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2008年4月28日 (月)

夏鳥が続々とやって来ています!そして、嗚呼、オオルリ三昧!

先週土曜日は出勤だったので、今日は振り替え休日でおやすみぃ~!待望のオオルリに出会えてぐっすりと熟睡した昨夜だったが、今朝は、5時に目が覚めてしまった。ウグイスは5時半前に鳴くので、つまりは、ウグイスより早起きをしたということ。

良し、今日も行くゾ~ォ、と双眼鏡を持って家を出た。昨日とは反対のコース、桜川緑地を歩こうと決めた。玄関を出て、一瞬迷いが生じて、昨日待望のオオルリを観察した逆川コース方面に足が伸びて計画変更をしそうになったが、すぐ心を修正してまずは、少年の森に足を踏み入れた。これが大成功だった。

少年の森のまでは静かな住宅街を歩く。いつものとおりウグイスが囀り始めていたのだが、少年の森に入った途端、いきなり、エゾムシクイの囀りが私を迎えてくれたのだった!やったぜ、ベイビー!初っ端から絶好調ダゼ!しかし、これで驚くのはまだ早かった。その後が、驚き桃の木山椒の木であった

緑が一気に噴出してすがすがしい香りがあたりに漂う小さな雑木林なのだが、ちょっとした森林浴気分で50メートルほど進むと、静かだった少年の森は一気に野鳥のコーラスに包まれた!もうそれは圧巻だった!チチョチチョビー、とセンダイムシクイの囀りが聞こえたかな、と思ったら、キョロンキョロンジュリリ、のアカハラ、ツピーツピーツピーのシジュウカラで一気に賑やかになった。

耳を澄まして聞いていると、そのシンフォニーの中に、ひときわ高らかにあの美しいオオルリの囀りが聞こえたような気がした。ンンン?耳を澄ませながらじーっと立ち尽くす。徐々にトーンが上がってきた。おお、やっぱり、オオルリだぁ!。昨日のぐぜるような囀りに似ている。すこしばっかり遠慮気味だ。目を凝らして音源をたるとチラリと姿が見えた。英語名Fly catcherと言うとおり木の高い梢で宙返りするような仕草で忙しく飛んで空中の虫を食べるのだ。双眼鏡の中は、あこがれの、昨日目の当たりに見たばかりで興奮さめやらぬあのオオルリであった!やったぁ、二日連続でオオルリの大当たりィ!!!

しかし、オオルリはすぐに鳴きやんで姿が見えなくなってしまった。残念。

ここで気を取り直して、ひとまず、少年の森を離れた。そして、約2時間桜川緑地を散策したのだった。本日の「鳥果」、つまり観察した野鳥、というかリスニングしたものも含めると、

1)   オオルリ♂1(囀り) 2)ウグイス(囀り) 3)キビタキ♂1(囀り) 4)センダイムシクイ3+

(囀り) 5)エゾムシクイ1(囀り) 6)ヤブサメ1(囀りというか地鳴き) 7)ツバメ 8)コチドリ 9)アオジ(囀り) 10)ホオジロ(囀り) 11)セグロセキレイ(囀り) 12)メジロ(囀り) 13)シジュウカラ(囀り) 14)マヒワ 15)シメ 16)ツグミ 17)アカハラ(囀り) 18)ヒバリ(囀り) 19)キジバト 20)コゲラ 21)ヒヨドリ 22)ムクドリ 23)カワラヒワ(囀り) 24)コブハクチョウ 

25)コクチョウ 26)ヒドリガモ(まだいます) 27)ホシハジロ(まだいます 28)カルガモ

注)太字が渡りでやってくる夏鳥

冬鳥もまだいるのだが、夏鳥が大分揃ってきた。オオルリ、キビタキ、センダイムシクイ、エゾムシクイ、ヤブサメ、と来たのだ。クロツグミがまだだなぁ。ノビタキもそう言えばまだ見ていない。季節限定で移動中の野鳥が羽を休める束の間の瞬間を双眼鏡で捉えるのは大変なことなのだと思う。

上流で約1時間、元気に囀るキビタキと戯れて、8時半過ぎ、少年の森に戻った。途中、シィシィシィシィと虫が鳴くようなヤブサメの声も聞いた。清掃でモーター音をたてて埃をたてている作業中の人があってうるさかったが、その騒音にも関わらず、オオルリ君の囀りが聞こえてきた。なんと伸びやかで新緑にふさわしい清々しい囀りだろうか!私はふたたびその場に釘付けとなってしまった。30分近く、ベンチに腰掛けて美しい囀りに聞き入ってしまった。双眼鏡で美しい青と白のツートーンカラーのオオルリ君の姿を追い求めながら。合間には同じ夏鳥のセンダイムシクイの合いの手が入った。

9時半前に、一旦帰宅した。少年の森の出口では、別のセンダイムシクイと朝一番、私を元気な挨拶で出迎えてくれたエゾムシクイが囀っていた。 私は夢を見ているのではないか?

参考までに、センダイムシクイの囀りはこんな感じです。

http://kochan01.cool.ne.jp/link/yatyo/sendaimusikui.html

そしてエゾムシクイは、

http://kochan01.cool.ne.jp/link/yatyo/ezomusikui.html

ヤブサメは、

http://kochan01.cool.ne.jp/link/yatyo/yabusame.html

みんなウグイスと同じ仲間で結構似てます。正直いって私には外見から見分けがつきません。

朝食を取りながら、家の人に、少年の森にオオルリが来てるよ、と興奮気味に話す。しかし、相手にはなかなか、何がすごいのか、理解してもらえない。私は、トイレで用を足すのもそこそこに、ふたたび少年の森に戻った(歩いて5分ちょっとの距離です)。

10時前の少年の森は静かだった。が、すぐにまた囀りが始まった。シジュウカラ、センダイムシクイ、そして、オオルリ。囀り始める直前には、座っていたベンチのなんとすぐ近くのモミジの木、地上3メートルくらいのところに降りてきていたのだから、びっくりである。わずか10メートルくらいの至近距離だった。オオルリが鳴いている間はずっと森にいようと、本を持参で来たのだが、本を読む気分にはならない。

だんだん、遊ぶ子供達の声がするようになってきた。10時半過ぎ、森は再びシーンとしてしまった。これを潮時と見て、今日のバードウォッチングを終了した。 この分だと、明日の朝も少年の森に行ってしまいそうだ。

2008年4月27日 (日)

やっとオオルリに出会えました!

あこがれのオオルリ(♂)を間近に観察して来ましたぁ!

ウグイスの囀りで目が覚めた今朝。時計を見ると5時半。外は、曇り空。よし、行くぞォ~!

