« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月21日 (日)

気ままにおしゃべり(8)ジョウビタキ~低地ドイツ語

丸山薫氏から「あいるらんど」と小田実氏の話で前回は終わったが、今日は少し寄り道をしたい。

昨日は担当していたイベントが無事終了した。まずまずだった。この8月後半からこの2ヶ月はバタバタだった。ホット一安心した昨夜は熟睡した。何かをやり遂げたあとの空虚感が全身を満たしている。まあ、大したことじゃないんだけれど・・・。

今朝は、久しぶりに2時間半ちかく、近場を双眼鏡持参で散策した。野鳥が平地に降りてきている。移動途中の夏鳥に会えるかも、という期待もある。①ハクセキレイ、②キセキレイ、③セグロセキレイ、④ヒヨドリ、⑤ムクドリ、⑥ハシブト&⑦ハシボソガラスはいつもの通りだった。そして笠原水道公園で待望の⑧ジョウビタキの囀り(冬の地鳴き)を聞いた!姿はチラリとしか見えなかったが、メスだった。彼方此方で⑨メジロの地鳴きもするし、キリキリコロコロと⑩カワラヒワの群れ。盛んに高鳴きする⑪モズ数え切れない。小川に猫背でじっと佇む多数の⑫アオサギ、⑬コサギ、⑭ダイサギ、森の中の⑮シジュウカラ、笹薮の中の⑯ウグイス(笹なき)、あと、⑰ミソサザイも居た。それに、⑱カケス、最後に⑲エナガの群れにも遭遇した。他にカワウやキジバト、それにこんな時期にも関らずコジュケイのけたたましい鳴き声も聞こえ。20種類を超える野鳥を確認した。まずまずかぁ、満足、満足。キビタキ、ノビタキも期待したのだけれど、どうにも出会えないのが残念だった。待つポイントが間違っているようだ・・・・。

無心になって帰宅して、美味しい昼食を食べて、2階にあがって、さてとぉ~!久しぶりに身の回りの整理でもしよう。ダンボールに突っ込んだままにしてある学生時代から前の職場でのいろいろな勤務地での資料がダンボール2箱に無造作に投げ込まれたままにあっているのを整理しようと思い始めていたところだ。

今日は学生時代の整理。やはりドイツ研修の資料が殆どだ。手紙類、当時のプログラム、三文オペラを観劇したときの入場切符、パリの地下鉄の切符、ハノーバーの市電で無賃乗車して捕まり70マルクの罰金を払った領収書、ハノーバーで通った映画館のプログラム、フィンランド人の彼女との文通レターと絵葉書、悪友のギリシャ人やポーランド人からの手紙、ハノーバーの湖で知り合ったペーターさんの手紙は彼の創作詩付の長い手紙だ。離婚したて(当時30歳)の彼が日本に戻った私に送ってくれた長い長い手紙を今更ながら良く読んでみると当時は落ち込んでいて私や一緒によく彼を訪ねたエジプト人(♀)、フィンランド人(♀)、ポーランド人(♂1+♀2)達学生とよく遊びにいって気分的に慰められていたことがよく分かった。

整理をしながら、このペーターさんにプレゼントしてもらった歌の本を探しだした。埃りまみれになっていたがちゃんと残っていてほっとした。彼が編集に関った歌の本で、英語のポピュラーソングと一緒にドイツのフォークソングが沢山収録されている。

ページをめくりながら彼のサイン「1976年夏」という字が懐かしい。そしてあの頃の思い出がまたまた蘇る。ハノーバー市内(Alte Doernerstrasse 49)の彼のアパートにはよく友人たちと遊びに行っては、ビールとワインを飲み、時には彼の得意なギター伴奏で歌を歌ったものだ。ボルフ・ビアマン、フランツ・ヨーゼフ・デーゲンハルト、ラインハルト・マイ、ハネス・バーダー・・・・名前が次々と出てくる。ジャーマン・シャンソンと言ったら良いだろうか? ペーターさんは、社会民主党支持者で、政治について語り合ったがお互いに共鳴するとことが多々あった。

