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2007年3月31日 (土)

春先の憂鬱・ゲーテ・ツバメ・そしてオオイヌノフグリ

春先の憂鬱に襲われ、今一つ気分が晴れない。来週から、新学期が始まるし、何となく落ち着かない。久しぶりに感じるほのかな不安と期待・・・。

昨夜は、帰宅して手作りのジャーマン・ポテトを肴に久しぶりにビールを飲み、赤ワインを飲んだ。玉ねぎ・ベーコン・ジャガイモを良く炒めて、青いパセリを振りかけて食べるシンプルなものだが、美味かった。この時ばかりは、味覚に集中してしばしの幸福感を味わう。 満ち足りて、2階へ上がる。本が山のように積まれている私の聖域だ。

ゲーテの本をたまたま手にする。ファウスト第二部の最後の有名なくだりが、目に留まる。

Alles Vergaengliche ist nur ein Gleichnis   すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず ・・・ 高橋義孝氏の註を読むと、「般若心経」にいう「空」のごときか。真の実体を持たぬ現象界の諸事物、とある。なるほど・・・。

ゲーテ関連の本は、今まで敬遠してきた本だ。「イタリア紀行」を紐解いたこともあるが、イタリアに辿り着く前のところで、鉱物がどうのこうので、昔やめてしまった記憶がある。数年前、再び手にして、ヴェローナまで一緒に旅したのだったが、そこで止まったままだ。

野鳥観察を始めて、動物行動学で著名なオーストリアのコンコンラート・ローレンツ著「ソロモンの指環」を面白くよんで、さらに色気をだして、「攻撃」(悪の自然誌)に手をだしてみると・・・各章の扉にはゲーテの箴言が引用されていて気になっている。 たとえば第3章だと:悪の役割について~つねに悪を欲しながら善を生み出すあの力ですよ・・・。どこからの引用だろうか?

そろそろ、ゲーテが分かる歳になったか!と、柴田翔氏の「ファウスト第Ⅰ部を読む」を手にしてベッドにもぐりこみ、読み始めたが、結局眠くなってそのまま寝入ってしまった昨夜。

今朝は、5時半に目覚ましがなって起きた。久しぶりの早朝バードウォッチングを敢行。

心軽く双眼鏡を持って家を飛び出す。歩き出してすぐに、ツピッ、ツピッというあの懐かしい声が聞こえる。ツバメがやって来た!近くの産婦人科病院前の電線に2羽のツバメの番が羽を休めていた。心躍る瞬間である。

今日は、どんよりと曇り、時折薄日が差すだけの肌寒い陽気だったが、先週に続いて約40種の野鳥に出会った。囀りも沢山聞いた。ヒバリ、アオジ、ホオジロ、ヒガラ、シジュウカラ、カワラヒワ、メジロ、ヤマガラ。キジも声を振り絞っていた。コジュケイもやかましく鳴いていた。まだ、ルリビタキやジョウビタキもいる。ツグミ、イソヒヨドリ、ベニマシコ、シメ・・・・・。 私の秘密の探鳥スポットだが、一種だけ、初めて聞く野鳥の地鳴きがあった。ひょっとしてガビチョウかもしれない。双眼鏡で捉え損なって残念。

野鳥観察にのめりこんでいると、野鳥が食べる植物の実の存在を意識するようになり、樹木や草花全般にも興味が沸いてくる。中公新書の「日本の樹木」「続・日本の樹木」は美しいスケッチ付きで楽しい本だが、最近、同じ出版社から、「雑草のはなし」が出た。早速買ってきて、パラパラ美しい口絵の写真を眺めたり、雑草についての知識を仕入れた。 一気に読みきる本ではないが、コタツやベッドにごろりとなって、気ままにページを開いて、ああ、どこかで見た木だな、ふむふむ、なになに、と普段何気なく見ているようだが実はよく知らない植物の秘密に触れるのは無上の慶びである。

オオイヌノフグリを始めて意識して見たのは、埼玉県の見沼界隈をぶらぶらし始めたころだと思う。野原でたむろする沢山のヒバリに驚いて双眼鏡で覗いていたら、瑠璃色の可憐な花が一緒に飛び込んできたのだった。名前が良くない、と「雑草のはなし」の著者も言う。花が咲いて、受粉して、実を結ぶのだが、視覚的に犬の陰嚢に似ているからこの名前が付いたというが、花自体はなかなか美しい。英語では、宝石にちなんで、名づけられているという。何という違いだろうか? Wikipediaで調べて見ると、日本で見るこのオオイヌノフグリは帰化植物らしい。

実は、ニュージーランドのハミルトンに滞在した2年前の8月後半、ということは、現地は、冬なのだが、ホテルの近くの川沿いを散策して、このオオイヌノフグリを見つけて、日本と同のがあるじゃないか!と不思議な感動を覚えたことが思い出される。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%B0%E3%83%AA

オオイヌノフグリのほかに、ナズナ、西洋タンポポ、カントウタンポポ、ホトケノザ、スミレなどが、あちこちに咲いていて、今日は、「雑草の話」を復習しながら、10時過ぎに、満ち足りて散策を終えた。もちろん、目はキラキラ、心は空っぽで。

2007年3月29日 (木)

旅の記憶シリーズ(2) ドバイのスークを歩く。

2003年の2月と3月に2度、仕事の帰りに1泊ずつした。これが、あのイスラム教の世界なのだろうか?我が目を疑う町だった。アラブ首長国連邦にあるバブリーな町である。

