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2007年8月25日 (土)

身近な生物たち(3) コクワガタはバナナがお好き?

昨日のこと。L先生が実家(中国)に2週間ほど里帰りするので冷蔵庫の中のもの差し上げますといってトマトだとかナス(家庭菜園で収穫したらしい)とかシシトウとかもらってしまった。ついでにお子さんに昆虫はどうですか?と手のひらにコクワガタの姿。「子供いないんですが、コクワガタは大好きなので貰います」、ということで引き取ったコクワガタ君。♂である。何故か右の真ん中の足が途中で亡くなっている。5.5本の足。取り合えず、終日書類を入れる紙の箱に入れて夕方、紙コップに入れカバンにそーっと忍ばせて帰宅した。

コクワガタ。何の変哲もないクワガタムシだ。子供の頃のチャンピョンといえばノコギリクワガタだった。朝早起きして、胸をときめかせて自宅近くのクヌギの林にクワガタムシとカブトムシをよく取りにいったものだ。ノコギリクワガタの見栄えの良さにくらべるとコクワガタは地味だ。小型で地味だ。よく死んだ振りをする。目を離すといつのまにか遁走して姿を隠してしまうのだ。

田舎に戻る前の5年間、松戸市の住人だった。柏との境界で里山に近い環境だった。いつも8月後半から9月になると明かりを求めて?窓の網戸にこのコクワガタが良く現われた。たまに、部屋を掃除機で掃除していると畳の縁とか押入れの縁とか、ノソノソ歩いていたりした。3年前には意を決して、♂2匹と♀1匹を飼ことにした。外国産の輸入物が数千円から数万円もするご時勢である。私は、国産愛用派だ!このコクワガタ君、冬を越すことも可能だと聞いて頑張ったのだが、2月のある寒い朝とうとう動かなくなって死んでしまった。しかし、9月から約半年近く、コクワガタ君と付合った日々はよき思い出だ。何を餌にするかまず困った。子供の頃は砂糖水を含ませた綿とかキュウリやナスの切り身を餌にしたものだが、インターネットで調べたら、バナナが良いと!

それで、安いバナナを買ってきて(ああ、子供のことの台湾バナナといったら、高級品で胸をときめかせて食べたものだが。このごろのバナナは台湾産ではなくフィリピンかエクアドル産が多い)与えると、喜んで食べること、食べること。 

「コクワガタはバナナがお好き!」なのである。

クワガタムシは夜行性だ。昼間はじっとしている。夜中にトイレに起きたとき、そっと覗くと盛んにバナナを貪っているコクワガタ君を何度観察しただろうか?餌を貪っているところを邪魔すると、怒りをあらわに角を開いて盛んに威嚇する仕草をする。 現在、紙コップにティッシュで蓋をした家に仮住まいだが、明日にでも虫かごを買ってこようかと思う。 コクワガタはこんな姿です。小さくて、平べったくて、じっと凝視しているとなかなかユーモラス仕草をします。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%AC%E3%82%BF

http://contents.kids.yahoo.co.jp/zukan/insects/card/0030.html

インターネットで見てみるとクワガタムシの中では一番長生きするタイプ。数年生きることもあるという。

2007年8月24日 (金)

秋の匂いが・・・・・

記録的な猛暑の夏休みは何となく終わってしまった。3月後半から8月お盆休みまで、忙しくて本当にアッと言う間だった。その反動だろうか、今年の夏休みは10連休だったが兎に角何もしないで無為を貪った。

夏の風物詩とも言える高校野球は佐賀北高校が劇的な優勝を飾った。高校野球の決勝戦、つまり8月20日前後になると、どこからともなく秋の気配が忍び寄ってくるのを感じるのは例年のことだ。

とは言っても記録的な猛暑が続く日本。連日、まだまだ沢山のセミ達が盛んに鳴いて生を燃焼している。日中はアブラゼミ、ミンミンゼミ、早朝、夕刻はヒグラシ。アブラゼミなどは、夜中でも平気で鳴いている。秋を感じさせるのは、ツクツクボウシの声が混じり始めたことだ。

先週NHKテレビではアメリカの17年セミのことをやっていた。17年ごとにいっせいに孵化して1週間ほどで産卵し、幼虫は17年地中に潜ると言う。あと13年セミもいるらしい。13と17は複素数。ここに意味があるらしい。

