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2008年3月29日 (土)

お昼に「清蒸黄魚」を食す

春の自然観察ですっかり脳内がα派に満たされたのだったが、午前11時過ぎ、ピンキーとキラーズの「恋の季節」の歌詞「忘れられないのぉ~、あの人が好きよぉ~、青いシャツ着てさぁ~、海を見てたは~、私ははだしでぇ~、小さな貝の舟ぇ~、浮かべて泣いたのぉ~、わけもないのにぃ~・・・」を口ずさみながら帰宅した。

途中スーパーに寄った。昨日職場の図書を整理していたのだが、加藤千洋氏の「中国食紀行」をたまたま拾い読みしていたら「清蒸黄魚」の話が出ていた。イシモチの中華風蒸し物だ。

先日はキンメダイですでに実験済みの料理だが、なかなかの出来だった。もし、イシモチがあったら、昼は作るぞぉ、と意気込んで海鮮コーナーに立ち寄ると、あった、あった、地元産のイシモチが。20センチサイズの小ぶりなものだが、4匹で300円。安い、安い。紹興酒も買った。

早速魚をさばいて(鱗とはらわたを取って)、ねぎ、しょうが、干ししいたけなど下ごしらえの上、そこの深いお皿にねぎを敷き、イシモチを乗せて、塩・胡椒して紹興酒をかけて蒸しこと15分、さらに10分ほど置いて、食卓に供する。 そして、みんなでこのイシモチを頬張ると・・・やったぁー、なかなかの出来だった。イシモチの身はやわらかい。しかし、蒸し過ぎると身が固くなってしまうらしい。ちょうどいい加減で蒸しあがっていた!!!

確かに、加藤氏の言うようにイシモチは和食では人気がない。そもそもレストランのメニューで見たことがない。せいぜい、蒲鉾の原材料になるくらいだ。しかし、しかし、料理一つでこんな美味い味わい方が出来るとは!

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ツバメ来たるッ!!!鳥たちは「恋の季節」

ああ、3月ももう終わってしまう・・・ううう。梅が散って桜がもう東京では満開だという。北関東のこちらではまだなのだが、その間、コブシの木に清楚は白い花が咲き誇っている。なかなか美しい。沈丁花も先々週から咲いて芳香放っている。春が沈丁花なら秋は金木犀だ。匂いの花だが、いつのころからか愛着のある植物となった。ああ、この早春のまだ肌寒い空気とすこしばかりのメランコリー・・・

冬鳥が姿を消しつつ、夏鳥が徐々にやってくる季節だ。今日あたりもう気の早いツバメが空を舞っているだろう、と期待しながら逆川緑地を歩き始めると、ツピッ、ツピッ、と声が聞こえてきた!!!ツバメだぁ。

朝の7時半過ぎから11時までたっぷりと自然観察しながら野鳥や草花や昆虫達と戯れた。

先週の土曜日には、ヒキガエルが冬眠から目覚める瞬間を偶然目撃した。職場近くの湿地帯で聞いたことのないゲコッ、ゲコッという声を聞いた。音源に目を凝らすとヒキガエルが1匹、2匹、3匹ともぞもぞ泥の中で蠢いている。

蝶も動き始めた。モンシロチョウ、ヤマトシジミ、ルリシジミ、ルリタテハ、キタテハ・・・。

今日の観察結果は:

1)   コサギ 2)シジュウカラ(囀り) 3)ウグイス(囀り) 4)マヒワ 5)ルリビタキ 6)シロハラ

7)ツグミ 8)アカゲラ 9)コゲラ 10)エナガ 11)ビンズイ 12)ハクセキレイ(囀り) 13)オ

オタカ 14)アオジ(囀り) 15)カワラヒワ 16)ホオジロ 17)シメ 18)キジバト 19)メジロ 

20)コブハクチョウ 21)カルガモ 22)キジ 23)ヒバリ(囀り) 24)コジュケイ 25)ハシボソ

ガラス 26)ハシブトガラス 27)ムクドリ 28)ヒヨドリ 29)ベニマシコ

先週末まで見かけたジョウビタキが姿を消してしまった。ルリビタキも1羽だけかろうじて地鳴きとちらっと姿を見ただけだ。マヒワはまだ沢山いる。群れていたエナガはツガイでの行動になっている。そう、恋の季節なのだ。カルガモ、ハクセキレイ、ツグミ、コブハクチョウ、あちこちでカップルとなっている。ああ、先週は職場の体育館のそばで早朝から交尾をするキジバトに遭遇したっけ。邪魔してしまったなぁ。

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2008年3月22日 (土)

きままにおしゃべり(11) 肉を生でたべること

生で魚を食べるのは別に日本人だけではないことは知っているが、肉を生で食べるというのは我々日本人には抵抗があるのではないだろうか?飲兵衛の格好の肴でもある、牛刺し、馬刺しはどうだろうか?個人的にはあまり得意ではないことを正直にここで告白しておこう。

初めて牛肉を生で食べる料理、タルタルステーキを見たのはドイツはヴィンゼンというハンブルクから車で1時間くらい離れた小さな町のZum weissen Ross(白馬亭、とでも言うのだろうか)であった。私の畏友S氏が、こんな美味いものはないのだ、と自慢げに注文したタルタルステーキ。赤いミンチ状にした牛だか馬だかそのあい引きかの塊に胡椒と塩を降りかけて、その上に生卵が載っていた、見る恐ろしい料理であった。S氏はものの見事にペロリと平らげていたが。

