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2008年7月31日 (木)

アブラゼミも現れたぁ~。

蝉の幼虫がのこのこ歩いているのに遭遇したのは一昨日だった。そして、今日はとうとう今年初めてのアブラゼミに出会った。実は、アオバズクとであった日曜日、今年の5月に朗々と歌うオオルリを観察した少年の森で、アブラゼミの鳴き声を聞いた、ような気がした。が、耳をそばだてると何も聞こえなかった。空耳か?そろそろアブラゼミが登場してもおかしくないのになぁ・・・。職場の雑木林ではニイニイゼミが相変わらず鳴くばかりで、アブラゼミの声は全然聞こえてこないのだった。

終日ドタバタと仕事をして、今日は定刻の19時45分に退勤。帰り道の歩道で見つけたのがこのアブラゼミだった。メスだ。何故かうまく飛べない。ヒヨドリにでも襲われて腰が抜けたか?とりあえず、急ぎ足で家に持ち帰ると、明るい部屋では飛び回った。写真を撮り、庭にある木にとまらせた。 おやすみぃ~。ヒヨドリに食われるなよ!

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2008年7月30日 (水)

蝉の幼虫、胡瓜、イラン、モンゴル帝国 (2)

話を戻すと、イラン人というのはアラブ人と全然違うのだと、そのとき初めて知った。誇り高きペルシャ人の末裔達。セム族でない。アーリア人なのだ。私が出会ったイラン人たちは、ちょっと見た感じでは、少し田舎風にしたイタリア人かスペイン人という感じだった。盛唐の詩人李白の詩に出てくる「胡姫」とは、ペルシャ系の踊り子だったという。さぞかしエクゾチックで美しかったに違いない。私が出会ったイランのご婦人方も皆顔の掘りが深く、雑誌から抜け出してきた女優かモデルみたいな女性もいたりした。

現在の国際政治では、イランはヨーロッパやアメリカにとっては頭痛の種、大問題である。何故に彼らはあのような大騒ぎするのだろうか?日本人としてはいまひとつ理解できない。北朝鮮の核問題なぞ、もう過去のものという感じで、拉致被害者を初め日本人はやきもきしているのだが、一方のイランとなると、サミットの時はミサイル実験をして挑発したり、何かと西側マスコミからはものすごいバッシングを受けている。

国際政治の裏側を知る人ならば、北朝鮮とイランでは地政学的な意味が全然違う観点からいろいろ語れるであろう。イスラエルというユダヤ人国家、つまり、アメリカ資本主義が中東イスラム圏の心臓に打ち込んだ楔に対するイスラム圏の反発と言うか憎悪は我々部外者には想像を絶するものがあるだろう。

もちろん、ドバイなどのバブリーな繁栄を見ていると、これがアラブなのかといぶかってしまうほどイスラム世界は多様でもある。欧米に支配されたマスコミに洗脳されている我々の脳では、中近東=イスラム世界の本当の姿を知ることはなかなか難しい。

善=欧米諸国、悪=イランという図式は疑ってみなければならない。日頃、何かとアメリカにいいようにされている日本のだらしなさを思うにつけ、わが道を行きながら、アメリカやヨーロッパを挑発し続けるイランを私は密かに応援している。許されないことだろうか?

しかも、私が個人的に知るイラン人は、マスコミで報道されるイスラムという宗教に染まった人々ではなく、もっと世俗化した普通の人間だった。「イラン人ってイスラム教徒でしょ、アルコール飲んでいいの?」と真顔で聞いた私に、件のイラン人は、「海外に出たらビールは飲み放題さ」、と大笑いしながら缶ビールを2本、3本と開けたものだ。 名前をシェミラー二さんと言ったと思う。もう一人の名前は思い出せない。今頃どうしているだろうか?

世界で始めた書かれた世界史の本、これは何と、イランの宮廷で書かれたという。時代は、モンゴル世界帝国が君臨した13世紀後半のことらしい。

当時のイランは、イル・ハーンといった。ワールドカップ2002のとき、1次予選を勝ち抜いた日本が戦ったトルコのチームにイル・ハーンという選手がいましたね。

ラシード・アディーンという、これまたなんとユダヤ人らしいのでだが、浩瀚な筆致で当時のモンゴル帝国の歴史を記述した歴史本、世界で始めての本だそうだ。ドーソンという著名なモンゴル史の本を書いた歴史家はもっぱらこのペルシャ語の文献をもとにモンゴル史を書き上げたそうだ。