2月だというのに日中は真夏の日本のようにメチャクチャ暑い。建物の中は、クーラーをメチャクチャ効かせて涼しいのだが、外に出たらもう大変である。気温は、30度をはるかに超える。

アラブの問題はアラブ人が少ないことではないだろうか?この国も、いわゆるアラブ人よりも、インド人、パキスタン人、スリランカ人、アフリカからの黒人、東南アジアからフィリピン人、タイ人がいわゆる普通の労働力として住んでいるのには驚いた。

タクシーの運転手というと決まって、インド人かパキスタン人だ。ホテルのスタッフやレストランのウェイター・ウェイトレスはフィリピン人やタイ人が多いような気がする。ロシア人がいるのにはこれまたびっくりした。最近は、ロシアからもかなりの人が観光でやってくるという。

市内観光や砂漠サファリツアーのドライバーだが、私の場合、アフリカは、ザンジバル出身の黒人ドライバーで、日本語ガイドはスリランカ人、という具合だった。ちなみに、夕方からの夕食付きサファリツアーでは、大阪出身の独身女性の二人ずれとオーストラリアに孫夫婦を訪ねた後、帰国途中にドバイに寄ったというイギリス人夫婦と一緒になって楽しんだ。

何という人種の多様さであること!聞くところによると、この国には税金がないのだそうだ。石油収入でいわゆるアラブ首長国のアラブ人は、生まれながらに裕福な金持ちで、投資家ばかり。仕事をするのは皆外国人ということだそうだ。

大阪からはエミレーツというアラブ首長国連邦の国営機(というか王室の所有)の直行便が飛んでいる。日本人が一人歩きしても安全な町、というのがこのドバイ。お隣りというか海を隔てたイラクでは内戦状態で沢山の人が死んでいるのが嘘のようだ。

カザフスタンやクウェートでの仕事で疲れ、日本へ帰国するためにやむなく、たまたま一泊しただけだったが、貪欲に観光をした。見るところは正直に言ってあまりない。イギリスの植民地だったころの砦の後が、博物館になっていた。季節柄なのか、アマツバメが盛んに飛び交って、砦の石垣の隙間に入り込んで巣を作っていた。

クリークでは日本でもおなじみのユリカモメがいた。フェリーでクリークを渡ると、すぐそこに大きなスーク(アラブの市場)があった。雑貨屋が多いが、目を引くのは、香辛料を扱う店がやたらと多いことと、それから金細工の店だ。店を冷やかしながら、サフランを大量に安く購入した。日本で買うサフランはとても高価だからだ。あと、目に付いたのは「乳香」という香料だ。宗教の儀式にも使うらしいし、医薬品としても使うものだそうだが、日本人にはなじみがない。きょろきょろしていると、隣にドイツ人らしき団体がやってきてドイツ人のガイドが、スークの香料についてひとしきり、ドイツ人らしい徹底した説明をやっていた。

半日、このスークをあっちこっち、気ままにぶらぶらするだけだったが、エキゾチックで飽きなかった。途中、びっくりしたのには、ISETANという店を見つけたときだった。日本の伊勢丹とはまったく関係のない、いわゆる雑貨屋であった。

この日は、どういうわけか、あちこちでラジオに聞き入る浅黒いインド・パキスタン人の姿を見かけた。何か、スポーツ中継に聞き入っているようだった。歩き疲れて、とあるお土産屋を覗いていたら、彫りの深いインド人らしき男と目があった。さっそく、人なつかしそうに、彼がやって来た。 

日本人か? そうだ。あなたは? インドから出稼ぎに来ている。 単身で来ていて毎月、家族に仕送りしているという。ラジオでは一体何を放送しているのか?インドとパキスタンのナショナルチームによるホッケーの対抗戦だ。 なるほどぉ~。

それで、皆、一喜一憂しているのが分かった。インドとパキスタンは、宿命のライバルであり、ことごとく対立している。サッカーの日韓戦みたいなものだろうか?

かくして、私は、タクシーに乗り、これまた彫りの深いインド人のドライバーの運転で、インド対パキスタンのホッケーの試合中継の話をしながら、ホテルに戻った。シャワーを浴びて、さっぱりして、クーラーの効いたレストランでアラブ料理のビュッフェの昼食をたっぷりと取る。羊の肉がこんなに美味しいとはまったく知らなかった。

満ち足りた私は、そのまま、空港に向かい、シンガポール航空でドバイを後にしたのだった。

2007年3月26日 (月)

旅の記憶シリーズ (1) ドイツ ~ Minden

自分の享楽の為に旅行はしたことがない。これまで、いろいろなところを偏って旅行してきたが、ほとんどが学生時代の研修は別として、「仕事」の為に出かけたのだった。泊まるホテルだって、安宿がほとんだ。ここで告白しておこう。私は、アメリカ合衆国に行ったことがない。ハワイ、グアム、サイパンはもちろん、北米大陸に足を踏み入れたことがない。別に恥とは思っていないのだけれど。結婚したことなし、車の免許なし、アメリカに行ったことなし、の「3なし」なのだった。しかし、田舎に戻って、運転免許だけは、生活上の必要から取ってしまった・・・。が、いまだに、車は持っていない。車なぞ、誰が買うものか!である・・・。