一方、日本列島ではクマゼミが北上しているという。神奈川あたりでもクマゼミが鳴いてるそうだ。地球温暖化が原因だろうか?クマゼミと言えば、10数年前、瀬戸内海汽船のクルーズで確か、広島県の三原の沖合いの小さな島を訪れたとき、とある境内で無数のクマゼミが猛暑の中鳴き狂っていたのを思い出す。びっしりと幹にとまって鳴いていた。このクマゼミが光ファイバーケーブルに穴を開けて沢山の卵を産んでインターネット通信障害を起こしているというのだからこれまたびっくりだ。クマゼミの声は、私の記憶をさらに10年近く遡らせて、ギリシャのエギーナ島へと誘われる。確か5月だった。強い太陽の日差しとどこまでも青いエーゲ海、そして白塗りの壁が目立つ民家とオリーブの潅木。そこには、やはり、沢山のセミが鳴いていた。

自宅の南天の木になんといつの間にかヒヨドリが巣を作った。あっという間の早業である。2~3日で見事な巣を作ってしまうのだから驚きだ。中を覗くと美しい卵が3個あった。先週から抱卵し始めてちょうど今日で一週間だ。あと一週間くらいはかかるだろう、そしたら雛がかえるだろう。毎朝目が覚めて、洗面所のガラス窓をそっと開けてのぞくと50センチほど先の南天の枝に精妙に作られた巣から長い尻尾をだして親鳥が卵を温めている。ヒヨドリの子育てをじっくり観察できるまたとない機会だけに楽しみだ。

仕事でアメリカ人と最近、頻繁にコレポンしているのだが、先方は夏休みもなく忙しい日々だという。こちらは10日ほど夏休みを取ったが、あなたはいつ休むのか?との問いに、年末年始も含めて3週間のオーストラリア旅行計画を立てているという。動物、特にワニが大好きだという。女性なのだが・・・。 私も、トカゲ・ヤモリ・カメレオンの類には何となく愛着があって好きだ。野鳥(特に雛)もワニも皆なんとなく「恐竜」を祖先にしているようであるが、ワニは正直言って苦手だ。しかし、卵から孵ったばかりのワニはギュッ、ギュッと声を出してなかなかカワイイらしいい。

文章修行のつもりで?ブログを始めたのが1年前。あのウグイスは今年も健在で、先週まで毎朝自宅近くまでやってきて囀っていたのだが、今週からは静かになってしまった。自然の中の昆虫や動物たちに思いを馳せてうだうだと悦に入り続けたい私だが、秋の香りとともに秋本番のスケジュールがひたひたとちょっとばかり憂鬱を伴って身近に迫って来るような、そんな夏休み明けのこの一週間だった。

2007年8月18日 (土)

旅の記憶シリーズ(6)アルマータ

アルマータ(現地ではアルマトイと言うらしい)と聞いて、何処にあるのかすぐ答えられる日本人はそういないと思う。 旧ソ連から独立した中央アジアの共和国カザフスタンの都市である。「リンゴの町」という意味らしい。

ロシア人が作った街だ。街中を歩くと、あの懐かしいロシアの匂いが充満していた。ウォッカとロシアタバコと燃費の悪そうなガソリンの排気ガスが混じったような匂い。 街の雰囲気だが、同じイスラム教とは言え、アラブのイメージとは程遠く、長い旧ソ連共産主義時代の影響を受けた、世俗化したイスラムの国、ということになるだろうか? 

カザフスタンとはカザフ語(トルコ系言語)で「カザフ人の土地」という意味らしい。商談で東京の見本市に訪れていたウズベキスタン人と話したことがある。あの広大なユーラシアの草原に住むトルコ族の末裔、つまり、西はトルコ共和国から中央アジアを経て中国の新疆・ウィグル自治区にいたるまでの人々が話す言語に大差はなく、いまでも普通にしゃべってコミュニケーションが取れるのだと言う。

仕事上のことで詳細は書けないけれど、中央アジアのひとつカザフスタン共和国のかつての首都・アルマータ(首都はアスターナ、地元の国営航空会社もアスターナ航空と言う)を2度訪問した。2003年の冬の2月に一度、3月にもう一度。 給油の為に早朝到着し、一旦市内のホテルにチェックイン、休憩して、夕刻再び次の目的地への移動、というただそれだけの為に滞在しただけだったが。