実際に、モンゴルについて記述した資料は20ヶ国語近くもユーラシア大陸の彼方此方に残っているのだと言うが、それだけの言語に精通して統一した立場から歴史記述をする試みはまだなされていないそうだ。

続く

2008年7月29日 (火)

蝉の幼虫、胡瓜、イラン、モンゴル帝国 (1)

昨夜のこと。一仕事終えてトボトボと歩いて家に帰る途中、某大橋を渡っていた。物思いに耽りながら。うな垂れて歩道を見ながら歩いてると小さな虫に気がついた。以前、コクワガタを見つけたように、ン、ン、ン?という感じで足をとめた。屈んでその虫を見ると何と蝉の幼虫だった。大きさから言うと、どうもヒグラシらしかった。歩道をのこのこ歩いてどこに行くの、と語りかけ、公園内の大木の幹に置いた。

今日も同じように20時過ぎ、トボトボとうな垂れて、物思いに耽りながら歩いていた。昨日、幼虫をみつけた地点に来て大木を確かめた。もちろん影も形もなかった。抜け殻さえ。「一寸の虫にも五分の魂」、という諺を思い出しながら、うまい具合に羽化してくれたかな、と思う。

帰宅して、冷たいビールを飲む。フーッとため息をつきながら、やれやれである。枝豆、冷奴、冷やしトマト、サラミとチーズ、茄子の味噌炒め、豚のしゃぶしゃぶをサッパリした玉葱をすりこんだ自家製のタレで味わいながら、夕食を一人で取る。

胡瓜を味噌につけながら、がぶりとかじる。途端にまた昔のあるシーンが甦った。プルーストが、貝殻をかたどって焼き上げたクッキーを紅茶に浸して食べた瞬間に身を震わせたようなそんな鮮やかな思い出とまではいかないが、ジワジワと味わいを持って脳裏に点滅し始めたのだった。

イラン・イラク戦争があった時代だから、1980年代半ば過ぎだ。当時、イラン人はビザなしで日本に入国できた。IJPCとかそういう国家プロジェクトではない。訪日イラン人との些細なビジネスだった。一仕事終わると精算のため、彼が泊まるホテルの一室でかき集めた現金のドル札を数えた。そして、精算が終わると、くつろいで冷蔵庫から冷えたビールを取り出して、乾杯! つまみは、イラン特産のピスタチオだったが、相手はスーツケースからやおら胡瓜を取り出して、私にも一本渡しながら、ガブリ。豪快なビールの肴であった。

胡瓜と漢字で書くが、「胡」という漢字が示すとおり、もともとは中国原産ではなく西の方、中央アジア経由でやってきた野菜なのだ。

胡瓜というと、子供のこと夏休みとなると母の実家に泊りがけで遊びに行ったことを思い出す。ある朝、亡くなってもう5年になる叔父に連れられて畑に胡瓜を取りに出かけた。それまで、胡瓜に棘があるとは知らなかった。取れたての胡瓜は手のひらで握るとチクチクするくらい棘があって痛いのだった。

ピスタチオも私はイラン人から本当のおいしさを教えられた。イラン人のピスタチオが大好きなこと。ポケットやハンドバックにピスタチオを忍ばせて、おやつ代わりに彼らはピスタチオを頬張るのだ。その微笑ましいことと言ったら。そして、ビールのつまみにもよく合う。

続く

2008年7月27日 (日)

巣立ち直後のアオバズクに出会った!!!

金曜日は宴会があって深夜過ぎまで2次会で飲んでしまった。酔いが残る中、昨日の土曜日も出勤して終日仕事をした。 ぐったり疲れた昨夜は本当に熟睡した。この世に睡眠障害を訴える人は多いが、私には無縁だ。そして熟睡のあとの目覚めほど爽やかで、心地よいものはない。健康な体と適度に鈍感な神経を授けてくれた両親に感謝・感謝・感謝だ。

真夏日が続いたこの2週間だが、今朝は曇り空で涼しい。朝食後一休みして、3時間ほど近くの湖と川沿いを散策した。

5月から6月にかけてはあれほど熱中した野鳥観察だが、今は一休みだ。日光の戦場ヶ原とか軽井沢とか、標高1000メートル以上の山に出かけてじっくりまた野鳥と戯れたいというかすかな衝動はあるのだが、正直なところ、いまひとつ腰が重い。