学生時代にドイツ語なぞ勉強してしまって、その延長で、会社でもヨーロッパ方面にかかわる仕事を主に担当した為か、ヨーロッパには随分出かけた。だから、旅の思い出となると、断然ヨーロッパが多い。しかし、偏っている。ドイツだと、大都市ばかり(ハンブルク、フランクフルト、ミュンヘン、ベルリン、デュッセルドルフ、ケルン、ボン、シュトゥットガルト)、オランダ、フランス(パリとマルセイユだけ)、オーストリア(ウィーンだけ)、デンマーク(コペンハーゲンだけ)、フィンランド(ヘルシンキだけ)、スウェーデン(ストックホルムだけ)、ベルギー(ブラッセルとアルデンヌの森、リエージュ)、ルクセンブルク、イタリア(ローマとフィレンツェだけ)、ハンガリー(ブダペストとヘレンド、プスタ大草原)、ロシア(沿海州のハバロフスクとモスクワだけ)、ギリシャ(アテネとエギーナ島だけ)、そしてイギリス(ロンドンとイングランド周辺だけ、スコットランド、ウェールズは行っていない)と言った具合。それも、仕事だから、夕方チェックイン、翌朝チェックアウト、1日仕事して(数泊することもある)、また夕方次の都市に移動して、チェックイン。というパターンが多い。観光なぞ、ほとんどした記憶がない。つまり、昔の有閑階級が、仕事ではなく、暇を使って旅する旅はしたことがないのだ。ああ、悲しいヤ。

アジアもそれなりに縁があって出かけている。マレーシア、シンガポール、タイ、インドネシア(ボロブドールも出かけた)、香港、中国は、ハルピン、長春、大連、旅順、北京、上海、蘇州、広州、海南島。仕事だから、いつもピンポイント。観光もあまりしていない。

などと、くどくどと愚痴っても始まらない。昔は日記なぞ付けていなかった。記憶を頼りに、そして途中からは(1995年)つけている日記を頼りに、旅のスケッチ、を試みてみよう。もう、取替えしのつかない「失われた時を求めて」・・・。

まずは、ドイツから。

ジュッセルドルフから1日日帰りでMindenという町に出張したことを思い出す。ニーダ-ザクセン州の田舎町だったと思う。大方は忘れてしまったが、何故だか、列車の中のこと事務所でのやり取りを断片的にだが鮮明に覚えている。

ヨーロッパの列車は、コンパートメント式の車両の場合がよくあり、このときは、ビジネスアタッシュケースを持った自分が一人で乗っていた。連日の緊張で、疲れがでてうとうとしていた。

途中で、母親と小さな子供連れの親子が乗ってきた。そしてまた、どこか途中で両親に見送られたと思しき男性の大学生が乗ってきて、コンパートメントは4人で一杯になった。 私は、うとうと眠っていた。 端々に会話が聞こえる。 

どこかの駅で、ギターと歌が聞こえてくる。「花は何処へ行った」というフォークソングを当然だがドイツ語で歌っていた。若い女子高校生らしきグループがギターを伴奏に、合唱していた。

Sag mir wo die Blumen sind ? (Where have all the flowers gone)

Wo sind sie gebliegen….(Long time passing)

英語の対訳ではなかったが、確か、マレーネ・ディートリッヒが歌って大ヒットした記憶がある。

列車は走る。カタカタコットン、カタコットン。私はうとうと眠り続けていた。

子供連れの母親と若い学生の会話が聞こえる。

大学生は哲学専攻の学生らしい。

親子は休暇で外国、どうもスペインに行くらしい。子供が大学生に問いかける。

Waren Sie schon mal in Spanien ? (スペインに行ったことある?)

いつしか、列車はミンデンに到着。いつの間にか、学生も親子もいなくなっていた。

北ドイツの田舎の小さな駅。駅から徒歩で中央通りといってもほんとに狭い中央通り、訪問先はすぐだった。アポで会う社長さんは、何故か事故で骨折してしまったらしく病院に急遽入院。変わりに、スタッフの女性二人が私の相手だった。一人は、金髪の大柄な女性。名前もインゲ。ゲルマンの官能的な名前だ。もう一人の黒髪のテキパキとした女性が社長の右腕で、仕事の話は問題なく済んだ。

話しもまとまったところで、私は彼女たちをお昼御飯に招待した。外のレストランに出かける前に、インゲがお手洗いに行きます、と席をたった。入ったところは、小さな事務所に直結したトイレ。直後、彼女のオシッコの音が高らかに響き渡り、黒髪の彼女と私は目を丸くして笑ってしまった。

彼女たちと何を食べたのか、さっぱり記憶がない。食後、街中を案内してもらって歩いていたら、大型バスが通った。日本人の旅行者を乗せていた。エキゾチックな東洋人満載で、道行く人たちの好奇心を掻き立てていた。

たった、これだけの記憶である。1980年代前半の6月半ばのころだったと思う。セールス訪問の成果があって、この田舎の旅行会社は、シベリア経由で日本訪日団を送ってきた。何故だかよく分からないが、この日の列車の旅でのドイツ人の会話とミンデンという田舎の小さな旅行社の大柄なインゲのオシッコの音が、いつまでも記憶に残っていて、時折思い出すのだ。

2007年3月24日 (土)

ミソサザイの囀りを聞く!