タルタルステーキに手が出ない私だったが、実はタルタルのサンドイッチは大好物だった。

「お腹に虫がわくことを覚悟の上ならこんな美味しいものはないわよ」と言ったのはアムステルダムで一緒に仕事をしていたアリアンネ嬢だった。

おお、アリアンネ、この麗しい響きよ。ヨーロッパの宇宙開発計画の宇宙船にもなっているし(たしかそうだったと思う)、何よりも(世代的に古いか?)ビリー・ワイルダー監督の傑作「真昼の情事」のオードリー・ヘップバーン演じるヒロインはアリアンネだった。

アムステルダムでは市内のあちこちにBrotjewinkelというサンドイッチ屋さんがあって、Pataatfrites(フレンチフライ)Croquette(コロッケ)やLumpia(春巻き)を買ってはお腹を膨らませたものだ。Brotjeというのは「小さいパン」という意味だがイギリスのような食パンではなく、日本でいうコッペパンの小さいサイズだ。それにハムやチーズやサーモンなどを挟んでたべる至って簡素だが、お腹がすいた時はなかなか美味である。そのメニューの一つにBrotje Tartarというのがあった。生の牛肉をミンチにして塩・胡椒し、その上にオニオンスライスを載せて挟んで頬張るのだ。実に美味かった。ああ、久しく口にしてないな・・・ ブローチェ・タルタル(brotje tartarよ!!!

見た目にも恐ろしいタルタルステーキだが、韓国料理にもある。ユッケだ。これを見たときああ、これはドイツで見た(食べていません)タルタルステーキだな、と即座に思いあたった。これもジンギスカンの興したモンゴル帝国の影響だろうか?朝鮮半島はモンゴル軍に席巻され元の時代にはモンゴル人朝廷と縁組もしたという。朝鮮半島人が牛肉を食べるようになったのはそれ以来らしい。

タルタルとはタタール人(ユーラシア大陸を荒らしまわったトルコ系、モンゴル系の騎馬遊牧民一般を指す言葉)から由来しているそうだ。

2005年11月のこと、私は山形県の新庄市で車の運転免許を取ろうとしていた。季節はずれの自動車学校への合宿であった。日本でも有数の米どころ。合鴨農法で農薬も使わない極上の米を食べさせてもらった。市場には流通していないのだそうだ。(通信販売はしているらしい)。毎日教習員の先生に叱られながら、なんとか実技と学科をこなし、時折近くの温泉に気晴らしに連れて行ってもらったり(東京から二十歳過ぎのカワイイ学生と一緒だった!)、なかなか楽しかったある一夕、たまたま知り合いの先輩にお酒を飲みに連れて行ってもらった。

美味しいお米とおいしい水があれば美味しいお酒が出来る。そのお酒を飲みながら、そこで初めて(だと思う)牛刺しと馬刺しをわさび醤油で食べたのだった。美味かったかどうかは?

牛肉はやはり、ステーキかローストビーフに限るのではないだろうか?馬肉は?いまひとつよく分からなかった。

2008年3月15日 (土)

ヨーゼフ・ロート、XX回目の誕生日、ミソサザイの祝福・・・

昨夜は雨が深夜遅くまで降っていた。

寝付けなくて、ベッドに入りまわりの本棚から気まぐれに本を手にしてはパラパラとあてもなくブック・サーフィンしてしまった。そして、寄り道したのは、ウィーン世紀末文学選(岩波文庫 池内紀編訳)で、ヨーゼフ・ロートの「ファルメライヤー駅長」を読んだ。読みながら、トーマス・マンの短編「小フリーデマン氏」を思い出した。どちらも、ふとした出会いから分不相応な相手の女性に恋心を抱いて破滅してしまうしがない男の話だ。

19世紀末から20世紀前半にかけてのウィーンは何かと今も気になる時代だ。フロイト、カール・クラウス、ヴィトゲンシュタイン、マーラー、シュニッツラー、ツバイク、クリムト、ハイエク、シュンペーター・・・ アットランダムに思い浮かぶ名前をあげてもすごい!絵画、音楽、哲学、心理学、経済学、文学、どれをとっても今日においても何かと刺激を与え続けている。

ヨーゼフ・ロートは、名前だけは頭の片隅にあったもののずーっと通り過ぎてきた作家だった。たまりにたまった本を整理していたら、今から30年以上も前に四谷のエンデルレ書店で購入したロートの本が出てきた。よく見ると彼の傑作「聖なるよっぱらいの伝説」も入っているではないか。後書きは、ヘルマン・ケステンのロート論である。すっかり忘れてしまった本が突然私の目の前に現れたのだった。これも何かの縁だろうか。しばらくは寝床においてこの機会にざっと読んでしまおうかと思う。

そして、一夜明けた今日。 実は、うれしいようなうれしくないよな、私の**回目の誕生日。

外は晴れているようだ。「雨上がりの朝ぁ~」という歌があったな。「届いた手紙 ポストのそばには 赤いコスモスゆれていた・・・」。 おお、ダカーポだったな!

ポカポカ陽気に誘われて、口ずさみながら双眼鏡を持ってまたまた近くの逆川緑地をほっつき歩いた。そして、期待通りにミソサザイの囀りを聞いたぁ!!!私を祝福してくれたミソちゃん!!!ありがとう!!! 10センチちょっとしかない小さい鳥なんだけど、力強い複雑だが、とれもうつくしい囀りに私は幸福感に包まれて昼前に帰宅したのだった。

丁度いいのがインターネットで聞けます。まったくこのままの囀りでした。

http://www.asahi-net.or.jp/~yi2y-wd/a-uta/uta-miso.html

PS 私は見た、カラスの行水を!