空港で気づいたことだが、ドイツのフランクフルトから直行便が乗り入れている。大韓航空も飛んでいて韓国からも人が沢山来ているようだ。冷戦が終わって、西側諸国の資本が投下されているのだ。もちろん、地勢上、大国ロシアと中国の勢力の狭間でいろいろと両国からの直接・間接の影響力は大きいだろうことは言うまでもないことだが。

チェックインした、ホテルのスタッフはと言うと、英語がちゃんと通じる。当たり前だ。どうも白系ロシア人が幅を利かせているような感じだ。しかし、トルコ系との混血種らしい、あるいはモンゴル系の特徴を刻んだような顔立ちのスタッフもいる。

エレベーターの中で、ロシア系ビジネスマンと思しき人から、「キタイ?(中国人か)」と声を掛けられた。「ニェット、ヤポンスキィ(いいえ、日本人です)」と答えた。

部屋に入る。テレビをつけると、丁度、マドリッドの地下鉄でイスラム過激派の爆弾テロ事件があったというCNNのニュースが流れていた。 

世界どこに行っても変わらないと思われる極めて衛生的かつ画一化されたアメリカ風のバイキングの朝食を取り、部屋に戻る。南向きの窓を開ける。冷たい風が入ってくる。目の前を何と、カササギが飛んできて、すぐ近くの木に止まった。ルァッキィ!双眼鏡を持参しなかったのが惜しまれる。 午前中は仮眠を取った。

お昼過ぎに目が覚める。昼食はまたホテルのレストランで食す。ランチセット。カレーソースのかかった白身魚のグリルとご飯に温野菜。味はさっぱりだった。

食後は、街中を散策した。雪が残っている街路はアイスバーンになっていた。歩きなれない自分は何度も路上で転倒しそうになった。 

道ですれ違う人々を観察する。彫りの深い顔立ちだが褐色がかったトルコ系の人々が多数派らしい。時折、ヨーロッパ人風の白系ロシア人と日本人そっくりのモンゴル系も混じっているがどちらも少数派だ。 道端で出会う10人中6人~7人はトルコ系の顔立ちであった。

市場を覗いた。沢山の生活必需品、食品(野菜、肉、魚)が並ぶ。魚は見ものだった。今まで見たこともない得体の知れない大きい魚が並ぶ。海水魚ではなく淡水魚だ。全体の印象としては、どことなく、まだ、現代文明と高度な消費生活が隅々まで行き届いたとは言いかねる、そんな印象だ。

ケバブの屋台を見つけた。ロンドンで見かけるのとほぼ同じ。しかし、肉の塊は小さかった。ピータというナン(インドのパン)にそっくりのパンに切れ目を入れて薄切りにした羊肉に生玉ねぎのスライスやパプリカの漬物とかニンニク・ヨーグルトソースを掛けて頬張る定番のサンドイッチだ。食べたかったが、やはり、お腹を壊しそうな感じの衛生管理に見えたため、見合わせた。ケバブには目がないのだが。ロンドンでは何度お世話になったかわからないあのケバブ。ドイツでも、ニュージーランドでも食べたあのケバブ・・・。

アルマアタは坂の町だ。たぶん、西のほうに向かって傾斜が上がっている。そのはるか向こうには雪を抱いた高山の峰々が見える。大変美しい。太陽の輝きを反射して神々しく見えるのだ。 

アルマアタの町にはシジュウカラが溢れていた。こんなにシジュウカラがいるとは!カササギもところどころで見掛けた。尻尾がとても長いカラスに似た鳥だ。関東地方でよく見かけるオナガと同じ仲間である。

仕事で同行した一行と夕方、ホテルで再び夕食を取る。衛生的だが、味はいまひとつのフランス料理を食べて、空港へ。 男だけの一行で酒が飲めるでもなく、無聊を慰める手段もなくアルマアタの滞在は終ろうとしたが、空港の出国手続きの際に、制服を着た若いモンゴル系の女性係官と出会ったことが唯一の慰めか? 皆で異常に盛り上がり記念写真を何枚も撮っていたら、年配の女性係官がやってきて、若い彼女に厳しい顔つきで一言二言すると、彼女は立ち去ってしまったのは残念だった。

2007年8月17日 (金)

