1900年」の世界そのままじゃないか。また「1900年」では、子供がカエルを捕まえて、地主の家族の食卓にタンパク質の供給源として並べられているのを記憶しているが、父の実家では、やはりタンパク質をとるべく、田圃でイナゴを捕まえて、佃煮にして食べたそうだ。このあたりもパラレルだ。

父のすぐ上の兄だが、大東亜戦争中、満州国はソ連との国境にいたというが、食べ物の話として、毎日毎日が日本で言うご祝儀並みのご馳走だったそうだ。それほど当時の満州は、地味豊かで食べるものが一杯あったらしい。明治維新当時、3000万と見積もられる日本の人口が、その後の50年間で倍に増えた当時、世界的な不況の中で、日本の農村は疲弊した。イギリス連邦、アメリカ、フランスなどが次々とその植民地とともに地域ブロック経済圏を作って、閉鎖的になったのだから、行き場のない日本が満州に活路を見いだす為に出て行くことは、やむを得ないことだった。 父の兄だが、その後、南方の島に転戦となり、ネズミ、カタツムリからなんでも食べるという餓えを経験し、栄養失調になって死線をさまよったが、何とか生き延びて帰国。現在、84歳で健在だ。

邱永漢氏の「中国人と日本人」をたまたまベッドの中で就寝前に読んでいたら、日本人の食卓は戦後もしばらくは、つつましやかで、実際の所、貧しかった、と指摘している箇所に出くわした。高度経済成長を経て、生活に余裕が出来て、今では、東京のレストランとなると、世界のいろいろな国の料理がトップレベルの品質で賞味できるまでになったが、ここ30数年のことなのだという。戦後の日本人の味覚の大きな変化は、アメリカの影響で、戦後、まずパン、チーズ、牛乳、バター、それにハンバーグなどが普及したが、アメリカの味覚にあきたらなくなった日本は、フランス料理に行き着いた。日本料理は、フランス料理の影響をうけつつ進化しているのだという。なるほど・・・。

四方を海に囲まれ、緑豊かな自然に恵まれた日本。新鮮な素材(特に、魚介類)をシンプルに味付けして賞味する味覚は、日本人の擦れていない故に「ウブで鈍感」とも言え味覚にその秘密があると、邱氏は自説を展開するのだが(中国語の味覚を区別する語彙に比べると、日本語の語彙は貧弱だという指摘)、豊かになるとともに、世界の未知なる新しい味覚に「敏感に反応」し、料理の洗練度でいう世界の双璧である中華とフランス料理とは全く違う角度(これが日本だ!)から日本刀のように鋭い切れ味で日本の味覚を洗練して、世界の檜舞台に躍り出たのが日本料理だ。これが現在、世界的に、日本料理店が増え続けている理由ではないだろうか?

寿司の例で言うと、私事だが、2年前、ベルリンで2度、寿司を食べたけれど、ひとつは、上海人経営のレストラン、もうひとつは、グランド・ハイアット・ホテル内でミャンマー人が握る寿司バーだった。ロンドンのシティーにある某日本レストランで握る寿司職人はタイ人だった。(8年前の話)。味は、日本で食べるにぎり寿司職人の味と全く変わらなかった!海外の日本食も、ここまで来たかぁ、という感慨を持った。

20年前のオランダ時代だと、日本食は、少数の海外駐在日本人が食べるマイノリティーの食事だった。日本人が作って、日本人と地元の余裕のある人が話の種に食べる程度の食事だった。だいたい、「魚を生で食べる」というのは、野蛮人、未開人の習慣だと、偏見を持って見られた。彼ら同士が曰くありげに目配せしながら、日本食なるものを食べるわけだ。

日本料理の神髄は、と問われれば、「新鮮な素材をシンプルに味わう醍醐味」と要約できるだろうか。確かに、フランス料理はいろいろなソースで味付けするし、中国料理もいろいろな調味料が登場する。つまり、いろいろと手を掛けて加工するのだ。それが、芸術の域にまで洗練されているのが両者の共通点だろう。「70%が調理法、30%が食材の割合」で東西の双璧であるのに対し、日本料理は「70%が食材、30%が調理法」だそうだ。

邱氏の話で目から鱗だったのは、中国人は、フランス料理と日本料理を選ぶとしたら、間違いなく日本料理を選ぶという。理由は何か?驚くなかれ、中国人にとってフランス料理とは自分たちの「亜流」だと思っているのだそうだ。「フランス料理の調理法で中華料理にないものは一つもないが、中華料理にあってフランス料理にないものはいくらでもある・・・。中国人がフランス料理から習ったものがあるとすれば、それはフランス風の調理法ではなく、フランス風の飾りつけや盛り合わせだろう」。中国人が日本料理に1目も2目も置くのは、ズバリ言うと、「彼らの発想外の味覚」だからだそうだ。

(続く)

2007年1月24日 (水)

気ままにおしゃべり(2)~女優アリッダ・ヴァリをめぐる散策

ビスコンティ監督の映画「夏の嵐」に触発されて、ブルックナーのお喋りをひとしきりしたが、さて、女優アリッダ・ヴァリに戻る。 私にとっては、ずーっと世代も上で、我が青春のマドンナ的存在だったとかそういう存在とは全然違う。オーストリア人とイタリア人のハーフ?だそうだ。道理で、陽気なラテン系イタリア人(例えば、ジーナ・ロロブリジーダ)とは一味違う雰囲気を持っている。

ところで、このジーナ・ロロブリジーダ、ああ、ジーナ。(またまたちょっと脱線すると)・・・エイズで亡くなったロック・ハドソンと共演した「9月になれば」というコメディがある。2年前DVDでも発売されたので早速買ってきて見た。ロック・ハドソンがなくなったとき、真っ先に思い出したのは、この映画だった。何故か知らないが、確か、これは故荻昌弘氏の解説があった月曜ロードショーか、故淀川長治氏の日曜洋画劇場だったか、どちらかで見た映画で、面白くて再放送も含めて2度見た記憶がある。スチュアーデスを相手に恋のアバンチュールを楽しむラブ・コメディーのような記憶だったが、30数年ぶりに見てみると、全然内容が違っていた。とすると、スチュワーデスの出ていたあのB級傑作コメディーは何だったのだろうか?確か、太ももにあるホクロがどうのこうのと、お色気コメディーで大いに笑わせてくれた場面があったのだったが。

アリッダ・ヴァリに再び戻ると、彼女が出演した「第三の男」は私の両親が終戦後に見た封切り映画だという。 これは言わずと知れたA級超有名映画でヒット作だ。 その次に思い浮かぶのが1960年作の「かくも長き不在」というフランス映画。NHKの世界名画劇場で一度だけ見た記憶がある。これまた、なかなかヨーロッパの薫り高い、いい映画だった。テーマは重かったが、その中で使われたシャンションが良かった。 記憶喪失で戻ってきた夫と二人でダンスをするシーンで流れていたのが、確か、コラ・ボケールが歌う「三つの小さな音符」だった。歌詞がすばらしかったはずだが、正確に思い出せない。CDとカセットテープも持っていたのだが、すぐ手元に取り出せないのが残念。後で、探し出そう・・・。