帰り道、何とコインランドリーの入り口の天幕テントに昨夜の雨がたまっていたのだと思う、そこでちゃっかり水浴びするハシブトガラスに遭遇した。気持ちよさそうに何度も何度もバシャバシャと行水しているのだった。私は、じーっと眼を飛ばした。私に気付いたハシブトガラスはそれでもふてぶてしく水浴びを続け、私を嘲笑うかのように、近くの木に移って気持ちよさそうに日光浴を始めたのだった。

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2008年3月13日 (木)

イカルの囀りを聞く!そして、トラツグミィ~!そして、カラスは巣作り、そして祟り・・・

ウグイスの囀りが聞こえ始めて10日ほどの今朝、これまでのグズリとは違う本格的な囀りを早朝のキャンパスで聞いた。

キャンパスの一角で野鳥の羽が散乱している。ツグミかシロハラだろうか?猛禽に食われた後らしい。ああ、合掌。

昼休みはこのところ天気の良さに誘われて、毎日のようにもみじ谷~桜山~職場近くの雑木林コースを1時間ほど歩いている。昨日は、3メートルほど近くまでルリビタキの♂が近づいてきた。白い糞を2度、3度と落とす。野鳥は飛ぶのに体を軽くするため、消化が早いらしい。食べては排出し食べては排出することを繰り替えすらしい。私のかつての職場で先ごろ退職されたM先輩もすさまじいストレスの中で仕事をし過ぎて胃を切って以来、排泄のペースが早くなったそうだが・・・これはあまり関係ないか・・・

ポカポカ陽気で心も軽いのだが、野鳥の出会いが少ないなぁ・・・と思っていたらどこからともなく聞いたことのあるような美しい囀りが聞こえてきた。おお、イカルだぁ!

http://midopika.cool.ne.jp/songs/ikaru.html

2年前の御前山で目の前に現れたイカルも美しい囀りを聞かせてくれたものだ。昨年の11月後半、留学生を連れて日光に出かけ、湯元温泉に足を伸ばした。みんなで足湯に浸かって、ポカポカして、さあ、帰ろうか、と駐車場に来たとき、イカルの囀りが聞こえた。こんな寒い時期にも鳴くのかぁと・・・。

イカルの声を探してあちこち歩いた。音源は絞られて護国神社の脇の土手の木の上のほうと分かった。すぐ近くでアカゲラが鳴きながら目の前を横切っていく。そして、またイカルが囀る。双眼鏡で姿を捉えた。今朝のウグイスと違って、少し遠慮がちだったが。ああ、これで今日は何とか乗り切れるという安堵。

職場への帰り道。いつもの雑木林のそばを歩く。アオジ、シメ、キクイタダキのカップル(今年は何度であったことか)、コゲラ、モズ、そして、おおトラツグミまで姿を見せてくれた。NHKのサッカー実況中継で有名な山本アナウンサーの名台詞にならえば「トラツグミィ、トラツグミィ、トラツグ~ミィ~!!!」である。過去に3度であった場所に近づきながら呪文を唱えると、トラツグミは姿を現してくれたのであった。

なんとなく心がうきうきする季節なのだ。早春の冷たい風、新しい年度の始まり、期待と少しばかりの憂鬱とが入り混じる気分。日頃はあまり気に掛けないカラス達だが、見かけるカラスはことごとく嘴に小枝をくわえている。巣作りが始まったのだ。

PS

先週の日曜日のこと。笠原水道の雑木林をうろついていた。エナガ、ルリビタキ、ミソサザイなどと戯れていたのだったが、地面を歩き回るハシブトガラスを見つけた。ところが、近づいても逃げないで地面をぴょんぴょん跳ねるだけ。即座に、怪我していることに気付いた。悪戯心がもたげて、カラスを追い回してしまった。本当は保護してあげなければいけないのかも知れない。しかし、Kストアで営巣していたツバメの巣を2度にわたって襲ったハシブトガラスには恨みがある。追いかけまわすとすばしっこく逃げる、逃げるカラス君(♂か♀か不明なのだが)、土手を降りて近くの流れる小川の近くまで追いかけてしまった。大人気ない私だった。一度棒で押さえつけたら、目をぱちくりしていた。観念したようだった。しかし、むごいことは出来ない。飛べない君はもう生き残れないだろうなぁ、と思いつつ開放してあげたのだった。

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カラスに悪戯しての帰り道、ジーンズのポケットに手を入れたら3000円が紛失しているのに気付いた???!!!どこで無くしたのか?カラスの祟りだぁ~・・・・

スズメとならんでカラスは鳥類ではもっとも進化した種で知恵があることは確かだ。かつて私はカラスと隠れんぼをしたことがあるし、また、人の間抜けぶりを嘲笑うカラスのことも知っている。イギリス人アッテンボローのドキュメントでは、仙台市で道路を走る車の前に胡桃を落としてその上を走らせて殻を割って実を食べるカラスを紹介していた。ああ、カラス、あな恐ろしや・・・

2008年3月10日 (月)