双眼鏡を持って家を出た。コンビニで肉まんを買って腹ごしらえ。3週間ぶりに逆川緑地を歩いた。歩き始めてすぐにキビタキの囀りが聞こえてきた。目を凝らして姿を探すがなかなか姿が見えない。緑が濃くなってきた雑木林の上のほうにいるのだが。チラリと姿をみただけで終わってしまった。 

途中で小雨模様になったが何のその。第三米沢橋のすぐ上流でふたたびキビタキの囀り。今度こそ、とひっそりとした雑木林で粘る。美しい囀りが聞こえるが、なかなか姿が見えない。途中で、エナガの群れがやってきた。10分、15分、時間が過ぎていく。とうとう、囀りは止んでしまった。ここでもキビタキの姿を拝むことは出来なかった。悄然とする私・・・。

今日も駄目かね、と半ば諦めつつも、もう少し上流に行って見よう。空はどんより、小さい雨粒がまだパラパラと落ちてきているが、静かに、ゆっくりと、もうあまりうれしくなくなった(何という贅沢)ウグイスの囀りを聞きながらさらに上流へ向かって歩いていく。心は無心だ。

ふと逆川右手の土手の潅木に目をやると、野鳥が逆光気味にシルエットを描いていた。ヒヨドリじゃないし、ツグミでもないな、と思いながら双眼鏡で覗いてみた。そして、びっくり、たまげてしまった。あこがれのあのオオルリじゃないかぁ!それも美しいほうの♂だ。瑠璃色というか群青色と白のツートンカラー。野鳥図鑑では見飽きるくらい眺めたオオルリだぁ!

心臓がバクバクし始めた。20メートルくらいの至近距離。周りではウグイスが囀り、ヒヨドリがピーヨと煩い鳴き声をあげ、アオジ、ホオジロも囀り始めたのだったが、何とオオルリ君も小さい声でぐずるように囀り始めるではないか!出会いは突然だったが、こんな至近距離でしかも私の目の前で囀ってくれるとは・・・ その場に釘付けとなってしまった私。日曜の早朝で散歩人はいない。私一人がすべてを独占している・・・ 双眼鏡の中のオオルリの姿と囀りと私が一体化する瞬間だった。

3度囀って、オオルリ君はちらりと私を見て飛び去った。

ふーっ、とため息をついた。体の力が抜けて、緊張が解けた。オオルリは渓谷がある山にいる夏鳥だが、東南アジアから新緑の季節に日本にやってくる渡り鳥だ。普通の平地では渡りの移動途中で観察できる時期限定の野鳥なのだ。忘れもしない2年前の2006430日に同じ逆川だが笠原水道は野鳥観察の森で、オオルリの囀りを聞いている。木の高いところで何度も何度も美しい囀りを聞かせてくれたのだったが姿はチラリとしか見せてくれなかった。御前山でも同じだった。声はすれども姿は見えず。フラストレーションがたまる野鳥なのだ、私にとっては。今年こそ、とばかりに先週一週間は双眼鏡を持って毎朝職場へ1時間半かけて小川がながれる湿地帯のそばの雑木林縁などオオルリが好きな環境とおもわれるところを歩き回ったのだが、空振りだった。ずーっと振られっ放しだった。

そして、今日ついに念願がかなった。オオルリはバードウォッチァーにとっては憧れの鳥だ。インターネットで検索すれば美しい姿と囀りをアップしているサイトが結構あるのはその証拠だろう。例えば、

http://www.asahi-net.or.jp/~yi2y-wd/a-uta/uta-oruri.html

今日は私にとっては記念すべき日になった。明日以降もしばらくは、毎日双眼鏡を持って出かけることになりそうだ。

2008年4月24日 (木)

キビタキ、ついに現れる! 

ポカポカ陽気とは言え、東京よりは寒い北関東の田舎都市。先週から、遅番勤務になり、朝はゆっくり起きて、9時前に徒歩で職場へ向かう日々である。1時間半かけて!双眼鏡片手に・・・しかし、お目当てのキビタキにはこの二日出会えなかった。

ウグイス、シメ、マヒワ、アオジ、ツグミ、カワセミ、ビンズイ、エナガ、シジュウカラ、カワラヒワ、シロハラ、シジュウカラ、ホオジロ、などなどはいるのだが・・

今日も駄目かと諦めかけて、桜山を歩く。桜はとっくに散り、緑があっという間に濃くなって来た。カワラヒワにしては随分訛った声がするなぁ、とぼんやり歩きながらチラリと動く野鳥の姿。ン? カバンから双眼鏡を取り出すのに手間取って、肉眼で見た姿は黄色かった。ヤヤヤヤヤッ!!!待ちに待ったキビタキだぁ~。心臓がバクバクする。やっとこさ、双眼鏡を取り出して焦点を合わせると、こんな姿が円の中に納まった!!!

http://www.asahi-net.or.jp/~yi2y-wd/a-uta/uta-kibi.html

これで心が軽くなった。10分近くその場に立ち尽くして元気に動き回るキビタキと戯れた。とにかくじっとしていない。途中、小さな毛虫を捕まえて食べるところも観察させてもらった。頭が禿げかかった童顔の中年男が興奮しながら双眼鏡を盛んに覗き込んでいる。真昼間の公園で。怪しくないか?

脳内はα波にすっかり満たされた私。後ろ髪を引かれながら職場に向かう。

途中、一週間前に発見したシジュウカラの巣を覗くと、何と雛が孵っていた。何羽いるのか薄暗くて分からないが、一昨日覗いたときは6個の卵があったのだった。巣立ちまで2週間くらいはかかるだろうが、しばらくは目が離せない。私だけが知っている意外な場所にあるシジュウカラの巣と子育て・・・。

職場に近いいつもの雑木林を通ると・・・昨年の12月はキクイタダキの群れに出会ったところだが、昨日の昼の散歩でビンズイの群れに再び出会った。空耳だったかも知れないがビンズイの囀りを聞いたような気がしたのだった。そして、今日、何度も何度もこのビンズイの囀りを聞いた。最初はメジロの囀りかと思ったが調子がやはり違う。複雑だがなかなか美しい囀りだった。5年前、高尾山に登ったとき頂上で聞いた美しい囀りは、たぶん、このビンズイの囀りだったのだろう。長らく忘れていた記憶も今日、ビンズイの囀りを聞いて氷解した。

ビンズイの囀り

http://www.asahi-net.or.jp/~yi2y-wd/a-uta/uta-binzui.html

メジロの囀り

http://www.asahi-net.or.jp/~yi2y-wd/a-uta/uta-mejiro.html

職場では1日ウキウキした気分だった。仕事はもちろん、ちゃんとしました!

2008年4月19日 (土)

世界カタコト辞典(14)Heute sind wir hin

Heute sind wir hin. 