歩きながらも、野鳥に対する観察は怠らない。巣立ち雛を引き連れたハクセキレイの親子や、2番子を引きつれ、空中で給餌をするツバメや、セッカ、ホオジロ、ヒヨドリ、ウグイス、巣立ったばかりのシジュウカラの群れ、ムクドリ、それにふてぶてしい親子連れのカラス達。昆虫も気になる。そう言えば、昨日は、職場のテラスでオニヤンマを見かけたことを思い出した。ニイニイゼミとヒグラシは2週間前から鳴きだしたが、アブラゼミとミンミンゼミはまだだ。

散歩の最後の30分、千波湖を歩いているとカメラと双眼鏡を持つ人たちに気付いた。バードウォッチャーがしきりに柳の木の上の方を観察しているようなのだ。ナ、ナ、ナ何だぁ?静かに近寄り私も皆の目線を追うと、驚くなかれ!すぐ眼の前にアオバズク4羽もいるではないか!しかも至近距離に! インターネットで探した写真で言うと、こんな感じだった・・・。

http://yachoumu.web.infoseek.co.jp/kyouto/aobazk8.jpg

生まれて初めてみるミミズクだ。ハトぐらいの大きさだろう。どうも巣立ち雛らしい。4羽が目をパッチリ開いて木の枝に並んでいる。ほとんど身動きしない。目を開けて寝ているのだろうか?アオバズクにとってはいい迷惑だろう。写真機のシャッターの音が絶えない。そっとしておきましょう、と呟いて足早にその場を離れた。

このアオバズク、渡り鳥で初夏に日本にやってきて神社や公園などの古木の小さな洞に卵を産んで子育てするそうだ。こんな身近なところにこんな鳥がいるなんて。一応、ミミズクだから猛禽だ。ガとか昆虫類を好んで捕捉して食べるらしい。

アオバズクは、図鑑では飽きるほど眺めた野鳥なのだが、やっと出会えたネ、という感じだった。夜行性なので、早朝派の小生には無縁な鳥だったのだ。

右手の桜川ではカルガモの雛が編隊を組んで泳いでいる。数えて見ると11羽!!!生まれたばかりのようだ。少し前に、道路を挟んで反対側の千波湖にも親子連れのカルガモがいたが、雛はこの11羽より少し大きかったのだが、たったの2羽だけだった。 天敵が多いらしい。1羽減り、また1羽減りで、成長して大人になるのは大変らしい。

沖の方であまり聞いたことのない野鳥の声がする。目を凝らして眺めて見ると、白いハトサイズの野鳥がそらから湖の水面にダイビングして小魚を取っている様子。コアジサシだ。これも夏鳥だ。子育ての最中か?湖の中ほどに砂地の小さな人口島が設けてある。そこにひょっとして雛でもいるのだろうか?

http://www5b.biglobe.ne.jp/~amami/sutaa/koajisasi.htm

ということで、今日の散歩はなかなか楽しかった。お陰で、久しぶりに心が弾んで軽くなった。明日からまた仕事かぁ、という日曜日の夕刻の憂鬱(私は基本的にペシミストだろうか?)は避けられそうだ。

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2008年7月22日 (火)

映画「東京オリンピック」を見た・・・

ブルーマンデーの昨日。一仕事終えて21時前に帰宅。この3ヶ月遅番シフト勤務なのだ。

蒸し暑い日々は冷えたビールが一番。一杯ぐーっとやっる。夕食を終えて、テレビサーフィンを始めた。BSチャンネルで、とまった。映画「東京オリンピック」じゃないか!

番組表を見ると1945分からやっている。時計は22時前だ。いや、のがしちゃったよ、という思いで、画面を食い入るように見た。マラソンのシーンと閉会式のところだったが、感動ものだった。マラソンの沿道で選手に声援を送る赤ん坊を背負った主婦の姿に思わず笑ってしまう。いまじゃ、もうこんな姿は見られない。新宿駅南口や甲州街道、制服を来た学生の姿。高度経済成長期とは言え、まだまだ日本は貧しかった。スタート前に選手のアナウンスがあるのだが、選手の名前を男性は「くん付け」で、女性は「さん付け」で呼んでいるのが微笑ましかった。こんな時代があったんだ・・・。

今はもうはるか昔のこと、記憶に埋もれた1964年。ジョン・F・ケネディが暗殺されたのは前年だった。ベトナム戦争はすでに深刻化していなかったか。3億円事件も三島由紀夫の割腹自殺事件もまだだった。吉展ちゃん誘拐事件の頃か?東大安田講堂の攻防戦はまだだった。

当時小学校3年生だった私は、市内の郵便局がある本通りで聖火ランナーを見たのだった。開会式の時は、学校が午前中で終わり、早々と帰宅。家族皆で、白黒だったけれどテレビで開会式を見たのを鮮明に覚えている。