当時の世相がそうだったのだが、ナショナリズムは非常なマイナスイメージで、ソ連は崩壊していなかったし、社会主義的平和主義がドイツでも主流だったと記憶する。SPD(社会民主党)が与党で首相はシュミット氏。しかし、政策は当時の日本の民社党より自民党に近いというのが本当のところだった。今にして思えば。

ハノーバーは、ドイツで一番標準的なドイツ語を話すところといわれているが、このあたりからオランダの国境にかけてはいわゆる低地ドイツ語方言が話されている。ペーターさんから教えてもらった低地ドイツ語の大変美しいフォークソングがあった。先日インターネットのアマゾン・ドット・コムでサーフィンしていたらなんと、Hannes WaderCDがあった。即、注文したら1週間で届いた。歌詞もすっかり忘れていたが歌詞カードがついている。

Dat du min leefste buest

Dat du woll west,

Kumm bi de Nacht, kumm bi de Nacht,

Segg wo du hesst

低地ドイツ語というのはどうもオランダ語に似ている。意味は何となく分かる。この歌はドイツ語ゼミで現地の大学生と交流したときも弾き語りでドイツ人学生が聞かせてくれた大変美しいメロディーで、ペーターさんもよくソロで歌ってくれたものだったので、今でもよく覚えている。

意味としては、「ああ、我がいとしい人よ、わかってるでしょう!夜になったら来てね、そしてあなたの名前を言って頂戴!」

以下、原語省略

2連では、「夜中になっら、そう、1時になった来てね、、そしてドアをノックしてね! 父さんも母さんは寝てるわよ、そして私は一人よ!」

3連では、「ドアをノックして頂戴、そして取っ手を掴んでね!父さんも母さんもあれは風の音だと思うでしょう」

4連では、「夜が明けて、ニワトリが時の声をあげたら、ああ私のいとしい人よ、あなたはもう行かなくちゃいけないのね!」

大らかな田舎の若い男女の愛の賛歌というところだろうか・・・・。次回は寄り道ついでにライハルト・マイに触れたい・・・。我が青春のGerman Folksong….

Kif_1499

2007年10月14日 (日)

気ままにおしゃべり(7) 寺山修司~丸山薫~小田実

ふるさとの 訛りなくせし 友といて モカ珈琲は かくまでにがし   「歌集」

グローバリゼーションの時代と言われて久しい。ネスカフェのインスタント珈琲しか知らなかった田舎の学生が東京に出て味わった本格的な珈琲の香りと味。しかし、今日では「喫茶店」はもう死んでしまったのではないか?娯楽があまりなかた学生時代、私は友人と喫茶店によく足を運んだものだ。今じゃさっぱりだが。

当時は、クラシックやロックやジャズを専門に流す喫茶が結構あって珈琲一杯で何時間も粘ったものだ。あるいは、友人と馬鹿話する一方で真面目なおしゃべりも少しはしたと思う(天皇制をどう思う、から始まる政治の議論や、ヘッセの「デーミアン」読んだか?とか、M君は「ハイデッガー全集を読破したらしい」ゼ、オレはさっぱり分からなくて放り投げたよ、などなど)。 

運動部や文化サークル活動に熱中するならともかく、私は、何となく体育会系の雰囲気に馴染めずテニスクラブをやめて、悪友とマージャンをするか、パチンコするか、真面目に図書館にこもって勉強するか、4畳半の裸電球がぶら下がった殺風景の部屋で難しい哲学書を読むか、とにかく授業をサボって部屋で惰眠を貪るそんな日々を送っていた。

8月のブログで登場したN君とはよく喫茶店でモカを飲んだものだ。キリマンジャロ、ブルーマウンテンなど時には奮発もした。山形出身の友人だったN君は寺山修司の声帯模写が絶妙だったナ。 

吶々と早口で語る寺山氏。競馬狂でもあった。 井伏鱒二氏の漢詩訳「花に別れの譬えもあるさ、さよならだけが人生だ」をもじって、「サヨナラだけが人生なら、また来る春は何だろうか」と同氏の競馬エッセイの本の帯にあった。