旅の記憶シリーズ(5)中国・長春~北京

ハルビンには3泊し、長春へは国内線の飛行機で移動して1泊した。気の強い若くて美しい中国人ガイド氏(山口百恵が出演していた赤い疑惑のファンだった)の案内で観光をした。記憶に残るのは、関東軍指令本部があった日本のお城のような構えの建物がそのまま残っていて、現在も地方政府によって使用されていたことだった。 

その後、大連にも出かけて目撃したけれど、旧満州には、旧ロシア帝国の遺産もそうだけれど、旧大日本帝国のインフラ遺産が沢山残っていて人々が継承していることが印象深かった。

1泊しかしなかった長春だが、夜の沿道の散策、屋台巡りも楽しかった。屋台の食事は、衛生的にどうもお腹を壊しそうで、とうとう手を出せなかったが、片言を話せる年配の日本人氏と何気なしに入った食堂で一杯飲みながら、地元の人とカタコトの中国語で会話しながら地元の料理に舌鼓を打ったことが記憶に残る。何を話したのか、何を食べたのかは、さっぱり記憶にないのだが。

それと、あの気の強い美人のガイド氏。 ホテルの名前は忘れてしまったが、モダンなホテルにチェックインした後、ホテル内をぶらぶらしていたら、ちょうどシャワーを浴びた直後の彼女に出会ってしまった。正確には、向こうはこちらに背を向けていたので気づいていない。髪が濡れていた。女のエロチズムを垣間見た瞬間だった。そうでなくても、日本語に非常に堪能で中国人らしいユーモアと機知に富む話しぶり、しかし、時折、過去の日本の侵略の歴史への断罪を匂わせる厳しい物言いが混じる、そんな彼女に我々一行は圧倒もされつつ、好感を抱いていたのだったが、その彼女が仕事を終えてホテルでシャワーを浴びて、無防備な素顔を垣間見せてくれた瞬間だったのだ。声を掛けようと思ったが、気後れして出来なかった。

翌日は、列車で北京まで一昼夜の旅を楽しんだ。どこまでも、どこまでも真平らに続く畑・畑・畑と言うか、一言で言えば地平線の彼方まで延々と続く大平原。やはり、ここでも日本の風景とは違うスケールを感じた。列車の服務員がお茶のコップとお湯をサービスしてくれた。中国でのお茶の飲み方を知ったのもこのときからだ。

早朝の北京駅に到着して、最初に目にしたのは、沢山の人々。そして、沢山の自転車。2008年北京オリンピックを控えて盛り上がるテレビに流れる最近の北京市内の様子とは大違いであった。そして、人民服を着ている人がまだ結構いたと思う。この辺りはぼんやりとした記憶なのだが。

泊まったホテルの名前は今でも覚えている。市の中心からはずっと離れた燕翔飯店だ。そこに1泊した。残念ながら北京飯店ではなかった。そしてお決まりの観光をした。天安門広場、万里の長城、明の十三陵、天壇公園、王府井などなど。 万里の長城は感動物だった。

紫禁城は見損ねてしまった。 牡丹江からの残留孤児で戦後早い段階で帰国した日本人の一人が、どうしても買いたいという日中辞書を探しに王府井の大きな書店に出かけたからだ。 買い物が終わって、紫禁城の反対側の出口で見学中の一行を待った。先にやって来たガイド氏(今回は男性)と雑談した。「文化大革命で中国は道草を食ってしまった。これからです。10年で日本と同じレベルに追いつくはずです。」 自信たっぷりの余裕の発言だった。

真夏の北京の日差しは強くて蒸し暑く埃っぽかった。

2007年8月16日 (木)

旅の記憶シリーズ(4) 中国・ハルピン

中国に初めて出かけたのは1985年の夏だった。北京経由で、向かった先がハルピンである。日本人の言う旧満州、中国では東北地方と呼ばれる地域だ。文化大革命が収束し、毛沢東は1976年にこの世を去り、鄧小平氏の改革・開放路線が始まったばかりの中国で、一般の外国人が普通に旅行を出来るようになったばかりのころだ。

空港から市内のホテルまでの道がどこまでも、どこまでも真っ直ぐなことにビックリした。

狭い島国の日本の風景とスケールが全然違う。植生も違う。何となく、北方の風景だ。沿海州のナホトカからハバロフスクの原野を列車で走った風景と何となくダブってくる。

ホテルにチェックイン。一段落。と、しばらくして、同行の人が、部屋のトイレの水が流れないと大騒ぎ。別の人はお風呂のお湯が出ないとまた大騒ぎ。インフラはまだまだお粗末であった。お昼に飲むビールは生ぬるかったし、とても文明の恩恵を受けた快適な旅とは言えなかったが、戦前の満洲で生活をした一行の人たちは、全然苦にすることなく旅行を楽しんでいたようだった。そして、私にとっても、別な意味で楽しい旅だった。