女子バレーボールで金メダルを取って泣いた東洋の魔女たち、重量挙げの金メダリスト三宅選手と世界一力持ちのジャボチンスキー、アントン・ヘーシンクに敗れた神永選手、陸上100メートルの覇者ヘイズ、水泳のドン・ショランダー、女子体操のチャスラフスカ、そして男子マラソンのアベベ、ヒートリー、円谷幸吉。今でも名前が次々で出てくる。

観たのは最後の40分ほどだけだったが、閉会式で流れる黛敏郎氏作曲のテーマ行進曲が実によかった。44年前のあの時聞いた感動の行進曲が圧倒的な感動を伴って私の全身を貫いた、と言うと大げさだが、記憶の奥底に深く眠っていたものが何とも鮮やかに突然呼び覚まされた瞬間だった。

そして、今日は朝からそのテーマ行進曲のメロディーとリズムがずーっと私の頭から離れないのだ。行進曲が鳴り響いたまま、夕刻やれやれと仕事を終えて、徒歩でいつものように家路についた。

行進曲に合わせて汗ばみながら歩く、歩く。歩く。いつしか行進曲は、バーデンバイラー行進曲(ヒトラーがウィーン入場したときも確かこの行進曲だった)になり、某大橋をわたっている最中は何故か、ショパンの「別れの曲」に転調し、最後は再び、黛さんのあの軽快な東京オリンピックテーマ行進曲に戻って自宅に到着。ああ、汗かいた。ビールで乾杯。ようやく、行進曲が私を離れてくれたようだ。

2008年7月21日 (月)

Elias Canettiの自伝第一巻を読了!

週末は、Elias Canettiの自伝に没頭した。長らく積読状態だった本を思い出したように本棚から取り出して、翻訳本を読み始めたら、おもしろくて食事とトイレの時間を除いてずーっと2階の風通しがよいベッドにゴロリとなって読み続けてしまった。

1巻は、著者の幼年時代から思春期(1905年~21年)を扱っている。驚くのは著者の生まれた文化(言語)環境だろう。15世紀にスペインから追い出されたユダヤ人の末裔で、オスマン帝国に庇護のもと成功した商人の家に生まれたのだが、大家族で語られる言葉は古風なスペイン語だというから驚きだ。周りは素朴なブルガリア人が話すブルガリア語の世界。カネティ一族の家庭で代々話されてきた古スペイン語は、オスマン帝国支配下でトルコ語の語彙がかなり浸入していたという。ドナウ川の対岸はルーマニアでロマンス語系のルーマニア語も理解した。トルコ人、ギリシャ人もいれば、ロシア人もいる。一族の支配者、強烈な家父長権を発揮する祖父は17カ国語が出来るというのが自慢だったという。

エリアスの両親はしかしながら、若き日にウィーンで教育を受け、ドイツ文化の薫陶を受けた。家族での夫婦の会話はなんとドイツ語だったという。幼き日の著者にとっては、それは謎の言語であった。

ウィーンで近代教育を受けた両親(特に母はCanettiに強烈な刻印を残す)は、バルカン半島の「東方的」文化環境に満足出来ず、伝統的家父長権を振りかざして一族の人間を威圧する祖父の軛を逃れを飛び出したのだった。トルコのパスポートを持って母方で成功した商人が住むイギリスのマンチェスターへ移住する。しかし、一家に待ち受けていたのは、あまりに早すぎる父の死だった。

父の突然の死によって、一家は母の希望でウィーンへ移り住むのだが、ウィーンまでたどり着くまでに、一家の伝を頼ってパリ、スイスのローザンヌを旅する。 あちこちに分散するCanetti一族というかスペイン系ユダヤ人(スパニオール)のネットワークには驚くばかりだ。ウィーンに到着する3ヶ月前にエリアス少年は、母親からドイツ語の特訓を受けるのだが、瞬く間にドイツ語をマスターしてしまうのだから驚きだ。

幼年時代を思い出しながら家族や級友達を語るカネティの筆致は精細にして執拗である。そこから浮かび上がるのは母親と長男の特別な関係だ。母親は、ユダヤ人ではあるが、スペイン系のスパ二オールの末裔にして誇り高き一族であるという自覚が強烈であり、いわゆるオーソドックスな宗教的ユダヤ人達とは格が違うと、息子がウィーンで始めて意識したユダヤ性に特別の意識を吹き込む。