気ままにおしゃべり(10) かっぱ巻きとアフタヌーンティー

しばらく途切れていたシーリーズの復活編は、かっぱ巻きで始まる。

先週末の土曜日はいつものように双眼鏡をもってバードウォッチングの散歩を楽しんだ。ウグイスがところどころで遠慮がちに囀っていた。ミソサザイ、エナガ、カワラヒワ(囀り)、ルリビタキ(♀2羽)、オオタカ、キクイタダキ、ツグミ、シロハラ、シメ、メジロ(囀り)、コゲラ、キセキレイ(囀り)、セグロセキレイ(囀り)、カワセミ、ホオジロ(囀り)、コジュケイ(叫び!)、キジ、ダイサギ、コサギ・・・たっぷりと楽しんだ。野鳥がだんだんと囀るようになって来た。

午前中たっぷり3時間歩き回って、すっかりお腹をすかせ、途中スーパーにより巻き寿司を買って帰宅した。お茶を飲みながら巻き寿司3種を頬張った。かんぴょう、梅、そして胡瓜。それぞれに美味いが、わさびの利いたかっぱ巻きを食べていたら、急にロンドンでいつだったか、アフタヌーンティーで食べた胡瓜サンドイッチを思い出した。

確か、サボイホテルだったと思う。10ポンド以上もする贅沢なアフタヌーンティー。ものは試しと大枚をはたいて体験しに行ったのだった。物々しい服装で入館する者を気後れさせるようなドアマンに挨拶されて中に入った。イギリスは万事がものものしく、まるで皆が歌舞伎役者のように演技していると思うことがあった。

さてこのアフタヌーンティーだが、注文してしばらくすると3段だか4段の銀器にものものしく乗せられて出てきたのが、食パンの耳を落として白い部分だけを使ってハムとか胡瓜が挟んであるシンプルなサンドイッチやクリームとビスケットのようなものも(スコーン)と果物だった。それに紅茶もいろいろな種類があって、私はダージリンを頼んだのだった。内容はたいしたことないのだが、時代ががかったものものしさだ。日本の喫茶店でするアフタヌーンティーとは大違いだった。

別段おししいとは思わなかったが、妙にお茶と合うなぁと思いながら食べたのが胡瓜サンドイッチだった。もぐもぐとかっぱ巻きを食べながら、具の胡瓜とつーんとくるわさびの味に感心した時、突然思い出してしまった。あの、胡瓜サンドイッチを。

イギリスにはローストビーフというおいしい牛肉の食べ方もある。牛肉の塊をローストして(外側はこんがり焼くが中身は半生である。つまり、牛肉のたたきだ)薄くスライスして、ホースラディッシュ(西洋わさび)と一緒にローストしたときに出る肉汁を煮詰めたグレイビーソースで食べるのだが、アングロサクソンの食事は不味い、という定評にも関わらず、これを食べたときの美味しさには感激した。そして、この食べ方を発明したイギリス人に敬意を覚えたものだ。個人的には、Strandにある有名なSimpson’sなんかのローストビーフより、日本のホテルで出されるローストビーフの方が美味しい気がするが・・・。

牛肉をわさびで食べる、というのがミソなのだと思う。牛肉というかステーキの一番美味しい食べ方は、塩と胡椒でシンプルに食べることだと思うのだが、ローストしてわさび(西洋でも日本わさびでもどちらでもいい)で食べるのも捨てがたい。

やはり、マグロを生でわさびと醤油で食べる日本人の味覚の本能からだろうか?

2008年3月 9日 (日)

教育について思うこと (6)

日露戦争から一貫して日本の対外政策が拙劣を極めて墓穴を掘ったのだ。また、中途半端に強かった日本の悲劇とも言えるかも知れない。 それと人種差別問題も当時としては大きかった。チャーチルとかルーズベルトも含めて、欧米人のアジア全般に対する侮蔑はまだ酷いものがあった。 東洋人は半文明人として馬鹿にされていた。 英米に苛め抜かれた鬱憤が真珠湾だったとしても、やり方が拙劣すぎた。日本のエリート達も地に堕ちたものだ。

日本は、大東亜共栄圏という美しいスローガンとは裏腹に中国を食い物にしながら、傍若無人に振る舞って大暴れしてしまった。 中国が当事者能力を失って混沌としていたなかで、策略に乗った「お人好しにして、単細胞の日本人」がババを引いてしまったのだ。

高名な元外務省OBの評論家は、日米同盟堅持を主張している。アングロサクソンは歴史的に一度も戦争に負けていない。意味するところは、覇権国家と組んでいれば間違いない、資金も情報もふんだんにあるから、援助してもらえた上に、日本人のような能力があれば大国ロシアをやぶることも可能だった、ということだろう。 逆に言えば、一人の独立したプレーヤーとしては未熟であり、大人(昔イギリス、今アメリカ)の指導が必要なのが日本なのだ。

司馬遼太郎の本にもあったとおり、ヤコブ・シフというのはロスチャイルドと同じフランクフルト出身のユダヤ人金融家で、高橋是清は、当時のウォール街=ロンドンのシティーに日露戦争債を頼みにいって断られた(ロスチャイルドを中心とするシティの金融シンジケートはロシアのバクー油田の利権を持っていたので日本を応援することはしなかった)上で、紹介された人だったが、この人はロスチャイルド財閥のアメリカの代理人でもあった。日露戦争では、したがってイギリス(金融資本)は大もうけをした上に、イギリスの戦略を日本という駒を使って成し遂げた(ロシアの南下の阻止)ですから、みごとな手腕です。戦わずして敵(ロシア)を破る!孫子の兵法でいう最上の策。しかも、イギリスの黒幕(金融資本)は、両天秤をかけるという悪どさに注意。

以上は後から見た知恵なのかも知れない。しかし、当時の限られたエリート達は分かっていたはずです。それとも・・・ひょっとして分かっていなかった? 明治維新から日露戦争までのように、イギリスの庇護があれば、情報と資金がもらえて、未熟な青年でも戦えたが、庇護を失い独り立ちしたら、たちまち行き詰ってしまった。これが真相でしょうか?