土曜日の今朝は、6時前には目が覚めてしまった。外はどんより曇っている。7時に起床し、コーヒーとチーズ入りのフランスパンを頬張り、双眼鏡を持って近くの雑木林へ。今日は、野鳥を見にというより、囀りを聞きたくて出かけた。

いきなり、カワセミのカップルや、ジョウビタキの♂に遭遇。幸先良いスタート。シジュウカラ、ヤマガラが囀っている。ウグイスもあちこちで鳴いている。これから冬鳥が徐々に姿を消して、夏鳥がやってくる。楽しみだ。

私だけが知っている探鳥スポットにやって来た。至近距離でルリビタキの♂に出会う。昨年の12月からこの一冬、ずーっと付き合ってくれたルリビタキ君。そろそろ、姿を消すだろう。

直後、ぐずるような何かの野鳥の声が聞こえていたと思ったら、大きな囀りが始まった。ん?何だ、何だ! おお、ミソサザイだぁ!!!複雑だが大変美しい大きな囀りが辺り一面に響き渡る。茂みの中で5分ほど囀ると、場所を次々に変えて、姿を現した。大きな木の切り株に止まって尻尾を上に上げて、口を大きく開いて囀ること、囀ること!!!私の頭の中は、すっかりα波に満たされて、しばし、我を忘れてしまった。

このミソサザイ、10センチくらいしかないホントに小さい小鳥。茶色の地味な鳥ですが、尻尾をピンと立てていて、なかなか可愛らしい小鳥です。

http://www.gt-works.com/yachoo/zukan/tori/misosazai/misosazai.htm

そして囀りは、

http://www.birdlistening.com/home/bird/miso.htm

その後、雑木林一帯をくまなく散策した。エナガ、ヒガラ(囀り)、コジュケイ(これもまた大声で囀るというかやかましく鳴いていた)、セグロセキレイ(囀り)、キジバト(囀り)、そして、アオジまでぐずる感じであの美しいソプラノの囀りを聞かせてくれた。

梅が散って、桜はまだ。春先の早朝の約3時間、バードリスニングを堪能した。

2007年3月21日 (水)

ヒレンジャクに会う!

ウグイスが囀り始めた今日この頃。昨夜は、職場の送別会があって、久しぶりに飲んで遅い帰宅。しかし、今朝は、しゃきっと起きて双眼鏡を持って2時間ほど、軽めのバードウォッチングを楽しんだ。

50歳で戻ったこの町だが、若者にはちょっと静かすぎるかも知れないと思う。が、水と緑に恵まれたこの町は、齢を重ねた自分には向いているのかも知れないと思う。冬場のバードウォッチングもなかなか楽しませてくれている。住宅街を歩きながら、散ってしまった梅や沈丁花の残香にはっとしながら、すぐ間近で囀るウグイスにうっとりしたり。 だが、昨夜から憂鬱に襲われてしまった。毎年、この時期になると?どういうわけか、鬱屈することがある。毎日の仕事と規則正しい生活の繰り返し。何かが足りない?

どうも足取りが重い。今日は近場でゆっくりとした。人出もほとんどないのが幸いだ。散歩コースの階段脇で、ソウシチョウに再会。シメ、シジュウカラ、ヤマガラ、カワラヒワ、アオジ、ツグミ、ヒヨドリ、コゲラ、ルリビタキ(地鳴きだけで姿が見えない)などなど。

今日は、どうも注意力散漫だ。野鳥を見たかと思うと、物思いに襲われる。無心になれないのだ。自分の心の中に沈潜して、また、はっとして、自然に目を向ける。ウグイスとシジュウカラの囀り。シメを双眼鏡で観察すると、嘴が白っぽくなってきている。野鳥たちは夏に向けての装いを変えつつあるようだ。

チリリリリッと野鳥の群れがやって来た。レンジャクだ。去年の春に一度、この森の子供の遊び場の滑り台そばの木で一度見たことがある。そして、一昨日の月曜日も、千波神社の雑木林で10羽前後のレンジャクの群れに出会った。双眼鏡で覗くと、尻尾が赤い。図鑑で見ると、ヒレンジャクだ。冬鳥だ。夏場は、シベリアやアムール川、中国東北部、ウスリーあたりで繁殖するらしい。双眼鏡で覗く姿は、なんともエキゾチックでキレイな鳥だ。

http://www.gt-works.com/yachoo/zukan/tori/renjyaku/hirenjyaku.htm

30分ほど、ヒレンジャクを眺めては、うっとりとした。春の陽光でぽかぽかする。少しだけ心が軽くなった。

2007年3月14日 (水)

「日本近代史の総括」(湯浅赳男著)を読む (その3)

時代は変わって、21世紀の今日でも東アジアの実態は、これは同じなのだという。中国人、朝鮮半島の人々の意識は変わっていない。日本を見る目も変わっていない。従って、第2次世界大戦で負けたはずの日本が、一時はアメリカの国民所得を追い抜くほどの経済復興と成功したことに複雑な感情をもつことは想像に難くない。本来、自分たちよりランクが下のはずの、倭人が。どうして?

これは、実は、中国・朝鮮半島の人々だけではない。日露戦争開戦前、ヨーロッパから「黄苛論」というのが出てきた。ドイツのウィルヘルム2世皇帝がロシアのニコライ皇帝の手紙に書いたという。しかし、これは過去の話ではないのだという。靖国神社参拝や教科書問題、従軍慰安婦にからんで、中国・朝鮮半島と日本が緊張する昨今、ドイツのマスコミから、ドイツは、過去を十分反省し清算した、しかるに日本は・・・というまことしやかな、話が出てきているという。一体これは何か?つまりは、白人正統派(カトリック・プロテスタント)の西洋文明の本家意識から来る、日本叩きであると、湯浅氏は言う。自分たちの立場を脅かす「黄色い異教徒の日本人」という今から100年以上前のドイツ皇帝の発想と同じものが、形を変えてヨーロッパから出てきているらしい。