(ドイツ語でホイヤーソマーヒーと読み下して、南ドイツバイエルン地方の方言。日本語で強いて意訳するならば「ちかれたびィ~」の意味)

ああ、今週もやっと金曜日。一週間は早かった。毎日仕事頑張ってます。私燃えてます。新しい職場に移って3年目。責任者として真価を問われる年でもあるから、そりゃぁ、必死だわナ。と、言う割りには、今年は昨年より余裕がある。季節を眺める余裕がある。

オオルリよ、早く姿を見せてくれ~。キビタキよ、早く来~い。このところ朝5時になると自宅近くで囀るウグイスの声が目覚ましだ。今日は雨だったけど、それでもウグイスは5時過ぎにしっかりと囀ってくれた。緑が萌え始めて気温も上がり心地よい毎朝、私はXXX公園を散歩しながら職場へ向かう毎日だ。

木曜日は、道端の大木の幹の割れ目にシジュウカラの巣を見つけた。湿地帯のヒキガエルの合唱を聞きながら片側の雑木林の縁道を歩いていると、ある大木のすぐ近くで親鳥が大騒ぎしている。いつもと違う鳴き方でどうもおかしい、と思いじっくり辺りを観察したらすぐ目の前の木の反対側に巣があったのだ。一瞬、抱卵していた親鳥のもう一方が目にもとまらぬ速さで逃げ出した。野鳥は人の意表をつく場所に巣を構えるのだ。そーっと覗いて見たら、小さな卵が5つあった。雛が孵って巣立つまで観察する楽しみが増えた。

暖かくなってビールが美味い季節になってきた。毎日一本ずつ、地元産のエールを飲んでいる。水曜日は、ホワイトエール(ハーブとオレンジの風味)、木曜日はドイツ風のヴァイツェン(バナナ風味)。いずれも地元で作られるビールだ。フクロウトレードマークになっている。これも気に入っている。そして昨夜の金曜日はペールエールだった。地元産ですがなかなかですゾ!

http://www.kodawari.cc/html/nest/nestbeer.html

つい最近までラガービールしか飲めなかった日本だが、近頃はいろいろな種類と風味のビールが楽しめるようになった。昔は何故か麒麟麦酒一本やりだった。最近イギリス人ジャーナリストで日本滞在歴14年の日本通であるコリン・ジョイス氏の著書「ニッポン社会」入門」を読んだところなのだが、日本人のグルメ振りと食の繊細・豊富さに敬意を表しながらも、イギリス人らしくジョージ・オーウェルのイギリス料理擁護のエッセイを引きながら、10数年前に来日した頃の日本ビール文化のお粗末さ(最近は大分改善された!)と日本米の食べ方の単純さ(パンの種類の豊富さを見よ!)に苦言を呈している。

エールビールの本場はイギリスやアイルランドらしいが、インターネットで調べると、我が人生においてはあちこちでエールビールを飲んできたようだ。ドイツはジュッセルドルフのアルトビール(Schlosser Alt)ケルンのケルシュ(Koelsch)、アイルランドのギネス(Guiness)、ミュンヘンのヴァイツェン(Weizen)というか、東京の神田神保町の三省堂書店の地下のビアホールで飲んだバニラ風味のヴァイツェンビールは実に美味かった。おっと忘れてはいけない、ベルギー産のホワイトエールであるヒューガーデンHoegaardenもなかなかだ。

表題のドイツ語だが、20代後半の頃、日本のある家電メーカーが招待した売り上げ優秀なドイツ人の訪日報奨旅行の仕事を担当した時に、お客のドイツ人が私に掛けてくれた言葉だった。

バイエルン方言だから、さっぱり分からなかった。音で聞くとカタカナの通りだが、文字に書いてもらって初めて意味が分かったのだった。先方は、「お疲れさーん」とい言いたかったのだろう。そんな表現は日本語しかないのだが・・・。

エールビールを購入した食品スーパーだが、昨年ここで子育てをしたツバメが戻って来ているのに気がついた。昨年は途中巣が壊れてしまったのだが店の人が補強板で何とかしのいだのだった。すでに巣はちゃんと修復されていた。驚きであった。

木曜日の午後から天気が崩れ、金曜日も午前中は雨、午後から風が強く春の嵐だった。何とか一週間を乗り切ってほっとして帰宅、今週のことをあれやこれや思い出しながら美味いペールエールを飲み、30年以上前に聞いたバイエルン方言を思い出した。 さあさあ、もう店じまい、ちかれたびぃ~。もう一杯ビールを飲んでさあ寝よう。いい夢を見ながら・・・、と昨夜は熟睡した。

2008年4月17日 (木)

世界カタコト辞典(13) Would you turn right, please ?

Would you turn right, please ? (英語で「右折していただけますか」の意味)

外国語は本当に難しい。日本語が流暢な外国人は増えたが、やはり外国人は外国人である。テニヲハがやはりどこかおかしいし、発音も出自の民族のなまりが反映されて、いかに流暢に話そうが、思わずニヤリとしてしまう欠点を見つけるものだ。

日本人が喋る英語もしかりだ。ネイティブが聞いたら、腹を抱えて笑ってしまう英語を日本人は一生懸命喋っているに違いない。

ドイツ人をからかう話を聞いたことがある。ドイツ語にはbekommenという単語があって、英語のto get, to haveの意味がある。自国語とパラレルな語並びで意味も同じように思えるこのbecomeという単語はドイツ人にとっては紛らわしいのだ。英語のbecomeは「何々になる」という意味だが、ドイツ語のbekommenの意味にこの意味はない。そこで笑い話がある。あるドイツ人がロンドンのレストランでビーフステーキを注文した。

ドイツ人いわく: I would like to "become" a beefsteak, please. (「私はビーフステーキに

           なりたいです」) 

注)本人は「ビーフステーキを下さいナ」と言った積りなのだ。

レストランのウェイターいわく: I do not hope so, sir. (そうならないことを望みます)

英語のウェイターもとぼけた返答をするものである。腹のなかではクスクスと笑いを堪えていることだろう。

日本人にとっての問題はlrの区別がまったく付かないことだろう。基本的にrの発音が出来ないし聞き分けられない。 Lice () rice (お米) の発音でドイツ人とは違うからかわれ方をしてしまうのだ。

私のロンドン時代の先輩にOK氏がいらっしゃった。私が直接聞いたのではないが、やはり先輩のIさんから、取って置きの笑い話として、以下の話を聞いたことがある。

バブルが崩壊して、最強の円がだんだん弱くなり、日本のプレゼンスが日増しに落ちていった1990年代半ばのこと。仕事に追われながらも、一杯引っ掛けて愚痴を言いながら、やれやれ、きょうも無事に家に帰ろう、と黒塗りのロンドン名物のタクシーで家路についた時のことらしい。

車はOK氏の自宅に近づいた。 そこでOK氏はドライバーに英語でお願いした。

At the next corner, would you turn right, please ? (次の角で右折してください)

車は、角にさしかかると、右折するどころか、車内の明かりがぱっと点いたものの、車はひたすら真っ直ぐに走り続けたらしい。

OK氏は一言、Thank you ! と呟いたままどこまでも真っ直ぐ走り続ける車に乗っていったという。

運転手は、turn right (右折する)ではなくturn light (明かりをつける)と理解したのだった。笑うに笑えぬ笑い話とはこのことであろう。 よくよく考えるに、turn to the rightと言ったほうが正確な言い方のような気がするのだが、それでもturn to the lightと発音してしまうと、運転手が目を丸くするか、You'd better do it by yourself, sir と皮肉られてしまうだろう。イギリス人は皮肉屋だ。さりげなく、温和のようでグサッとくる言葉をはく。いわゆるunderstatementというやつだ。そして、私なら、意味が即座に掴めず、キョトンとしてニコニコしながら、Yes, Yesと頷いてしまうかもしれない・・・。

2008年4月15日 (火)

世界カタコト辞典(12) Wai Ling

Wai Ling  (イギリス系中国人女性の名前、漢字では「呉恵」と書く)