N君の家に一度遊びに出かけたことがある。蔵王でスキーをしたり、寒河江の実家のそばのパチンコ屋に出かけて遊んだりした(当時はパチンコに凝っていた時期だった)。教師だったお父様と話していたとき、何かの拍子で詩人の丸山薫氏のことが話題になった。 丸山氏はもともとは本州愛知の出身だが戦中から戦後にかけて山形に疎開していて地元ではとても有名だとのことだった。丸山薫氏の詩はたまたま一つだけ知っていた。

汽車にのって

あいるらんどのような田舎へ行こう

ひとびとが祭りの日傘をくるくるまわし

日が照りながら雨のふる

あいるらんどのような田舎へゆこう

この詩を知ったのは、先日亡くなった小田実氏の「何でも見てやろう」だった。思うに自分はまともに詩集なぞ読みきったことがない。どこかの誰かがイイ、と言った詩を拾い読みして原典を買ってきて読む、というのが多いのだ。

小田実氏の「何でも見てやろう」は高校時代に出会って感激した本だった。描かれるアメリカは、1950年年代後半であり、まだ公民権運動もベトナム戦争もなかった。ソ連と冷戦が始まっていたが、世界一豊かなアメリカがキラキラ輝いていた時代だったと思う。 21世紀の今日のアメリカと何と遠く隔たってしまったことか!今や、アメリカは世界のお荷物となり始めているのではないか!これについては、また近々別に論じたいと思う・・・。

小田実がアメリカにいた時代はアメリカの絶頂期だった。マリリン・モンローもジョン・F・ケネディもまだ生きていた。この本は、フルブライト留学生としてのアメリカ体験と、ヨーロッパ、中近東、イラン、インドと巡って日本に戻るまでの11ドル旅行だ。元祖バックパッカーではなかっただろうか?同氏の本は大学時代まではあらかた読んだが、ベトナム戦争終了後から、ボートピープル問題、カンボジア問題、北朝鮮問題が出てくるなかでの同氏の政治的スタンスにはついて行けないものを感じて決別した。しかし、良いものはいい、ということで「何でも見てやろう」は1969年の新装版を今も大事に保管して数年に一度は思い出したようにページをぱらぱらめくって拾い読みしている。 

(続く)

Kif_1490

2007年10月13日 (土)

気ままにお喋り(6)フレイト・トレイン~97セントのブルース、そして寺山修司氏

しばらく途切れていたシリーズだが、Elizabeth CottenFreight Trainを聴いていたら連想が次々と広がった。

Langston Hughesという黒人の詩人がいた。アメリカ人だ。私は彼の良き読者ではなないが、一冊の詩集(翻訳)をたまたま持っている。もう大分黄ばんでしまった本だ。Collected Poems of Langston Hughes (ラングストン・ヒューズ詩集) 思潮社海外詩シリーズだ。彼は列車の詩を沢山書いた。そのなかの一つに「75セントのブルース」というのがある。書き出しがイイ。

どっかへ 走っていく 汽車の

七十五セント ぶんの 切符を ください

ね どっかへ 走っていく 汽車の

七十五セント ぶんの 切符を くだせい ってんだ

どこへいくか なんて 知っちゃあ いねえ

ただもう こっちから はなれてくんだ。

    ・・・・・・

(木島始訳)

すーっと言葉が心の中に入ってくる。自分の波長に合う詩なのだ。だから、文句なしにイイ。他人がどう何を言おうが知っちゃことない!アメリカに連れてこられた奴隷の末裔として生きる黒人としての鬱屈する怒りだろう。公民権運動が全米に火をつけた1960年代よるさらに30年も前の大不況時代のアメリカだ。

アーサー・ケストラー氏の自伝「目に見えぬ文字」の中に、1930年代前半にソ連の中央アジアを取材旅行していたケストラー氏がヒューズ氏に出会うシーンの記述があった。その時もこの詩を思い出した。ヒューズ氏は当時の共産主義ソ連の招きでアメリカ黒人の解放の映画を作るために招かれていたが、アメリカがソ連を承認する政治的な駆け引きの中で滞在中に話しが流れて中央アジアで足止めを食っていたらしい。

ラングストン・ヒューズ氏のこの詩に出会ったのは、実は意外なところだった。寺山修司氏の「ポケットに名言を」という文庫本だ。二十歳前後の私は同氏の本をよく読んだものだ。田舎出の自分にとって東京はある意味で別世界であった。カルチャーショックまでとは言わないが、やはり地方出身者として違和感がどこかにあったのだろう。青森出身の寺山氏の短歌やエッセイにはいたく共感するものがあった。

(続く)

Kif_1484_2   

2007年10月12日 (金)

Elizabeth CottenのFreight Trainを聴く!