一緒に旅行したのは、旧満洲帝国で獣医をしていたもと人たちの一行と、満洲で生まれた引揚者の人たちだった。彼らから聞かされた当時の思い出話は、「本当ですか?」と我が耳を疑いたくなるような話が沢山あった。

例えば、真っ黒い何かが蠢いているなと道端に目をやると、それは無数のハエが死骸に群がっているとか、零下何十度という凍てつく真冬には、凍死した浮浪者の死体が毎朝のように見つかったこと、大空も真っ黒に埋め尽くすカラスだとか、不衛生極まる現地の人々の状況、内情偵察で知り合ったオロチョン族という少数民族の視力は日本人の視力では絶対に見えない1キロ位先の獲物をいとも簡単に見つけて見事な射撃で射止める話などなど。 生ぬるい中国名産青島ビールに氷を入れて飲みながら、そして、あまり美味しくない中華料理を食べながら聞いた話である。

松花江では、遊覧船に乗った。この川はアムール川の支流である。アムール川は、旧ソ連時代のハバロフスクに立ち寄ったときに、一度だけ、川岸を散策した記憶がある。ロシア人の子供が釣りをしていた。昭和30年代の少年時代、母の実家近くの川で魚釣りをした頃の原風景が蘇るくらい牧歌的な情景だった。しかし、川のスケールが日本の場合とは違う。向こう岸がはるか彼方。水は濁りに濁っている。川なのか海なのか一瞬わからなくなる。中国大陸の河川は、日本の河川とはスケールが違うのにビックリした。 

そして、キタイスカヤ通りだ。ハルピンは、東へ東へと膨張したロシア人が作った街だ。ロシア正教の教会や西洋風の建物がそのまま残っていて、これが中国なのか!と思わされるほど異国情緒豊かな美しい町並み。「キタイ」とはロシア語で中国(人)の意味だ。数年前、カザフスタンはアルマトイに滞在した時、エレベーターでロシア系の人と一緒になり、目と目があって、先方から「キタイ?(中国人か?)」と声を掛けられ、「ニェット、ヤポンスキィー(いや、日本人だ!」と答えたなぁ。

唐が崩壊して、再び北方の蛮族に国を荒されて混乱が続く中国北部は、契丹族が「遼」という王朝を立てた。 11世紀のことだ。契丹=キッタンが当時の中国を意味する言葉であったのだ。キタイ、カタイとも訛って呼ばれ、今日のCathay Pacific航空にもその名をとどめている。パックス・モンゴリカ(モンゴル帝国のユーラシア大陸征服による安全保障)のもとに旅したマルコ・ポーロの「東方見聞録」を読んでみると元の植民地となっていた当時の中国のことをカタイと呼んでいる。(厳密には、黄河流域である中原以北を指し、揚子江地域はマンジと呼ばれていた)

ハルピンで記憶しているのは、他にハルピン動物園で大きなトラを見たことだ。地元で捕獲された虎である。ライオンなんかりより全然大きいし風格があって圧倒された。イザベラ・バード著「朝鮮紀行」は1890年代の朝鮮半島の事情をいろいろ伝えていて興味深いのだが、虎が沢山いることを記述している。朝鮮半島も含めた旧満州一帯にはまだ沢山の虎が生息していたようなのだ。

下町のショッピング街を散策したり、ハルピン医大(ここで、嘗ての満州国軍に勤務した獣医さんたちは、現地の人に教育を施したという)を見に行ったり、強烈な匂いが充満する漢方のお店に行ったり、道端のあちこち置いてある痰壺を覗いて吐きそうになったり、同じ東洋人とは言いながら、何もかもが違う中国・東北地方の都会・ハルピンに魅せられたのだった。

(続く)

2007年8月13日 (月)