漢字というのは不思議なものだ。表意文字であるが故に、違った言語を話していたとしても、漢字を使って表記することで違った言語を表現しながら、目で読む作業が入ると、完全ではないにしてもある程度意味が通じてしまうのだ。ある程度、という意味は正確には意味は通じないという意味でもある。

湯というのは中国語ではスープのことを意味するという。男湯、女湯というと日本人は銭湯と分かるが、中国人はびっくりするという。男のスープ、女のスープ。こんなのありかよ、である。 自動販売機で電車の切符を買うとき、大人=おとな、小人=こども、というのが日本での読み方でもあり意味であるが、中国語では大人と小人はこれまた意味が違うのだ。

何となく分かっているのだが、私には、この事実を実に鮮やかにはっとさせられた瞬間があった。ロンドンの事務所で中国系のイギリス人スタッフがいた。テキパキと仕事をこなし、しかも東洋系で何かと協力的で好感を持っていたスタッフだった。名前をWai Ling(ワイ・リン)と言った。そして、私はすっかり彼女には漢字の名前表記があることを忘れていた。

ある日、何かの理由で彼女の机に座って書類を開きチェックする作業をしていた。ふと、彼女のパソコンを見るとそこに漢字表記のステッカーが貼られていた。漢字じゃないかぁ、呉恵。ええ、ゴ・メグミ? 何これは?と思わず私は隣の日本人スタッフに聞いてしまった。

となりの日本人スタッフは目を丸くして噴出さんばかりに、何寝ぼけたこと言ってるんですかぁ、Wai Ling  (ワイ・リン)のことじゃないですかぁ!あっ、そうかぁ、「Wai Lingは「呉恵」のことなのかぁ・・・。ところで、この漢字のこの読み方、これは普通語?それとも上海語、はたまた広東語読み?私は中国系の言語についてはまったく無知なので分かりません。分かる方どなたか教えてください。

ロンドンに住んでいる呉恵さん、別名Wai Lingさん、実名使っちゃってますが、悪意はありません。許してください。お変わりありませんか?

2008年4月13日 (日)

世界カタコト辞典(11) Mina rakastan sinua

Mina rakastan sinua (フィンランド語で「私はあなたを愛しています」の意味。Minaを省略して、Rakastan sinuaと言っても良い。主語を省略できるのがなんとなく日本語に近くてうれしい。「愛してるよ」という一層親しみやすい意味になるのだろうか)

彼女はAnneと言った。フィンランドからやってきた長い金髪を肩まで垂らした本当に青い目の優しい女の子だった。Finlandというけれど、お国の言葉ではSuomiというのだと教えてもらった。私の国も横文字系の人はJapanと呼ぶけれど我が国の言葉ではNipponというのだと教えてあげた。

フィンランド人は北欧人だと日本人は勝手に思っているけれど、他のゲルマン人系のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンからは仲間はずれにされているらしい。お隣のロシアからも長い間いじめられていたから、日露戦争で日本がロシアに勝ったこともあって、トルコと並んで親日的な国らしい。ビールにトーゴービールがあるという。まだ、飲んだことはないのだが。

ハノーバーの工科大学で知り合ったのだが、ある日曜日市内のノミの市で彼女に偶然再会してから何となくお互い親しく話すようになった。冬季札幌オリンピック(もう36年も前の話だ!)のこと、黒澤明の映画と生け花が好きと彼女が言えば、フィンランド語とハンガリー語はウラル・アルタイ語属でモンゴル語や日本語と親戚なんだ、シベリウスのフィンランディアはとても好きだ、などと、私は応じ、彼女の耳に心地よい御託をならべたのだった。

1976年の夏のヨーロッパは記録的な猛暑だった。8月のある日曜日、Altstadtfestというお祭りがあった。ヨーロッパの町は昔は城壁で囲まれていて、その旧市街をAltstadtとドイツ語では言った。狭い路地、レストランとパブ、お店が並んでいた。ハノーバー工科大学に世界各国から集まった若者もみなでPeterのパブ「裸足」(Barfuss)に集まって盛り上がった。

いつの間にか私は彼女と二人きりになって腕を組んで歩いていた。お酒に酔い、周りもカップルだらけ、池のそばの芝生ではあちこちで若いカップル達の熱い抱擁が始まっていた。私たちもいつのまにか抱き合い、熱いキスを交わした。舌を絡ませたディープキスだ。レモンの味ではなかったが、今でもあの甘い香りと何とも言えない甘美な感覚を覚えている。私の手は彼女の胸をまさぐり・・・。長ーい長ーい抱擁と愛撫。

腕を組んで歩き、長ーい長ーい抱擁と愛撫。そしてまたその繰り返し。二人は若く、夜も若く、私の心も若くそして甘かった。 最終バスがなくなっちゃう。彼女をバス停まで送って、またバスが来るまで長ーい長ーい抱擁と愛撫。 お堅い彼女は下宿していた。大家さんが煩いからとバスに乗って帰っていった彼女。そして、私は長ーい長ーい間、一人でバス停にぼーっと立ち尽くしていた。勢いで押しかけて行くべきだったか・・・。

翌朝、Kolpinghaus(昔の徒弟制度で旅の遍歴をした独身の若者が宿泊した施設)でギリシャ人のヤニス君にばったりあった。意味ありげに笑って、「お前ら・・・・っつたのかぁ?」と。彼はスウェーデン人と仲良くなり、早くも肉体関係を持って、一部始終を我々にアケスケと語ってくれた。筋肉質のジゴロと言った風情の男だった。ヌーディストクラブ(FKK)でもよく遊んだが、彼の一物はでかかったが、見事な包茎だった。

翌々日、彼女は故郷に帰っていった。ヘルシンキからさらに列車に乗ってHyvinkaという町に住んでいるという。住所を教えあってしばらく文通が続いたが、いつしか、途絶えた。

その当時持っていた辞書だが、ボロボロになっているものの30年を経た今でも私は大事に保管している。そこには、彼女に教えてもらった愛の言葉が記されている。Mina rakastan sinua。我々が、本当にこの言葉通りだったかはちょっと疑わしい。しかし、黄ばんだボロボロの辞書の裏表紙の裏側に書かれた文字を見るたびに、30年以上も前のあの暑かった真夏の夜の夢が甦るのだ。

 

2008年4月12日 (土)

ノビタキには出会えなかったが、イソヒヨドリの♀には出会えた・・・。

今週は春の嵐で桜が大分散ってしまった。しかし、今日は朝から天気がよくて6時に目が覚め、双眼鏡を持って出かけた。

夏鳥の移動の季節。オオルリやキビタキやクロツグミが来るのは例年4月の第3週から第4週にかけてだからまだちょっと早い。実は、それより少し早くやってくる通過途中のノビタキを期待しての早朝バードウォッチングだった。