1日の仕事に疲れ、夕方帰宅する。金木犀の匂いが漂う玄関を開ければ家の人のくつろいだ雰囲気と夕餉の匂い。ああ、今日も終わった。早速、一杯だ。肴をつまみながらビールを飲む。家の人が小包が届いているよとテーブルに持ってきた。おお、Elizabeth CottonのCDが到着した!

2週間ほど前、ネットサーフィンしながら偶然思い出したようにアマゾン・ドット・コムでElizabeth Cottenと入力したら、驚いた事に画面に出来たのだった。即、クリック。一括払いで購入した。黒人女性のトラディショナル・フォークシンガーである。そして、昔ギター教則本で独学して初めてスリーフィンガー・ピッキングで弾いくことを覚えたのが、このFreight Trainだった。Peter Paul & Maryも歌っていたし、Stefan GrossmanHappy Traumの演奏も聴いたことがあるが、元祖Elizabeth Cottenのオリジナルは長い間憧れだった。昔は何とかオリジナルの音を聞きたいと中古レコードをあちこちで探したがついぞ見つからなかった。探し方が悪かったのか?それが、いとも簡単に手に入るとは・・・トホホである。

夕食が終わって2階に上がり、早速CDプレーヤーを掛ける。2曲目にあのFreight Trainが入っていた。1957年から58年にかけて録音したCDらしい。録音したのはあのPete Seegerの兄だか弟のMike Seegerだという。あの懐かしいメロディーが流れてきた。やっぱりイイナぁ。素朴さの中にエバーグリーンらしい美しさの結晶したメロディである。何度聴いても飽きない。本命以外に聴いたことのある曲は数曲しかないが、それ以外の曲もみなシンプルだが耳に心地よい。歌ははっきりいってうまくない。かすれるようなキーの高い声で時々調子をはずしそうな感じで彼女は歌う。

Freight train freight train run so fast

Freight train freight train run so fast

Please don’t tell what train I’m on

They won’t know that route I’m going

…….

When I die Lord bury me deep

Way down on old

Chestnut Street

Place the stones at my head and feet

And tell them all that I’m gone to sleep

何度も何度も聴いて、シャワーを浴びて、寛いだ気分になって昨夜は熟睡した。

2007年10月 8日 (月)

金木犀の匂いが!

秋になって天気は崩れ続けている。3連休のはずの今日は通常勤務。学事日程でこうなっている。朝から小雨模様。終日間近に迫っているイベントの詰めをする。いろいろな調整のなかで、さらなる調整をしなければならない出来事があったりで疲れてしまった。週明けの月曜日なので、残業までしてしまって・・・。トボトボと歩きながらあの匂いに気づいた。金木犀だ。芳香剤のような心地よい匂い。春先の沈丁花とはまた違うが、どちらも鼻で味わう花だろう。

夏鳥が移動を始めている。エゾビタキやコサメビタキがあちこちで目撃されているという情報があるのだが、週末は日課のユンガー精読も休んで何もしないでゆっくりとした。外出して野鳥を追いかけるには疲れすぎている・・・。

沖縄戦での歴史教科書記述のことを述べようと思っていたのに昨日のブログでは大東亜戦争などという大上段に振りかぶった論を展開してしまった。

戦争経験を語り継ぐ、ということになると私は5年前の秋に他界した母方の叔父を思い出す。叔父は帝国陸軍の軍人だった。亡くなった時、その下の弟で2年前に他界したもう一人の叔父が一枚の写真を母に見せてくれたという。軍人の叔父が満洲に派遣されていたこの写真だという。母はまだ国民学校の少女で写っている。軍刀を抱えた叔父と一緒に。もう、ひょっとしたら生きて戻ってこれないかも知れない。戦況が悪化していた昭和18年だか19年の頃らしい。

