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2007年4月28日 (土)

本と戯れる~私の濫読(3)

翌日の日曜日:

今日は野鳥観察はなし。外の天気が悪い。一日2階で本に囲まれて過ごそうということになる。 

2週間ほど前、新聞でアメリカの作家カート・ボネガット・ジュニア氏の訃報が目に留まった。学生時代に「チャンピョンたちの朝食」を読んだ記憶が蘇った。正義の国アメリカを笑い飛ばすブラックジョークに満ちた傑作だ。卑語もふんだんに出て来る。同氏の「スローターハス ファイブ」は第2次世界大戦でのドレースデン爆撃を扱った傑作で、映画にもなっている。

何故か、大学の授業で使った書き込み入りのテキストとすっかり古びてしまったペーパパックを持っているので、引っ張り出してきて、あちこち、行きつ戻りつしながら、ざっと再読した。

Wide-open beavers inside (女性の秘所のこと)も思い出した。思わず笑ってしまう。この本が出版されたのは1973年だ。ベトナム戦争によってアメリカの社会はがらっと変わったとは1960年代にアメリカのカリフォルニアで労働者として働きながら生活していた作家の石川好も語っているところだ。古きよき時代にFuckとか卑猥語は口に出せなかったのが、公然と女性でも口にするようになったという。

次に手にしたのは、翻訳本「メイキング・ラブ」。10年近く前に翻訳が出て、書評にものった本と記憶する。自分の性生活をここまで正直に赤裸々に語った本も珍しい。しかも、著者はポルノを書くのではなく、れっきとしたピュリッツァー賞を受賞したこともある著名な人だ。

少年時代の性の目覚めから初体験、そして、これまで出会った数々の女性たちとの快楽の探求をつづっている。読み始めると止まらない。セックスに関しては、当人同士しか分からないこととは言え、こう赤裸々に語られると、自分のこれまでのセックスライフがいかにも貧困ではないか、と思えてしまう。ざーっと飛ばし読みしたが、一番最後の箇所でなんと、ドイツの作家エルンスト・ユンガーのキャプテン・リチャードの言葉が引用されているのでビックリした。キャプテン・リチャード曰く「ここが我らの王国、君主国の最良のものにして、最良の共和国。ここが我らの庭園、我らが幸福」。セックスに関しては当事者だけの禁断の世界だ。何をしても許される。お互いが良ければ、ということだろうか。

キャプテン・リチャードとは、ユンガーのSF小説「ガラス蜂」の主人公である。ドイツ語版と英語版を持っているが、これまた、現在までのところ積読状態だ。思い切って、英語版を取り出して読み始めてみた。1950年代後半に出版された本だというが、ユンガーが1998年に亡くなった後に出た再版のようだ。権力とテクノロジーがテーマになっている。誇り高き軍人だが敗戦によって食い詰めてしまっている主人公がキャプテン・リチャードだ。昔の仲間のつてで、最新のテクノロジーを駆使して巨大企業となったZapparoniというイタリア人の経営する会社のセキュリティー担当責任者として雇われる物語だ。100ページほど読み進んだが、なかなか物語は進行しない。主人公は採用面接に広大な敷地にあると思われる本社へと赴くのだが、なかなか謎の権力者Zapparoni氏にたどりつかない。キャプテン・リチャードの軍隊時代の回想が延々と続く。 ここで一休みすることにして本を置いた。

感じとしては、彼が第二次世界大戦中に書いた「大理石の断崖の上で」と雰囲気が似ている。こちらは、ヒトラーのようなタイプを連想させる新しい権力者勢力の拡大と災難の恐怖を一人のアルカイックな生活を送る自由人が、白日の悪夢をみているかのごとく描いた作品である。読後感はなんとも言いようのない奇妙なものだった。