もしそうだとすれば、「日本人という島国人」の欠点、別名「外国音痴」の宿阿が国をほろぼしたと言えるでしょうか? 現在でも、これだけ外国の情報がありながら(当時は一部のエリートに限られていた)、真の外国の姿を分かっている人は意外と少ない。外のリアリティーがわからない。良い例が、隣国の中国人のことをまったく分かっていない。朝鮮半島の人のこともそうだ。したがって、外交も下手くそというのは日本だけが知らない外国人の間の常識らしい。

キッシンジャーと周恩来の会談録が出ていますが、周恩来が「結局、日本人というのは島国で視野が狭い。暴発します」とコメントした。「瓶の蓋論」が出る所以だろう。

続く

2008年3月 8日 (土)

日本の教育について思うこと (5)

最近出た「ロックフェラー回顧録」を読んで、1900年の義和団事件の賠償金を使ってアメリカは中国人の為に北京に病院というかメディカル・カレッジを作っているのにはうなってまった。 賠償金を軍事力増強に使った日本と何という違いだろうか?

すでに第2次世界大戦後の新植民地主義政策を先取りして?中国人民の人心掌握の布石を打っているのだ。宣教師の布教活動も大きな力になっていた。その意味で、日本の大陸政策におけるソフト戦略は惨敗である。

世の中は植民地主義・帝国主義=悪、ナショナリズムの高揚時期にあったにも係わらず、日本はイギリスと同じ事をやりながら(アメリカはもっと巧妙に帝国主義的だった)、その悪を一身に受けてしまった。特に中国で五四運動の矛先は日本にまとまってしまった。 これは、国策としては大失策だった。 日本の指導者は何をしていたのだろうか?

日本政府は終始、北京の政権を正統政権と見なし、いわゆる革命派の孫文は、見捨てられたため(不平等条約撤廃や満州鉄道の返還とか日本の権益をご破算にしようとしたのだからまあ理解できないわけではない。特に満州利権は、日露戦争で日本軍の血で購った利権である。中国=当時の清朝は拱手傍観だったのだから、虫が良すぎる話だ)、彼を結局ソ連に接近させて、国共合作の種をまいてしまったのだった。

スターリンが時期尚早と中国共産党ではなく終始国民党を支援したことは注目に値する。 国民党はソ連が作ったのだ!!! その後の紆余曲折で、蒋介石軍は、反共に転ずるものの英・米ばかりかソ連も支援し続け(西安事件で、毛沢東は、蒋介石を殺そうとしたが、スターリンがノーと言った)、また、共産党は米ソが支援した。しかし、水面下では、英、米、ソはそれぞれに思惑をかかえながら牽制しあっていた。

ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発しドイツがヨーロッパを制覇して風前の灯だったイギリスにチャーチルが登場してから風向きが変わった。 チャーチルの偉業、ルーズベルトと組んでアメリカの世論を覆して第二次世界大戦に参戦させる一大作戦を徹底的に繰り広げたのだった。 暗号名イントレピッドがアメリカで暗躍し、蒋介石の縁組先の宋一族(浙江財閥資本)を使った対米マスコミキャンペーンを繰り広げ、ハリウッドの映画での反ナチス映画(あのカサブランカとかヒッチコックの映画)の展開もその一幕であった。日本を囲い込んでアメリカへの戦争をけしかけたのは実はチャーチルの戦略だったのだ。

混迷の時代、大不況下の1930年代のブロック経済化した世界において、当時のアメリカは自給自足できる国であり、保護主義政策を取り続けた(アメリカが自由主義経済に転換したのは1945年以降)。イギリスは大英帝国のブロックで自給自足の世界を形成した。残されたほかの国はどうしたか。 なんという悲劇。食い合いをせざるを得なかった。だから、その中で、旧来の白人国家に依存していたら自分達はやっていけない、という危機感のもとに満州事変を起こしたのは仕方がなかった。 ここまでは私も認めるのにやぶさかではない。 

しかし、満州から山海関を越え、いわゆる「中国本土」に入ったことは、共産主義勢力や英米の策謀にはまり日本が泥沼に嵌まる愚策だった。その後も、蒋介石が指導する国民党と和解する機会もあった(上海事変)にも関わらず、近衛文麿が相手にせず、と突っぱね、最後は日米交渉の結果、いわゆる「ハルノート」の挑発に「逆切れ」して、日本史上最悪の愚作「真珠湾攻撃」をやってしまった。結果は、アメリカの原爆投下にまで至る敗戦であった。

続く

2008年3月 5日 (水)

私の世界カタコト辞典から (3)

Du kannst dir die Vorhaut schieben ! (ドイツ語で「ずるむけチンコ」の意の卑語)