思うに、我々日本人は、いい加減に、彼ら(アジア・アメリカ・ヨーロッパ)にいい顔をして下手に出る必要はないのだ。おかしなことを言ってきたら、キッパリと言い返して、相手にしないことだ。かといって、彼らの神経を逆撫でするような「単細胞」のようなことは慎むべきだ。ちょっとでも隙を見せれば、その弱みに付込んで難癖をつけ、金をせびり、あらゆる策を弄して、日本人の足を引っ張ることを嬉々としてやってくるだろう。これが、彼らの成り上がりもの、日本に対する深層意識である。

したがって、東アジア経済圏についても、否定はしないが、日本はよほど各国に対するスタンスに注意する必要だろう。適当に距離を取って、肩入れしないで平等主義を貫く。スタンスを間違えれば、アジア諸国はもちろん、アメリカ、ヨーロッパ皆が、手ぐすね引いて、足を引っ張るのだ。日本の舵取りは難しい。まさに、日露戦争後の日本、これが、現在の日本であり、同じ失敗をしないための、冷静さと思慮深さが必要なのではないか。

日本という存在は、もう1度よく考えて見よう。我々は、他国の人々にどのように映っているのか?究極のところ、「目の上のたんこぶ」的存在なのではないか?中国人にとっても、朝鮮半島人にとっても、ヨーロッパの主要国の人たちにとっても、アメリカ人にとっても。そこそこに、おとなしく、ニコニコして、ちょっと難癖をつければ、喜んで大金を出してくれる、その程度だったいいんだけれど。それ以上は絶対許さないぞ、というそんな存在なのだ。

常日頃、日本人のあまりのナイーブさに、このままでいいのだろうか、と疑問を持っていた私だが、湯浅氏の論考を読みかみ締めながら、複雑な気持ちになって来た。

(続く)

2007年3月13日 (火)

「日本近代史の総括」(湯浅赳男著)を読む (その2)

何故、日本はユダヤ人と同じ位置なのか?次は、日本と中国・朝鮮半島との関係について、同氏の話が続く。

日本が開国する前の時代は、長い間中国を中心とアジア秩序があった。いわゆる華夷秩序に基づく朝貢体制。日本は、実は、中国とは隋の時代に、不遜な外交文書を出して(日出ずるところの君主、云々)以来、明治になるまで正式な外交関係(朝貢関係)がなかった。当時の東アジアには、2000年以上も中国→朝鮮半島→日本という序列意識があって、日本は、中華秩序の一番外側で、まあ言ってみれば、一番の田舎もの、見下されていたわけだ。

明治維新後、近代ヨーロッパの主権国家の考え方が入って、国の大小に関らず、国の主権が対等である、というこの概念は、通用しなくなった。何故か、日本は、開国以来、西洋化を着々と進め、李氏朝鮮をめぐって、清と対立し、日清戦争を起こして行ったのだが、これは、西洋の論理で動く日本と、従来の華夷秩序意識に基づく論理の戦いだったが、結局、日本が採用した西洋の論理の勝利であった。これが、骨の髄まで儒教的(朱子学的)意識が染み込んだ中国・朝鮮半島人にとっては、日本を恨んでも恨み切れない禍根の淵源となった。本来、自分たちより格下の人間に武力で押さえつけられて日本式西洋を押し付けられる屈辱。

湯浅氏は、日本の「アジア主義」を「独りよがりのロマンシズム」と切り捨てている。この「アジア主義」とは、日本を先頭に中国・朝鮮半島を始めアジアの民族は力を合わせて西洋植民地主義者と戦う、というイデオロギーであったのだが、日本人の絵に描いた餅にして「マスターベーション」でしかなかったということだろう。

何故、中国は、日本を敵にして、アメリカと手を組んだのか?非キリスト教徒であり同じ東洋人として、告白しなければならないのは、白人のキリスト教国家(カトリックとプロテスタント)の文明は仰ぎ見る存在だったことだ。日本がそもそも、西洋の近代文明を盛んにコピーしたではないか?中国も、朝鮮半島も、日本も、それ以外のアジアも皆、いろいろ言っても、白人の西洋文明はまぶしい、輝ける仰ぎ見るものだった。中国人や朝鮮人の深層意識として、ロシアを破る日本には喝采を贈るが、同じ東洋人として白人の位置まで上り詰める東洋人は認めたくない、という心理が働いたのだった。西洋を仰ぎ見るという点では皆、横並びで同じなのだ。確かに、日本に留学生が沢山来たが、日本を勉強したのではなく、日本が短期間でマスターしたその手法を勉強して西洋文明(技術)を学びに来ただけだったのだ。そう、日本は自分たちの競争相手なのだ!

このあたり、湯浅氏は、当時の三木清氏や谷川哲三氏が上海で見聞した記録を引用しながら、中国における西洋崇拝振りに触れながら、なおかつ、西洋のカトリックとアメリカの宣教師が中国・朝鮮半島で果たした当時の役割の大きさを指摘している。現在の韓国のキリスト教徒は人口の三分の一にもなるというが大本は、日本の朝鮮併合にあるらしい。

義和団事件というのが1900年にあったが、その賠償金を取った列国のうち、アメリカは賠償金を基金として中国人を中心にした学術研究機関を作って中国に還元している!何と言うソフト戦略だろうか?貧しい日本は、戦争で賠償金を取るごとに、国の軍備増強に投資していたわけだが、ソフト面では、「ひとりよがりのアジア主義」の独善に陥り、招かざる客としてアジア大陸で大暴れしてしまったというわけである。土足で上がりこまれた地元の人たちの恨みは大きい。

(続く)

「日本近代史の総括」(湯浅赳男著)を読む (その1)

ざっと読みだが、おもしろくて一気に読んでしまった。日本近代史の総括は簡単ではない。副題は、「日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析」。 著者によれば、日本とイスラエル(ユダヤ人)のみが、非キリスト教徒でありながら、近代西洋文明の中枢への入り込みに成功した「民族」である。(民族という概念は結構あやしいのだが、ひとまず、詮索しないで話を進める)。そして両者とも、いわゆる西洋近代文明の担い手とされる白人キリスト教徒(カトリック・プロテスタント)達からは、都合が良いときに利用され、都合が悪くなれば、排除される運命を持っている不思議な共通性を持っているという。なるほど、確かに!