豚肉を食べないユダヤ人だが、マンチェスターで息子にベーコンを食べさせた母親。近大教育を受けた啓蒙主義者にしてコスモポリタン。文学的教養から発する彼女の批評は息子を常に緊張状態に置く。母と息子は毎晩読書をしながら「真剣勝負の対話」を続けるのだった。あいまいな言辞に対する母親の明晰な批評と容赦のない嘲笑。

27歳にして未亡人になった母は教養あふれる溌剌とした美しい女性で、長男のエリアスは母に言い寄る男性にことごとく嫉妬を燃やす。母を誰にも渡さないゾ。カネティという個性は、このように母との絶えざる緊張を強いる対話を通して母のあるものが自分のあるものと融合して出来たのだった。

しかし、子供のエリアスにとって母の記憶はあくまで子供の一面的なところの記憶であった。3人の子供を抱えて、切り詰めた生活を強いられる中、母は、何度か病に倒れる。家族はウィーンを去りスイス(チューリヒ)に移住する。サナトリウムに入る母と女子寮の中の唯一の男性として幸福な日々を送るカネティと全寮制の小学校にはいる弟二人はバラバラな生活を送る。

離ればなれになりながらも文通を通して母と固い絆で結ばれるエリアスだったが、スイスの平凡な田舎で本に囲まれて惰弱に育つ息子に危惧を懐いた母は、息子を打ちのめす批評をしてフランクフルトへ移住することを決意する。

以上が第1巻である。時代は1905年~1919年まで。第一次世界大戦というヨーロッパを揺るがす大事件を前半はウィーンで、後半はチューリヒで体験している。チューリヒでは、あるカフェで新聞をうずたかく積み上げて議論する禿頭のレーニンが登場したりもする。

読んでいて何より面白かったのは、この自伝がユダヤ人という日本人にとってはおよそ想像を絶する宗教の民の内情が、オスマン帝国の片田舎、ブルガリアの伝統的世界から両親とともに近代的な世界に抜け出ようとする新しい世代の「教養小説」(ビルドゥングス・ロマン)として、執拗で浩瀚な筆致であますところなく描かれていることだろうか。

筆者の記憶は美しい幼少時代のバルカン半島の風俗、母が実家の果樹園の中で子供の頃よじ登って本を読んだという桑の木や氷結したドナウ川を馬車で渡っていた厳寒のある日オオカミに襲われた話、カネティ一族の邸宅と中庭の様子、物乞いジプシー一団の描写、トルコによるアルメニア人虐殺で家族をすべてなくしたアルメニア人男が中庭で悲しい歌を歌いながら薪割りをする情景。イギリスと特にスイスへの親近感などが綴られる。

スイスはハプスブルク王家の起点となったところだが、ハプスブルク帝国の軛から自らを開放して自由を勝ち得たことに対するスイス市民への共感は、学校で学ぶ古代ギリシャ史の民主主義と共振する。ハプスブルク・ウィーンの皇帝・貴族・ブルジョア達の形式張ったものものしい世界と、スイスの世俗的で平等な市民社会との比較。マクロな歴史叙述では決して見えてこない数世代に渡る記憶と20世紀前半の革命と戦争の激動の同時代の目撃者として20世紀のドイツ語圏が生んだ希なる才能がその文学的泉からのとめどもなく語り続けるのだ。 読みながら、その深い囁きに耳をそばたて、時代を超えた人間のいとなみに共感を覚えさせられた。

読み終わっての余韻がなんとも言えない。著者と一緒にしばらくそのまま留まっていたい、そんな本だった。

第2巻は敗戦後の不穏なワイマール時代のドイツはフランクフルトが最初の舞台となっている。このままだと、一気に第3巻の1937年まで読めそうだ。

2008年7月17日 (木)

ヒグラシが鳴く!

今朝は4時半前に目が覚めてしまった。そして、ヒグラシの鳴き声を聞いた。今年初めてのヒグラシだ。子供の頃はすぐ裏手の縁まで雑木林があって大層にぎやかだったが、遠くから聞こえる今朝のナカナカナは大合唱には程遠かった。しかし、今年もヒグラシが聞けたかと思うと安堵する。

洞爺湖の環境サミットはいつの間にか終わってしまったが、石油と食料の値上がり、漁業関係者の休業宣言など、20世紀を支えた石油大量消費文明が崩れ始めている兆候が顕著になりつつある。

北京オリンピックまで秒読みに入ったが、新聞報道では旅行会社のオリンピック関連の商品の販売が大不振だという。NHKでアナウンサーが笑顔で必死に北京オリンピックを盛り上げようとしているのが分かるが、空回りしてるように思えるのは私だけだろうか?