今日は、早めに職場を出て家路についた。梅の香りが漂う早春の空気を吸いながら。何故かこの季節になると憂鬱と期待の入り混じった気分になる。

帰宅して、牡蠣フライと鯵の干物とお好み焼き(自家製関東風のシンプルなもの、葱と白魚と桜えび入り)を肴に白ワインを久しぶりに飲む。鯵の干物を頬張りながら、何故か突然30数年前の夏、ドイツからMichael君がホームステイで2週間、我が家に滞在したことをまた思い出してしまった。

朝食で出たアジの干物をぺろりと平らげて、Das schmeckt ja ganz prima! (ドイツ語で「とってもうまい」の意味)Michael君。

魚全般が苦手だった私だったが、鯵は好きな魚だ。鯵の刺身はもちろんだが、鯵の塩焼きは絶品だ。地元で水揚げされる大型の鯵、それも刺身用の生きが良いものをシンプルに焼いて、レモンを絞りオリーブオイルを少し掛けて白身を頬張るとウーンと唸りたくなる。美味い日本酒かドライの白ワインがあれば申し分ない。そして、アジの干物。これもなかなかだ。ああ、安くて美味しい鯵よ!

話がそれてしまった。二十歳は過ぎていたが、世慣れしないもののそれなりに悪がきっぽく突っ張っていた時代だった。彼の姓はMartinkovsky、日本語で発音すれば、マルチンコフスキィーだ。ドイツ人らしくない名前だ。家系を辿るとポーランドあたりから炭鉱労働者としてライン地方にやってきたらしい。しかし、この「マルチンコ」が日本語ではよくない。散々日本語のことを説明してからかったのだが、彼がウィンクしながらニヤリとして教えてくれた罵り言葉が表題の表現だった。「このずるむけチンコ野郎メ」。

2008年3月 4日 (火)

ウグイスの初鳴きを聞く!そして、三度目のトラツグミ!

日が長くなった。朝6時過ぎにはもう日が昇るようになった。明けがたうつらうつらする時刻にまずはカラスの声で目が覚める。目が覚めるというか半分は夢うつつである。しばらくして、チュチュン、チュイ、チュイと雀たちが一斉に囀り始める。これが私の一日の始まりだ。

ホー、ホケッキョ・・・と夢の中で2度、3度聞いたような気がした。それが、昨日33日の朝のこと。夢うつつの中で。ハッとして目が覚めたがもう聞こえない。願望による幻聴だったのだろうか?

そして、今朝のこと。7時前にいつものように起きて1階のキッチンで朝食を取り始めた。

オレンジジュースとカフェオレとチーズ入りのフランスパンにベーコン入りのパン。これが毎朝の定番だ。オレンジジュースを飲みながら、新聞を広げ、一口、二口もぐもぐする。と、すぐ右手の東向きの窓ガラスの向こうから、遠慮がちのウグイスの囀りがした。ケッキョッ・・・

ホーケッツキョッ。なんとも中途半端な囀りか。しかし、ウグイスだ。思わず噴出しそうになってしまった。 2度、3度と鳴いてまた静かになってしまった。冬が去りつつあることを実感させる瞬間だ。今年も、こうしてウグイスの声を聞けた!

昨日の囀りは幻ではなかったのだった。7時半すぎ職場に到着。早朝のキャンパスを歩く。土手付近の雑木林に差し掛かると、またまた聞こえてきた。ホーホケキョッ!こちらは、かなりまともな囀りだったが、幾分まだ遠慮がちであった。

それでも、今年一番のウグイスの囀り。心が弾んだ。春だとは言うもののまだ寒い。しかし、梅の香りがあちこちで漂い始めている・・・。

PS

昼休み、梅の香りに誘われていつものコースを散策した。ツグミ、シロハラ(10羽以上)、アカハラ、オレンジ色のジョウビタキ(♂1、♀1)、瑠璃色のルリビタキ(♂1)、シジュウカラ(囀り)、カワラヒワ(囀り)に混じって、もみじ谷では、またまたトラツグミに再会した。先週水曜日とまったく同じ場所だった。

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先週末は2コース、午前中たっぷりとバードウォッチングに没頭した。特に新しい出会いはなかったけれど、春先のカシラダカの美しい囀りも聞いた。

2008年3月 3日 (月)

教育について思うこと (4)

我が敬愛する小室直樹氏曰く、

     日本の明治政府は、優秀な官僚は作った(東大法学部)が、優秀な政治家を作るシステムを作らなかった。

     東大法学部は科挙になってしまった。

そして、マックス・ウェーバーを引用して言う

③ 最良の官僚とは最悪の政治家である。

明治時代も、維新という偉業を成し遂げた人材が「元老」という形で残っている間は良かった。元老がこの世を去り、明治に生まれ明治に教育を受けた新しい世代が政権を担った時代が国を指導したのが、第一次世界大戦後のベルサイユ体制という時代だった。

大英帝国が没落をはじめ、アメリカはまだ、覇権国家となっていたにも関わらず、自覚が足りずモンロー主義的な高関税の保護主義的国家であった。極東は、力の空白地帯となった。中途半端な力の日本がぽつんと残ってしまった。必死に利権を守ろうとするイギリスと、門戸開放を唱えて中国大陸に利権を求め始めたアメリカ。日英同盟が解消されて、世界はウィルソン主義、つまり、民族自決の時代であり、民族独立の気運が高まり始めた時代だった。また、ロシア革命を経て成立したソ連は革命を輸出し始めた。そのような状況で、日本は満州の利権、ドイツの敗戦による棚ぼた式に取得した山東省の利権を守ろうとしたのだったが、その後の歴史は、当事者能力のない中国の内戦に引きずり込まれ、日本自らが孤立し(=英・米・ソが手を結んで、しかも日本はメリットに疑問符がつく三国同盟に行ってしまった)、暴発し、310万の同胞の死を招くという最悪の事態を招いてしまった。 何故か? 明治に教育された新しい世代の指導者が道を誤ったからだ。