1921年生まれだと言うから、50代に突入した1970年代に、サスペンス・スリラー映画の傑作「サスペリア」にも出た。それから、その又後で、「ラスト・エンペラー」の監督でも知られるイタリア人ベルトリッチ監督の大作「1900年」にもヴァリは出ているという。知らなかった...。

「サスペリア」は、スリラー映画の傑作だと思う。「エクソシスト」や「オーメン」よりも好みだ。ミュンヘンのバレー学校が舞台だったと思うが、次々に若い美女達が殺されていく猟奇的なストーリーで、悪魔崇拝者とおぼしきバレー学校の校長である不気味なおばあちゃまが、ヴァリだったはずだ。若い美人の主人公が、とうとう秘密の扉を開いて、衝撃的な場面(映画の中では、ヴァリ校長と醜悪な大男がロシア語で会話していたのはご愛敬)を目撃し、慌てたために気づかれ、肉包丁を手にした醜悪な大男に追われるシーンは圧巻だ。

この「サスペリア」と双璧なのは、「ローズマリーの赤ちゃん」で、これも悪魔崇拝の話だ。それに加えるとすれば、スティーブン・キング原作の傑作「シャイニング」だろうか。人里離れた広大な夏の別荘で、冬の住み込み管理人家族を襲う悲劇。主人公のジャック・ニコルソンが狂気に陥っていく怖さが忘れられない。これが私のスリラー・ベストスリーだ。いずれも、徐々に怖さが募っていき、最後にクライマックスがやってくる。

1900年」でのヴァリの役どころだが、記憶がない。美女ドミニク・サンダの農家の納屋での濡れ場シーンでかき消されてしまったか?ロードショウ公開されたのは、確か1980年前半だったろうか?左翼からの視点で描かれた映画だったと記憶するが、1900年前後のイタリア農民の生活、天井から魚の薫製みたいなものを吊して、それをパンにこすりつけて家族がガツガツと食事をするシーンが強烈に残っている。すさまじいシーンだった。これは、一度またじっくりと見直してみたいなと思う映画だ。

(続く)

2007年1月23日 (火)

気ままにおしゃべり(1)アントン・ブルックナー

このところ週末の午後は、ぽかぽかの日差しで明るくて暖かい2階の和室で、ごろごろしながら、本を読んだり、アントン・ブルックナーの交響曲を聴きまくっている。お正月元旦に見たルキノ・ビスコンティ監督の「夏の嵐」で使われていたブルックナーの音楽の余韻の影響だ。バブル景気絶頂の頃、もう今から17年も前になる、1990年前後だがマーラーにのめり込んだ。そして、その直後、ブルックナーに嵌ってしまったのだった。

カセットテープやCDを思い出したように掻き集めて見ると、2番~4番が見つからない。取りあえず、あるもので1番、5番、6番、7番、8番、9番を交互に何度も何度も聴いた。私の好みは、何と言っても8番だ。8番はCD2枚組で1時間近くかかる大作だ。持っているのは、テンシュテットとクナッパーツブッシュ指揮のものだ。 第三楽章のアダージョが素晴らしい。修道院のオルガニストとして「童貞」のまま一生を終えたブルックナーだそうだが、静謐さと宗教的恍惚のようなものが感じられる音を初めて聴いたときは、鳥肌がたった。

ブルックナーは「創造主」をイメージしたのだろうか、キリスト教徒でない私に言わせれば、「奥深く、そしてまた畏れ多き自然界、つまり我らのこの世界を在らしめる根源からの息吹のようなもの」、そういう神秘的な何かが、ふーっと自分のそばにやって来て私に触れる感じだった。最近は、なくなったが、20代~30代によく金縛りにあった。「あの金縛り」が来る直前の状態を表している音だった。誰かが、自分を見ている、誰だ!とハッとするのだが、意識は醒めているのかそれとも半分眠っているのか、そして、体が動かなくなって行って「金縛り」状態になるのだが、その直前の「あの状態」なのだ。それ以外に言いようがないのだが。

そして、8番のこの楽章のある個所に来ると、決まって私は、子供の頃、父の田舎の実家で過ごした夏休みを思い出してしまう。代々地主だった父の実家の周りはうっそうと茂る林だった。今もそう! 樹齢二百年前後はあると思われる大木には、びっしりとアブラゼミやミンミンゼミがたかり、夏の真っ盛り、短い生命を燃焼させていた。早朝と夕刻はヒグラシの大合唱だった。午後は、心地よい風鈴の音を聞きながら、開け放った座敷で昼寝をしたものだ。南向きの庭からは心地よい風が入り込む。アブラゼミのせわしい声とミンミンゼミの王者らしい声を聞きながら、昼寝を貪った。今にして思えば、至福の瞬間ではなかったか? 家の造りが昔風の藁葺きの家だった。広い敷地、人に決してなつかない猛犬と、何が入っているのか謎に満ちた薄暗い蔵、五右衛門風呂、母屋から離れた薄暗い藪のそばにあったトイレ(夜、トイレに行くのが恐ろしかった)。歳の近いいとこや弟と時折、隠れん坊遊びをしたのだが、隠れるところはふんだんにあった。

ブルックナーについては、余談があって、ロンドンで仕事をしていた1998年の秋のこと。ニューボンド・ストリートから、リバプール・ストリートに事務所引っ越しをした。50人近い大所帯が、金融の街「シティ」に引っ越したのだった。建物にはBloombergという金融情報を全世界に配信している企業もテナントとして入っていた。引っ越して、間もないある日、その建物の入り口に、「かつて、ここにオーストリアの偉大な作曲家アントン・ブルックナー氏が、18XX年、ロンドン訪問の折り滞在した場所である」、との説明書きが表示されているのに気づいた。毎日、毎日忙しい仕事オンリーの生活をしていた最中のことだった。「そうなのかぁ」と妙に感心しつつも、周りをゆっくり観察する余裕すらなかった自分に恥じ入ったのだった。

(続く)

2007年1月21日 (日)

「あらかぶ」~煮魚についての雑感

NHKの子供向けの番組を見ていたら、日本人が年間に消費する魚は一人平均約60キロ。欧米人や中国人だとその三分の一という。我が家の場合は、日本人の平均をさらに上まることは間違いない。兎に角、ほぼ毎日、煮魚、焼き魚、干し魚、刺身のいずれかがメニューなのだから。