湯浅赳男氏の「文明の人口史」の帯の文字にあった文句は「人の命は地球より重いと言われますが、100億人が乗っかると、地球はどうなるでしょうか」だった。

環境問題とは結局人口問題ではないのか?アラン・マクファーレンの「イギリスと日本」(マルサスの罠から近代への跳躍)を寝床に置いて読もうとしたまま、積読状態なのだが、現在の問題はユーラシア大陸の巨人「中国とインド」で25億を越える人口問題なのだ。と、言い切るつもりはない。根底にはアメリカの自分勝手な振る舞いもあるだろう。アメリカ文明とはまさに石油消費文明であり、20世紀の超大国アメリカは石油資源を押さえ、大量に消費することによって繁栄を謳歌して来たのだ。ノーベル平和賞のアル・ゴアさんも自宅じゃ、冷暖房でガンガン石油を消費しているらしい。

2次世界大戦も究極は石油をめぐる争いだった。日本は石油を取りに南方へ進出した。ヒトラーのドイツは、モスクワに直行せずにコーカサスへ寄り道せざるを得ず最終的に独ソ戦に破れた。

うとうとしながら、うだうだと物思いにふける。ヒヨドリが煩い。蝉が大量に発生する時期に合わせて繁殖をしていると思う。絶対に間違いない。遠くからウグイスの囀りと何と久しぶりでホトトギスの囀り「特許句許可局」が聞こえて来た。少し心が休まる。

眠れないので、枕元の本に手を伸ばす。エリアス・カネティの自伝だ。Die Fackel im Ohr。スイスからドイツのフランクフルトに引っ越した1921年から1931年までの時代の記憶だ。

カネティは、いわゆるスファラディ系のユダヤ人だ。イスラエルが滅びて四散したユダヤ人がジブラルタル海峡を渡り、スペインがイスラム化した時代にスペインに住み着いたユダヤ人の末裔。15世紀末にキリスト教徒がスペインからイスラム勢力を追い出すと、ユダヤ人も迫害され、オランダに逃げたユダヤ人(スピノザなど)や、一方でオスマン帝国の支配するバルカン半島に逃げたユダヤ人がいたそうで、カネティは後者、ブルガリア出身である。

ブダペスト出身のユダヤ人アーサー・ケストラーはアシュケナージ系ユダヤ人だ。ケストラーの著作に「ユダヤ人とは誰か」という本がある。このアシュケナージ系は、実はモンゴル帝国がユーラシアを統一する前の時代、勃興するイスラムと東ローマのキリスト教徒に圧迫された中央アジアの遊牧民(カザール人)が、何と「ユダヤ教徒」に改修した部族の末裔で、旧約聖書に登場する本来のユダヤの民ではない、というユダヤのタブーに触れた本らしい。

物思いに耽りながら8時半過ぎ起床、いつものように朝食を取り、いつものように職場に出かけ、いつものようにあたふたと仕事に没頭する。 夕刻、職場の敷地内の雑木林からもヒグラシの鳴き声が聞こえてきた。カナカナカナ・・・・・

21時前、汗をかきながら徒歩で帰宅。冷たいビールを飲みながら、焼き餃子を8個食べる。やれやれ、今日も1日が終わった。 アマゾン・ドット・コムに注文していた、ポール・ジョンソンの原書が届いていた。例の「インテレクチャルズ」だ。日本語訳があまりに面白いので訳出されていなかったブレヒトやジョージ・オーウェルやビクター・ゴランツ、リリアン・ヘルマンの章を読みたくて、心待ちにしていたのだった。また一冊、ベッドの枕元に積み上げる本が増えた・・・。

2008年7月12日 (土)

ニイニイゼミが鳴く!

久しぶりにゆっくりした土曜日だった。

朝食後、2ヶ月ぶりに床屋へ。先週から本格的な夏の到来となって今日も真夏日だ。

ツバメたちの2度目の子育てが佳境にはいっている。「2番子」というらしいが、あちこちで尻尾の短いツバメの姿を目にする。無事育ってくれればと思うのだが、付近にはカラスの姿が・・・クワァ~と情けない声を出す、こちらも巣立った子ガラスが母に餌をねだっている。巣立ち間際のツバメは格好の餌らしく、昨年はKストアーの巣は2度ともカラスにやられたのだった。今年は、最初の巣立ちは無事だったようだが、2度目はどうもやられてしまったようだ。