ユダヤ人と日本人。個人的な経験によれば、まったく対極的な人間である。片や、2000年に及ぶディアスポラを経験した抜け目のない、知能指数の高い、商売上手でしたたかな民族、というイメージ。一方の日本は、島国育ちの大アマちゃんで、人が良くて馬鹿正直で、スレッカラシのユダヤ人(だけではないが)とは程遠い存在。これは、歴史的な境遇の違いからたまたまそうなのだろうか。

高名なアメリカの国際政治学者ハンチントン氏はその著名な「文明の衝突」の中で、日本をひとつの文明として扱い、しかも、孤立した文明、つまり、日本以外に共感を共有できるパートナーが居ない文明と位置づけていた。言葉としてはなんとなく分かるのだが、本当の意味をこの湯浅氏の著書ではっきりと理解した。

明治維新から大東亜戦争敗戦までの時代は、2段階に分かれる。西洋から見れば、未開とは言わないまでも、十分に文明化したとも認められない、半文明国であった日本。偽善といってしまえばそれまでだが、アメリカは、キリスト教的使命(神の福音を伝えることが人間になることであり、文明の恩恵にあずかること)と世俗的な近代資本主義の欲望に基づく帝国主義の2面作戦で、日露戦争までは、日本を支援した。日露戦争での勝利の原因は、日英同盟とアメリカのユダヤ資本による日本に対する戦争ファイナンスなど、アングロサクソン勢力の支援がなければ到底望めないものだった。

外交文書で明らかなことは(セオドア・ルーズベルトがドイツの外交官に語ったこと)、ロシア(キリスト教徒だが、ギリシャ正教とであり、むしろ、モンゴルの再来。西洋から見ると、シンパシーがあまりない)の強大化を阻止するために、日本を利用するだけ利用した。すなわち、どちらも勝ちすぎてはいけない。双方がそれなりに犠牲を出し疲弊したところで調停役として講和を実現させたのだった。日露戦争での日本の戦いぶりは確かに立派であったが、イギリス・アメリカのアングロサクソンパワーの後押し・冷徹な計算が見え隠れしている。つまり、当事の超大国のシナリオでの戦争だったのだ。

しかし、この日露戦争を境として、アメリカの政策は露骨に変わる。日本人の排斥、日英同盟の分断、ワシントン条約から1945年の日本の敗戦まで、アメリカは日本に対する敵対政策を取ってきた。日露戦争でロシア勢力が撤退、第1次世界大戦でヨーロッパ勢力が弱まり、その隙間に日本が一人勝ちしてしまった。ベルサイユ条約で、敗戦国ドイツの青島の利権を日本に認めさせたものの、対華21か条の要求あたりから、五四運動(反日運動)が中国で展開されていくのだが、この影にはアメリカの影響が大きいという。よく言われるのは、日本が満洲の利権を独り占めして、アメリカを排除したことが大きいようだ。(アメリカの鉄道王ハリマン商会の共同出資提案を断ったこと)。

1929年の世界大恐慌、満州事変、日中戦争勃発(当時は、シナ事変で、戦争とは言っていなかった)、そして、ハルノートによる日米交渉決裂。私の両親から上の世代、戦前の日本を記憶している人たちは一様に当時の本音として、アメリカがとにかく日本を追い詰めた、だから、真珠湾攻撃で日本が開戦したときは、ホットして、胸が晴れた、という感情を吐露していることを思い出そう。当時の大方の日本人は、自らの自衛の為に大陸に進出し(現地の人にすれば、侵略かもしれないが、なら、アメリカのハワイ併合、グアム、サイパン、フィリピン植民地化は何なのか?そもそも、アメリカ大陸のインディアンはどうなるのか?)生存権を確保することのどこがいけないのか?(あぶない、あぶない、こんなことを言っていいのか!?)ちなみに、当時は、大恐慌で世界が本当に疲弊し、大英帝国は連邦間でブロック化し他国の商品を排除していたし、アメリカ合衆国は、高関税障壁を実践する保護主義の国であったことを誰が今日想像できるだろうか?しかし、これが事実なのだ。

結局、アメリカの日本追い落としは、1945年にその目的を達した。中国の蒋介石を支援して日本と戦わせようとしたり(実際、蒋介石は対共産勢力用に戦力を温存して戦わず、ルーズベルトの不興を買った)、ソ連のスターリンと手を結んで、ヤルタ会談では、中国すら裏切り(スターリンには、日ソ不可侵条約を踏みにじり参戦することを引き換えに、日本敗戦後の満洲や樺太など北方4島の譲渡を認めたりしていた)日本をぶったたき、極東でのアメリカの地歩を確立する寸前まで行った。実際には、第2次世界大戦の「熱戦」が終了すると同時に、その延長の「冷戦」が始まり、日本は、再び、アメリカに支援され、利用されることになったのだが。1945年の日本敗戦までは、19世紀のアメリカの戦略家マハンの教科書どおりであったと言う。(いわゆるオレンジ計画) アメリカという国の独善。西部フロンティアを開拓しつくし、太平洋に進出し、キューバのスペインを鎧袖一触して、グアム、サイパン、フィリピンを奪い、ハワイも手中に収め、最後に行く手の邪魔になったのは日本だったのだった。