夏鳥にして関東では高原で繁殖する鳥なので春と秋の移動で平地で羽をやすめる際にちょっと観察できるだけの鳥だが、オス(♂)はなかなか美しい鳥だ。実はまだ一度しか見たことがない鳥だ。2年前の416日の日記に記録してあるのだが、冬羽から夏羽に移行途中の♂のノビタキに出会ったのだった。桜川緑地の草地だった。最初はモズかと思ったがどうも様子が違う。ジョウビタキでもない。帰宅して図鑑をいろいろ調べた結果、移動中のノビタキの♂と分かった。証拠写真を取っていないが99%間違いない。

http://www.onomichi.ne.jp/~eco/wildbird/wb_5_003.html

しかし、今日は残念ながら出会えなかった。明日またトライしようと思う。その代わり、セッカに出会った。

http://members15.tsukaeru.net/iwaki_bird/_oka/sekka.htm

まだ冬鳥もいる。ジョウビタキとルリビタキは姿を消してしまったが、ツグミ、マヒワ、シメ、カシラダカ、ビンズイ、オオハクチョウ、ヒドリガモなどなどまだまだ頑張っている。囀りも盛んだ。ウグイス、ホオジロ、メジロ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シジュウカラ、ヒバリ、そして渡り直前のシロハラまでもが(今週は毎朝、早朝のシロハラの囀りで目が覚めた)!

http://kochan01.cool.ne.jp/link/yatyo/sirohara.html

お昼から、ポカポカ陽気に誘われて大洗に出かけた。昨年12月以来だ。イソヒヨドリでも見てやろう、うまく行けば囀りだって聞けるかもと思って。また、新聞ではセイゴがぼちぼち釣れ始めているという情報もあって、下見を兼ねての遠出である。大洗駅について自転車をレンタルした。釣り人は結構いるのだが、釣れている様子はなかった。外道で60センチ級のマルタ(ウグイの仲間)を釣っている人がいただけだ。まだまだ、水温が低くて食いが鈍いようだ。

2時間、田園地帯をサイクリングしたのだったが、なかなかイソヒヨドリに会えない。焦り始めた。普通に海岸付近では見れるというのだが。もう時間がないなあと思いながら、涸沼川の桜並木を走っていたら、桜の木に蜜をすっているヒヨドリとはちょっと違うなという鳥に遭遇した。ぴーんと来た。双眼鏡で覗いて見れば、やったぁ、イソヒヨドリの♀であった。♂ほどの派手さはないが、なかなか美しい。ツグミの仲間で留鳥である。

これでやっと気分が楽になり釣り人と話し込むことさらに1時間半。さっぱり釣れない釣り師だったが、二十歳過ぎの頃はマグロ漁船に乗ってケープタウンやフリーマントル(オーストラリア)や南米のガラパゴスを約3年に渡って漂流したという。カタコトの英語とスペイン語がペラペラと出てきた。そして思い出はなんと言っても女の話だ。釣り師はことのほか饒舌だった。

フリーマントルは私も10年近く前に前の会社の先輩を訪ねて釣りをしたので、その話でまた盛り上がった。そのときはアジが2匹しか釣れなかったのだったが。マグロと言えば、日本では津軽海峡の荒波でもまれて脂がのったブランド品が有名だがこれに匹敵するのがオーストラリアのタスマニア付近で取れるマグロだそうだ。

釣り師が一匹釣り上げたら帰ろうと待つものの、一向に釣れる様子がない。とうとう16時過ぎに腰を上げた。5月連休に私もトライしに来ますのでよろしく!早朝か夕まずめがセイゴ・フッコ釣りにはいいタイミングらしい。桜の花がハラハラと散っている中、自転車に乗ろうとすると1時間半前に出会ったイソヒヨドリはまだ桜の木に羽を休めていた。私に気付いたイソちゃんは、すぐ近くの茂みに姿を隠してしまったが。イソヒヨドリはこんな鳥です。

http://www.cec-web.co.jp/column/bird/bird76.html

囀りは残念ながら聞けなかった。が、このサイトで聞いてみるととなかなか美しい囀りだ。

http://www9.big.or.jp/~mishii/bird/isohiyodori.html

2008年4月11日 (金)

世界カタコト辞典(10) LutetiaとLaetitia

Lutetia (ラテン語で「パリ」のこと) 

Laetiia (「レティシア」女の子の名前)

日本の漫画が世界を席巻している、と言うと大げさかもしれないが留学生たちが何故日本に興味を持ったかの理由で日本の漫画との出合いをあげる人が大変多いのだから、確かにそうなのだ、と思う。

しかし、海外にもいい漫画がないわけではない。フランス原産の漫画Asterix(アステリックス)はなかなか楽しい。ヨーロッパでは大人も子供も読んでいる。残念ながら日本語への翻訳はないようだ。読んでみると、ヨーロッパの歴史の勉強にもなるし、他民族国家ヨーロッパの各民族比較がおもしろおかしく描かれている。主人公はガリア人、今日のフランス人の古代人のことだ。ケルト系の土着民で、ローマ帝国に支配されローマ化されてさらに、ゲルマン人の一派フランク族がやってきて混血して出来たのが今日のフランス人らしい。

ページを開くとBC50年のガリア地方の地図が描かれている。アキターニと言えば、今日のアキテーヌ地方のこと、プロヴィンキア・ナルボネシスは今日のプロバンスやナルボンヌと言った具合だ。ルーテチア(Lutetia)は現在のパリだ。余談だがマルセイユはもともとはギリシャ人の殖民都市でマッサリアと言った。ヘルベチアはスイスのことだ。ブリタニアはブリトン人の住むイギリスのことだ。カレドニアはスコットランドだ。ゴート族はゲルマン人の一派でライン川の右岸にすむ人たちで今日のドイツ人の祖先だ、と延々と続く。

話は飛ぶ。アラン・ドロン、リノ・バンチュラ、そしてジョアナ・シムカスが競演した「冒険者たち」というなかなかいいフランス映画があった。バックに流れる口笛のメロディーが印象的だった。男二人とカワイイ女一人の三角関係。シムカス演じるヒロインが映画ではLaetitia (レティシア)だった。

話はまたまた飛ぶ。ロンドンの職場で、Lydia(フランスはレンヌ出身の「ふくよか」で「気立てのいい」フランス人女性)が産休で休みに入るとき、非常勤パートで何ヶ月か雇った女性、この子がまたLaetitiaと言った。「なかなかの美人」だった。ビジネススーツを着こなして、黒縁のめがねをかけて出勤してきたり、ファッションセンスが抜群だった。イラクのクウェートに住んでいたこともあるという。お父さんがフランスの戦闘機ミラージュのエンジニアだった。社内の男性同僚達は、「ウチはブスばっかりだぜ」、と日頃は不平を言っていたのだったがLaetiiaがやって来て社内の雰囲気が変わった。なかなかの美女(「スバラシイ」とは言っていない)が入ってきて皆の視線が彼女に集中するのだった。ああ、Laetiia。 今頃どうしているだろうか? イギリス人の彼氏がいたはずだが。それから、猿と蜘蛛が大嫌いだと言っていたっけ。

職場での楽しみが一つ増えたな、と思っていた矢先、私は日本に帰国することになった。帰国してしばらくして落ち着いたある日、ロンドンの事務所に電話をする機会があった。電話に出たのは職場復帰を果たしたあの「ふくよか」で「気立てのいい」フランス人女性Lydiaだった。パリのホテルのことで話しをしたのだったが、「Lutecia Hotel」と私が口にすると、何を思ったか、Lydiaは「Laeticia !?」とあの「なかなかの美女」Laetitiaの名前を口にしてケタケタと笑うではないか!私はからかわれてしまったのだった。彼女は鋭く気付いていたのだ。疲れ気味の私の視線がオアシスを求めるように時折Laetitiaに注がれていたのを・・・。 ああ、Laetitia…….我がいとしのレティシア・・・嗚呼。