床屋の2代目(先代は2年前に92歳で他界)にお願いする。私の父(現在81歳)も子供のころお世話になったという長い付き合いである。静かに時間は流れる。目を瞑り、瞑想に耽る。

またぞろ海外のシーンがあっち飛び、こっち飛びする。海外はいろいろ出かけたけれど、いつも仕事がメイン。観光はまともにしなかったなぁ、と感慨にふけりながら、朝食はドイツが一番だ、という持論に思いを馳せる。サマーセット・モームがイギリスの食事は不味いと言う定評があるが、朝食は世界一だ、とどこかで言っていたような気がするけれど、私としてはドイツの朝食が一番だ。ライ麦の入った黒パンや、フランスパンより小さいけれどパリパリのブレーチェン、チーズ、いろんな種類のハムやレバーペースト、それに、ニシンの酢漬けや、果物、シリアル、100%果汁のジュース。 フランクフルトの空港のそばのSホテルはシャンパン付だったなぁ・・・ 食事そのものは、フランスやベルギー、そしてイタリアだけれど、朝食はドイツだ! 

床屋でさっぱりした後は、近くのスーパーで食材を買って帰宅する。昼はラタトィユを作った。オリーブオイルとニンニクをベースに、玉葱、茄子、赤・黄ピーマン、胡瓜、トマトなどを順にいためてあとは野菜の水分で蒸し煮する南フランス料理だ。お昼に冷たいご飯と一緒に頬張る。うまいぃ・・・

近くでヒヨドリの巣立ち雛の声がする。双眼鏡を持って探すと、いたいた、巣立ったばかりの雛鳥が2羽。尻尾が短い。親鳥が警戒の声を出して、逃げていくと、雛鳥もあぶなっかしい飛び方をしながらも親鳥のあとについていった。

午後は昼寝をした。2階の東向きの網戸を全開。心地よい風がどんどん入ってくる。本を手にするがすぐに寝入ってしまった。15時過ぎに目覚めて、ブックサーフィンをする。冷蔵庫をあけて、トウモロコシを食べる。糖分たっぷりでうまい。

そして、またうとうと・・・と、近くでニイニイゼミの鳴き声が聞こえてきた。今年初めてのニイニイゼミの声だ! ヒヨドリの格好の餌なのか、最近はニイニイゼミの数が激減しているように思う。食われるなよ、と思いつつ昼過ぎに見かけたヒヨドリの巣立ち雛を思い出した。自然界の食物連鎖は厳しい。

夕刻、昼つくったラタトィユ(半日置くと、味と風味が一段と増すのは煮物と同じか)と豚シャブを肴に白ワインで乾杯、お寿司の出前も取って母の77回目の誕生日を祝った。

外では、まだニイニイゼミが鳴いている。ツバメが盛んに飛び回り、カラスとヒヨドリの声も聞こえる。夕暮れ時、ウグイスもやってきて、春先ほどの勢いはないが、ホーホケキョと母を祝福するように囀ってくれた。

2008年7月 2日 (水)

世界カタコト辞典から

Goy  “ゴイ”と発音する。 語源はヘブライ語? 「(ユダヤ人からみて)異邦人、外人」の意味

昨夜は、先週土曜日に釣り上げた手のひらサイズのカレイ2枚を唐揚げにして弔った。うまかったゼ。

カラッと揚がって香ばしかった。食べながら、ロンドンで食べたフィッシュ・アンド・チップスを思い出してしまった。

ロンドンのフィッシュ・アンド・チップスのフィッシュの方の特徴は、タラにしろヒラメにしろカレイにしろ、衣が分厚く油を沢山すっているので、カロリーに注意すること。現地の人の食べ方を見ていると、衣をわざわざ取って中の美味しい白身の部分を塩とモルトビネガーを振りかけて頬張る人が多い。ロンドンで生活していた時は、大部お世話になったイギリスのジャンクフードだ。

今朝は4時前に目が醒めた。このところ、この時間になると、決まってヒヨドリが隣のNさんの家の屋根にとまって、盛んに囀る。美しい囀りではないが、生を謳歌するような、溌剌とした周りを圧倒する音量で目が覚めてしまうのだ。そう、うるさいのだ。やめてくれぇ~、叫びたくなる。どうも、近くに巣があるようなのだ。もうひと眠りと思うのだが、うとうとしながら眠れない。思い切り読書灯をつけて、本に手を伸ばした。