一般に、大東亜戦争にいたるターニングポイントは、1932年の満州事変から始まるとされるが、これには伏線があった。日米対決の目はすでに日露戦争講和条約交渉時から始まっていたのだ。アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の取り持ちで日露講和が成立したが、何故アメリカは日本を助けたか?ロシアの南下を抑えるために、日英同盟を側面から支援したのだ。腹の中は、中国大陸への利権獲得のための進出だ。門戸開放だ。日本はほどほどにしなければいけなかった。ポーツマス講和と同時進行でアメリカの巨大鉄道資本家ハリマン財閥の南満州鉄道共同出資提案をいったんは受け入れながら、小村外務大臣が帰国後くつがえしたのがけちのつき始めだった。満州にアメリカ資本を入れて共同利権事業とすれば、満州事変を起こす必要がなかっただろうと言われている。

そして、中華民国政府に対する対華21か条の要求だ。 ベルサイユ条約で第一次世界大戦の敗戦国ドイツの山東半島の利権をそっくりものにするための中国に対する要求だった。 このあたりまでは、イギリスも北京政権を支援していたものの、これを契機に徐々にそして実に巧妙に国民党政権支持に向かうことになった。いつの間にか、国際世論=(英語圏のマスメディアが作り出す世論という意味)は、中国の批判を日本一国に向けさせる契機を作ってしまったのだ。 

ソ連のコミンテルンの暗躍もすごかった。ソ連は、植民地主義の悪「不平等条約」をすべて破棄した。彼らが世界に革命を輸出するための戦略とはいえ、若い中国の知識人をひきつけたことは間違いない。 世はアメリカのウィルソンの民族自決によってナショナリズムが高揚していた時代だった。

続く

2008年3月 2日 (日)

教育について思うこと (3)

中央公論の2月号を読んでいたら、もと東大学長の話として、これからの日本の教育は、従来優秀だとされた中間層が没落していく中で(これは先進国の特徴だそうだ)、トップエリートを如何に世界レベルで本当に戦えるレベルにするかが今後の日本の課題、だと指摘していたのが印象に残った。

話は飛躍するが、かつて明治維新は世界の偉業として注目を浴びた。安岡正篤氏は、幕末の日本は中国で言えば三国志の時代に比肩しうる時代であり、日本史上、これほど人材が出た時代はないという。明治維新をなしとげた人たちは、明治以降の近代国家で教育された人間ではないことに注意する必要がある。明治で教育を受けた人間が、主役で登場したのは大正から昭和なのだ。そして、見事に日本を没落させてしまった。(※明治維新と日本人の能力における欠陥、宿阿については別途論じたい)

敗戦後、軌跡の経済復興を果して世界をふたたび驚愕せしめた日本だったが、冷戦崩壊とバブル崩壊後、迷走に迷走を続けている。つい最近まで日本は経済一流、政治は三流と言われていた。今は、経済も危ないといわれ始めている。 冷戦の崩壊とは、ソ連と戦うためにアメリカが日本を見方につけながら共産主義運動の防壁とするための日米安保条約を無意味にしてしまったのだ。 アメリカは、自らの立場をあやうくしかねない日本の追い落としを冷戦終了後の戦略とした。そして、結果は、彼らのやりたい放題で惨状を呈しているのだ。言いなりで無策の日本。 自民党の役割は終わったのだ。 さあ、どうする日本!!!このような時代こそ、我々を導いてくれる良き指導者が必要ではないか?

日本には優秀な官僚がいるではないかと言う人もいる。しかし、これは昔の話だ。近代国家を作るにあたっての国づくりをする際にはどうしても必要な装置だった。東大法学部は官僚養成学校だったが、ある時期までは大成功した。

もともと近代社会を作るには豊かな中間層が必要だったのだが、維新当時には日本にはいなかった。だから、廃藩置県で路頭に迷った武士の末裔を官僚で吸い取って再生させ、これらモラルの高い少数のエリートが国民の啓蒙も含めて効率よい国作りをしたという。

これは、ドイツをモデルにしていて、伊藤博文は憲法を作るために、まずロンドンに行ったのだが、幕末維新以来のスポンサーのロスチャイルドに相談に行った (エドモンド・ロスチャイルド自伝に書いてあります)。 その上で、国情からドイツを見本とするように勧められてドイツをモデルにすることになった。実は、ドイツも、日本と同じで中間層がいない国で、すべては優秀な軍人官僚(ユンカー)がビスマルクという稀有な政治的逸材によって国を統一した(明治維新に遅れること3年の1871年)。それまでのドイツは日本の藩と同じで領邦国家が<英語でいうState>が何百とあって、いわゆる近代国民国家の体をなしていなかった。

ビスマルクに相当するのが、明治維新の元老達による指導体制であった。彼らは幕末の動乱を乗り越えた軍人政治家であった。しかも、吉田松陰の薫陶を受けた教養人でもあった。