ユンガーだが、時々昔の本を読んでいるといろいろなところで引用されていることに気づいて改めてこの作家の重要性を認識する。日本では殆ど知られていない作家だが。例えば、昨年亡くなったピーター・ドラッカー氏の処女作「経済人の終わり」を最近再読したのだが、第1次世界大戦と世界大恐慌の体験によって何が明らかになったかというと、それまでの資本主義と社会主義は崩壊した、ということと言い切っている。「Modernity(近代産業社会)が要求する目的合理性と機械化は、それ自らの自動運動をはじめ人間が制御できず、人間はその不合理の淵に沈んでしまう非情さに真っ向から取り組み、人間の孤立化と分子化を是認し、本来の存在理由を失ってしまった人間の役割について哲学的表現を捜し求めた」のがユンガーだと。

アメリカのカート・ボネガット・ジュニアの小説もユンガーのように哲学的ではないが、「人間のロボット化」というのが彼のSF小説の重要なモチーフになっている。

毎日、毎日、当たり前のように職場に出勤して、時にはうまく行ったり、時には失敗を繰り返し、日々が過ぎていく自分の生活を振り返ってしまう。自分は本当に幸福なのだろうか?チェーホフではないが、「何故、私たちは本来こうしたい、と思っている生き方ができないのでしょうか?」との呟きとため息が出る。チェーホフは19世紀のロシアの人間を描いたのだが、何と現代の人間(自分だけか?)に通じる言葉を吐いていることか?

日本で活躍しているハンガリー人の天才数学者?にして大道芸人としての趣味を持つピーター・フランクル氏は、何故、日本に住んでいるのか?と聞かれ、日本人のサラリーマンの生活を自分もしなければならないとしたら、日本には住まなかっただろう、というのは意味深長である。日本は治安も良いし、住みやすい国であることは確かだ。公的・私的なサービスも海外に住んだことのある人なら、一長一短はあるが、比較にならないくらい日本の方が良いと思うはずだ。ああ、それなのに。なんなのだろうか?この息苦しさは?

ユンガーの生きた時代は確かに、悲劇的だった。第一次世界大戦と第二次世界大戦、その間、革命騒ぎが世界のあちこちであったし、沢山の血が流れ、無辜の人々の命が失われた。

その不条理を、平和ボケしたこの現代の日本人、いや、当のヨーロッパ人も忘れてしまっているのではないか。戦後(古びれてしまった言葉だ)60年近く、西ヨーロッパと北米と日本は繁栄を謳歌してきたが、また、あのような(私自身経験のない)不条理な運命に苛まれることがないと誰が言えようか?しかも、現在は、ポストモダンの言葉とは裏腹に、ますます、グローバリゼーションの名のもとに、テクノロジーによる権力と支配は巧妙に行われているではないか?

その意味で、想像を絶する不条理と恐怖を身をもって体験して、激動の時代を行き抜いたユンガーの紡ぎだす言葉には、進歩する物理的環境とは裏腹に、進歩することのない人間の意識・無意識への強烈な照射があって、魅惑されるのだと思う。

フランス人の哲学に寄れば、「幸福とはおいしい食事をすることと、魅力的で美しいパートナーとセックスをすること」に尽きるらしい。確かに、これはもっともなことだ。しかし、これだけでは人は生きていけないことも確かだ。人生の大半は、この快楽を享受するための前戯ではないだろうか?前戯だけで本番がなければ、まさに不幸だが。しかし、もっと本質的なことは、食事とセックスだけではやはり十分ではないということだ。そして人生の大半はそのための前戯でもないのだ。権力と名誉というものがある。「人生は舞台、そしてあなたは役者」だとすると、やはり、人間は何らかの役割を担う運命にある。そして、そこには権力の行使の問題が不可避的に出てくるのだ。死を賭けた戦争でも、またその擬似体験版である、企業間の競争と優勝劣敗。日常生活の中での経済活動の単位となる組織の中に於いても。男女関係もそうだし。

以上は、年に何度か、ふと深い物思いに浸る瞬間に湧き上がって来る問いだ。そして、また、日々の忙しさに打っちゃることで、しばらくは、意識の外に宙吊り状態のままにしておくのだ。

私は、ずーっとこの繰り返しで今まで生きてきたような気がする。

某月某夜、深夜過ぎ就寝。

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