2008年4月 9日 (水)

世界カタコト辞典(9) 「アッチャ」

インド人はやはり「アッチャ」とつぶやいた。

先週の土曜日は、ある人を成田空港に出迎えに行ってきた。20時過ぎの成田空港の風景にびっくりした。アジア系の人々で溢れかえっていた。特に中国語があちこちに飛び交っていた。まずビールで喉を潤してからぼんやりとロビーで待っていたのだが、ふと気がつけば周りは中国人だらけだった。皆、ニコニコ顔、外国についた興奮だろうか、目があちこちキョロキョロ、そして思い思いのポーズで写真を撮ったり添乗員さんが大きな声で案内したり、風景はいずこも同じかと感じ入ってしまった。

ロンドンでもこれに似た経験がある。1999年の秋のある日のこと、東京からの出張者を出迎えにヒースロー空港に出かけたのだった。確か、ターミナル3だったろう。遠距離のフライトが発着するターミナルだ。ぼんやりとロビーでまっていると、いつの間にか周囲はインド人で埋め尽くされたような混雑具合であった。同時刻にインドからのフライトが到着したのだったが、ロンドンのインド人の人口を改めて思い知らされた。

ロンドンといえば、カレーの町である。カレーについてはすでにブログでアップしたけれど、

http://birds-eat-bookworm.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_96e6.html

とにかくインドレストランが多い。私も住んでいたアパートの近くに行きつけのレストランがあった。毎週日曜日の夕食はカレーと決めていた。 ナン(ガーリック味)、野菜カレー、チッキンティッカにシシケバブ、そしてサフランライスが定番だった。ちょっと食べすぎだったかも知れないが、ストレス多き日々故の過食だったと思うのだ。

毎回毎回、決まったようにレストランに現れて同じメニューをTake-Awayする私にレストランのインド人店員は笑顔で迎えてくれるようになった。料理が準備できる間の10分前後は、ハーフパイントのビールを飲みながら、新聞を読んだりしていた。そして、用意が出来ると、店員はオーダーした内容をぶつぶつと繰り返しながらレジに打ち込んで代金を請求するのだった。

ぼんやりとこれを繰り返す日々だったが、ある日のこと、ガーリックナン、・・・、野菜カレー・・・チッキンティッカ・・・といつものようにレジを打ちながらつぶやくインド人店員の・・・が「アッチャ」という間投詞であることにハッと気付いた。学生時代以来おりに触れては思い出したように読んだ開高健・小田実氏共著の「世界カタコト辞典」で小田実氏がインドで聞いたに「アッチャ」(ヒンディー語で、おや、まあ、ええと、さて・・などを表す間投詞)であった。本の中の言葉が、現実に私の耳を捉えた瞬間だった。

2008年4月 7日 (月)

世界カタコト辞典(8)

Die Franzosen spielen eleganter.  (ドイツ語で「フランス人は優雅にプレーする」の意味)

スポーツは時と場合によって異常な興奮を呼び起こすドラマとなる。私の出会った鳥肌の出るドラマでまず思い出すのはミュンヘンオリンピックの男子バレーボール準決勝の日本対ブルガリアだ。優勝候補だった日本だったが、簡単に2セットを失ってしまった。ズラタノフ、確かそういう名前だったと思う、ブルガリアのエースアタッカーに次々と強烈なスパイクを決められてあっという間に追い込まれてしまった日本代表チームだった。監督は松平さん、セッターは猫田選手、エースアタッカーは大古、横田の2枚看板、ブロックのうまい長身の南、サービスとレシーブの島岡。名前が次々と出てくる。

追い込まれた日本は、第3セットも終盤まで劣勢であった。もう駄目か、と思った時、日本は一気に逆転してセットカウント21とした。第4セットも一進一退で第3セットと同じ展開で取り、セットカウント22。タイにもつれ込んだ第5セットも終盤まで相手にリードを許してああ、もう駄目か、という土壇場で三たび、驚異的な粘りでひっくり返し逆転勝ちしたのだった。終わった瞬間の選手はまるで優勝したかのようだった。 私はちょうど高校生で1学期の期末試験の最中だった。物理の勉強をしながら結局最後までテレビで興奮してしまい、勉強にならなかた。試験の結果は本当に0点だった。

次に思い浮かぶのは、1982年のワールドカップサッカーだ。この年は、マラドーナが初デビューした大会だが、何より記憶に残るのは準決勝の西ドイツ対フランスだった。フランスにはあのプラティニがいたし、ジラスというこれまた渋いミッドフィールダーもいた。ドイツにはフォワードのルンメニゲと若き日のマティアスがいた。

準決勝の日、ヨーロッパ出張で私はウィーンに滞在していた。仕事で緊張していた私は、夕方ホテルにチェックイン、街中にふらりと出かけてウィーン風カツレツでも食べようかとホテルのロビーを通りかかったところ、奥のラウンジで人々がテレビの周りでビールを飲みながら興奮しているところに遭遇した。試合が始まったのだ。1対ゼロでフランスがリードしていた。

夕食を取っていたレストランでもサッカーの中継をラジオで放送していた。11でどうも延長戦になり、前半でフランスが2対ゼロでリードしてるらしい。ああ、これでドイツは負けだナ(ドイツ語を勉強した手前、どうもドイツびいきであったようだ)。 食事を終えてタクシーに乗りホテルに戻った。

ロビー奥のラウンジでの人はさらに増え、興奮しながらテレビに見入っていた。後半にドイツは2点を取り22の同点となっていた。そして、決着つかず、PK戦が始まった。両チームとも点を入れながら先にドイツが外した。ああ、これで駄目か、と思いきや今度はフランスが一本ドイツのキーパーに止められてサドンデスとなった。一進一退のなか、最後に気の弱そうなフランスの選手が蹴って大きくゴールを外してドイツが勝利した。結局私が見たのは、最後の延長の22の終わりからPK戦だけだったが、ものすごいドラマだった。3度追いついて最後はフランスがミスをして何とか勝ったドイツだったが、ラウンジのドイツ語を話す人たちの興奮と言ったらなかった。

翌日私はパリに飛んだ。昨夜の試合でフランスは3度ドイツを追い込みながら負けてしまったパリでは、通りのあちこちに破り捨てられた新聞が散乱していた。

その頃の私はサッカーにはあまり興味がなかった。出張で昼間は代理店の飛び込みセールスをしながら夕方になると安いビジネスホテルに投宿し、一人でラウンジでビールを飲みながらドイツ人達が熱心にワールドカップの応援をするのを一緒に何度か観戦したのがサッカーに興味を持ち始めた始まりである。ワールドカップの世界は一流のプレーヤーがしのぎを削るだけにいい試合が多かった。当時の日本実業団のアマチュアサッカーとは大違いであった。