その後叔父は満洲から南方(ポナペ島!)に転戦、部下には将棋で有名な升田幸三もいた。周りの戦略的に重要な島々はみな玉砕していった中で、奇跡的に玉砕を免れて米軍の捕虜になり昭和20年の暮れにひょっこり帰ってきたのだという。祖母はてっきり戦死して帰ってこないと諦めていたらしいが、腰を抜かさんばかりに皆で大喜びしたという。

生前の叔父だが、戦争の話となるととめどもなくいつまでもいつまでも苦労話をしていた。私が子供の頃のことで、1時間でも2時間でも昔を思い出しながら語るその顔は、妙に輝いていたのを記憶している。運が良かったのだろうか?至近距離の白兵戦(近代戦ではほとんどない)や米軍の圧倒的な火力に晒らされたりという地獄のような極限状態の経験まではしなかったようだ。それでも、頭の上をヒューン、ヒューンと飛んでいく弾丸と違って、目の前数センチにプツッ、プツッと弾丸が突き刺さる時の恐怖を語る叔父の話は鮮やかに覚えている。敵の爆撃が始まると、もう精神に変調を来たして泣き出してしまう兵隊、もくもく淡々と何事もなかったように前進する中、恐怖に耐えられずに脱落してしまう兵隊。弾丸はどちらにも容赦なく当たるのだが、得てして後者がやられやすい、という話など。

戦争自体はやはり「巨大な悪」である。運命は普通の人間を「巨大な悪」に巻き込んでズタズタにしてしまう。砲弾・弾丸が飛び交う現場の恐怖感というのは身をもって経験したものだけにしか分からないだろう。いつ死んでもおかしくない状況の中で最初は神経が極限まで張り詰めて緊張するが、やがて慣れてくると無感覚にもなっていくという。死があまりにも当たり前になってしまった戦場の日常である。しかも、戦場とは「待つこと」と「退屈」することでもあるという。毎日毎日、敵と遭遇して有名なテレビドラマ「コンバット」のような派手な撃ち合いをするわけではないのだ。この辺りはユンガーの第一次大戦従軍日記にも克明に描かれている。

硫黄島の激戦がクリント・イーストウッド監督で映画化されて話題になったりしているが、沖縄戦の場合、民間人が戦争に巻き込まれたのは大変な悲劇だったと思う。そして、民間人が日本軍に自決を迫られた云々は歴史的事実であることは間違いない。アメリカ軍に捕虜となった日本人に接していたドナルド・キーン氏は、日本軍の捕虜は捕虜になったことを非常に恥じて死にたがる人が沢山いた、と何処かで述べていたように「敵の辱めを受けてはいけない」と教育されていたことこそ問題であった。それを信じて大切な命を捧げた純真な軍人たちは沢山いたわけだが、私の叔父のようにアメリカ軍の捕虜になって虜囚の辱めは受けたものの、ケロリとして元気で帰ってきた人もいる。まして、民間人で軍人に何かの運命の巡り会わせで強制されて命を捨てさせられてしまった犠牲者は沖縄戦では沢山いたのだ。これらは歴史的事実として語り継がれなければならない!

(続く)

2007年10月 7日 (日)

昨日の日記の続き~大東亜戦争とは?

沖縄戦の悲劇の歴史記述でも日本軍について国会論戦でやりとりがなされている。いわゆる中国・朝鮮半島の人たちが問題にする「歴史認識問題」にも繋がる問題だ。 

東アジアで反日的なのは朝鮮半島と東アジアの華僑だけだという人もいる。大東亜戦争中、大日本帝国は大暴れに暴れてしまった事実は否定できないが、それによって西欧列強の植民地主義とそれにぶら下がって懐を潤していた華僑は没落した。よって、日本への恨みは親子代々受け継がれる。一方で、植民地支配の潤いにあずかれなかった人たちは、日本軍を歓迎したというのも事実である。 