欧米列強の圧倒的武力で植民地されかねない状況で、明治維新をなしとげ、明治国家を作り上げたこの元勲たちとはどういう人たちだったのか? 白洲正子自伝には、祖父の樺山公爵が、明治維新に残った連中はみなクズだった、という印象的な挿話がある一方で、日清戦争終結のため下関にやってきた李鴻章をして、伊藤博文という人物を絶賛せしめたという。明治の優秀な官僚たちは、まだ漢学という儒教的教養と武士道という道徳で陶冶された、この偉大な元勲達(指導者)のもとで国つくりを行い、ピークといわれる日露戦争まで上昇を続けたのだった。

続く

2008年3月 1日 (土)

教育について思うこと (2)

そもそも教師を生業にしている先生方は、ある意味で学業が優秀な方が多いだろう。世間一般はそう思っている。しかし、学業だけでは、人間は駄目なのだ、というのがK先生を見てもよく分かる。人間の真価が問われるのは、専門以外の分野でどれだけ見識を示せるかだ、と誰かが言っていたような気がする。 

「専門馬鹿」という言葉があるが、人間である以上自分の寄って立つ立場(専門)は必要だ。しかし、これだけでは十分ではない。必要なのは人間の情熱、そのもととなる「魂」「気迫」である。亡くなられたK先生は、何事にも真剣に妥協を許さず取り組まれた。 それが現場にもひしひしと伝わる。 だから、仕事には厳しかった。 おい、出来たかぁ、と仕事の進行具合をチェックしながら、こんなんじゃぁ、全然駄目だよ、やり直し、ここが駄目だ、と。 若い職員は畏れ(恐れ)ていた。 しかし、非合理を押し付ける暴君ではない。いろいろな問題、迷いが生じて判断に困るときの一言一言が核心をついている。グサッと我々の心に突き刺さる。確かにそうだ。 そして、やって見るとそうなる。 皆は、先生の行動に注目し、引っ張られていく。 これがリーダーシップだ。このようなリーダーシップと判断力はやはり、並みの人では出来ないことだ。これが人材たる所以だ。やはり、鍛えられて、本人が努力の積み重ねがないと蒸留してこないものなのだ。

いわゆる世間的に偉いと思われている「教師」だが、彼らにもピンからキリまでいることはいまや世間の常識となっている。親達はいい先生に子供を指導させたい。 当たり前である。 格差社会といわれる今日の日本だが、特に公立教育のレベルダウンはお金はかかるものの教員の質も含めて努力をする私立高校の後塵を拝してしまっている。 東大合格者トップテンは私立の名門校(東大合格だけがいい教育の結果ではないが)に占められて久しい。公立には「企業努力」というモチベーションが稀薄だ。最近変化の兆しがあることは喜ばしい限りだが。一流予備校の先生は、年俸数千万と及び聞くが、それだけの競争を勝ち抜く能力があってのことだ。ただし、現在の日本の「教育の劣化」という観点からいうと、教え方がうまいだけでは、本当の意味で求められるいい教師とは言えないと思う。 教育の質ということを問題にするなら、「優秀な教師」に尽きるのではないだろうか?

では「優秀な教師」とは何か? 学校秀才が学歴をひっさげて社会に出る。 しかし、結果がでる人生の後半において、そもそも学歴が必要だったか、と言われると、かなりの人は「否」という実感を持つはずである。そして、何が大切だったかというと、勉強したことはあくまでも必要条件にしか過ぎず、十分条件は社会の中でもまれ身に着けていくものなのだ、ということで、こればっかりは、教科書には書いてないし、「コツ」つまり「肝心なこと」は誰も教えてくれない。

持って生まれた能力とは言うものの、人との出会い、「触媒」があって、あとは本人の努力(気づいて、盗んで、自分なりのスタイルを確立する)で進化していくものだ。 それが、人生の戦いのなかで勝敗を決める。 

結果として、あなたが出世したかどうか、これはまた別問題である。 ある人いわく、日本の場合、大企業の役員の少なくとも半分は、本当にこの人役員なのというタイプらしい(=つまり、ゴマスリで出世したひと。ゴマスリはゴマスリでまた認められることは大変なことなのだが、これでは人物が育たない)。

実力がありながら敗れ去るものがいるのもこの世の中である。 話が脱線しそうだが、良き教育者とは何か? 結局、どれだけその人が子供達から青少年に対して、知性と同時に徳性(いろいろな状況で判断しながらどうふるまうか)を感化することに尽きるのではないか? ある状況があって、それに対してあなたはどこまで責任を持って対処することができるか。立場によっていろいろなケースが出てくるのだが、振り返ると人生とはこの連続である。

だとすれば、現在の教員制度は大きな欠陥である。大学を卒業して人生経験において、実社会の競争にもまれていない若造(失礼)が、本当に自信を持って子供や青少年に接しながら彼らに生きていく上で必要な「魂の陶冶」をすることが出来るであろうか? 

もちろん、教師として教育界という閉じた世界の中でキャリアを積むことで立派な教育者となられる先生もいると聞くが、企業においても本当に企業に貢献できる優秀な人材は数パーセントしかいないという。 8割は普通(「数パーセント」に引っ張られる側)、1割は煮ても焼いても食えないお荷物、といわれるように、教師の世界の実態も同じだろう。 企業経営の観点から言うと、8割の普通の人をどれだけ、数パーセントの人材に引き上げるか、だそうだ。 だとすれば、教師の世界もそうであろう。 

続く

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