« 2012年9月 | トップページ | 2018年7月 »

2018年6月30日 (土)

入院日記 リハビリ編 その30

6月28日(木)朝のうち雨、後、曇り

蒸し暑い夜だが熟睡した。3時半にトイレにおきてソファベッドに戻ったら眠れなくなる。外で雨音が聞こえる。

読書灯を点けてユンガーの日記を読む。

1965年の夏の8月上旬、セイロン(当時)、シンガポール、ペナン、香港を経て日本に足を伸ばした。東京、日光、京都の定番コース。日本滞在が長いロベルト・シンチンゲル氏(同氏が編纂した独和辞書を使って学生時代は独語を学んだ)が世話役だったらしい。浅草、日光、金谷ホテル、盆踊、明治神宮、新幹線(前年開通)、京都の竜安寺、二条城、若い世代の強い戦争否定の反応、漢字、多神教、神社と鬱蒼した森とフローラとファウナ。クルーズの旅行だから客船は東京と神戸に停泊したようだ。一番印象に残ったのは平安神宮の池。鯉、竹林(あっただろうか)、朱塗りの橋と回廊、ジリジリ鳴いて近ずくと飛び去る油蝉。そして日光で体験した盆踊。雨の中、招待客としてビールとおつまみ(枝豆ではなく落花生の類い)でのもてなしを受けながら。

東京オリンピックの翌年だから私は小学4年生だった。夏休みだから両親の実家のそばの久慈川の清流で、鮎やカジカ取りに夢中になっていた頃だ。ユンガーはこの時70歳。日本滞在を終えてユンガーは台湾に向かう。

朝のニュースでドイツが韓国に破れ一次リーグ敗退。アジア勢として韓国は大金星。どうしたドイツ。マイアミの奇跡で日本がブラジルに勝った時のような勝ち方だ。それでも、韓国は一次リーグ敗退。これも日本と同じ。

朝食は、納豆とハムエッグとご飯に牛乳。

リハビリ後、左足の指先の汚れが気になり濡れタオルでキレイさっぱりにした。結果的にマッサージする効果からか鬱血して腫れぼったい指先が右足と変わらない色になった。足首の運動も医師から勧められたので恐る恐るやったが痛みはなく大丈夫そう。

お昼はコーヒーとパスタ(フェトチーニ、タラコソース)。冷凍だが生パスタを調理したみたいな本格的な味に満足した。

午後は扇風機の風を浴びながら居間のソファーベッドで休憩。時折、左足首の運動をしたり、昼寝したり、Chinese whispers を読んだり、ワールドカップをみたり。

夕食は、待ってました丸々ボリュームたっぷりの目刺しとポテトサラダ。

夜の読書:「Ernst Juenger and Germany into the Abyss 1914 -1945」を読む。戦後のドイツ文化には見るものがないとは良く言われるが、1998年に102歳で大往生して残したユンガーの膨大なエッセイ、日記、小説群は難解さもあるが私を未だに魅了し続けている作家だ。従来からラテン諸国、特にフランスでは人気がたかいが、英語圏でも最近は結構翻訳が出てきている。イギリスの学者によるユンガー研究書だが、1945年までが対象。ユンガーは戦後さらに50年生きて、著作(エッセイ、日記)と創作(小説)を続けた。

2018年6月29日 (金)

入院日記 リハビリ編 その29

6月27日(水) 曇

明け方3時前にトイレに起きたら眠れなくなった。

読書灯を点けてChinese Whispers を読む。

「一口に『5000年の歴史』と言うがこれは習主席が就任の席で言ったことらしいが、江沢民時代は『3000年の歴史』ということだそうだ。エジプトの上を行くために上乗せしたようだ。黄帝は神話である。考古学的な根拠はない。それから、中国という国がずっとあったように思われるが、帝国として統一された時代(BC221年の秦の始皇帝)が初めてで、それ以後統一と分裂時代も長かった。そして、それぞれの王朝への異民族の影響は大きい。官吏登用の科挙制度は唐の時代に確立し、纏足は宋の時代から始まった。北京ダックのオリジンはイギリスにあるとは驚いた。中国服も清朝の支配者である満州族がもたらしたものだ。段階を経て中国は進化しているということで欧州ヨーロッパの歴史的進化と同じなのだ。西洋人は単純化して永遠に変わらない(停滞の意味もある)中国人像を19世紀に作り上げていまだにそれが独り歩きしている。」

朝のニュース。アルゼンチン、ナイジェリアを破って決勝トーナメント進出。何やかや言っても、実力ということか。イランはポルトガルと引き分けで決勝トーナメント進出を逃す。日本はこうならないことを祈る。

リハビリと昼食(鮭お握りとコーヒー)、以外は2階のベッドに横たわり読書(ユンガーの1970年代の日記)と休憩で過ごす。気温がグングン上がったが2階の窓から入る風はエアコンがいらないほどに心地よい。

夕刻、車のディーラーさんが涸沼川から引き取ってもらい預けたままにしていた車を届けてくれた。二ヶ月振りの我が家への帰還。九月が車検予定。

夕食は、豚肉の冷やしシャブシャブ、納豆にご飯。

オーストラリア対ペルーの試合を見る。ひょっとしてオーストラリアが勝てるのではと応援しながら(オーストラリアがアジアかどうかは疑問があるのだが)見ていたが、2対ゼロでまったく歯がたたず。ペルーは30数年振りのワールドカップ出場だというが、アジア勢のトップレベルがこの有様だ。嘆かわしい。

2018年6月28日 (木)

入院日記 リハビリ編 その28

6月26日(火) 晴

巣立ったばかりのハシボソガラスの子供が昨日から付近を徘徊している。今朝は、クウァーッとしゃがれた情けないハシボソガラスの巣立ち雛の声で目が醒めた。

8時20分、予約したタクシーで病院へ。30分のリハビリ後、レントゲン、CTをとって医師と面談。左足につける歩行補助器をこれから作って、来週金曜から本格的な歩行訓練が始めることとなった。少しばかり日が射した感じだが元気になるほどでもない。

保険会社と私学共済に郵便物を投函して、お昼にタクシーで帰宅。往復三千円也。

コーヒーと肉まんの昼食をとる。

午後は2階で休憩する。ユンガーの日記を読んでは、うとうとする。1970年代の10年間の日記で旅行滞在記が中心。パリ、ヴェルダン、南仏、トルコ、ギリシャ、北アフリカ。旅先は地中海世界が多い。自分はこの日、この時、何をしていたかを思い起こしながら物思いに耽る。

夕食は肉野菜炒めを肴に二ヶ月ぶりにビールを飲む。缶ビール(小)一缶だけだが、蒸し暑い陽気の折からか格別にうまい。2本足歩行まで6分の道のりはきた。

夜は「続・社長外遊記」を見る。ハワイロケ。柳家金五郎が出演していた。
オアフ島の宿はHawaiian Village Hotel。3年前の2015年の夏に、人生で初めてハワイの地に足を運んだが、1964年のハワイとの街並みや服装の対比が何とも言えず半世紀以上の時間の経過を感じさせて感慨深い。日本でもお馴染みのチェーン・レストラン「ココス」でのシーンもあった。飛行機は大分前に存在しなくなったパン・アメリカン。ダイヤモンドベッドだけは私が訪問した3年前とおなじ。最後は小林圭樹と藤山陽子が結ばれてメデタシ、メデタシ。かなりの出演者が既に鬼籍に入っている。森繁社長の娘役の岡田可愛が今や70歳前後。来週は、北海道ロケのシリーズ作品の予定。

昔の引退した先輩の仲間から連絡があった。飲み会の誘い。1ヶ月少し先だがそれまでには完治しているだろうか。

2018年6月27日 (水)

入院日記 リハビリ編 その27

6月25日(月) 晴

2時半過ぎトイレで目が醒める。携帯で確認すると日本はセネガルと引き分け。負けなかったが勝てなかった。決勝トーナメント進出はポーランドに負けなければ確定するらしい。

朝のニュースはサッカー一色。この大会は失礼な言い方だが、南米やアフリカや欧州でもラテン系やスラブ系が躍動するすごいイベントだ。日頃から政治・経済を牛耳るアングロ・サクソンがちっぽけに見える唯一のショータイム。非アングロサクソンの世界が盛り上がり溜飲を下げる機会だ。仲間外れはアジア。まだまだ、格下である。

この2週間は呆けていたが、月曜の午前中は保険処理の書類やら退職により発生した面倒な手続きの作業をする。

お昼はコーヒーとカツサンド。2枚目のボリュームたっぷりのロースカツにウースターソースを2枚の食パンに挟んだ。

気温がグングン上がって蒸し暑い。居間で用事を片付けて2階へ。窓を開けて風にあたりながら昼寝。足が直るまでの無為な生活。

ユンガーの日記を読み続ける。1979年、ギリシャのコルフ島の滞在記。

平和で静かな散策をしていると白髪のイギリス婦人に出会い、Peaceful! と声をかけられる。同じこの瞬間(1979年)、世界のどこかで(アイルランドや中近東・アフリカ)戦争の悲惨がある。私がいるここは確かに、平和だ。平和とは常態であり、戦争は特定の時点の平和の破れだ。第一次大戦の塹壕で繰り返される熱い砲弾の炸裂の合間にも静寂と平和が常にあった、と本人は呟く。