1982年大会は、結局イタリアが優勝したが、フランスも強かった。何より、あの甘いマスクのプラティニがいた。ある晩、ドイツ人に混じってサッカー観戦をしながらビールを飲んでいると、テレビの中で女性ゲストが、私はフランスチームを応援するわ。なぜなら、Die Franzosen spielen eleganter(フランス人のプレーは華麗なの) とコメントする言葉がピタリと私の耳に収まった。 Ja, das stimmt.(確かにそうだ)と思わず、私の隣でビールを飲んでいたドイツ人呟いた。

ドイツ人はヨーロッパでは田舎者、野暮の代名詞みたいなところがある。サッカースタイルも私の知るサッカー通たちによれば、「負けないサッカーだけれど、見ていてあまり面白くない」、というのが通り相場だ。ラテン諸国の個人技や華麗さには確かに欠けるようだ。

しかし、1982年のサッカー・ワールド・カップ・スペイン大会の準決勝西ドイツ対フランス戦でのあの熱戦とドイツ人女性のコメントはセットになって今でも私にとっては強烈な印象と輝きを放ち続けているのだ。

2008年4月 5日 (土)

世界カタコト辞典 (7)

Teilweise nicht hatte nai  (ドイツ語と日本語のちゃんぼんで「ところどころ張っていない」の意味) と Kann ich Ihnen behilflich sein ? (ドイツ語で「何かお困りですか?」の意味)

アムステルダムに1年間の研修で赴任して1ヶ月ほどたった1983年の11月のある日、ハンブルクに住んでいた女性のYさん(日本人)から突然電話がかかってきた。「XX君、急な話だけれど、休暇を取ったからそっちに遊びに行くノ、案内してくれない?」

私は一気に舞い上がってしまった。年上だけれどなかなかの美人だ。K大学独文科出身の才媛で会社を辞めて当時の西ドイツはハンブルクに職を得て住んでいたのだった。

ハンブルクから到着したYさんを東京駅にそっくりなアムステルダム駅(逆かぁ)で出迎えて、予約しておいたホテル(もちろんシングル)に案内、夕刻は市内の南、高級住宅街がある行きつけのレストランに招待した。いつもは、一人か友人の同僚と食事をしていたレストランに入った瞬間、中の人たち(当然オランダ人)の注目を浴びるほどYさんはやはり美しかった。

何を話したのか覚えていない。Beaujolais Nuveau(ボジョレ・ヌボー)を飲んだような記憶がある。ムール・マリニエールも食べたのだと思う。それとリンゴソースがおいしいポークソテーも食べたはずだ。定番なのだ。しかし、その後が問題だった。私には勇気がなかった。たとえば、ホテルオークラの最上階でカクテルを飲むとか、いろいろあったのに、結局は駅に戻り飾り窓を散歩してホテルに送り届けて、私は一人アパートに戻ったのだった。

翌日彼女は、私のアドバイスに従って市内観光をして夜また会う予定だった。しかし、昼過ぎに会社の私に突然電話がかかってきて、「私、やっぱり帰る」とハンブルクに帰ってしまったのだった。ああ、とちってしまったぁ・・・と思ってももう遅かった。

半年後の5月のこと。私はハンブルクへ遊びに出かけた。Yさんにも会うつもりだったというよりも、仕事でお世話になったK氏が是非遊びに来い、というご招待あってのことである。K氏は、私より一回り上の世代で、昨年亡くなった小田実氏の「何でも見てやろう」にあこがれ、日光で知り合ったドイツ人を頼りに渡独。横浜~ナホトカまで船、そこからシベリア鉄道でモスクワ経由、フィンランドへ。そこで、女性を引っ掛けて、妊娠させて、逃げ出して、ドイツへやってきて、柔道を教えながら大学に通った。結局、卒業はしなかったが、こちらで仕事を見つけて独立していた侍日本人だった。K氏の家のお庭でガーデンバーベキューを楽しんだ。気を使ってか、どうかしらないがYさんも招待されてやってきた。饒舌なK氏はさかんに冗談を飛ばして我々や招待されたドイツ人達を笑わせてくれた。K氏の家はいまでも覚えているがあの文豪の名前にちなんだThomasman Strasseにあった。買ったばかりの家だかで天井の張替えなども作業中だったらしい。その天井を指さして、Teilweise nicht hatte naiと語るKさん。ドイツ人のS氏が思わず噴出す始末だった。

翌日は彼女の運転する車で(私は当時もそしてつい3年前まで運転免許を持っていなかった)ドライブを楽しんでトラーベミュンデ、リューベックに足を伸ばした。トーマス・マンの「ブッデンブローク家の人々」の舞台となったゆかりの場所だ。確か、50マルク札のデザインにもなっていたリューベックの城壁跡だか教会の建物にも案内してもらった。

Yさんは、方向音痴でよく道に迷った。私も田舎に戻って車を運転して初めて分かった。道が分からないと迷うのだ。当たり前の話なのだが。気ままに運転するほどには運転技術もないし、自信がないので走り方が不安定になる。私は隣に座りながらナビゲーター役だった。道に迷って地図を見ながらどこだ、どこだ、とやっていたら年配の折り目ただしそうなドイツ人が通りかかり、Kann ich Ihnen behilflich sein?と助け舟を出してくれた。

最終日は、天気がよかったことを記憶している。ハンブルク市内のアルスター湖を散策しドイツ人に混じって日光浴をした。シューマンの「麗しい五月」を髣髴とさせ青空が広がり、日光が燦燦と照り、5月の香りが心地よかった。

私の記憶はこれだけである。23日した。Baselerhofというホテルに宿泊したのも覚えている。しかし、Yさんと一緒に何を食べて何を喋ったのかさっぱり記憶にない。不思議といえば不思議なものだ。結局二人の間には何事も起こらなかった。今でも鮮やかに記憶が残るのは何故か、K氏の饒舌とドイツ語と日本語のちゃんぽんフレーズ、Yさんがよく道に迷ったこと、ハンブルクの5月の麗しい天気と、そしてリューベックで道に迷って声を掛けてくれた初老の言葉なのだ。

2008年4月 3日 (木)

世界カタコト辞典(6)

Fuck off !!!

(英語で卑語、「うせろ、どこかに行きやがれ」の意味)

大東亜戦争の敗戦が軍国日本を大きく変えたのと同じように、ベトナム戦争を通してアメリカ合衆国は大きく変わったという。作家の石川好氏は、たとえば、それまではfuck(「性交する」という卑語)やそれに関連する卑語は普通の会話では滅多に使われなかったのが、普通に女子学生も使うようになった、という。 これだけでも当時は大きな社会的な変化だったそうだ。

とは言え、外国人である自分が海外に出かけて英語でコミュニケーションをするなかでこの言葉を聞くことは滅多にない。やはり、下品な言葉なのであり、とくに人間関係から言って一元さんである赤の他人には、fuckとか今やveryと同じ意味で単なる強調の副詞で使用されるfuckingなる言葉はやはり、使用しないものだ。

自分が日本語を話す外国人に、「クソッタレ」とか「オXXコ」とかはやはり言わないものだ。もちろん、学生時代に我が家にホームステイに来たMichael君は違った。友達付き合いをしたし、ドイツ語の卑語を沢山教えてもらった代わりに、こちらも日本語の卑語をしこたま教えてあげたのだった。したがって、ある日、グループで日光に出かけたとき、ドイツ人の女性が日本人から貰った甘いお菓子を「オマンジュウ」と言って得意げに皆に配っていたら、悪餓鬼のMichael君はケタケタとお笑いしたのだった。