魚は生臭くて苦手と言う人が多い。寿司でも「ひかりもの」は駄目という人が結構いる。我が家の食卓では、鯖があまり出ないのでどうしてだろうか、不思議に思っていたら、父が鯖が苦手なのだそうだ。年老いた父だけに、好きなものを食べてほしいので贅沢(鯖は贅沢ではないのだが)は言わない。鯖の押し寿司は絶品なのだが・・・。脂ののった秋サバの塩焼きも美味いし、味噌煮だって美味いのだが・・・。

私にとって苦手な魚介類は唯一、「酢だこ」くらいだろうか?タコのマリネは好きなのだが、どうも「酢だこ」だけは、おいしいと思ったことがない。それ以外なら、何でも来いである。

さて、この魚だが、世界的に狂牛病やら鳥インフルエンザの影響だか、知らないが、需要が逼迫してあのマグロも近い将来、今のように食べられなくなると危惧されている。生魚をほとんど食べない中国でも、高度経済成長で所得が伸び、沿岸部では、寿司、刺身の需要はうなぎ登りらしい。中国では魚介類は高級食材なのだそうだ。すでに沿岸部の4億に相当する人口は日本が東京オリンピック前後の所得倍増を達成したまさにその熱気の中にいるという。どうなる、日本!?!

昨夜は、「あらかぶ」という魚の煮付けを肴に酒を飲み夕食を食べた。赤い魚だった。赤い魚の煮付けには思い出がある。子供の頃、地元では「アカジ」と言っていた、安い魚があった。「アカジ」の煮付けと言えば、我が家の食卓の定番メニューであった。「ええ、またぁ、アカジぃ?ハンバーグが食べたいヨ~」。子供心に、アッサリ系の魚より肉類が食べたい、と思ったものだ。

しかし、しかし、しかし、である。この「アカジ」とは、現代の高級魚となってしまった、あの「キンキ」のことであった。「ええ、そうなのぉ~、もっと食べとけば良かったぁ!」 後の祭りである。今じゃ、一匹あたり千円以上する。「アカジ」(キンキ)の煮付けが食べたいなぁ、とひとしきり、昔話をしていた矢先、父は、市内の高級スーパー?で偶然見つけて?この「あらかぶ」を買って来て調理したのだった。

関東では聞いたことがないこの魚、九州は長崎で取れた魚だという。こういう時、インターネットは便利だ。早速、検索してみると、何のことはない、関東で言う「カサゴ」の仲間であった。赤カサゴ。道理で、煮魚にして食べたのだが、大変美味い魚だった。

→ http://www4.ocn.ne.jp/~goto-sea/ajisai/ryouri/arakabu/arakabu.html

ちなみに、キンキとは、

→ http://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/92-kichiji.html

カサゴの仲間はおおむね美味ではないだろうか?煮付けが一番美味いだろう。つくづく写真や図鑑の絵を見ていて愛着が湧いて来た。この煮つけだが、日本の煮付けは、中国に比べると薄味だと思う。関東は、関西に比べて味が濃いと言われるが、5年ほど前、中国は大連に旅行して海鮮料理を食べたときに、カサゴらしい魚の煮付けを食べたが、こちらは、関東育ちの小生にとっても、こってり濃い味で煮付だなぁと思ったもので、日本の煮付けに軍配を上げたのだった。

しかし、しかし、しかし、である。煮付けの一種の蒸し魚となると、中国の調理方・味つけは、驚嘆の一言だ。いわゆる、「清蒸石斑魚」というやつだ。最初に食べたのは、1985年のこと。場所は、マレーシアはペナン島。一夕、大きなテーブル10人近くで囲み、何故かブランデーのオンザロックスをお酒に、大変大型のハタ類の魚がこれまた大きなお皿にまるまる一匹乗せられて出てきた。葱と香草と生姜と醤油とたぶんお酒とかいろいろな調味料が隠し味に、見事に調理されていた。皆で、箸をのばして、白味を取って頬張る。頬が落ちそうになるくらい、うまかった。あれ以上おいしい蒸し(煮)魚は、その後、出会っていない。 

ロンドンで仕事をしてた当事は、ソーホーの中華によく足を運んだものだ。毎回必ず、この「清蒸」料理を頼んだものだが、材料は、何故かいつも鱸(すずき)だった。しかし、味にはいつも満足だった。

2004年、2005年と立て続けに上海、瀋陽と旅行したときも、もちろん「清蒸」料理を堪能した。上海では、石斑魚を2種類―赤い種類と黒い種類と2種類―二晩連続賞味した。伊勢海老の刺身と海老雑炊も食したが、断然、この清蒸石斑魚に軍配が上がった。 瀋陽は、中国東北部の内陸部。清朝の故郷である。ここで賞味したのは、平目の清蒸であった。これも涙が出るくらいうまかった。

一度、イシモチの「清蒸」を自分で作ったことがある。しかし、失敗であった。インターネットからレシピを検索して見よう見真似で作ってみたのだったが。葱と生姜と醤油と酒だけじゃ、あの味が出ないのだ。 日本風の醤油、みりん(砂糖)、日本酒の味付けはそれはそれで美味いが、どうも清蒸のあの上品なコクが出ないのだ。

2007年1月19日 (金)

今日は金曜日・・・完璧な瞬間・・・

ブルーマンデーで始まったこの一週間もあっと言う間に金曜日。今年初めて、5日間通しで仕事をした。大学は、これから試験期間に入る。今週末は、センター試験会場にもなっていて、今日のキャンパスはその事前準備もあり静まりかえっている。授業はないし、学生は居ないのだ。

今朝は、いつものように通用門前で車を降りると、アレッ、通用門が閉まっている?! 今日は使用できないのだ。ゴッドダムン、マンマミィーア、オララー、フェアダムト、キスマイアスホール・・・・・ 仕方なく、3分ほど歩いて別の門からキャンパスに入り、雑木林の中を歩く。右手の方をアメリカ人のB先生が歩く。軽く手を振って挨拶。この先生にはよく雑木林付近で会う。近くの住民なのだ。

さあ、仕事前の、早朝バードウォッチングだゾ、と、意気込んでキャンパスを一回りするが、野鳥は残念ながら、シメの姿をちらり、それから、ウグイスの笹鳴き、シジュウカラ、ヤマガラくらいだった。ハズレだ。日によって当たり外れがある。職場のビルに入ろうとした時、フィーッという、聞き慣れた、口笛に似た声がした。ん?ウソだぞ!?。辺りを見やると、3羽、4羽の姿が自転車置き場のそばの桜の木にとまった。早速、双眼鏡を取り出して、その姿を眺める。♂一羽、♀2羽を確認。ニンマリする。これで、やっと満足。オフィスに入り、一日の仕事に取りかかった。やれやれである。

お昼休み。N氏と近くの洋食屋で週一度の会食とお喋り。スープ、生野菜サラダにイタリアン・ドレッシング、ミニハンバーグと鶏肉のソテーとペンネパスタ添えにご飯、最後はミルクティー。久しぶりに、洋食系のボリュームのある食事・・・。一時は肥満気味であったが、この1年ちょっとで、体重は、6キロ~7キロは落とした。 メタボリック症候群が怖い。 

お喋りの方だが、この職場の大先輩は、いろいろと学内の裏事情を教えてくれる。理想と現実の乖離、将来への不安は、少子化とこのグローバリゼーションの時代においては、どこでも同じなのだと分かった。そして、組織内部の人間関係、と言えば、これまた前の職場のレッスンから推し量られること多々あり、と納得。 私には、いわゆる、人を押しのけて、大きな組織を動かして、どうのこうの、という野心が全く欠けている。早くも20代後半で気がついた。やっていることが、自分には合わないなぁ~、と思いつつズルズルと40代後半まで引きずってしまった。「俺はこんなところで何をやってるんだ」と思い悩みなら・・・。そうかと言って、特に他にやることがないから、ズルズルしたわけだから、大きいことは言えないんだけど。

26年ほどどっぷりと浸かった前の職場での「世界」から足を洗って、今は、まったく違う「世界」に身を置いている。まだまだ私は新参者である。それだけに、この新しい「世界」は新鮮で、気分は高揚している。自分が若返った感じだ。「世界」という言葉があるが、実態はまちまちである。政治家の世界、サラリーマンの世界、独立自営の商売人たちの世界、教育界の世界、芸能人の世界、プロスポーツ選手の世界、資産家にして労働に無縁な暇人の世界、ホームレスの世界、などなど数え出したら限がないのだが、それぞれが身を置いた具体的な環境を通して「世界」なるものをイメージするのだ。 そして、これらの「世界」の中にはさらにこまかく無数の小さな違いで分類されるサブ・世界があるのだ。

私の願いは、どの世界に身を置こうと、人畜無害でいいから、ただ、ひたすらそれなりの仕事はするから、生きていくだけの必要なお金をもらって、自分の道楽に没頭できればいい、ただそれだけである。 去り去りて、我が楽しみを一人せん、である。

1年前のちょうど今頃、東京で前の会社の同期の人間と酒を酌み交わした。2次会を終了して、上野駅に急いだが乗り遅れて、やむなく、野宿ではないが、都内某所で夜を明かしての翌日の朝帰り。 前日夜から、ミゾレ混じりの雪であったが、その朝は大雪だった。○戸駅に到着すると、あたりは真っ白の銀世界。雪が日常の喧騒を吸収して、静寂があたりを支配していた。疲れていたが、寒気で目が覚めて、降りしきる雪の中、凍えながら千○湖周辺を経由して、自宅まで30分ちょっと歩いた。オオハクチョウやカモ類も寒そうにしていた。い○○広場の小さな滝の周辺で一息ついていると、銀世界を背景に、コバルトブルーが一層映えた美しいカワセミが目の前に現れてビックリした。いつもなら、散歩する人でにぎわうこの界隈も、雪の中の幻想的な世界で、私は、しばしの間、カワセミ君(確か♂だった)と対峙したのだった。完璧な瞬間だった。我が人生の忘れ難きスナップショットの一つになるだろう・・・・・。

無事、仕事を終えて、暗くなった夕刻。 北風が吹きすさぶ道を30分ちょっと歩いて、帰宅。イワシの竜田揚げとベーコンとキャベツの炒め物を肴に、白ワインを飲む。金曜日の夜の安堵からだろうか、酒が美味い。仕上げは、ビーフカレー。帰り道、スーパーで買ったカキフライを2個もおまけで載せる豪華版、カキフライ付きビーフカレー。

コタツに入って、夢想の続きに耽る。完璧な瞬間なんてそうあるものじゃない。人生、苦しさと楽しさは半分ずつだろうか?高学歴の職場の女子職員(私より英語が出来るし、頭の回転も早い)が、「・・・・・・さん、幸福ってなんですかね?」と最近、神妙な顔で聞くので、「そんなことを意識しないで時間が過ぎ去る瞬間じゃないっスか」と答えたことを思い出した。どこかで、誰かが言ってたような台詞だけれど。

2007年1月15日 (月)

大阪万国博覧会と70年代前後のヒット曲・・・

ブルーマンデーの今朝の冷え込みは格別だった。大寒である。寒い、寒い、寒い。

それでも、ちゃんと起きて、朝食を摂って、早朝キャンパスバードゥウォッチング(キツツキのアカゲラに遭遇した)後、午前中の仕事をこなし、お弁当持参の昼間のバードウォッチング(ルリビタキ嬢とも束の間の「真昼の情事」を楽しんだ)で一息ついて、午後の仕事を又しっかりこなして、無事終了、今日は定時で職場を出て帰宅した。

帰り道の好文橋はびゅうびゅうと冷たい北風が吹いていたが、もう購入してから10年になる高級!イタリア製の皮のコートだから、凍えたりはしなかった。

やれやれ、である。帰宅して、ゆっくり食事を摂る。舞茸の天ぷらを肴にフランスの白ワインをグラスで一杯やる。うまいぞ!仕上げは、牛肉豆腐をご飯にかけてハフハフと頬張って、お腹が一杯になった。よっこいしょ、とコタツに入り、NHKニュースを見る。東アジアサミットの議長声明に「拉致問題」が明記された。またも、韓国は最後まで反対したらしいが、中国は、日本に譲歩した形となった。死体バラバラ殺人事件があったかと思えば、不二家の明治乳業を思い起こさせる不祥事事件報道・・・。

年末に入会した野鳥の会の地元支部から、会報が届いた。どれどれ・・・。近場はほぼ制覇したナ。2月になったら奥久慈に遠出して、ヤマセミとカワガラスが見たいナ、などと、ひとしきり物思いに耽る。

そして、お茶を飲みながら、久しぶりにテレビサーフィンする。テレビ東京にチャンネルを合わせると、1970年の大阪万国博覧会がテーマ。当時、私は14歳で中学3年生。軟式テニスの全国大会に出場(一回戦で島根県に接戦で勝つも、二回戦で愛知県代表に力負け。女子は全国優勝したのに・・・)、戦ったのは、今も日比谷公園に残るテニスコートが会場だった。終わってそのまま東京駅に向かい、新幹線に乗り、父に連れられて京都へ。すでに出発していた仲間に合流。関西修学旅行だ。それで、確か、大阪の万国博覧会も行ったはずなのだが、何も覚えていない。太陽の塔だけかろうじて覚えているだけだ・・・。ソ連館もアメリカ館も長蛇の列で見られなかった。

万国博覧会よりなつかしかったのは、バックに流れる音楽だった。ショッキング・ブルーの「ヴィーナス」(1月25日訂正。「悲しき鉄道員」はこれはこれでイイのだが)。あのビートの効いた、軽快なロックのリズム。思わず体をくねらせて踊りたくなる。数年前のシドニーでもあるカジュアルなパーティでこの音楽を聴いて、涙を流しそうになった・・・。

次は、ニルソンの歌う「うわさの男」(映画「真夜中のカーボーイ」のテーマソング)だ。地元のオデオン座で確か、「明日に向かって撃て」の2本立てを見に行ったんだった。「明日に向かって撃て」が本命だったが、何故か、終わって見れば「真夜中のカーボーイ」の方が印象に残ったのだった。

その次に流れた音楽は、題名が思い出せない。確か、パートリッジファミリーだ。パーパパッパパァパ、パーパパッパパァーーー。I Love You何とかかんとか。

そして、番組最後は、ベッツイ&クリスの「白い色は恋人の色」だった。いやぁ、懐かしいナァ。スリーフィンガーピッキングのギター伴奏とあの、清楚な声。当時はフォークソングが全盛時代だった・・・。PPM,ボブ・ディラン、ブラザーズ・フォー。

家族が寝静まり、デザートのアイスクリームを食べて!、お風呂に入って、2階に上がり、日記をつけてもまだ、頭の中でメロディーが止まらない。今日は、しばらく、寝付けそうもない・・・。

2007年1月11日 (木)

北朝鮮の核問題を考えてみる。

仕事と野鳥三昧ですっかり世の中一般のことに背を向けていたのだが、昨年12月を過ぎた頃から余裕が出来てきて、まずは、極東で問題になっている朝鮮半島の北朝鮮問題について本を読んだりして考えてみた。

テレビでも新聞でも雑誌でもいろいろと報道されているが、年末に読んだ重村智計氏著「朝鮮半島の核外交」(講談社現代新書)がいちばん核心をついた解説をしているのではないだろうか?

この本を読んで一番感心したのは、北朝鮮の国力、つまり、経済力を誰も正確に理解せずり議論しているという指摘だろうか。著者によれば、北朝鮮の国家予算は日本の島根県予算より小さいという。そして、北朝鮮は絶対に戦争は出来ないと指摘する。これは、彼らの石油輸入量を見れば、2週間以上戦争は継続できないことが明らかだからだそうだ。又、通常兵器も経済破綻をしているため、旧式のものがほとんどで、これは日本の自衛隊も含めて在韓米軍・韓国軍関係者では常識になっているそうだ。北朝鮮の食糧問題がかなり深刻なのは世界の常識になっているが、もっと深刻なのはエネルギー不足だという。まともな経済活動を維持することもままならないのだそうだ。

では、何故、北朝鮮は、核兵器開発にこだわるのか?著者の結論は、核兵器を持つことで危機を煽り、周囲の国の注目を集めるためだそうだ。実は、北朝鮮にとって危険な国というのは存在しないという。中国も、ロシアも、韓国も、日本も、そしてまた米国も北朝鮮に対し戦争をしかける理由がない。パキスタンとインドの場合は宿敵同士、お互いに水と油の敵であり、核兵器を持つ理由があるが、北朝鮮にはないのだ。北朝鮮に冷戦が終わって、もはや潜在的な敵がいないのに何故、核兵器を持つのか?唯一考えられる理由は、常に周囲の注目を集めておくことなのだ、そうだ。北朝鮮にとって困るのは、誰からも相手にされないことだという。北朝鮮に対して、もっとも効果的な方策は、まともに相手にならないこと、これだという。したがって、アメリカのブッシュ大統領の基本的な対応姿勢は間違っていないという。

金正日だが、北朝鮮の国家予算規模が日本の島根県と同レベル(人口100万未満)ということは、本来なら、県知事レベルの首長だということだ。天下のアメリカ、中国を振り回す、この島根県より小さい北朝鮮だが、経済破綻を言われ相当数の餓死者を出しながら、相変わらず大規模な軍隊を維持し(軍隊というのは金食い虫である)、核兵器を持ってしまったようである。「核兵器保有」は、「金王朝」自らの政権の生き残りが目的なのだ。人民民主主義と社会主義の看板は大嘘である。核開発を放棄すれば、1994年のアメリカとの合意で現在の輸入量に匹敵する石油をただで手にすることが出来るのに、それを棒に振ってまで固執する理由はそれ以外に考えられないのだ。もしそれを飲めば、自らの政権が崩壊してしまうと恐れているのだそうだ。国民を犠牲に、自らの特権を守り、生き残るためにやっていることなのだ。

だから、現政権の北朝鮮に対する宥和を続けている限り、核兵器放棄は絶対ない、と重村氏は言い切っている。何故なら、核兵器を保有することが、自らの特権を守る唯一手段だと信じており、しかも通常兵器より安上がりな!手段だからだ。問題は、核兵器を持つことが、本当に現政権(自らの特権)を維持することになるのかどうか、保証がないのに、出来るものと硬く信じ込んでいることだ。

日本の対北朝鮮のスタンスは、安倍総理になって始めて明確化された。拉致問題と核問題が解決されない限り、国交正常化はない、という基本スタンスである。何故、これまでこの拉致問題が解決しなかったか?これは、歴代の日本与党政権が、北朝鮮に対してこの基本方針でキッパリと対応しなかったからだ(出来なかった)。その意味で、自民党も含めて日本の学者やマスコミも含めた社会主義を信奉する左翼シンパの罪は重い。今でこそ、朝鮮総連はじめ、いわゆる日本左翼シンパはなりを潜めたが、冷戦が崩壊してからもしばらくは、北朝鮮の拉致問題を学者やマスコミが事実を報道しようとするなら、ものすごい嫌がらせ、バッシングを受けたという。冷戦が崩壊し、社会主義政権の醜悪な部分が次々と暴かれ、かつての栄光は地に落ちた。しかし、それでも、日本のマスコミや学者には、その余韻が残っているという。これでは、朝鮮半島を冷静に見ることは出来ない。日本が譲歩する必要はない。人質問題と核問題が解決されたら、国交回復をすれば良い。その逆は有り得ない。核兵器は脅威だが、これは、核の抑止力をもつ、アメリカ、中国、ロシアに処理してもらうことだ。彼らが、不作為で何もしないときは、日本は核武装すべきだ。(これは私の意見)。

北朝鮮の核問題で誰が得をしたか?実は、ある意味で日本であると著者は言う。日米同盟は、冷戦終了で、主要な敵、ソビエトという共産勢力を失った。共通の敵があるからこそ、同盟は成り立つ。敵がなくなれば、かつての日英同盟と同じ運命になっていた。小泉外交は、あやうく北朝鮮宥和に傾き、日米同盟をご破算にする寸前まで行ったのだ。

重村氏の本を読んで勉強になったのは、中国、ロシアと北朝鮮の関係である。北朝鮮がかつて日本の左翼陣営から輝ける社会主義国と礼賛されていた実態は、ソ連、中国の友好価格にもとずく経済援助漬けの国だった。まさに、従属経済理論のサンプルである。

ゴルバチョフの登場のソ連(そしてその後のロシア)に捨てられ、中国に捨てられ、八方塞がりになってしまった北朝鮮。 北朝鮮の外交は振り子外交と揶揄される。ソ連にくっついたかと思うと、中国にくっつき、両方から蹴っ飛ばされると、韓国と宥和政策を取るというパターンなのだそうだ。現在六者協議の枠組みでの解決をはかろうとのアメリカの思惑で動いているが、主導権は確かに中国にある。中国は、実はロシアをはずしたかったらしいが、北朝鮮が動いて、ロシアを入れたという。

中国・ロシアは、対アメリカを牽制する意図もあってなのか、アメリカ・日本のような強行措置には反対で、対北朝鮮に融和的に振舞っているように見えるが、実態としては、間違いだ。中国にしてもロシアにしても、北朝鮮はもはや同盟国ではない。同盟国でないということは、北朝鮮は戦争は出来ないということなのだ。現金決済でなければ、ソ連は北朝鮮に最新の兵器などは売らないという。一方で、プーチン大統領は、金総書記に、個人的に名馬をプレゼントしたりはして取り入っているという。

北朝鮮という独特の儒教社会主義、言ってみれば李氏朝鮮の生まれ変わりのような政権を作ったのは、実は、大国のエゴでもあった。冷戦崩壊後、ソ連、中国などはあっさりと韓国を承認し国交を結び、北朝鮮を無慈悲にも捨てたのだ。誰にも相手にされなくなった国、北朝鮮。冷戦崩壊後から、孤児となってしまった北朝鮮の金王朝とその特権階級の生き残り策の結果が、現在の「核兵器開発」に煮詰まったのだ。何という悲劇だろうか!

2007年1月10日 (水)

厳寒の早朝キャンパスで懲りずにバードウォッチング!

昨夜は、ゴソゴソとこれまでの読書をまとめる要約を作っていたら、夜中である。ついつい夜更かししてしまった。頭がボーッとしてくる。やはり、頭が働くのは早朝、十分睡眠を取って頭脳がすっきりしているときに限る、と思うのだが、このところ、寒くてホカホカの羽毛布団から出るのがつらい。

今日は、出がけに車庫から車を出す際に、右側前部をすこしこすってしまった。ああ・・・。気を取り直して、いつもより早く大学に到着。ボーッとして、警備室で鍵を受け取り、キャンパスを歩く。体育館の前に赤松が植えてあるのだが、そこに差し掛かる手前で、ズィーッと野鳥が1羽飛び立った。おお、ビンズイではないか!こんなところで出会うとは!勤務し始めて8ヶ月が経とうとしているが、ここは、春先から初夏にかけてはすでに体験済みだが、冬のキャンパスも絶好の野鳥観察スポットなのだと、改めて納得する。ここでは、何が出てもおかしくない。

ビンズイ→ http://www.gt-works.com/yachoo/zukan/tori/sekirei/binzui.htm

取り立てて特徴のない鳥と言ってしまえばそれまでだ。そっくりさんで、タヒバリというのがいる。

タヒバリ→ http://www.gt-works.com/yachoo/zukan/tori/sekirei/tahibari.htm

似てるでしょ!どちらもセキレイの仲間。尻尾を振る仕草までそっくり。唯一の違いは、ビンズイは木の枝に止まるが、タヒバリは水辺とか田んぼとか畑の地上に生息して、木にはまず止まらない。それと、サイズから言って、ビンズイの方が若干小さいと思う。タヒバリは、冬鳥だが(夏は何処にいるのだろうか?)、ビンズイは留鳥だ。冬は平地なんかに降りてくるが夏場は標高の高い山に移動してしまうが。

地味だけれど、双眼鏡で観察するとなかなかチャーミングなビンズイに出会って気をよくした小生。朝からハイテンションになる。出勤カードを切って、しばらくキャンパス内のまばらな雑木林や植物の植え込み、雑木林縁を散策する。キョッ、キョッ、キョッと先ほどからアカゲラの鳴き声が聞こえてくる。どこだ、どこだぁ!

12月半ば、ルリビタキの♀が1羽、突然現れて一週間楽しませてもらった付近だ。ルリビタキはいつの間にか、「抜けて」しまったようだ。 ジーッとあたりを伺うこと数分。いたいた、アカゲラらしきすがた。すかさず、鞄の中から双眼鏡を取りだして覗く。おお、アカゲラの♀のようだ。近づくと、すぐ別の木に逃げる。追いかけっこになってしまった。遠くから眺めていれば良いのに・・・・・年甲斐もなく.....。

アカゲラ → http://www.gt-works.com/yachoo/zukan/tori/kitutuki/akagera.htm

反対側の崖になっている雑木林縁を歩く。アオジがたくさんいる。近くの茂みではウグイスが笹鳴いている。どこかでコゲラのギィーという声。坂道の途中まで降りて、しばらくじっーっとして耳を澄ませる。メジロのチュルチュルチュルという声。崖の下は湿地と枯れ草の野原になっている。ミソサザイも出そうだなぁ。遠くで、フィッ、フィッ、フィフォッというベニマシコの声。いやはや、ここもなかなかのバードウォチングスポットなんだ!今週末は、早朝、足を運んで徹底的に探索してやろう、と思っていると時計は815分を回ってしまった。やれやれ、と事務所に急いだのだった。

そして、1日はあっという間に終わってしまった。結構、忙しかった。昼休みのバードウォッチングはスキップした。残念だが。とは言え、朝が充実すると、1日がうきうき、楽しくすごせるなら、こんないいことはない、とも思う。しかし、あまりにも最近は野鳥に偏重しすぎた。しばらく、野鳥の話題は打ち切ろう・・・・・・。

2007年1月 9日 (火)

オオタカに接近遭遇!

このところ話題が野鳥観察(バードウォッチング)に偏ってしまった。しかし、しかし、しかしである。 花鳥にうつつをぬかしているわけではない。その間、自分で目標をたてた本はかかさず読んでいる。佐藤優氏は、「読書とは他人の頭で考えることだ」、と喝破している。人は、読んだ分、あるいはそれ以上に、自分で考えなければならないのだ。私もそうしたい。でなければ、膨大な知識に飲み込まれて、何も残らない・・・。

ビートたけしもギャグに使った「ここはどこ、私は誰」じゃないけれど、「こんなところで俺は一体何をしてるんだ」という思いがある。こんな余計なこと考えないで、素朴に生きて、愛して、死んでいけばいいじゃないか、ともう一人の自分が言う。しかし、しかし、しかしである。私の中の名付けることの出来ない何かが私を駆り立てるのだ。

野鳥観察は、まあ、言ってみれば19世紀型の博物学だ。自分自ら、直接出会って確認した野鳥だが、まだ100種類ちょっである。野鳥ガイドブックによれば、地元の涸沼では160種以上の種が確認されており、私が知らない、しかし、誰かはすでに知っている種がまだ60種類ちかくあるのだ。数を追いかけても仕方ないし、きりがないことは承知している。それでも、私は、時間があれば、双眼鏡を持って、一人野山を歩き回る。私は、かつて誰かが辿った道を、また一人で追体験をしているに等しい。私にとっていまだ未見の野鳥は、存在しないに等しい。図鑑にきちんと整理されて名前が付けられた野鳥は、見事に「整理されて片付けられている」が、「死んでいる」。

何故あなたは、野鳥観察にのめり込むのか、と問われれば、「そこに野鳥がいるからだ」となどと擦れたことは言わない。自分にとって新しい種に出会うことは、大きな喜びだからだ。そして、すでに知っている野鳥にしても、出会い方如何では、それ以上の何か、なのだ。 (おっと、理屈っぽくなってしまった。楽しいものは楽しい、で良いはずなのだが・・・・・。)

新年明けの3連休の日本列島の天気は大荒れに荒れたが、それにもかかわらず、3日間、毎日野鳥を見に毎日でかけた。毎回、毎回、なにがしかドラマがあるのだ。連休最後の昨日は、日本列島を襲った低気圧の影響で風は強くて、コンディションは晴天にもかかわらずあまり良くなかったが、オオタカに3度遭遇した。オオタカの場合、通常はカラスに囲まれてモビング(身を守るための襲撃)を受けているところを、下から見上げることが殆どで、1度だけ、千葉県の県民の森で、指導員の方に教えてもらって150メートルくらい先の雑木林で羽を休める「高貴で優雅なオオタカの姿」を真正面から観察したことが1度だけあった。いわば、両者にとっては安全距離の出会いである。 

今回は、至近距離でいきなり出会ってしまった。 最初の接近遭遇である。目と目が会うところまでは行かなかったが、背中越しに一瞬、この猛禽は私を見たような気がする。そして、あっと言う間に飛び去った。大いなる驚き。思わず立ちすくんだ私。場所は、笠原水道付近の雑木林だ。どうも、風で倒された木の上で、羽を休めていたようだった。 

2度目は、1時間半後、いるかなぁ、と2匹目のドジョウを狙って、そーっと近づいていったのだが、そこには居なかった。ところが、すぐ近くの、別の木に居たのだった。またまた、さーっと、一瞬だが飛び去ってしまった。残念!惜しい!何故気づかなかったのか!第二次接近遭遇である。

そして3度目は、飛び去った後のその場所で、気を取り直して、先日、数分だが、10センチちょっとのあの可愛いミソサザイが尻尾をたてて、姿を見せてくれた場所に、又、出てくれないかなぁと、期待してじーっと佇んでいたのだったが、それをあざ笑うかのように目の前をあっという間に1羽の猛禽が、左手から右手に向けて通り過ぎていったのだった。2度目の遭遇の10数分後のことである。あの顔、体の模様、まちがいなくオオタカだった。第三次接近遭遇!私と3度もの接点を持ったオオタカとの出会い。余韻を反芻しながら、しばらくの間、私はシビレタまま、その場を動けなかった。 これだから、野鳥観察は止められない!

2007年1月 6日 (土)

ジョウビタキは雨がお好き?

1月4日から仕事始め。新年はゆったりと時間が過ぎた。2日間、仕事をして今日から3連休。しかし、外はパラパラと雨が降っている。よーし、行くゾ!双眼鏡と傘持参で出かける。家人にはすぐ戻ってくるからと・・・雨が降っているのに行くかぁ?あんたも好きね~。

「子供の森」の雑木林に行く手前の広場を通りかかる。子供のころよく野球をやったっけ。それから、ある日アオダイショウをみつけて、皆でよってたかって袋だ叩きして殺してしまったことも思い出す。子供は正直で残酷だ。雨足が少し強くなってきた。どうしよう、今日は止めるか。

と、迷い始めた時、ジョウビタキの囀りが始まった。昨日も職場に向かう朝(金曜日は遅番で10時45分出勤、1時間ゆっくり歩いてバードウォッチングをしながら出かけた)、同じ場所で見かけた。こんな雨が降っているのにこの元気な囀り。空き地を囲む手すりに止まってどうどうと鳴いている。しばらく双眼鏡で覗いて見とれてしまった。ちょうどこっちを向いて口を開けて囀っている。口の中の赤が見える。 これで、今日は雨天決行の決意が固まった。もうどんなことがあっても最後まで行くゾ!

雑木林の階段を下りて、林縁を歩く。ルリビタキの♀が住み着いている付近に差し掛かると、ちらっと姿が見えたものの、すぐ藪の中に姿を消してしまった。残念・・・。すぐ近くにシロハラの姿、それにちらっとモズの姿。そして、またまた、ジョウビタキの♂の姿。ラッキィ~。

千波湖はいつもは朝の散歩で人が大勢いるが、今日は誰もいない。そりゃそうだ。この雨だもの。私一人で独占だ。カワウ、ユリカモメ、ドバト、オオハクチョウ、コクチョウ、コブハクチョウ、ドバト、カンムリカイツブリ、カルガモ、ホシハジロ、オナガガモ、ヒドリガモ、オオバン、セグロカモメ・・・・。

トンネルを抜けて千波公園へ。いきなり右手の小さな水路の上をカワセミが飛んでいく。50メートル先の水辺の側の杭に止まったところを、双眼鏡で覗く。♂だ。

桜川沿いに歩く。いつもと違う鳥の姿が岸辺で餌漁りしている。双眼鏡で覗くと、コチドリ3羽。いや、目の黄色いリングがないぞ。イカルチドリ?

橋を渡って、徳川博物館のある雑木林沿いに歩く。ややややッ、またまた、ジョウビタキの♂。またまた囀ってるぞ。ジョウビタキは雨の日がお好き?枝の上で羽を休めて伸びをしたり羽繕いをしたり、足で頭をかいたり、いやあ、私生活をいろいろ見せてくれました。

道沿いの植え込みには沢山のアオジが餌を漁っている。ツグミの姿もあちこちに。公園センターの前の水路ではセグロセキレイ。 近くの梢でピチピチする。シメである。この辺りに住み着いている。散歩の度に必ずその姿を拝ませてもらっている。

道路を渡って護国神社へ。もみじ谷、桜山をゆっくり歩く。ここに来て、調子が悪くなった。公園内の池でコサギがこっそり餌漁りしている以外は全然駄目。いつものルリビタキスポットでじっくり待つも、♂2羽も♀1羽もさっぱり姿を見せてくれない。いるのは、シロハラとヤマガラとシジュウカラとコゲラとカケスだけ。時折、ウグイスの笹鳴きがするくらい。

桜山では、毎度顔を合わせる野良犬君とまた会ってしまった。目と目が合えば、追いかけてくる。時々吠えられたりする。雨足がさらに強くなる。こりゃ、駄目だぁ。引き返そう。

と、ウソの群れがやって来た。あの聞き覚えのある口笛の音。7~8羽のウソである。盛んに桜の木の芽を貪っている。しばらく、このウソたちと戯れながらルリビタキよ、出て来~い、と待っていたが結局駄目だった。

帰路に着く。途中で往路に出会ったジョウビタキ♂に再会、別のシロハラ、そして、アカハラ、そして、モズの♀に遭遇。 桜川の土手の方ではタヒバリの声がするが姿は見えない。

千波湖の側の店でソフトクリームを買って食べる。誰もいない。にやけた中年男が雨の中、傘をさして、ソフトクリームを食べている姿は様にならないなぁ。

最後にもう一度、少年の森のルリビタキスポットへ。やっと、ルリビタキ嬢(♀)に再会。15分近くいっしょに戯れた。いやぁ、やんちゃである。あちこち忙しく飛び歩く。地面に降りて餌をくわえたかと思うとまた枝に戻ったり、ベンチにチョコンととまって羽を休めたり。途中、双眼鏡の中に、アカハラ君まで飛び入りで登場してくれた。最後の最後で、楽しませてくれた。これで、満たされた。

12時過ぎ、約2時間半の雨の日のバードウォッチングは終了した。もう、本格的な土砂降り。靴はびしょびしょ。しかし、目はキラキラ。体は空っぽ。無の境地と恍惚感で一杯だった。

2007年1月 2日 (火)

遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。

2007年の元旦は静かに終わった。昔から正月は何もしない。家族だけでゆっくりと手作りのおせち料理を食べて、ごろっとしてミカンを食べたり、テレビを見たりで終わってしまう。ここ3年ほどは、大晦日を東京で過ごして、元旦の夕方帰郷するというパターンだったが、今年は大晦日も元旦も自宅でゆっくりした。

BS放送で、ギリシャの鉄道旅行をやっている。トルコ国境かギリシャに入り、寄り道しながらカヌーに乗ったり、メテオラの修道院を見下ろす石山に上ったり、アテネでは、影絵劇場に飛び込んだり、サントリーニ島の白い家々を見たら、自分も20年以上前にギリシャの小さな島で見た青い空と海、強烈な日差しと蝉の合唱を思い出した。

昼前に、弟夫婦が新年の挨拶でやってきて2泊3日していった子供たちを引き連れて明日は、スキーにいってきまーす、と帰っていって、家の中はホッとして静かになった。早めの夕食を取って熱いお風呂に入って、両親は早々と就寝。 

年末はバードウォッチング三昧でほとんど家に居なかった私だが、さすがに今日は朝寝坊して、朝から酒を飲み、おせち料理に舌鼓を打ち、ゆっくりくつろいだ。 暖房をがんがん効かして(この地方都市は東京より気温が2度、3度低い!)、コタツに入り、本を読み始めた。 濫読だが、「毛沢東の私生活」と「朝鮮半島核外交」(重村智計著)をぱらぱらと読みながら、テレビのスイッチを入れる。 

恒例のニューイヤーコンサートをやっている。指揮はズービン・メータ。ヴィーナー・ワルツとフォルクス・オーパーのバレエ団の優雅な演技、ハプスブルク家ゆかりのお城と豪華な部屋・・・。ズービン・メータが英語とドイツ語でEUに2007年1月から加盟したルーマニアとブルガリアの紹介とお祝いの言葉。ルーマニアはカトリックだけれど、確かブルガリアはギリシャ正教じゃなかったっけ。EUなの?

終了した直後に、急に、思い出したようにルキノ・ビスコンティ監督の「夏の嵐」(原題はSensoで、官能の意味らしい)を深夜過ぎまで見てしまった。あっという間の2時間だった。

時代は1860年代のベニス。ガリバルディのイタリア統一運動でイタリア・ナショナリズムが燃え盛る中、ベニスはいまだにハプスブルク家の支配を受けていた。 冒頭は、ヴェルディの「イル・トロバトーレ」の有名なアリアのシーンらしい。字幕を見ると、音楽はアントン・ブルックナーが使用されるようだ。

ハプスブルク帝国の破滅の予感とイタリアのはげしいナショナリズム革命の騒がしい背景のなかで、支配者のハプスブルク家の駐留軍人とベニスの伯爵夫人の破滅にいたる不倫がテーマ。

伯爵夫人は、革命に身を捧げる従兄の軍資金を預かりながら、最後には、裏切ってその金をほれてしまったハプスブルク駐留軍人中尉フランツ・マーラーに渡してしまう。時まさに、イタリア軍とハプスブルク・オーストリア軍の戦端が開かれた時である。伯爵夫人は、戦争中の物騒ななか命がけで馬車を走らせベローナの中尉を尋ねるが、騙されたことに気づく。 金目当ての中尉には若くて美人の娼婦がいて、彼女のまえで伯爵夫人を愚弄する。中尉は、自分に惚れ込む伯爵夫人をたぶらかして、医者にウソの診断書を書かせて除隊、大金と女と安楽な生活を手に入れたのだ。絶望した伯爵夫人は、復讐の為に、ハプスブルク軍の将軍に一部始終を伝え、証拠の手紙を見せて処罰を依頼する。中尉は、逮捕され、銃殺される。

「第三の男」に出ていた女優のアリッダ・ヴァリの演技がすごい。恋に目覚めてしまった女のすごさを見事に演じていた。「第三の男」でも極悪人ながら魅力に富むオーソン・ウェルズに惚れ込む女も見事に演じていたものだ。 

そして、映画は全編、アントン・ブルックナーの荘重・静謐・悲劇的な音楽が効果的に使われていた。ミラノ出身の由緒ある貴族の末裔だったビスコンティ監督だが、北イタリアというのは、ハプスブルク帝国に長い間支配され(例外はナポレオンがヨーロッパを席捲した時代)ていたのだった。有名なヴィーナー・シュニッツェル(ウィーン風カツレツ)とはコットレッタ・ミラネーゼ(ミラノ風カツレツ)のことである。プロイセン主導の北ドイツとかなり雰囲気の違うハプスブルク・オーストリアは同じドイツ文化圏でありながら、南国イタリア(といっても北部イタリア)の影響があって随分ゆったりとして、明るいのはこのせいであろう。

映画の余韻を反芻しながら、塚本哲也氏の「わが青春のハプスブルク」の関連の章を再読していると、眠くなって来た。 2007年の元旦はかくして、平穏の内に過ぎた。今年も健康で、大好きなバードウォッチングが思う存分できること、そして、時間を有効に活用して、この歳でありながら、まだまだチャンスのある?キャリアアップの為の勉強に取り組むこと、を目標に頑張るぞ!

遅くなりましたが、皆さん、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

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