ユダヤ人虐殺の悲劇はこれでもか、これでもか、と世界のマスコミを牛耳るユダヤ人に流布されるごとく、アジアでの日本の蛮行をこれでもこれでもかと流布するのは、こういった中国系の人たちである。 しかし、これら被害者として攻め立てる人たちが、これまで逆の意味での蛮行をして来なかっただろうか? 旧約聖書の中でユダヤ人が非ユダヤ教徒を虐殺するシーンがあることをご存知だろうか? 西洋世界はこの500年間に非キリスト教世界の中でどれだけ蛮行を繰り返して来ただろうか? アルメニア人が訴える今世紀初頭のトルコ人による虐殺。 トルコ政府は公には認めていない。 

フランスで出版された共産主義黒書(ソ連編、コミンテルン・アジア編)をぱらぱらめくれば、気が遠くなるような虐殺の数々。私が大学時代のころまでは、それでもまだ社会主義・共産主義というのはある種の魅力をもっていたと思うが、内側でのなんというおぞましい体制だったのだろうか? どうも、人間は自分の仲間ではない思う人たちに対しては、どんな野蛮なことでも出来てしまう残虐性が眠っているということに今更ながら愕然とする。 そしてまた、どうしてあるものがことさら大きく取り上げ、あるものは闇に葬られてしまうのだろうか?という素朴な疑問がわきあがってくる。片方の目であることを上げつらい、もう一方では目をつぶるのである。そろそろ、人間は「言論の暴力」というマスコミの作り出す意識的な?あるいは無意識の?ウソ・でっち上げに気づくべきだ。

「教科書問題」や「憲法問題」や「歴史認識問題」その他、「大東亜戦争」をめぐっての評価でもめる原因はまだまだ、我々アジア人にとってあの戦争が現代と繋がっているからだろう。過去のものとして客観的に冷静に評価できる地平がないのだ。 

中国や朝鮮半島とって、「反日」とはまさに、自らのアイデンティティそのものだ。 19世紀初頭のナポレオンの暴発によって祖国防衛戦争に立ち上がった、ヨーロッパの人々が反フランスで国民国家の意識が生まれたように。

日本人自身にまだ過去の戦争の清算が出来ていないのも問題だ。最近、台湾人の黄文雄氏の「大東亜戦争肯定論」を読んだのだが、文明史的な観点からなかなか鋭い論評がなされていた。私なりに整理して自分の言葉でまとめてみると以下の通りになる。

     大東亜戦争とは、第二次世界大戦という大きな括りの中では、アジア・太平洋地域で行われた20世紀最後の帝国主義国同士の戦争であり、その意味ではたとえ日本が負けたとしても、戦争犯罪などといういかがわしい論理で裁かれる戦争ではなかった。 

② 帝国主義戦争という意味は、大日本帝国 対 大英帝国+アメリカソフト帝国主義+その

  他(フランス、オランダなどの旧植民地)を指す。 植民地、準植民地の方々には申し分けないが、当時はそういう時代だった。 (ちなみに、現代の中国の教科書には「日露戦争」の記述がないという。現在、東北地方と呼ばれる中国の一部となっているこの地域は、当時は中国とは見なされていなかった。よって、自分たちの国という意識もなく、血を流してロシアの侵略から守ろうとする行動すら取らなかったことを現代の中国政府は国民から隠蔽している。歴史の捏造である。満洲国というのは、帝国主義時代に日本が血で購った代償であったのだ。それ以前、当時の清朝時代の中国は、古代さながらに人々は生きており、中国という国の概念も持っていなかった。 天下、つまり地の果てまでが「彼らの世界」でその向こうは蛮地という意識だけだった)

     日中戦争とは、実は、ベトナム戦争が「アメリカが後押しする旧植民地支配者フランスとくっついていたベトナム人支配層」と「ソ連・中国が後押しする共産主義者、反帝国主義者、祖国解放を共産主義に掛けた愛国的なベトナム人」が一般の人たちを巻き込んだ戦争であったと同じ意味で、その先駆け的な戦争だった。 中国人達は帝国主義の代理戦争をしながら、国民国家としての意識を確立し、勝利した国共合作組(=アメリカ・イギリス・ソ連組)が正統性を得たのであって、敵であった中国人政府・汪兆銘は国賊となり、後押しした日本は、彼らの正統性を担保するネガティブなものの象徴となってしまった。もし、日本が勝っていたら、汪兆銘政権が正統性を獲得して展開は変わっていたであろう。 歴史のIFは現実によって否定されるけれど、作り出された現実の意味を考える上では必要である。