さて、それでも私はロンドンに住んでいたある日、間近にこのFuck off !!!を聞いたことがある。

来る日も来る日も仕事漬けで、満足に食事をする時間もなかったのだったが、仕事が終わって帰宅する深夜、住んでいたアパートの近くの中華レストランでよくTake-away (持ち帰り)をしたものだった。そこは、シンガポール系の中国人が経営している店で、私の好物はローストダックにココナッツミルクソースをかけた一品だった。ココナッツミルクソースは、この店で毎度顔を合わせる一家の一人の青年中国人が、ローストダックに合うよ、と勧めてくれたソースで、目茶苦茶うまくて病み付きになったソースだ。確かパイナップルも入っていたと思う。これと、春巻きと白いご飯を毎回のように持ち帰って、深夜のアパートでギネスの缶ビールを飲みながら、一人寂しく食べては就寝という日々だったのだ。

そんなある日も、またこの店に寄ってまたいつものようにローストダックを注文したのだったが、この店の中国人の様子がいつもと違うのに気付いた。近くには、マレーシア系と思われる青年がいて、どうもこの店の雇われ店員で出前を担当しているようだった。電話がかかってきてすぐのこと、中国人が大声でこのマレーシア系の青年を怒鳴り始めた。客からのクレームのようだ。私にはいつもニコニコ(私の地顔がニコニコしているからかも知れない)対応してくれる中国人の顔つきが鬼のように膨らんで、大声で喚きながら、最後に一言怒鳴ったのだった。 「Fuck off !!! と。

決まり悪そうなマレーシア系の青年は黙ってその場を離れて行った。気の毒なことに・・・。

しばらくして、店の中国人はがらりと豹変、ココナッツミルクソース付のローストダックと春巻きと白いご飯を私に渡しながら、Thank you, Good night!といつもの笑顔で応対したのだった。 先ほどのあの怒りの爆発とこの穏やかな笑顔のコントラストに戸惑いつつ、Fuck off !!!とはこういう風に使うものか、と半ば感心しながらも、異常な感情の爆発と悪態にタジタジとなって、家路についたのだったが、その後、折に触れてはあの怒気を含んだFuck off !!!が思い出されるのだ。

2008年4月 1日 (火)

世界カタコト辞典 (5)

Voulez-vous crocher avec moi ce soir ?

(フランス語で、「今晩いっしょに編み物をしませんか?」)

グローバリゼーションという言葉が人口に膾炙して久しい。たまたま先日のこと、偉い先生とお話していた時のこと。ネパールの子供達の目がとても生き生きしているのに、何故いまの日本の子供達の目はそうじゃないのか、というのが話題になった。

ネパールというと、いま暴動で問題になっているチベットの近くのどこか、というイメージだけで普通の日本人にはなじみがない国だ。今問題になっているチベットも蓋を空けてみれば近代化に取り残された貧しい国、というのが実態だ(スミマセン、お国の方)。中国の弾圧とは言うけれど、チベットの民度は、近代化された豊かな国の国民と比較するとまったくひどいのだ(まあ、中国も農村戸籍の方々はどっこいどっこいだという話らしいが、日本の報道機関はほとんど報道しないのは何故なのか?)。 中国共産党とは近代化政党であり、非西洋国が近代社会を作るためには、トップにエリートが強制的に愚民を啓蒙して国民意識をもった新人類を作り出すことは必要なことで、かつての明治日本が軍国主義だったように、また戦後のアジアで成功してきた国々は皆一様に開発独裁型ではないか?民主主義とはほど遠い、人権なんてかまっていられないのだ。人権、人権というなかれ、欧米日の恵まれた立場にいる人たちよ!食べられるようになっただけましではないか、近代化という甘い果実を得るための代償なのだ・・・。

と、ここまで賢しげに語る自分に、ちょっと待て、という声がする。人間の幸福とは、突き詰めれば哲学的な問いである。哲学的という意味は、答えのない問い、問いが問いを呼び、ぐるぐる回って留まることのない、永遠の堂々巡り、という意味、私なりの定義である。

社会格差、ニートだ、フリーターだ、と増え続ける非正規雇用が日本では大きな社会的関心を引いている。私の世代だと、父親が働いて母親は主婦専業で子供を二人育てることが十分に出来た。しかし、今日の日本はどうか?共稼ぎしないと平均的日本人は二人の子供を育てられないらしい。アメリカではすでに30年以上前にそうなってしまったという。家族がばらばらになり、皆がそれぞれ非情なマーケット市場の単位となって効率と時間に追いまくられる。

昔は時間がゆったりと流れていた。そして、50歳を過ぎた私がしきりに思うこと、それは少年時代に父や母の実家、つまり田舎の川や野原で遊びまわったことだ。そこには永遠に楽しい空間だった。大きくなるにつれて疎遠になり、大人になってまったく無縁となってしまったかつての桃源郷。あの頃は毎日毎日が楽しかったし、よかったなぁ・・・・・。きっと目がキラキラしていたに違いない。

だいたい、学校が終われば、遊んでいたのだ。宿題はしたけれど。塾なんて行く必要もなかった。(しかし、すでに塾は存在していた。)今の子供達を見ていると確かにあの頃の私が無心に遊んだような楽しい体験をもっているのだろうかと思ってしまう。万事が計算ずくめ、効率と偏差値と・・・私自身も気がついたら、子供の世界のみならず、息苦しい世の中の住人になってしまったのがこの日本なのだ。

30代から40代を振り返ると、とにかく仕事しかしていなかった。独り者であったから、週末は仕事と縁を切ってスピリチュアルな世界を彷徨したこともないではなかったが、虚しかった。何かに打ち込んでいるしかなかった。

ロンドン時代は最悪だった。2年だけだったが、ほとんど職場とアパートの寝室を往復するだけだった。土曜日もほとんど休んだ記憶がない。日曜日は1日ゴロゴロするだけだった。スコットランドもアイルランドもそしてヨーロッパ巡りもする余裕がなかった。よくもまあ、あんな生活をしていたものだ、と今思えば信じられないひどい生活だった。

疲れ切ってぼんやりとしながら地下鉄で通勤する日々だったが、ある日のこと、どこかの駅で停車中の地下鉄ガラス窓越しに、このフランス語の文字がさっと目に入った。思わずニヤリとしてしまった。 学生時代、ハノーバーに2ヶ月近く滞在してネジを作る工場で働いていたのだが、紹介先のハノーバー工科大学で知り合ったスイス人二コル君から教えてもらったフランス語の殺し文句のもじりだったのだ。

オリジナルは、Voulez vous coucher avec moi ce soir ? (今夜は一緒に過ごさないか?)。フランス語に無知な私をからかって教えてくれた言葉であった。ドイツ人の女性に使って、Nonと言われてしまったが、皆で大笑いしたものだった。

Crocherの意味は知らなかったので職場のフランス人Lydiaに聞いたら、「レース編みをする」という意味らしい。冒頭のフランス語は、どこかのメーカーのちょっとオフザケ広告だったのだろう。それとも、もっと深い意味があるのだろうか?

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