(続く)

2007年3月11日 (日)

雨の日は読書 ~ 周恩来秘録(上下)

今日は、朝から雨。久々に双眼鏡を持って遠乗りを目論んでいたのだが、朝からごろごろ、ベッドに入って、枕元においてある本を手当たり次第、サーフィンする。私の読書パターンは、まことに気まぐれ極まりない。乱雑に積み上げられたいろいろな本を定期的に整理するのだが。 最近の濫読にしたがって、気ままにブログって見よう(こんな表現あるのかな)

周恩来秘録(上・下)

最近出た新刊だ。「毛沢東の私生活」は、以前に読んだことがある。下巻の途中で置いたままだが、かつての侍医がアメリカに移住後にまとめた回想録というか暴露本であった。出版後、著者が自宅で謎の死?を遂げて世間は色めきたったというが。毛沢東は、ヒトラー、スターリンと並ぶ20世紀の怪物政治家だった。桁が違う。毛沢東なしでは、中国共産党は、蒋介石に勝てなかったかも知れない、と私は勝手に想像するのだが、毛沢東は、第一級の戦略家であり、又偉大な詩人でもあった。

一方の周恩来は?周恩来は中国では非常に人気が高いという。毛沢東の暴虐ぶりは、厳しい言論統制にある中国の普通の人にもすでに周知の事実であるが、しかし、帝国主義者を追い払い、アメリカから多額の支援を受けた国民党・蒋介石との内戦を勝ち抜き、中国を統一を実現した実績故に、やはり、中国共産党最大の功績者としていまも顕彰されている。周恩来は、ある時期までは毛沢東よりランクが上の共産党指導者だった。農民あがりのコンプレックスのかたまり、負けず嫌い、野心家であった毛沢東と違って、「読書人」 -日本人が文字通り理解する意味ではなく、「科挙の合格者を出す」教育を受ける意味。かつて中ソ論争が始まって険悪になったとき、フルシチョフの挑発に対し、周恩来は、お互いに我々は階級の裏切り者ですね、と切り替えしたジョークがあるらしい。つまり、周恩来は、「読書人」=中国の官僚階級を裏切り、フルシチョフはソ連の労働者階級を裏切ったという2重に皮肉- 階級のボンボン秀才であった。大変要領の良い調和型・実務派であったが、周囲をひっぱり統率しながら敵と戦う際に必要なエネルギー(胆力・決断力・非情さ)に欠けていた。

スターリンが指導するコミンテルン(都市プロレタリアートによる革命)と毛沢東の方針(三国志以来の中国革命である農民革命)の板ばさみになり、悩みに悩む。そしてある時(遵義会議、ちょうど、蒋介石の国民党と内戦になり、劣勢は覆いがたくいわゆる「長征」を行い中国の僻地にたてこもる決断をする直前)を境に、毛沢東に屈服し、それ以来彼の忠実な家来となった。しかし、どこかに毛沢東へのわだかまりがあり、距離を置いていた。毛沢東もそれはよく分かっていて、周恩来の弱点を承知しつつ彼の並外れた実務能力を利用した。毛沢東にいびられ、こき使われながら、必死に耐え、彼の尻拭いをしながらも職務を忠実にこなす、健気な恩来像が浮かび上がってくる。

それは、自分の良心と政治の非情さに身も心も引き裂かれながら、必死に耐え、何とか調和を保とうとする姿だった。中華人民共和国成立から毛沢東の死まで、中国は毛沢東に翻弄された(大躍進、文化大革命と迷走する元凶であった)。かつての戦友たちが、毛沢東の策略で失脚し非業の死を遂げていくなかで、しぶとく生き残った。

毛沢東は、晩年の周恩来が膀胱ガンの治療を受けるのを妨害して、彼の死期を早めたらしい。我の強い独裁者に共通するのは猜疑心の強さだ。毛沢東は最後まで、周恩来に心を許さなかった。周恩来が死んだとき、毛沢東は葬儀に参列しなかった。毛沢東の心中は、周恩来が先に死んでくれた安堵だったという。

周恩来を三国志の劉備玄徳に仕えた諸葛孔明になぞらえる向きもあるという。劉備亡き後も、暗愚な息子の皇帝に、朝から晩まで身を粉にして忠実に仕えた為、命を縮めたとも言われる。しかし、周恩来が仕えた皇帝は、毛沢東自らが譬えた秦の始皇帝、つまり有能ではあったが、それにも増して周囲を振り回し多くの命を奪った暴君でもあった。

著者は、党のエリート学者でかつは党の秘密資料にアクセスする機会を持っていた。1989年の天安門事件をきっかけにアメリカへ出国し、研究を続けている私とほぼ同じ世代の人らしい。長い間、周恩来の本当の姿は、タブーだった。輝ける中国共産党による建国と神話化。この本は、毛沢東の脱神話化に続く、中国の文化大革命を身をもって体験し、鄧小平の改革解放と天安門事件による民主化の挫折を経験した新しい世代による、周恩来の脱神話化の試みだろうか。

訳者の後書きで、米中国交回復に際してのキッシンジャーと周恩来の会談で、周が日本について「彼らはより狭いということですね。彼らは島国の集団です。」「日本はアメリカの制御がなければ暴れ馬です」と発言していることに触れながら、そろそろこの政治家の見直しをしても良い時機ではないかと言っている。ひとつの時代の意味は、その時代が終わったときに始めて明らかになる。本人たちの意図を超えてということだろうが、中国というのは、日本人の感覚で捉えるにはあまりにも巨大で複雑すぎると思う。