     したがって、アジアにおける第2次世界大戦(大東亜戦争)には、1945年以後の共産主義イデオロギーとセットになった反帝国主義・植民地解放戦争の側面がある。その中で、日本は引き裂かれ、敗れ去った。 西欧の民主主義国家のイギリスやオランダ、フランスも結局は、戦前の状態復帰を望んだものの、敗れ去っていった。

     その後の展開は1989年のベルリン壁の崩壊と1991年のソ連崩壊で記憶に新しい。共産主義というユートピアは崩壊した。その間、日本は平和と繁栄を貪ることが出来たが何故か?アメリカという大国のアジアにおける戦略的なショーウィンドウ的基地の役割をもらったからである。そして、その機会をアメリカが期待する以上に果たしてしまった。戦勝国のフィリピンを比較してみよ!

     いわゆる「平和憲法」もそれをお題目のようにとなえる「平和屋」も基本的なことを忘れている。平和とは、戦争のない稀な状態であることだ。今も世界のあちこちで戦争が起こっている。そこに平和憲法を作っても無意味だ。戦争が起きないようにする普段の努力が必要であって、その努力の中には、つまり攻めてきたらやり返すぞ、という力を誇示することが必要なのだ。実際に攻めてきた場合には、血を流して守らなければならないのだ。言葉の前に、現実が来てしまうのだ。 日本はアメリカの核の傘でこれまでやってこられたから、平和だっただけの話だ。だから、もうマッカーサーが12歳の日本人に作ってくれた憲法は、書き直すべきだ。書き直しが国民の合意のもとに出来たとき、我々日本人は過去の戦争を清算できたことになるだろう。

私はアメリカ、中国と肩を並べて核を持ち軍事力を持って政治力を持つべきだとは思わない。しかし、経済力に応じた、備えは必要だと思う。武力をちらつかせて「やくざまがいのことはさせないぞ」、という気概と実質的な反撃意意思表示それを裏付ける物理的な強制手段は絶対必要だと思う。 自由貿易体制は、平和憲法だけでは維持できないと思う。それを否定する北鮮のような存在がある限り。また、自由貿易体制の自己責任(自立的な倫理)がなっていないし、明確な敵がいないにも関らず軍備拡張を不気味に続ける中国のような国がある限り、理念と同時に物理的強制力は必要だ。彼らも目の上のたんこぶである日本が、かつてのように、アジアで勝ってし放題しないように強制力・タガをはめる為に、あらゆる軍事力も含めたあらゆる政治力を駆使してくるように。

日本は、自由貿易体制が崩れたら江戸時代以前に戻らなければならない。人口3000万が、貧しいながらに飢えることはまれな平和な時代-ただし、外の勝手な政治力が我々の太平の眠りを妨げない、ことが前提だがーに戻れば良い、それも悪くないかも知れない。 が、しかし、我々人間は資本主義、それもグローバル化した自由市場という制御できない化け物の中で日夜労働に明け暮れ、市場を媒介に情報と金と物を交換しなければならない「うなりをあげる」渦巻きに深く囚われてしまっているのも現実だ。 江戸時代に戻る? こんな暢気なことは言っていられない現実が刻一刻とせまっている予感があるのも事実だ。

思考はどめどもなく展開していくけれど、「きりがない」し、私の日々の生活にこれまで展開した「たわごと」がどれだけ関係するのだろうか? 

2007年10月 6日 (土)

今日の日記から・・・

10月に入った。 すっかり秋の気配が漂い始めたキャンパスだが、昨日の朝はナ、ナ、何とまだツクツクボウシが鳴いていた。情けない哀れな声で。季節はずれか、暑い残暑の名残りか? センターの入り口付近のテラスでは大きなスズメバチが、死んだキリギリスだか、その仲間のバッタを必死に運ぼうとする姿を見た。

キャンパスを歩くと、キュッ、キュッという聞き覚えのある声。アカゲラ(キツツキの仲間)だ。朝日が逆光となって眩しいのを我慢しながら目を凝らして探す。居た、居た、アカゲラだ!!!体は疲れているが、心が軽くなった。

先週は、高校時代の旧友の思いがけない再会があったが、今週はロンドン時代に一緒に仕事をしていた昔の仲間から突然電話があって、近々この田舎町で一献酌み交わそう、ということになった。何でも、3年前に亡くなられたお父様は歴史学者で、大量の資料を整理しているうちに「大日本史」が出てきて、私を思い出して、電話した次第だという。ありがたや!