N君のこと

毎日暑い日が続く。今日は、朝一番、パスポート切り替え申請に出かけた。前回取得したのが1997年の秋だった。そうかぁ、10年もたつのかぁ。

1997年というと、大学時代からの親友があっけなく他界してしまった年だった。

N君は商社マンでモスクワに駐在していたのだったが、体調を崩して一時帰国、手術、そしてそのまま帰らぬ人となってしまった。享年42歳。あまりにも早すぎる死だった。手術直前に何度かお見舞いしたのだが、まさか、命を落とすと思っていなかったから、軽い冗談を言い合っただけで、そのまま永遠の別れとなってしまった。今でも悔いが残っている。

彼には、五つ貸しがあった。といっても大したものではないのだが、以下挙げてみると:

① 大学時代にヨーロッパ旅行したときの旅行カバン。彼がその後、旧ソ連・ポーランドなどの東欧旅行をした際に貸したまま、とうとう戻ってこなかった。

② ベルギーの生んだ天才ジャズギタリストだったジャンゴ・ラインハルトのレコード。ジャズバイオリニストで大好きなステファン・グラッペリとのデュオも録音されている。

③ ナチスドイツにまつわる演説集や党歌や軍楽隊演奏マーチが収録されたカセット(2枚組み)。スターリンの演説も含まれていた。 ドイツで歌ったら逮捕されてしまうと聞いたが、私は、ホルスト・ヴェッセル・リート(ナチスの党歌)を今でも諳んじて歌える。

④ リンガフォンのフランス語セット。本格的に勉強しかけていたのだが、合間にちょっと貸してくれ、と言われこれも貸したままになってしまった。

⑤ 歌舞伎座の近くのインドレストラン・ナイルの当時のオーナーだったナイルさんが出版した本「知られざるインド独立闘争」の日本語訳。 友人たちとよく足を運んでは定番のムルギランチを食べたものだ。

不思議なものだ。3月に神田の古本屋で偶然みつけて購入したA.M.ナイル氏の「知られざるインド独立闘争」を積んどいたまま、昨日ぱらぱらと読んでいたら、途中でN君の思い出がまた蘇ってきた。

研修でアムステルダムに居たときは、ある晩、先方も研修で滞在していた旧レニングラード(元 ザンクトペテルブルク)から国際電話がかかってきたこともあった。

彼は、少し体が弱かった。どちらかというと商社の営業マンというより、繊細で勘の鋭い、文学者向きだったので、商社に入ったと聞いたときは意外な気がしたものだ。

人懐こくて、甘えん坊で、詰襟の学生服で通った1年次は全優の成績優秀者だったが、2年次に悪友の私に染まり、当時の学生の娯楽だったパチンコとマージャンと競馬にのめり込み、落第した(私は、進級した、成績はまあ可もなく不可もなく)N君。

N君にまつわる思い出は多々ある。歳を取るにつれてセピアカラーに薄れていくのだが、親友として付き合ったN君との突然の別れは、今尚私の心の奥底で傷となって残っていて、何かの拍子に「トシィー!」「トシさーん」という彼の人懐こい声が脳裏に木霊してくるのだ。

2007年8月11日 (土)

身近な生物たち その(2) ニホントカゲ 蜥蜴 Eumeces latiscutatus

早朝のキャンパス。来週は夏休みだ。心が軽い。何か特別な予定がなくても空白の自由時間がある、というそれだけでうきうきしてしまう。ギラギラと太陽光線が照りつける中、キャンパスを歩く。学生食堂の手前の石段に差し掛かって、小さな動くものを発見。蜥蜴だ!しゃがみこんでじっと凝視すると5センチほどの小さなトカゲだ。尻尾のほうはマリーンブルーが真夏の太陽の光線を跳ね返して宝石のように輝いている。何と美しい!

掴まえてやろう! 必死に逃げ回るトカゲ君をなんとか捉まえて、手の平に載せた。それまで必死にあちこち逃げ惑った蜥蜴君だが、観念したのか、手のひらの上でじっとしている。尻尾のブルーに魅せられた。ハシブトガラスの巣立ち前後の目はエメラルドグリーン。やはり、宝石・翡翠のような輝きだ。

蜥蜴は爬虫類のであり、遠い昔に死に絶えた恐竜の仲間だ。その姿は、想像上の姿とはいえあの恐竜を彷彿とさせる。顔をじっと見ると確かに恐竜の顔だ。それが、手の平の上のちょこんと載っている。思わず噴出しそうになる。

インターネットで確認するとニホントカゲだった。もっともありふれた種。しかも、小さくて尻尾が青みがかっているのは、子供の蜥蜴だからだった。 それにしてもあのブルーの美しい輝きは・・・・・。