2007年3月 5日 (月)

春はそこまでやって来た・・・。

しばらく、ブログを留守にしてしまった。その間、北朝鮮の核問題に進展があった。日本にとって進展だろうか?アメリカの譲歩ばかりが印象に残った。ブッシュ大統領も以前の強硬さが嘘のようトーンダウンしてしまった。「金正日相手にせず」、は正しい選択肢ではなかったか?民主党の前原ナントカが、日本だけが置き去りにされるとか、馬鹿なことを言ってるようだが・・・。日本としては、拉致問題を解決すること、この原則を曲げてはいけない!と思う・・・。

2月半ばに留学生達が帰国して、ホットして呆けていた。気がつけばもう3月。暖冬で梅の花はいつもより早く開花しているからだろうか、地元の梅を見に近隣県から週末は沢山の人たちがやって来て結構賑わっている。夕刻、仕事が終わって徒歩で帰宅途中、生暖かいような、しかし、やっぱり冷たい春先の夕風にあたりながら、梅の香りが漂って来て、心地よい。陶然としてくる。

帰国していったアメリカ人留学生だが、顔ぶれを思い出しながら改めて、アメリカの多様性に思い至る。今回の顔ぶれは実に多彩だった。フィリピン系もいれば、中国系、ユダヤ系、中南米系もいる。日系人も3人いたが、一人は5世でかろうじて東洋系の柔和な特徴は残しているかと思えば、一人は外見はまったく日本人と変わらないし、最後の一人はどう見てもメキシコかスペイン系に思われる日系3世(白人の血は入っていない)だった。かと、思うと、韓国の血が4分の1は入っているのに、みかけはまったくの白人もいれば、・・・・・という具合である。

中国系の学生は、漢字が全く苦手だという。 典型的なホワイト・アングロサクソン・プロテスタントかなと思った白人青年も聞いてみれば、父はアイルランドで母はカナダ・ケベック出身のフランス系だという。カトリックだろう。ハワイ育ちで、子供のころから日本人とも遊んでいたので日本文化に興味を持ったそうだ。どうだろう、この背景の多様さ。

2週間ほど前から、ウグイスがホーホケキョの一歩手前の中途半端な声で「ぐぜり」だしていたので、そろそろだな(昨年の日記を見ると初鳴きは38日だった。)と思っていたら、先週金曜日の早朝のキャンパスで、ついに今年の初囀りを聞いた。しかし、完全なホーホケキョではなく、ホーがなくて、ホケキョ、ホケキョだけだったが、どうしてなのか?

ウグイスの囀りを聞いたその日は、午後から休みを取って、2ヶ月ぶりに上京した。12日の羽伸ばし。昔の職場の先輩・同僚・後輩で飲んだり、またまた、神田古本街をうろついた。 土曜日は、歌舞伎座のすぐそばにあるインド料理屋「ナイル」でカレーを食べて帰ろうと思っていたのだが、神田をうろついていて、偶然にも「知られざるインド独立闘争[.A.M.ナイル回想録]」という本に出くわした。20数年前、まだオーナー社長のナイルさんが健在だったことから贔屓にしていた店で、この本が出版されたばかりのころ、カレーを食べながら、インド独立闘争のチャンドラ・ボース一派で戦ったナイルさんの話に感銘、購入したのだった。しかし、この本は、読み損ねたまま、友人に貸してそのまま行方知らずになっていた。その友人は、10年前の冬の寒いある日、急遽、心臓疾患で手術をしたまま亡くなってしまった。ああ、N君。まさか、亡くなるとは思わなかった。あっけなくこの世を去ってしまった。このN君とは、ナイルの定番メニュー「ムルギランチ」をよく一緒に食べたっけ・・・。

今朝は、コートなしで職場に出かけた。早朝のキャンパスをしばらく散策する。このところ、毎日のようにエナガのカップルに出会う。昨日も、笠原水道にある雑木林で、エナガのカップルに出会った。双眼鏡で覗くと、嘴に羽を一杯くわえている。もしや、巣の素材集めか?もう巣作りを始めたのだろうか?目の前の姿があまりにも可愛らしくて、思わず近づくと、エナガはよそよそしくなり、一杯くわえた白い羽を空中に捨てて知らん振りの仕草。インターネットでたまたま巣作りの様子を見つけたがまさに、こんな感じ!

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近くでは、ヒガラ(シジュウカラの仲間)が、美しく囀っている。つぴち・つぴち・つぴち・つぴち・・・テンポが早い。音程も高い。そしてなかなか美しい。うっとりとしてしまった。ヒガラの囀りは、2番目をクリック願います。こんな感じでした。http://www.birdlistening.com/home/bird/tit.htm

時折、遠くから、オオタカの鋭い鳴き声もする。その音源に近づこうと林の奥へ歩いていくと、ところどころに、野鳥の羽が沢山落ちている。どうも、オオタカの餌食になったカラスやハトの残骸のようだ。オオタカも2羽いるようだ。こちらも、ツガイだ。巣を構えようとしているのか?

突然、すぐ近くでまたまたオオタカらしき鋭い鳴き声。目をやると、すーっと、白いオオタカが飛翔して50メートくらい離れた大木の緑の中に姿を消した。そして、また、鋭い鳴き声、警戒信号を発している。すると、すぐ近くから別のオオタカの反応があった。 

春・春・春はそこまでやってきている・・・。

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