夕食はフライド・チキン。肉食が続く。食欲が戻りつつあるようだ。

夕暮れどきになると盛んに囀ずる鶯の鳴き声をききながら、東京湾でクジラが豪快に跳ねている映像をテレビのニュースで見る。

明日午前は2週間振りの通院だ。結果がどうあれ手術後6週間目に突入するのだからビールを解禁しよかと思う。

2018年6月26日 (火)

入院日記 リハビリ編 その26

6月24日(日) 晴れ

5時半に目が醒める。

東京の知り合いの塾通いで奮闘する娘さんからラインのメッセージが来ていた。ライン友達登録するとかわいい絵文字で即返信がきた。心が和む。

天気が回復。弟夫妻が買い出しに来てくれた。ビール、ロースカツ、焼き鳥を注文。野菜、肉、魚、パン、冷凍食品、カップ麺、等など、母は大量注文。

サッカーはドイツがかろうじてスウェーデンに勝利。後半のロスタイム。韓国はメキシコに破れ2敗で一次リーグ敗退は決定的。日本より強い韓国。アジア代表はやはりまだまだレベル的に世界水準に届いていない。ひ弱だ。それからすると、今回の日本は頑張っていると言える。夏の高校野球でもそうだが、無名校が1回戦、2回戦を接戦で勝って強くなり、あれよあれよと決勝まで行って優勝してしまう、そんな奇跡(ご記憶の方は長崎北高校を覚えていないだろうか)が今回のワールドカップでおこらないだろうか?

リハビリと朝の読書はユンガーの日記を読み続ける。アンゴラ、ルワンダ滞在のくだり。

お昼は、冷やし中華を食べる。

気温が上がって暑くなった午後は2階で過ごす。涼しい風が心地よかった。

開高健の釣り紀行「コスタリカ編」をパラパラめくった。美人の産地でターポン釣り。雨に祟られ、空振りが続くなか豪快な野生の豚の丸焼きを賞味してその時を待つ。最後に漸く一匹仕留める。しかし、この魚の食味はいただけない。

Kaiko_ken_2

夕食はボリュームたっぷりのロースカツを平らげた。付け合わせは刻みキャベツとポテトサラダ。

就寝前の読書は、再びユンガーの日記。アガディール、カサブランカのくだり。植物と昆虫への没頭。行く先々のflora and faunaを堪能し瞑想しながら日記につぶやく。海辺での戯れ。第一次大戦に従軍した兵士でユンガーと交流があり、老後をモロッコで生活しているフランス人とカサブランカの空港でワインを傾けながらの談笑。

2018年6月25日 (月)

入院日記 リハビリ編 その25

6月23日(土) 曇り後雨

お日様は昨日だけのようで朝から曇天模様。

ブラジルはかろうじて後半ロスタイムに2得点して勝利する。南米唯一の娯楽。負けると国民は容赦しないお国柄だ。たかがスポーツではない。勝ち負けで戦争が起きたりミスした選手が殺されたり。選手たちは命懸けだ。ネイマールは涙を流しながら安堵した。

朝食後の読書はユンガーの日記「Siebzig Verweht」(漂流の70年)を読み続ける。

アフリカのアンゴラ訪問記。滞在時はまだポルトガルの植民地で、独立するのは1970年にはいってから。第一次大戦後、植民地を失って西アフリカから追い出されたドイツ系移民が逃げて来て落ち着いた末裔の農園を訪ねる。近くのお墓にフォン・リヒトホーフェンの名前。独立闘争派による反乱は1961年に始まった。血なまぐさい殺戮。コーヒー園。ホストの狩猟。

終日、2階で休憩しながら惰眠を貪る。

お昼は炒飯とコーヒー。夕食は、ツナ缶詰めとシーフードカップ麺。買い出し人不在で食料在庫も乏しくなりつつある。

都内の長年の知り合いに近況の連絡。子供は中学受験もあり週末も塾に通っているという。励ましのメッセージをラインで送る。

就寝前の読書は「Chinese Whispers 」を読む。

この言葉はいわゆる伝言ゲームのことらしい。ハーフの中国系イギリス人でオックスフォード大学で歴史を専攻し、ガーディアンの記者をしている、若い世代による中国論。生まれも育ちもイギリス。子供時代に2年間香港に滞在。父の親戚は広東省の田舎に住んでおり、移民の本場。アメリカ大陸横断鉄道の建設にも多くの人がこの地域から海を渡った。著者の一族にも20世紀初頭に成功し故郷に錦を飾った親戚がいるらしいが、息子世代が阿片に溺れ食い潰したらしい。

著者は戦後にイギリスへ渡りシェフィールドでクリーニング屋から身を興した父のもとに1979年生まれ。私が大学を卒業した年だ。ロンドン勤務の時のスタッフで呉恵さんというスタッフがいたが、出身は確か広東省だったと記憶する。漢字の読みが普通語と違う。ワイ・リンと皆で呼んでいた(日本人が漢字読みするとゴ・メグミさんである)。呉音に近いとされる日本の音読みならゴ・ケイさんとなるのだが、まったくもって違うのには面食らったことを覚えている。

2018年6月24日 (日)

入院日記 リハビリ編 その24

6月22日(金)晴れ

昨夜は20時半に就寝。だからたろうか、深夜に目が醒めると眠れなくなってしまった。

金子光春の「西ひがし」を読む。「マレー蘭印紀行」の続編。パリ、ベルギー貧乏その日暮らしの滞在後、妻を現地に残して一足先にシンガポールへ。マルセイユに向かう途中のパリのカフェでフランス人が騒いでいた。何と満州事変の勃発だ。私の母はこの年に生まれた。船中で猥談に耽る日本人を尻目にプルーストの「失われた時を求めて」に没頭する留学帰りから日本では小林秀雄の新しい文芸思潮が登場し、プロレタリア文学は退潮したことを知る。

中国系が多いシンガポールの対日感情は日に日に悪くなっていた。ジョホールを抜けて懐かしのバトパハへ。中国系が多いとは言え日本資本で栄えたここは雰囲気がトゲトゲしくはなかった。が、詩人は英蘭と同じ側にたって現地で利益を追求する日本人の時局に対する鈍感さに違和感をもつ。それでも、詩人の感性は、ニッバヤシ、ビンロウ樹、強烈な日中の陽射しとスコールの後の爽やかさ、ヤモリ、猿、サソリ、蚊、アラブ人のカフェ、華僑たちのゆうげ、等に感応する。かき氷やで出会った片言の日本語(神戸に生活した)を操る白い肌の中国系の若い娘と出会い、詩人本来の奔放さからパリの妻と日本の子供を打ち捨てて、この女とジャングル深く押し入り享楽の逃避行の束の間夢に浸る。

Nishihigashi

読んでいると、ホトトギスの鳴き声が聞こえて来た。そしてようやく眠りに落ちた。

2度めの目覚めは6時る。アルゼンチンがクロアチアに破れ一次リーグ敗退。

米国のトランプ大統領政権は話題に事欠かない。不法移民に対する処理で発生した親子隔離問題。国連人権理事会からの離脱。リベラルな立場から批判が噴出している。一方で、計算しての発言なのだろうが残忍な北朝鮮の独裁者を持ち上げている。自己の保身と利益を最大化する行動に徹するかに見える大統領は無節操なオポチュニストに見える。ビジネスと政治は違うだろう。

北朝鮮問題の今回の経緯で自分が(多くの人も共有すると思う)一番引っ掛かるのは金一族の無慈悲な支配に対するモラルの問題があると思う。自分に反対する勢力をことごとく死をもって排除してきた残忍な体制の当事者である。スターリンの遺伝子が濃厚だ。自分の兄ですら毒殺した男だ。体制保証=金一族であっていいのか。北朝鮮の餓死していく人々はまったく浮かばれない。日本の帝国主義の負の遺産を言われる筋合いはないと思うのだ。その前に自負たちの負の遺産を清算するべきだ。ソ連も中国もそれなりの清算は経て体制の変革がなされて現在がある。核放棄=金体制放棄の体制変革を経た北朝鮮なら私は納得するのだが。

朝食はシリアル、ミルク、バナナ、フルーツジュース、ポテトサラダ。

リハビリ、足の包帯の交換をした後は、居間でユンガーの日記を読み続ける。

昼は、おにぎり1個、メロンにコーヒー。

午後は寝不足もあり居間で昼寝。BSの映画はスキップ。ウッディ・アレン監督の比較的新しい作品だが、冒頭を観てこりゃだめとスイッチを切った。韓流ドラマと一緒にするわけではないが見ていてイライラしてしまう何かがある。自分の今の境遇と関わっているからだろか。それとも、年齢か?

3時におやつ(柿の種とチョコレート)とり、2階へ。ベッドで心地よい風にあたりながら休憩する。エリア・カザンの自伝(積ん読状態)を思いだして取り出しパラパラめくるも、また眠くなりうとうとしながら夕刻までの一時を無為に委ねる。

夕食はカレー(レトルト)とオニオンサラダ。冷蔵庫の食料が残りすくなくなってきたらしい。明日までは大丈夫だろう。

東京湾に鯨現れる。ろくでもない殺人事件報道が多くげんなりするが、こういうニュースには心が踊る。

足が完治するまで禁酒しているがうまいエールのビールを飲めるのはいつになるのか。タメ息。Good Grief 。

夕食後の読書。加藤陽子著「満州事変から日中戦争へ」を読む。日本が戦争する原因は、日清・日露を経て得た大陸の権益を巡ってだ。その権益とは何か。範囲は。敵対する国際社会(と言っても、主として、米国、英国、ソ連と中国)との確執の歴史的経緯と解釈の齟齬。日本に全ての非があるとは思わないが、不敗神話で自己増長した陸軍や大陸の権益に日本の将来をかけた勢力が自己に都合ねいい解釈の上で強引な自己の正当化を行い(帝国主義では当たり前。アメリカのハワイ併合、フィリピン併合を見よ)、力勝負に出て、自滅したのが先の大戦だった。

力の行使による強制力だけではだめだ。人々がそれを認める正統性が必要だ。政治力、経済力、そして今で言う「ソフト・パワー」だ。20世紀は、大衆化の時代、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフが世界を覆うことになった時代だった。アメリカの世紀と言われる由縁である。フランス革命やロシア革命ではない。1773年のアメリカ革命こそ、現代の淵源となる世界史的な事件だったのだ。

日本の義務教育の歴史教育は、相変わらず古代から始まって明治維新で終わっているらしい。評価が定まってはいない近現代史から議論を通じて過去に遡る方法を取るべきだ。まずは、先の大戦を学ぶところから歴史教育を始めてほしいと思う。

2018年6月23日 (土)

入院日記 リハビリ編 その23

6月21日(木) 曇り

雨は一時的にやんだようだ。熟睡した。時計を見ると5時半前。ウグイスの囀ずりも聞こえる。

単なる骨折とは言え、人生で自分には無縁だと勝手に思い込んでいた入院を経験し、さらに長いリハビリのための療養生活。かれこれ1ヶ月半になる。

入院前だが、電車通勤していたある日、松葉杖の男が乗り込んできて座っていた私の前に来たときのこわばった不満げな顔を思い出す。席を譲ってあげたが、当然でしょと言わんばかりの無愛想さに、何だ、こいつ、とこっちは思ったが、今は相手の気持ちが良くわかるような気がする。

ニュースを見る。パナマ文書から本人に自覚がないところでパスポートの写しがネット上で売買され、出会い系サイトの会社運営者にされていた話。海外での会社登記は日本の警察権力が及ばないからだと、会社関係者はいう。パスポートの写しはどうでもタイのマッサージスクール研修の際に提出したものが売られた可能性がある。

いてもの朝食後、午前中はリハビリをして2階で過ごす。ユンガーのセイロン、現在のスリランカ滞在日記を読んで、開高健の旅行紀行本を思い出したように取り出して鮮やかな写真と文章をパラパラと逍遙する。8割が仏教徒。少数派のタミール系はヒンズー教徒。クリスチャンもいる。オランダやポルトガルの末裔もいるらしい。宝石と小乗仏教が開高健の切り口にユーモアたっぷりの開高節が楽しい。1980年代に訪問。ユンガーは動植物の観察を中心に哲学的省察に耽る。

そういえば、ロンドンの職場の事務員でスリランカ人がいた。彼女が作るフィッシュ・カレー(サバを使っていた)はなかなかなものだった。スリランカは香辛料の産地でもある。

お昼は、ラーメンとコーヒー。

BS放送で映画「アメリカ、アメリカ」を見る。長年見たい、見たいと思っていた映画だ。イスタンブール産まれのギリシャ系移民の自伝的映画。「エデンの東」の監督エリア・カザンである。モデルは自分の父の叔父さんのようである。1963年制作のモノクロ。時は1896年のオスマントルコ。。エンターテイメントではないし、当時の貧しさとアメリカへの憧れが痛々しいくらい、切なく描かれていた。

アナトリア地方の貧しい町に少数民族として暮らすギリシャ人。時折りしも、同じ少数派のキリスト教徒であるアルメニア人が反政府運動を起こしてトルコ政府の弾圧を受け始めた。将来に見切りをつけた一家の主は全財産を長男に託してイスタンブールに上京させるのだが、途中で自分をかもにして財産を巻きあげたトルコ人を殺害、イスタンブールではアメリカへの渡航費稼ぎを目的に自分の若さと美幌を売り物に金持ちのギリシャ人絨毯商人の娘で一番器量が悪い娘と結婚。持参金でアメリカ行きの客船の切符を手にいれる。客船では愛情に餓える有閑マダムの情夫をしているところが発覚、暴力沙汰に発展的してアメリカ入国が危うくなる。結局、肺病を患った青年が自分が主人公から受けた恩義に報いようと船から海に飛び込んで、主人公は自分を捨てて自殺した青年に成り代わって入国を果す。靴磨きをするシーンで映画は終わる。アナトリアに残した家族は故郷で死んだ父を除いて全員が渡米したエピローグが流れる。

重々しい3時間に渡る大作映画だったが、堪能した。移民の国アメリカへ一世たちがいかなる理由でしかもいかに人を欺いたり犠牲を強いたり身勝手にがむしゃらに希望を抱いて目指したかの一段面である。

夕食はオニオンソースのハンバーグステーキ、ポテトサラダ。ボリュームたっぷり。

2018年6月22日 (金)

入院日記 リハビリ編 その22

6月19日(火) 晴

久々にお日様を拝めそうな1日になりそうな天気だ。

韓国は予想通り敗北。今日は日本がコロンビアと戦う。アトランタでブラジルを破った監督が指揮を取るが2匹めのドジョウは見つかるだろうか。

今朝はウグイスが全然鳴かない。どうしたことか。

ニュースを見る。

大坂の地震は意外に被害が大きかった。当事者は可哀想。命を落とした人は、ブロック塀や本棚の下敷きとなって亡くなった。後は建物の損壊、交通機関やインフラの麻痺。それに、SNSでのデマ情報が出回ったという。

スズキ自動車が中国から撤退。インドの成功は中国では通用しなかった。バブリーで見栄っ張りの中国人は軽自動車に興味なし。

8月の米韓軍事演習は中止となった。首脳会談を切っ掛けにまず米韓側が譲歩。北朝鮮の次の行動の番である。

いつもの朝食にアスパラガスと焼豚少々がついた。自分なりに豪勢。

BSで世界ふれあい散歩。今日はロサンジェルスのベニスビーチ。映画「スティング」の脚本を書いた人物も偶然登場。カリフォルニアの青い空と強烈な陽射し。ラップ好きのイギリスからの旅行者も。行き当たりばったりの気儘な街歩き。

午前はリハビリ後、2階で過ごす。

お昼は炒飯とコーヒー。

午後は、待ってました!ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」を見る。トーマス・マン原作の映画。大学時代に1度(眠ってしまった)、その後、マーラーの音楽に目覚めた30代にレンタルビデオで、目覚め、機会があるごとに見ている。物語は初老のアーティストが旅先のベニスで美少年に出会い、恋し、最後はそれが高じて官能の享楽に憔悴してエンディングはビーチで、輝き少年をながめやがら命を落としてしまうという、少年趣味がない私にはどうでもいい話。
時代は第一次大戦前。セリフ少ない。シーンのカットがヴィスコンティ独特の美しさ。アメリカ化が全地球的に覆ってしまった現代人にはもはやこのような美を表現することは不可能だろう。私がヴィスコンティ作品に惹かれるのはまさにこの意味でだ。ハリウッド映画は否定しない。失われてしまったヨーロッパ大陸の円熟した退廃と美への哀惜をこの監督は体現していると思う。

夕食(納豆とハムと玉葱の炒め)後、映画「社長外遊記」を見る。森繁シリーズ四週連続。岡田可愛が前半出演していた。新珠道代がハワイの料亭の女将。ハワイの風景が時代を感じさせる。来週も後半がある。

21時からサッカー観戦。強豪コロンビアを相手に西野監督が2度めの奇跡をもたらした。2対1で勝利。
主力が途中出場だったり、レッドカードで相手は1名退場する運もあったのだろうが、勝利は実力があってのことだろう。運が見方して劣勢を跳ね返した。それにしても驚いた。興奮で深夜過ぎまで暫く眠れなかった。足のこともわすれて・・・。

6月20日(水) 終日雨

朝から雨模様。天候がわるいとウグイスは盛んに囀ずる。

昨日はテレビ漬けの1日となった。今朝のニュースはサッカーの日本の勝利で盛り上がっている。次の相手はセネガル。ポーランドに勝利した。これまた難敵だ。リーグ戦とは言え、皆一発勝負。総合力で上回ってもドイツのように負けることもある。優勢な力には組織力と柔軟な戦術で活路を見いだすしかない。ガップリよつの試合にはならないだろ。かと言って、奇策を用いるほど日本は劣勢ではないように素人ながら思えるのだがテレビ解説を聞くと現時点での総合力はコロンビア以上らしい。

朝食後、リハビリ。テレビでスペインの食紀行。ピンチョス、リンゴ酒で食べるステーキ、オムレツ等。ロンドンで仕事をしていた時、職場のピリー(スペイン人)が食べさせてくれたオムレツを思い出す。

寝不足もありお昼(焼そばとコーヒー)を挟んで休憩。午後はたっぷり2階のベッドで昼寝。

すっきりした頭で「1941」を読了。ドイツのポーランド侵攻から始まるこの本は真珠湾攻撃でルーズベルトの米国が参戦する場面で終わる。しかし、実際には、その前から段階的にイギリスを中心に、チャーチルの要請に呼応しながら、蒋介石の中国、スターリンのソ連を支援し、既に参戦していたと言える。日米交渉は、アメリカにとっては、時間稼ぎの引き延ばしで、大西洋と太平洋の2正面での戦線は避けたかった。日本が先に戦争を仕掛けること(最初の一撃を相手がすること)はドイツ同様に期待していた。

病院から、医者の診断書ができたと、連絡があった。ピックアップは来週火曜日の通院時にする。

夕食はボリュームたっぷりの目刺しとポテトサラダ。

シャワーを浴びて、夕刻前の読書。テレビはお休み。テレビもラジオも電気もない時代の庶民は陽が暮れて何をしていたのだろうか。

ユンガーの「Siebzgig Verweht」(70年の漂流)をパラパラ拾い読み。1060年代半ばのアイスランドの滞在。スリランカ滞在等。

昨夜の寝不足は解消されていないのか眠気に襲われ就寝。21時半。

2018年6月21日 (木)

入院日記 リハビリ編 その21

6月17日(日) 曇り

ウグイスの声で目が覚める。天候はよろしくないが囀ずりの頻度はむしろ高くなるようだ。

台風6号が発生。サッカーはクロアチアがナイジェリアに勝利。2対0。

午前は、リハビリを挟んで、積ん読状態だった本「1941」を読む。新宿の紀伊国屋書店で買ったまま少し読んだまま放置しておいた。第二次大戦に米国がどう参戦していくか、米国なしには勝てない対ヒトラーとの戦争にチャーチルは策謀をめぐらし、それに呼応するルーズベルトがいかに自国を参戦に向けて誘導していくか。英語圏ではこれに関するドキュメントがかなり書かれている。学術書ではないがまがい物のノンフィクション本でもなさそう。ドイツのソ連侵攻と真珠湾攻撃はそれぞれこの年の6月と12月だ。

お昼は、フライドチキン、コーヒーにブロッコリーサラダ。

テレビでスティーブン・セーガルの「沈黙の崖」を見る。アメリカ版の燃えよドラゴンだ。

地震あり。震源地は群馬。珍しい。震度5弱はかなりだ。

3時のオヤツはアーモンド・フィッシュ、かりかりカルシウムを食べよう、がキャッチ・フレーズ。左足よ、早く良くなれ、と念じながら食す。

夕食(銀だらの西京漬)後、シャワーを浴びる。ゆっくり寛ぎながら居間のソファベッドで「1941」を読んだりワールドカップのサッカーを見たりする。

アルゼンチンはアイスランドに引き分け(1-1)。ペルーはセルビアに破れる(0-1)。オーストラリアはフランスに破れる(1-2)。アジアの強豪はフランスといい試合をしたが破れる。

今日はとうとう2階に上がらず仕舞い。デイゲームの巨人、ロッテにさよなら逆転負け。

6月18日(月) 曇り

熟睡した。夜中に1度もトイレに起きず。今朝はウグイスの声が聞こえない。

ブラジルはスイスと引き分け。

最近の事件は、浜松の看護婦連れ去り殺害事件、新幹線事故(知らぬ間に先頭車輪が人を跳ねる、多分、自殺者。東北新幹線も5時間止まる)。和歌山ドンファン事件も加熱気味。アメリカと中国の貿易戦争の勃発。1990年前後の日本とアメリカの対立の再現。8月の米韓合同軍事演習は取り止めるというトランプさんの発言の波紋。シリアからの?難民受入を巡るイタリアとフランスの対立。アフガニスタンの自爆テロ、しかも国内各派閥が合意した停戦直後のこと。少し前だが、マハティールさんが首相に返り咲いた。90歳を越えている。100歳を超えた中曽根元首相も米朝首脳会談にコメントを出している。

つらつら思い付くままにメモしているとウグイスが囀ずり出した。時間は6時11分。

ドイツがメキシコに破れた。0対1。セルビアはコスタリカに勝利。1対0。

いつもの朝食後、テレビをつけると関西で地震。震度6弱。画面が地震情報で溢れ始める。昨日の群馬、千葉でも地殻に異変が出ているらしい。何やら、不穏な気配だ。地震多発列島だ。

父がデイケアに出掛けていったあとの午前中はリハビリ後、2階で過ごす。日記を書いたり、いろいろな本をパラパラめくったり。

お昼に階下のキッチンでコーヒーを飲みながら、おにぎりとゆで卵。関西の地震報道が続く。大被害ではないが数名の死者が出たようだ。

13時からBS放送でルキノ・ビスコンティ監督の映画「山猫」を見る。見逃していた大作。最後までの3時間、集中が途切れることなく堪能した。ハリウッド映画もいいが、ヨーロッパの作品は格別だ。時は1860年のイタリアはシチリア島。封建貴族とガリバルディの国家統一気運の高まり。没落の予感と新興の市民階級の登場。ショットのひとつひとつが入念でゆったりとして美しい。テンポの速い娯楽作品を期待したら退屈するであろう。自身が没落貴族の末裔で、失われていく貴族社会への挽歌である。1963年制作。明日は、「ヴェニスに死す」だ。

続いて世界街角歩きは、ベトナムのハノイ。ふつうの人々とのやり取り、生活風景とその臨場感がいい。

夕食は肉じゃがと納豆。納豆は朝食べるより夜食べると栄養摂取効果が高いらしい。

「1941」を読み続ける。独ソ戦でのドイツの快進撃。チャーチルとルーズベルトの秘密の会談は大西洋憲章(署名も拘束力もない)として結実する。アメリカは参戦はしないとしつつ「レンドリース」(イギリスと中国にソ連が加わった武器や原料の原則無償供与)を行うとともに海上輸送の安全策としてUボート攻撃を暗に認める。日本は、南進策を取りナチス・ドイツの占領下に成立したヴシー政権下にある仏印(ベトナム)に進駐する。

シナ事変が泥沼化する中、英米が支援する蒋介石国民党政権への援助物資輸送ルート封じが目的だったが、これによりアメリカから更なる経済制裁を受けることになり、結局、蘭印とマラヤへ出ていかざるを得ない原因となっていく。石油や原料資源の確保のためだ。北進(陸軍、仮想敵はソ連)ではなく南進(海軍、仮想敵は英米蘭)が御前会議で決定する。

21時から韓国対スウェーデンの試合を見る。前半を終わって0対0。退屈な試合で眠くなり就寝。

2018年6月20日 (水)

入院日記 リハビリ編 その20

6月15日(金)

5時に目が覚める。ウグイスの囀ずり。退院して2週間と少々が経過した。涼しい雨が少ない梅雨の日々だ。薄着禁物。

ロシアが初戦をサウジアラビアに対し5対0で圧勝した。日本は19日にコロンビアと対戦予定。厳しい相手だ。サッカー・ワールドカップとは日頃何かとアングロサクソン的世界に負けているラテン世界がうさを晴らす4年に1度の大会だ。

午前中、弟夫妻がくる。1週間の買い出しと父の年金の引きおろしもなど。それに、自分の電話代、職場の責任者用の鍵の郵送等々。

ユンガーを扱った専門書を読む。1999年にロンドンの書店で偶然見つけて購入。パラパラめくったことはあるが、じっくり精読するには、いまが絶好の機会。

お昼はカップ・ラーメンとコーヒー。

午後、「ゴッドファーザー」を見る。1972年制作。何回見ても凄い映画だ。血で血を洗う殺しあいは凄まじい。アメリカのヤクザ社会の物語。そのヤクザでもドン・コルレオーネは麻薬はよろしくないと一線を引く伝統はだ。麻薬は当時(第二次大戦直後)はまだヤクザ世界でも禁じ手だった。だから儲かる。新興のヤクザは既得権に挑戦する。マフィア戦争の勃発。

リーサルウェパン4の中国ヤクザも凄まじいがどんな世界にも裏社会があって、表社会と手を握りながら共存する。政治家は表社会のヤクザとも言える。賭博、酒の密売、売春、恐喝。フランク・シナトラがモデルらしい歌手が映画の役を貰うためにドンが取る恐喝の手が半端ではない。大学時代にこの映画を見たが、馬の首を切り取ってオーナーかつ映画のプロデューサーが寝ているベッドで血だらけになり絶叫するシーンは今見てもおどろおどろしいく強烈だ。

夕食は牛肉丼弁当を食べる。

今日は終日雨、気温も低く、肌寒い天候。ウグイスはそれでも終日家の周りを移動しては盛んに囀ずっていた。東京の知り合いからラインで連絡。お子さんが日光遠足にいってきた。雨模様で可哀想。

巨人はロッテに圧勝。テレビをつけたまま母が寝ているようなので部屋まで松葉杖をついて声を掛けて自分も就寝。

6月16日(土) 曇り

今日もどんより曇りで肌寒い。にも関わらずウグイスは元気に囀ずってくれる。

足の具合は1日ごとに良くなっている感じ。食欲も回復しつつある。入院、退院以来始めての感覚だ。回復の本革化、希望の光り?

サッカー・ワールドカップは3試合あった。ウルグアイとイランが勝利。イランは敵(モロッコ)の自殺点での勝利だが、勝ちは勝ちだ。どんな形であれ、勝ち点3の意味は大きいはずだ。スペインはポルトガルと引き分け。3対3。いい試合だったらしい。

朝食後、父はデイケアへ。自分はリハビリ運動をして2階へ。日記をパソコンに打ち込む。ベッドにゴロリとしてゆったり過ごす。

お昼は、コーヒー、ピザ、フライドチキン1個。

テレビではサンフランシスコのナパバレーのワインテイスティング列車の旅。このワインはバブリーな値段がついているので有名だ。

午後はふたたび2階へ。ユンガーの1960年代後半の日記をパラパラ読む。セイロン、シンガポール、ペナン、クアラルンプール、マニラ、香港、日本、台湾を巡るクルーズ旅行。内容は物見遊山の記述も入るが、日々の省察、哲学的な随想で難解だ。辞書を引きながら、長年付き合ってきた(ブランクも多いが)ユンガーも少しずつだが読みこなせるようになってきた。

父は夕刻元気に戻った。まだまだ頭はしっかりしている。私の足のことを気遣ってくれる。

巨人はロッテに1対ゼロで前日のお返しをされる。母は落胆する。

夕食は焼き肉(ポーク)。ボリュームのある食事をする。

BS放送でムッソリーニ、ヒトラー、スターリンのドキュメンタリー。容赦ない残虐さが際立つヒトラーとスターリン。前者は敗者となり自殺。後者は勝者となって生きぬいたが後に否定されるが、現在、再評価が始まっている。ロシアのプーチン政権だ。

毛沢東、ポル・ポト、金一族も容赦のない政治による多大な犠牲を国民に強いた独裁者だ。ルーマニアのチャウシェスクは銃殺されたが、毛沢東は天寿をまっとうした。ムッソリーニはチャウシェスクと同じ運命をたどった。

先進自由民主主義の偏見を取り去れば、国民をちゃんと食わせてくれる政治家であれば例え残忍な独裁者であろうと国民はついて来ると言う事だろう。食わせられなくなった暁の独裁者の末路は哀れだ。金一族の王朝の命運は国民をくわせられるかどうかにかかっている。経済問題でもうにっちもさっちもいかないということだ。核を自分の生き残りの担保として。民衆に殺されるか、自殺か、しぶとく生きぬくか。亡命という手もある。たとえば、スイス、はたまたアフリカの友好国。

2018年6月19日 (火)

入院日記 リハビリ編 その19

6月13日(水) 曇り

3時半に目が覚める。毎日が同じ事の繰返し。無為の生活。よく考えると仕事現役時代の生活も同じ事の繰返しと言えるだろう。違いは、仕事は気晴らしで従事するものではないが、たまの気晴らしをするための要因を作る。仕事はある意味「戦い」で勝ち負けのスリルがある一方で緊張も強いられる。だから、休息が必要だ。それで、生活にメリハリとリズムが生まれる。各人各様に。療養は、そのメリハリがない。精神的にも肉体的にも高揚する瞬間がほとんどない。無味乾燥、退屈、無気力に支配されて流される日々だ。 

愚痴ってもどうにもならないだろうと自問しつつ、我慢するしかないね、と一人呟く。

枕元の読書灯を点けて、ユンガーを読み続ける。スマトラ島での昆虫採集の秘めやかな楽しみに耽る日々。少年時代から生涯燃やし続けた情熱。旅行中にユンガーはフランスのジュール・ルナールの日記を帯同した。ルナールもトウェインと同様、1910年のハレー彗星地球接近時にこの世を去った。

朝食はミルクとシリアルにバナナとミックスジュース。

午前、庭師がきて庭の手入れ。若葉の季節は毛虫がつくのでその対策もある。

お昼は、銀座ナイルのチキンカレーとホットコーヒー。BS放送でリーサルウェパン3を見る。警察の腐敗。警察の武器を横流しして濡れ手に粟のビジネスに手を染める悪徳警官退治の話。

3時のオヤツはヨーグルトをたべ、日課の足のリハビリ。

薬局の人が父の必需品を届けにくる。ついでに野菜をもらう。田舎の良さだ。

5時過ぎ父がデイケアに戻る。

夕食はイワシの干物。貧しいのではない。簡素なだけだ。

外は雨が降りだした。巨人はソフトバンクに逆転負け。

6月14日(木)

ウグイスの囀ずりで目が覚める。よく考えると、東京都心では考えられないぜいたくだ。

ユンガー日記を読み続ける。 彼が旅行したこの時期(1986年4月26日)、あのチェルノブイリ原発事故があった。ユンガー91歳。私は30歳になったばかりだった。日本はバフル景気の始まりかけだった。

ユンガーが読むルナールの日記にはベルエポック、前世紀末の若き日のジッド、サラ・ベルナール、レオトーらが登場する。50年後の第二次大戦中、ドイツのパリ占領下、ユンガーは彼等と交流した。

朝食は納豆を食べるはずが炊飯器のスイッチを母が入れ忘れたため、シリアルを食べる。

サッカーのワールドカップが今日からロシアで開幕。開幕戦はホスト国ロシア対サウジアラビア。

米朝首脳会談はやはり政治的ショーに終わった感が強い。非核化の工程は全く未定。しかも必要なコストは、主に韓国と日本が負担することになるとささやかれている。一番得したのは北朝鮮と揶揄される所以だ。トランプ政権の政策はハチャメチャに見えて首尾一貫しているのかも知れない。アメリカが世界を相手に繰り広げている貿易摩擦と同じだ。米国の利益が優先されるのだ。孤立主義に回帰するアメリカ。

午前はリハビリ運動後、2階で過ごす。

お昼はおにぎり1個、パスタ(ベーコンとホウレン草)にコーヒー。

リーサル・ウェポン4を見る。昨日の6年後、1998年の制作。過去3作に比べて記憶が薄い。中国人マフィア(秘密結社)による密入国がテーマ。

夕食後、3日ぶりにシャワーを浴びて寛ぎながらテレビを見る。ポルトガルの日本料理職人の日本探訪記。天ぷら、和風食器、鰻重、それぞれ職人の匠の技を堪能する。私もだ。サクサクの天ぷらとビールか冷酒。そして、こってりとしたウナギのかば焼きを食べる。こんな幸福があるだろうか。しかし、今は、禁欲の時・・・。全快するまで我慢しようと思う。

巨人がソフトバンクにお返しの勝利。

2018年6月18日 (月)

入院日記 リハビリ編 その18

6月11日(月) 雨

外は雨の音。梅雨らしい雨だ。台風5号は東側にそれて関東直撃はなさそうだが大雨に要注意。

今朝も夢を見た。自分が松葉杖はついているが東京を歩いている。左足がいよいよ使えるようになりつつある吉兆か。明日の通院が待ち遠しい。目安となる手術後一ヶ月まであと少しだ。

朝食はシリアル、牛乳、ヨーグルトにバナナ。母は怪訝な顔をする。

父はデイケアにでかけた。悪天候にも拘らず3月から皆勤である。

天候のせいだけではないが、気分は依然として低調。気温が下がり寒いくらいだ。

昼はカップ焼きそば、おにぎり1個に珈琲一杯。

テレビサーフィンをしたり本をパラパラ。リハビリ運動。映画(リーサル・ウェポンⅠ)も釣り紀行(怪魚ハンター)も前に見たことがあるものばかり。

ニューすも同じものばかり。シンガポールの米朝首脳会談も過熱し過ぎ。乏しい結果、言葉が空回りする政治的パフォーマンスに終わりそうな気がする。

新しい読書。エリン・マイヤーのThe Culture Gapを面白く読む。

6月12日(火) 曇り

雨は上がったがお日様の姿は拝めない。憂鬱な気分はいかんともし難い。

8時半、予約したタクシーで病院へ。

9時からリハビリ。左足指を使って、ビー玉やおはじきを掴む訓練が加わった。

レントゲンをとり医者と面談。靭帯のところはまだまただが他は骨がくっつき始めている。次の通院は2週間後だ。歩行のリハビリができるかどうかも含めて次のステップはそれからだ。全治2ヶ月以上だ。重症と言うこと。

入院費も含めて清算しタクシーで帰宅。11時すぎだた。父のケアマネージャーが丁度来ていた。しばし雑談。介護を手伝う側が介護される側となってしまった巡り合わせの驚き。足の包帯は看護師さんが訪問したさいに手伝って貰えると言う。ありがたや。

ユンガーの旅行記を読み続ける。フレーザーヒルで念願の2度目スのハレー彗星との再会を果たしたユンガーはペナン経由でインドネシアのスマトラ島に昆虫採集に足を延ばす。現地の世話役は整形外科医にして昆虫採集に熱狂的情熱を傾ける現役の医者である。クリニックで松葉杖や三角巾を使う患者の描写が出てくるところで、自分の骨折にまた意識が行ってしまい、集中が途切れる。クアラルンプールでも、パキスタン人が松葉づえで歩くシーンが出てくる。

東京の知り合いからメール。骨折が完治するまで普通三ヶ月だとのこと。長期戦を覚悟すべしと言うこと。

シンガポールの米朝首脳会談は予定通り、共同声明の署名もなされた。何がどこまで合意されたのか、まだよく分からないが、テレビはこぞって特集報道している。

プロパガンダ国家、敵と見なす相手への罵倒、過激派(右翼左翼を問わない)と共通するあの北朝鮮はどこまで信用できるのか。核兵器を背景に、島根県ほどの国家予算しかない人口2000万の国だが、世界を振り回す駄々っ子振りだ。というか、駄々っ子を通り越している。手におえない不良少年だ。報道の印象はアメリカが幾分譲歩したように見える。まずは、休戦から国家承認、朝鮮半島の2国体制を認める。体制保証。これまでより大きく踏み込んだ動きではあるが、過去の繰返しになる可能性はあり、茶番劇となるか、それとも、後戻りのない新しい朝鮮半島の情勢の始まりとなるか。まだまだ、判らない。

夜、「社長漫遊記」の続編を見る。別府、長崎、雲仙のロケ。森繁、三木、加東、フランキー堺、淡路恵子、小林圭樹らは皆もうこの世を去った。藤山陽子、草笛美津子、浜三枝が若い。1963年制作。東京オリンピックの前年。私は小学校2年生だった。来週はそのまた続編で来週はハワイロケだ。

2018年6月16日 (土)

入院日記 リハビリ編 その17

6月9日(土) 

4時に目覚める。お腹の具合は治まったようだ。

入院と自宅療養で一ヶ月が過ぎた。しかし、依然として心のもやもやは如何ともし難い。どうしたら気分が晴れるのか。

グアテマラの火山噴火の被害者はかなりのようだ。恐ろしい火砕流だ。雲仙岳の災害を思いだす。ハワイでも噴火が起きている。

野鳥で一番早起きはカラスだ。真っ暗なうちから鳴き声を上げて塒を出る。次がヒヨドリだろう。かなり喧しい。実家では周りの木に毎年のように巣作りをする。この2年は子育てに失敗しているようだ。一度は猫にやられた。昨年は何故か卵を置いたまま放棄した。

目覚めの読書。「マレー蘭印紀行」を読み続ける。クアラルンプールのくだり。宿泊した宿の主が語る島原をはじめ全国から身を売られた女性たち、いわゆる、「からゆきさん」の話。香港経由で満州、中国奥地、南洋諸島に分かれて送られる。流れ流れて、ペルシャ、アラブのポートサイードまで流れるものもあったという。大金を貯めて堅気の生活をするものもいるにはいるが悲惨な運命に朽ちるもの数知れず。

朝食は油を使わない炒りたまごに笹かまぼこが入った母の手料理。弱った胃をおもんばかってのことで、涙が出る。

午前は2階でパソコンに向かう。熱中していると13時。珈琲タイム。レーズンバターパンとおにぎりひとつずつ。

曇りだが蒸し暑い。寝床となっている居間のソファで休憩を挟みながらリハビリ運動をする。

夕食はカップヌードル。食欲がいま一つ。

テレビで池上さんの北朝鮮特集を見る。「停戦協定」と「平和条約」の意味の違いがよくわかった。ベトナムの場合も「停戦協定」だったから北側が後日南北統一を軍事力を使い簡単になし得た。南ベトナムと韓国の運命の違い何だったのだろう。

6月10日(日)曇り、時々雨

久方ぶりに明け方、とりとめのない夢を見る。ゴキブリを見つけてやっつけようとするが蒲団の中に潜り込まれて上手くいかない。かと思うと、若い頃関わったサービス業で手配確認がうまくできず慌てる自分。誰に助けを呼んだらいいのか。一方で、我関せずとばかりに、身近な先輩が悠然と新聞を読み耽っている姿。何のこっちゃ。自分がたまには見る夢は、旅先で乗る飛行機にのれなかっり、目的地にたどり着けないパターンが多い。とりとめがないことに変わりはないのだが、こんな脈絡のないバラバラな夢はみたことがない。

新幹線で刃物による殺傷事件があった。一人は死亡。

カナダでG7サミット。トランプ節が炸裂したらしい。貿易紛争は中国のみならず欧州や日本もターゲット。共同声明をホスト国の首相が発表するもシンガポールに向かうトランプ大統領は例のツィッターで否定する。アメリカ単独路線ぶりは意味が違うにしても北朝鮮と同じかも。

週1回の買い物に弟夫妻がくる。シリアル、牛乳、カレーパン、カップ焼きそば、カップ麺類を特注した。

ジョルの「第一次世界大戦の起源」を読了。

北朝鮮の金将軍様がシンガポールに到着。マスコミ報道は過熱する一方である。

退職したばかりの後任の責任者からラインとメールで相談事があった。最後はライン電話で長話となった。新しい責任者は慣れるまではいろいろあるだろう。国際業務はそれでなくても、個性派キャラが集まっているので束ねるのはそれなりに大変だ。特に女性が多い職場は・・・。

東京の親しくしている知り合いに連絡。元気にしているが子供(小学校六年生)は折角の日曜も終日学習熟でテストと勉強らしい。

2018年6月15日 (金)

入院日記 リハビリ編 その16

6月7日(木)

梅雨入りの翌日だが雨はあがり、晴れとなった。日中はぐんぐん気温が上がった。
朝食は目玉焼きと人参が入った味噌汁に御飯少々。人参の味噌汁は父の好物だ。
足の傷みは殆どない。手術の傷口はとうに瘡蓋となっているが、骨は?来週火曜のレントゲン検査が待ち遠しい。

暇に任せて、物思いにふけっていると、足の怪我に意識が戻り、転倒して骨折した瞬間のことが生々しくフラッシュ・バックする。

単なる、と言うには重症だった今回の怪我。事故で命を落とす瞬間にならなくて良かったとつくづく思う。

それにしても、あの土手の葉陰に隠れていた柔らかいブラスチックの使い捨てコップを踏んで仕舞うなんて。従軍カメラマンで初期のベトナムの戦場で地雷を踏んで呆気なく命を落としたロバート・キャパを何の脈絡もなく思いだす。彼の写真集をたまに引っ張り出してパラパラと眺めるのが好きなのだが、最後の写真は地雷を踏む直前のものだ。

今回の事故に関連してうけたもうひとつのショックは、私よりも早く転職し成功した知人の死である。た彼は大組織の単なる駒に甘んずることに安住することを拒み、飛び出した。保険セールスの独立自営者として存分に天分の営業力を発揮して成功していた。付き合いから、貯金の積もりで彼の勧誘そのままに生命保険に加入していた。今回の入院で連絡を取ろうとしたところ昨夏に亡くなったことを知って愕然としてしまった。

意欲が湧いて久々に昼前からパソコンに向かう。この一ヶ月の出来事はベッドに横たわりながらメモにしていた。自分の気持ちに整理をつける意味もある。ブログもタイトルを変えて、釣りブログとは別にして完成した一部をアップした。

その後、ルーティンの足のリハビリ運動をたっぷり行う。3時のおやつは、杏子ケーキとフルーツ・ジュース。

夕食は家で寿司の出前をとった。両親からビールは飲まないのか、と言われる。完治するまでは飲まないことにしているので、お茶と水で乾杯する。私の退院祝いらしい。完治したら完治祝いの大盤振る舞いをしようと思う。

二日ぶりに夜はシャワーを浴びてサッパリする。左足が使えないのは大変だ。父が使うためにレンタルした浴室用の椅子を毎回使っている。

6月8日(金)曇り、時々晴れ

3時にトイレ。明け方、軽いお腹の傷み。朝の便がやわらかかった。傷み止めの薬の影響か。

朝は味のりと笹かまとワカメの味噌汁に御飯少々。両親は完全な和食派だ。シリアルかバターをたっぷり塗ったこんがりトーストも食べたいが何せ自分の思う状況は自ら作り出せない介護状況下にあるのだからワガママは言えない。

ブログにマレーシアについて書いたのだが、思いだして金子光晴の「マレー蘭印紀行」を引っ張り出して読む。彼が旅行したのは、満州事変直後の昭和7年の事だ。

当時のマレーシアは、大不況時代の1930年代でゴム価格が暴落でマラヤ海峡植民地もどん底だった。マレー人や華僑やインド人が混在して生活する様子はは今とかわらないようだ。ユダヤ人、アラブ商人も一目置く最強のチッテとはどういう人たちなのだろうか。時代が時代だけに絶望的に貧しい細民マレー人のその日その日暮らしの様子が熱帯の自然描写(密林、ニッパヤシ、カユ・アピア=炎の木、猿、カワセミ、スコール)とともに詩人の言葉で淡々と語られている。日本人がゴム園や鉱山開発で進出してできた街バトパハに金子は逗留しながらシンガポール、クアラルンプール、ジャワ、スマトラなどを放浪した。妻を途中で先にパリに送り出して、絵を描いては売り歩いて生活費を稼ぎながら自分の旅費ができるまでの束の間の気楽でありつつ先が見えない漠然とした不安に苛まれながらがら漂流する独り旅だった。

Malay_indonesia

私の最初のマレーシアへの旅は1986年の2月だった。その2ヶ月あとにドイツの作家エルンスト・ユンガーは金子光晴と同年の1895年生まれだ。当時91歳という年令をものともせずに彼はは昆虫採集と2度目のハレー彗星の観察にマレーシアを訪れた。連想が連想を呼び、本棚から「2度目のハレー彗星」をパラパラめくって午後を過ごす。

Zweimal_halley

お腹の具合が気になる。便がゆるい。夕食は食べたが、痛めどめの薬は飲まず、下痢止めの薬を飲む。「弱り目に祟り目」だね、と母が残酷なことを言う。

安倍首相が渡米しトランプ大統領と会談した。北朝鮮と米国の首脳会談は世界が注目している。専門家は長期戦の予想だ。北朝鮮を抹殺しようなどと誰が思うだろうか。北朝鮮の生存権は否定しない。だが、今の体制をそのまま認めていいのか。日本が敗戦時に軍部が責任を取らされ再出発できたように金体制を排除する選択肢はないのか。核開発はそれを不可能とする金一族と軍部特権階級の生き残り戦略たる所以であり、交渉は堂々巡りとなり、過去を繰り返すことになるのではないだろうか。何か偶然の要素が思わぬ好転をもたらすことしかないのではないか。偶然の要素が暗転するということもある。中国もロシアも毛沢東やスターリンが死んでようやく状況に変化がもたらされた。

早くも台風5号が発生した。日本に接近するらしい。

2018年6月14日 (木)

入院日記 リハビリ編 その15

6月5日(火) 晴

4時ごろ、母がトイレに入る音で目が覚める。

帰宅して4日目。入院中はイソヒヨドリの囀ずりを楽しませて貰ったが、実家ではウグイスだ。今年も3月上旬に初鳴きを聞いたが、早朝、夕刻に心地よい鳴き声を聞かせてくれる。

9時過ぎタクシーで病院へ。Y医師の診察を受ける。足の腫れは大部引いたがまだ少し腫れぼったい。シーネを新しくして包帯を巻いて貰った。
歴史家の秦郁彦氏の「陰謀史観」を携帯し待ち時間に読む。院内のコンビニでカップヌードルやパンや御菓子などを買ってお昼ごろ帰宅。

珈琲を飲み、玉子サンドを食べる。

午後はジョン・ウェイン主演の「勇気ある追跡」を観る。1969年の作品。競演はグレン・キャンベルとキム・ダービー。正統派の西部劇。確か、「明日に向かって撃て」は1968年だ。アメリカン・ニュー・シネマが登場した時期と重なる。ベトナム反戦運動が熾烈化し学生運動が盛り上がっていた時代。ジョン・ウェインはラストカウボーイを演じた。挽歌であり、彼は遅きに失したアカデミー主演男優賞を獲得したと思う。

3時のお茶、その後、リハビリのストレッチをやる。今日はお隣のYさんの命日だという(お母さん)。母がご焼香に行った。

夕食は魚の煮つけと野菜炒め。相変わらずシンプルだが不満はない。

食後、邦画「社長漫遊記」を観る。森繁久弥主演の社長シリーズ。三木のりへい、加東大介、小林圭樹、それに、フランキー・堺。淡路景子に藤山陽子。1960年代の映画。ファッションやらセリフが全てなつかしいを通り越している自分の知らない時代だ。まだ小学生の頃だ。高度経済成長期の屈託のなさがいい。こんな時代もあったのだ。
来週火曜日にもシリーズの放送がある。この日は、米国と北朝鮮の首脳会談がシンガポールで開かれる日でもあり、通院する日でもある。

6月6日(水)雨、時時曇り

手術後、4週目に入る。

関東地方は梅雨入りした。

北朝鮮と米国の首脳会談は予定通り開催されることとなった。日本の拉致問題は外されるだろう。非核化と北朝鮮の体制保証(経済の見返り)が焦点だ。前回関わった関係者によれば北朝鮮は相当えげつない交渉をするそうである。専門家によれば完全な検証には十数年はかかるという。

日大問題は依然として報道が続く。トップの理事長が何故でないのかと言うこと。かつてのスイスのエレベーター事故死の対応と日本社会の批判を思いだす。和歌山の富豪の不審死も世間の耳目を集めている。富豪老人男性と若妻。金と女と事件。ミステリー小説さながらだ。

母が家の裏の紫陽花が咲いたとしきりに感嘆の声。雨の中のアジサイ。バスルームの網戸越しに眺める。間もなく87歳になる母の、7まさか、92歳の父と一緒に、一時的とは言え介護を受ける羽目になろうとは。自分の不覚に思い至りまたもや気分的に落ち込む。余りにも不甲斐ないこの自分。自己嫌悪、焦燥、気分は相変わらず低空飛行だ。どうやったら脱出してついこの間までのエネルギーを取り戻せるのか。

午後は、リハビリをやったり、テレビサーフィンしたり、秦郁彦氏の「陰謀史観」やジェームズ・ジョルの「第一次世界大戦の起源」を読んだり、昼寝をしたりで時間が過ぎた。
3時のおやつは、母と女学校が同じ友人が届けてくれたミックスジュースにオカキとチョコレート少々。

夕刻、父が戻り、夕飯。チャーハンが出た。ソニー生命から書類が届く。

志村けんのバカ殿を見たり、スティーブ・マックイーンの「ハンター」を交互に見る。そのあと、チャールズ・ブロンソンの「狼の挽歌」を途中まで見るが眠くなり就寝。

2018年6月13日 (水)

入院日記 リハビリ編 その14

6月2日(土)曇り

やっと退院の日がきた。

イソヒヨドリが祝福するように囀ずっている。気分の落ち込みは相変わらずだ。自宅に戻れば改善するだろうか。

昨日の続き;

第一次大戦後のこと。

「日本は火事場泥棒的にドイツのアジア・太平洋地域の権益を得た。
米国は、欧州の周辺的な立ち位置を脱して、新しい覇権国家として登場し第一次大戦の後始末にリーダーシップを発揮した。中途半端ではあったが。

ハプスブルク帝国は崩壊した。多民族国家は各民族ごてに分かれて独立国家になった。ポーランドも国が復活した。分割していたドイツ帝国とロシア帝国が崩壊した結果である。

ドイツは共和国として再出発した。

大量破壊の復興景気はあったものの1929年の米国の株の大暴落から1945年は再び戦乱の時代となった。皮切りは日本の満州事変だ。ホッブスボームの続編「短い20世紀」の見方では、第一次大戦前の25年近くは空前の好景気に沸いた時代だった。「コンドラチェフの波」は景気循環の約60年説に添って言うなら、その再現は第二次大戦後の1950年代から1970年代のオイルショックによる景気後退の期間だろうと言う。日本は戦後復興を遂げ1964年は東京オリンピックが開催された。

