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2008年6月27日 (金)

気ままに読書(1)

水を渡りまた水を渡る

花を看てまた花を看る

春風江上の路

覚えず君が家に到る

このところ、朝目覚めるとベッドの中で1時間、早朝の読書を励行している。気ままに周囲に散らかした本に手をのばす。さて、今朝は何かな、といった具合だ。 夜はさっぱりだ。ベッドに入って5分後には眠りに落ちてしまう。歳だネ。

最初の漢詩は、高校時代の漢文の教科書に出ていた漢詩だ。なかなかいいじゃないかぁ。しかし、当時こんな漢詩を学んだ記憶がさっぱりない。発情期で、もっぱら興味は体力を消耗することだったからだろうか?

月明らかに星稀なり。

日暮れて途遠し。

この辺りは、微笑ましい。ユーモア感じてしまう。

一犬、形に吠え、百犬、声に吠ゆ。

書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。

亡国と事を同じくする者は、存すべからざるなり。

うーん、一言一言が心に沁みます。そして、自分のいろいろな失敗が思い当たる。

振り返って見れば、いろいろなところで、いろいろなハットする言葉に出会ってきた。若い頃、自分にとって言葉は空気と同じようなものだった。文学青年ではなかったし、小説とか評論なんかもさっぱり読まなかったし。

体力が衰え始めた30代に突入したことのある春、当時住んでいた武蔵境の桜並木の美しさにハットさせられたことを思い出す。それまで、花見なぞ、まったく興味がなかったし、なんであんなに群れ集って楽しいのかさっぱりわからなかった。それは、30数歳にして、私の中の何かが、桜の花に感応した瞬間だった。

三島由紀夫氏の自伝的小説「仮面の告白」の最初の方で、「子供心に外の世界にはヒリヒリするような欲望の世界を感じた」、というくだりがあったと思う。この点で、三島先生は、尋常ならざる人だったのだと思う。天才とは、どこかしら、異常に研ぎ澄まされた感性があって、そのするどい嗅覚と直感に苦しみながら大人になって表現方法を確立して、結果的に大多数の凡人が作る世間に認められた人、ということだろうか?アインシュタインも相対性理論をすでに子供時代に直感で理解していたという。 認められなかった人、これすなわち、狂った人ということになるだろうか。

続く

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