終日仕事に没頭して21時前に帰宅した。 疲れ気味だが心は軽い。 週末は休みだゾ! 

キャンパスライフにどっぷりつかって、外の世界のことはすっかり忘れがちだが・・・・・・。

国会論戦が始まった。安倍前首相の政権放り投げにはびっくりしたが、福田さん、どうこの難局を乗り切るのか?今の30歳代前後の世代の格差が大きくなっているという。フリーターが90万もいるらしい。 1990年代のバブル崩壊後の犠牲者とも言える。 こんな状況では、これから子供を産んで将来の日本の世代を担う人材が生まれてこないではないかと危惧される。 確かにそうだ。

アメリカのイラク政策もすっかり行き詰ってしまった。結局、大量破壊兵器はなかったのだが、それで戦争をしかけた責任はどうなるのだろうか? 開戦の根拠が失われて久しいのだが。来年はアメリカの大統領選挙だが、かつてのベトナム戦争と同様泥沼化している状況からどうやって体面を保って撤退するかが、今後の政局の問題であって、被害者であるイラク人は蚊帳の外だろう。大国とは勝手なものだ。世界のマスコミを使って意見(世論)を作り上げることだって出来るのだ。 イスラム圏は勝手が違うようだが。ユダヤ・キリスト教に対し、イスラムは憎悪に基づく敵意を持っているし、それが、原理主義者と呼ばれる過激な、殉教者を生む原因となっている。憎悪とは弱者の怒りだ。 政教一致のイスラム世界とすでに世俗化して久しいユダヤ・キリスト教世界の戦いは21世紀の大きな波乱要因で有り続けるだろう。

アメリカ追随政策を取る日本自民党と反対する野党勢力。六ヶ国協議は、北朝鮮に譲歩する形で進んでいる。アメリカと中国に大きな裏取引があると思う。北京オリンピックを無事乗り切るための朝鮮半島も含めた東アジアの一時的な平和状況の演出じゃないのか? 自由と民主主義という理念で動く人造国家ではあるものの、外に対しては権謀術数を使いやりたい放題の我が侭な「ソフト帝国主義国家」であるアメリカ合衆国と長い歴史のなかで興亡変遷を繰り返して煮詰まり、どこまでもアナーキーで窮め付きのスレッカラシになってしまった中国というやっかいな大国。いずれも自分勝手であって、今の日本の力では、何もできない。

仮に野党が政権を取ったとして何ができるのだろうか? 大国アメリカと中国に挟まれて、選択肢は限られている。日本は出る杭を打たれ続けながら両者に翻弄され続ける存在にならなければ良いのだが。 現実はすでに冷戦崩壊後からそうなっている・・・・・・。

ミャンマー軍事政権も来るところまで来てしまった。軍事独裁型の政権は、民主主義を実現しているアメリカと西欧からは極端に批判される。大学の中国人の先生と話していたら、世界の民主主義勢力(=アメリカ、西欧諸国)から担がれているのは、旧植民地時代に白人とくっついていた地元のエリート層です、とチクリ。 しかし、強権型リー・クアンユー首相のシンガポールのように国民を食べさせることに成功すれば、いかに西側から人権問題で批判されようと跳ね返すことが出来るが、ミャンマーのように失敗すれば、ただただ国内の混乱と悲劇が無辜の人々を不幸にするだけだろう。

中国自身、チベット問題をかかえている。もともとは、清朝の勢力範囲であったのが19世紀の西欧列強によるグレート・ゲームの中でイギリスの勢力圏に入り、その庇護のもとイギリス勢力にくっついた地元エリート層がダライラマ(西欧教育を受けた)であり、彼が西欧の庇護のもと一貫して中国の共産党独裁政権と人権抑圧を批判し続けているのはスーチー女史と同じだ、と言うことか?

(続く)

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »