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2007年2月 4日 (日)

気ままにおしゃべり(5) 映画「天井桟敷の人々」

「天井桟敷の人々」は数年に一度は見ている大好きな映画だ。私の両親の世代(昭和一桁)が青春時代に見た映画だというが、ずーっと若い後の世代である私が何度見ても楽しい。

ハリウッドでは絶対できないヨーロッパの香りのする傑作だと思う。ナチス占領時代に作られた映画だというが、どこにも戦争の影は見られない。そして、プレヴェールのセリフが洒落ている。プレヴェールが紡ぎだすセリフの為にこの映画を作ったのではないかと思える、と批評家の誰かだったかが言っていたと思う。

時代は1800年代前半のパリ。フランス革命、ナポレオン戦争を経た反革命という時代の荒波の中、時はロマン主義の時代。実在の悪人をモデルにした悪党詩人ラスネールのセリフが印象に残る。以下、現代詩手帳 詩情と詩情もどき プレヴェールと映画 (山田宏一)より一部抜粋。

N’aimer personne Etre seul. N’etre aime de personne. Etre libre (誰も愛さない。全くの孤独。誰からも愛されない。全くの自由)

Les philosophes pensent toujuours a la mort et les jolies femmes a l’amour(哲学者はいつも死を想い、美しい女はいつも恋を思う)

Ah! C’est vrai qu’<ils> sont trop laids! Comme j’aimerais en supprimer le plus possible(世間の奴らは醜すぎる。奴らをできるだけ大勢、片っ端から殺してやりたいのが俺の悲願さ)

とこんな具合だ。映画の見方はひとそれぞれだ。この映画の場合、それぞれの役者の台詞を追いかけて観るのもひとつの観方だろう。

昭和の最後のころ、文芸春秋社でアンケートした際にもランキング1位になった映画だった。その文庫本も本箱を探したら出てきた。赤瀬川準、長部日出男、中野翠3氏の対談をぱらぱらめくりながら、まとめて見ると:

「恋なんて簡単よ」とのたまうアルレッティ扮するガランスは、皆があこがれるのだが、娼婦型で、普通には生きて行けないタイプの女性。一方、マリア・カザレス演ずるナタリーは「普通の真面目で貞淑、つまり、平凡なタイプの女性」。このナタリーが、パントマイムの天才役者バチスト役のジャン・ルイ・バローに惚れて結婚もするのだが、バローは、ガランスに恋したまま。ナタリーは嫉妬して、良いとこ取りするガランスに噛み付く。映画を見る側の女性は、(実際には皆、ナタリー・タイプなのに)ほとんどの場合、ガランスに感情移入して観てしまうという。ガランス的な生き方は「女性の理想」なのだという。そうなんですネ。

バローの友人ルメートルは、ペラペラ喋る調子の良い軽い男だが、いとも簡単に女をものにしてしまう。バローは、「道化・ピエロ的な存在、妖精的でこの世ならぬものを求めてしまう」タイプで、ガランスに恋したまま、うつろな心で生きていく。

皆の憧れのガランスを、結局、貴族の大金持ちも、悪党詩人ラスネールも、恋の達人ルメートルも、そして、一途に恋するバローも「捉まえる事が出来なくて」、映画の最後の場面で、ガランスはスクリーンに背中を向けて、祭りの群集の中に姿を消していく。バチストもすがりつくナタリーを置き去りにして、「ガランス」と叫びながら群衆の中に入っていく・・・。 恋の勝利者には誰もなれなかった。 ガランスでさえも。ガランスは恋そのものかも知れない。恋というのは誰にも掴まえるられない。掴まえた途端に、別物になってしまう・・・。

長部氏は、この映画には恋愛における男と女の基本的なタイプと関係が全部含まれるのではないか、とコメントしている。アメリカ映画の傑作「風と共に去りぬ」のスカーレットとメラニー、レッド・バトラーとアシュレーの4者の関係は、この「天井桟敷の人々」とパラレルになってるかもしれないなぁ。

(続く)

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