Eumeces_latiscutatus_juv01

2007年8月 8日 (水)

ヒヨドリ・ツバメ・ゴルゴ13とアーサー・ケストラー

8月になってしまった。少し落ち着いてきたが、来週の夏休みを過ぎれば秋学期に向けての準備が始まる。アメリカ人留学生たちもやってくるし、イベントもかかえて大忙しとなる。束の間の一休みといったところか。

自宅のすぐ向かいのSさんの玄関の緑にヒヨドリが巣を作った。しばらく抱卵しているのを観察してきたが、今朝、2階からいつものように双眼鏡で観察すると、雛が誕生していた。親鳥が給餌している。黒や白の昆虫だか毛虫だろうか。盛んに餌をねだる丸裸に近い目も開かない雛(3羽)が、大きく口をあけているのだが、親鳥はそれぞれに餌を押し込むようにして給餌している。そのうちの1羽がなかなか餌を飲み込めずに、難儀している。親は辛抱強く給餌を続けているようだ。ヒヨドリを観察した人によると、成長が早く10日前後で、まだろくに飛べないのに巣立ってしまうという。来週一杯は毎日雛たちの成長を観察できそうだ。

Kストアのツバメの巣では雛達がすくすく成長していた。毎日職場の帰りに道路脇の巣を覗くと、まだ産毛がぼさぼさで嘴が黄色い雛達が、大きな声を上げて口を開け体を目一杯伸ばし、巣から落ちそうだった。最初は、4羽と思っていたら、5羽だと気づき、翌日はしばらく観察していると6羽まで確認出来た。順調だと思っていたのだが、先週末の日曜日の朝、散歩がてら覗いてみると様子が変だ。2羽しか姿が見えない。近くにハシブトガラスがふてぶてしい様子で電信柱にとまって様子を伺っている。やられたな。今日は水曜日で、帰宅途中に覗いてみたが、2羽はなんとか無事のようだった。丸々と太って、涼しげな眼で私を見つめている。もうすぐ巣立ちだろう。

昼休みはこのところ、近くの行き着けの食堂で「ゴルゴ13」シリーズを読みふけっている。まだまだ、シリーズは続いている。たぶん、1~40巻ぐらいまでは20代後半から30歳代前半に読んだと思う。オランダのアムステルダムはホテルオークラの地下階に明治屋とならんで床屋があったころ(1980年代前半だ)、ここでも「ゴルゴ13」が置いてあって、わざわざこのマンガを読みに足しげく通って、ついでに髪を切ってもらったものだ。この食堂では全巻揃えている。一番新しい巻から第一巻まで遡って読んでいこうと思っている。しばらく、昼の楽しみとなりそうだ。

アーサー・ケストラーの自伝「目に見えぬ文字」を最近読了した。長い間、積読状態だったが、読み始めたら、次のページが待ちきれないくらい面白くて一気に読みきった。久しぶりに良い本に出会ったなあと感激する。余韻がしばらく体から抜けない。著者と一緒にしばらく留まっていたい、そんな本だった。

時代は1930年代から40年代にかけてのヨーロッパで、今では想像できないが、第一次世界大戦によって古きよき時代は過去のものとなり、大恐慌が襲い、社会は共産主義革命と国家社会主義(ナチス、ファシストなど)で割れて血なまぐさい争いが続く騒然として時代だった。 ケストラーは、ウィーンの大学を卒業するかしないかの内に、パレスチナを放浪し、倦み、やがてドイツ出版社(有名なウルシュタイン社)に職を得て、ベルリンに住み、ドイツ共産党に入党し、5ヵ年計画で躍進著しいスターリンが指導するソ連(コーカサス・中央アジア)を取材旅行したり、フランスで党の細胞活動にいろいろと従事したり、ジャーナリストの身分でイギリス経由スペイン内戦の取材に出かけ逮捕・死刑判決・釈放、そしてイギリスに落ち着くまでのまさに波乱万丈ぶりが描かれている。

ケストラーは、どうもじっとしていられないタイプで、安楽さと平板を嫌い退路を断って自分を追い詰めて行動するようだ。読んでいて、日本の「田中清玄自伝」を思い出してしまった。

このブログでも一度、書評をアップしてある。

http://birds-eat-bookworm.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_51d8.html

いろいろな読み方が出来るのだろうけれど、印象に残ったことを次回まとめて見たい(続く)

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