中根千枝氏の「社会人類学~アジア諸社会の考察」(講談社学芸文庫)を手にした。職場でR先生と話していたときに、「族譜」のことが話題になり、中国の宗族について気になり始めた。先生は、第1巻(目次)は持っているそうで、全部で10数巻になるという。普通は、20年くらいごとに、新たな世代が書き加えられるというが、先生の族譜の場合は、大分前だが、90年ぶりに編纂されたという。義和団事件から、辛亥革命、国共合作、日中戦争、日本敗戦後の内戦、共産党による統一、大躍進政策と文化大革命による混乱続きで、長らく滞っていたのが理由で、鄧小平さんの時代になってからのことだという。 中根氏によると中国及び朝鮮半島やインドもアラブなど広範囲にわたってユーラシア大陸は「父系社会」だという。 ところが、日本は、父系社会ではないし、母系社会でもないらしい。朝鮮半島も含めた東アジアと何か隔たりを感じるのは、この社会構造の故かも知れない。

私の友人で中国通のS氏は、「中国には社会がない」、と言い切っていた。「社会」とは「公共性空間」、と言い換えられると思う。 さらに別の言い方をするなら、「日本人が日本人社会という意味で、中国には中国人社会は存在しない」ということになるだろうか。 中国人にとっての社会=公共性空間とは、「宗族」のことではないだろうか? 「宗族」を超えた世界は、異界、異邦人の世界のようなのだ。「宗族」の外に対しては、平気でウソをついても良いし、商売をしても値段が「宗族」(=血縁共同体)とそれ以外では違うのだそうだ。 中国には、このほかに、「幇」(ほう)という「宗族」(=血縁共同体)とはまた別の、「義理人情で結ばれた人間関係の世界(=三国志でいうあの桃園の義盟=擬似的血縁関係)」、はっきり言えば、「秘密結社の世界」、これは、例えば、辛亥革命を担った孫文を指させた客家の秘密結社「洪門」(天地会)がそうらしく、中国共産党も言ってみれば「秘密結社」だったと言う、もあって、宗族(=血縁共同体)とは違うもう一つの公共空間を作っているのだという。

中国人の社会とは、結局、この二つの世界のことであって、その世界以外は、異界、異邦人の住む蛮地ということになる。極端に言えば煮て食おうが焼いて食おうが、そんなの関係ねぇ、ということになるらしい。中国という世界はこの二つの世界を包む全体集合のことであり、無数にある集合同士の力学が最終的に中国という国の政治現象を作り出しているのだ。だんだん、話が難しくなって来た・・・。

なかなか、本題のGoyに辿り着けない・・・。

ひとしきり、物思いに耽って、8時過ぎ朝食を取った。それから2階に上がってベッドルームに足を入れた途端、本棚にある1冊「ドイツの中のユダヤ」(ピーター・ゲイ著)の背表紙が目に入った。そして、次の瞬間、「Goyという言葉が鮮やかに脳裏に蘇って来た。何故、今、ここで?不思議なものだ。 連想に引きずられて、身支度しながら、話はまたロンドン時代に戻るのだった。

私は、ロンドンの北Finchly Northに半年ほど住んだのだが、事情があって市内に引っ越すことになった。一週間、不動産屋に通いいくつかの物件を見学した。担当する営業マンが車で私を連れて行ってくれたのだった。確か、Golders Greenにある物件を見にいったときのこと、車にもう1人の営業マンも同乗、彼等の世間話を聞く羽目になった。イギリス人同士のしかも下町風の訛がある英語は、なかなか難解である。しかし、彼等が何を話題にしているのかはおおよそ理解できた。彼等はユダヤ人なのだ。それと車のナンバープレートがどうのこうの、と盛んに議論していた。しかし、標題の言葉は実は彼等の口には上らなかったと思う(か、発音が聞き取れなかったのか)。 ただ、話は直感で?理解したのか、私は車を降りて、こっそりナンバープレートを確認したのだった。ナンバープレートには、数字に混じってGOYというアルファベット文字が並んでいたのだ。 どこかで、頭の中をくぐり抜けた単語だった。 ピーンと来た。ユダヤ人にとっての「外人」(=非ユダヤ教徒)、という意味だった。普通、ユダヤ人は、「異邦人」として否が応でも自己認識に迫られるのだが、敬虔なユダヤ教徒としての自己意識からすると、周りこそ「異邦人」達なのだった。従って、語感には、「軽蔑的」な意味があるという。

彼等がひそひそ声を落としてしきりに苦笑いしながら語っていたのが分かるような気がした。自分こそ異邦人なのによりによって、車番にGOYがつくなんて!ということだったと思う。

続く

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