第一次大戦勃発から第二次大戦終了までの約30年は、17世紀にヨーロッパを荒廃させた戦乱(宗教戦争)になぞらえて、二十世紀の「三十年戦争」とも言われる。

この二十世紀の戦乱の時代の極東も戦乱の時代だった。大英帝国の衰退、ソビエト共産主義政権の成立、民族自決に基づく非西洋地域のナショナリズムの高揚と独立の動きは、帝国主義を否定するソ連共産主義と相呼応しながら活発化していく。これは、第二次大戦後もいわゆる「第三世界」が独立しでいく過程で見られた趨勢である。

中国はひとつの一大文明であり、ヨーロッパ近代文明と同じマグニチュードをもつ極東の地勢をなす存在である。清朝の崩壊とともに中国の歴史において独自の地勢にもとっく唯我独尊、「栄光ある孤立」は終わった。日本の明治維新に習った近代化=西洋化を目指して国造りを始めたが、それが本格化するには、辛亥革命、中華民国=軍閥割拠時代と日中戦争時代、日本の敗戦と国共内戦と共産党政権の成立、毛沢東独裁政治期間の混乱を経ての1970年後半の鄧小平の登場まで待たねばならなかった。

満州事変、日中戦争、太平洋戦争は、英米の権益と日本の権益の衝突による帝国主義戦争で、中国を含むアジアの国々は戦場となり多くの犠牲を強いられた。

大東亜戦争(日本)、太平洋戦争(米国)、極東戦争(英国)のそれぞれの呼称はそれぞれの立ち位置を如実に示している。

満州事変から1945年の敗戦まで日本は非常に攻撃的だった。これに呼応する如く、ヨーロッパではドイツのヒトラー政権とイタリアのムッソリーニ政権は攻撃的に振舞い自らの権益を追及した。いわゆる、リベラリズムからは「反動的なファシズム勢力」と指弾された。極端なまでのナショナリズムの高揚と独立による強権による政治である。
ヒトラー政権とスターリンのソ連との不可侵条約締結は世界に衝撃を与えた。
ドイツの経済復興とソ連の計画経済による発展は、欧米の自由主義経済と不況から脱却できない低迷と好対照をなし、リベラル派のケインズが新しい経済学を生み出す契機となった。古典経済学=自由放任主義=リベラリズムの「死」が宣言された。

ケインズ経済学は1970年代のオイルショックと不況の始まりとともに批判が始まり、イギリスのサッチャー政権、米国ねレーガン政権は、古典派経済学に先祖帰りすることになった。1980年代の「新自由主義」である。

ソビエト共産主義は第二次大戦後、米国と並ぶ新しい大国となり、冷戦が始まり世界は「資本主義」対「計画経済」の対立があらたな紛争の火種となった。核兵器による人類破滅=共倒れの恐怖による抑止力が働き両者が直接戦うことはなく、周辺部での代理戦争が各地で戦われた。朝鮮半島、ベトナム、中近東、アフガニスタン、アフリカ各地等、枚挙にいとまがない。

ソ連は1970年ごろから西側の技術革新、とくに民生技術への応用などについつ行けなくなり、軍事力をささえる経済力でが低迷、ゴルバチョフが改革による刷新を図ったが1989年遂にソ連の70年に及ぶ時代は幕を閉じた。」

お昼はウドン。病院最後の食事だ。デザートに蜜まめが出る。うまかった。

Mitumame

14時まえ弟夫妻が迎にきた。3週間の病院生活もこれで終了だ。自宅での療養と通いのリハビリがさらに一ヶ月は掛かるだろう。

15時半、実家の我が家に到着。当分2階での寝起きは断念して1階のほとんど使うことのないリビングのソファをベッド代わりに使って起居することにした。

気丈な母は暖かく迎えてくれた(けがした直後は嘆き、私の不注意に怒りを露わにしていたが、息子は息子なのだろう)。しばらくは父といっしょに私も一種の介護を受ける身となってしまい、情けない気持ちで一杯だったが、やはり、我が家は我が家で安堵した。

2018年6月12日 (火)

入院日記 リハビリ編 その13

6月1日(金)曇り後晴れ

昨夜は同室の患者のいびきが酷かった。退院まであと1日の我慢だ。骨折で入院。余りのショックに自分の心の整理がつかずいらいらしていることもありここの居心地は良くない。病院で報酬を得る人は別としてお世話になりたい人などいるはずもない。

イソヒヨドリの囀ずりが聞こえた。朝4時過ぎでもう辺りは薄明かるい。

入院した翌日に弟に自宅から持ってきてもらった厚い本もほぼすべて読破した。ホブズボームの「帝国の時代」はほぼ2回読んだ。

以下、自分なりに理解したことの要約も含めてメモにすると以下のようになる:

「日本の明治維新のころ、欧州ではブロイセンによるドイツ統一がなり欧州の中央にかつてない強国が誕生した。フランスはブロイセンに敗れ、主役の座を降りる。同時期にイタリア半島も邦の統一がなった。この本は1914年の第一次大戦までを扱っているが、この戦争は欧州の転落の始まりでもある。第一次大戦によりそれ以前と以後では世界がまるっきり変わってしまうのである。

帝国主義の時代であり欧州の限られた複数の国が世界を植民地化し、ブルジョア階級がかつてないほどの繁栄をする一方で、産業化により都市化が進み、農業の従事者が減少、下層中流階級が膨らんでいく。啓蒙主義と永続的な進歩への信仰が浸透しはじめ、世俗化がすすみ、キリスト教の力は廃れ始める。社会主義と民主主義、それにナショナリズムがキーワードになりとくに労働者階級の組織化がなされていく。

非西洋の世界は中東のオスマン帝国、東アジアは清朝が支配はしていたが西洋のテクノロジーにもとずく軍事力に侵食され瓦解する運命にあった。西洋と東洋の合の子と見られていたロシア帝国は農奴解放を行い開明的皇帝の指導で中東、ペルシャ、中央アジア、極東に膨脹しながら大英帝国とグレート・ゲームを繰り広げていた。

ハプスブルク帝国も西洋列強に入っていたが多民族国家でとくにバルカン半島のナショナリズムの勃興により守護者を任じるロシアと緊張関係にあり、政情は不安定で将来が不安視されていた。

日本の近代の歴史を評価するには当事の国際政治のパースペクティブをしっかり掴み、その中で極東の政治情勢にどのような力が働いてあのような日本を含むアジアの悲劇となったかを見ないといけない。日露戦争(1904年~05年)の評価はもっと欧州列強の帝国主義との関連で理解することが必要だと言う小室直樹氏の指摘を思いだしながらこの本を読んだ。

第一次大戦(1914年~18年)と日露戦争は繋がっているのだ。日露戦争は膨脹するロシアに対抗するための安全保障の観点から日本の自衛の戦争であったことは間違いない。清朝も朝鮮も戦う意思も物理的手段もなかった(近代化の遅れ)。この戦争は近代国家間の帝国主義戦争だった。

ロシアは持久戦に持ち込み日本に最悪引き分けに持ち込む可能性はあったが、ロマノフ王朝打倒を狙う革命騒ぎがあったこととアメリカの仲介(日本へ恩を売り満州での利権獲得が背景にある)でボーツマス講和条約が締結された。日本は日清戦争のような賠償金は取れなかった。賠償金によるさらなる軍備拡張(日清戦争による賠償金が拡張が日露戦争の準備資金ともなった)による日本の強大化も恐れられた。

日露戦争での敗北でロシアは一時的に国力回復のためにエネルギーが国内に向けられ、ロシアとグレート・ゲームを繰り広げていた英国は一息つくことになる。

日英同盟(1902年)とは直前のブーア戦争(1899年~1902年)で苦戦し国力を消耗し、産業新興国であるドイツとアメリカ合衆国の追い上げで大英帝国の力に陰りが見え始めた英国が国際政治で守りに転じた第一歩であった。

ロシアが極東に進出する屋台骨はシベリア鉄道の敷設である。この交通インフラは、ドイツに敗れたフランスが自国たけでは対抗しきれないドイツを牽制し将来復讐を遂げるためのやむに止まれぬ選択肢である仏露同盟締結(1894年)にもとずくフランス資本の資金提供によるものである。日清戦争講和直後の三国干渉でフランスがロシアに加担したのは当然であった。ドイツも加わったが当事はロシアと直接国境を接していたため、ドイツ皇帝はいとこのロシア皇帝の注意を極東に向けるよう策動(「黄禍=Yellow Perilはドイツ皇帝の造語」しての相乗りだった。1900年の義和団事件で青島を勢力範囲としていた事情もあった。後進の日本はなめられたのである。

一方で、ドイツは英国を追い抜く勢いのある新興国として、遅れた帝国主義を歩み始めた。しかし美味しいところは英仏で殆ど分割されていた。そんな中で日露戦争を挟んでロシアが極東で身動きがにぶっているすきに、フランスの影響下にあると目されていたモロッコにちょっかいを出す事件を仕掛けたが英国の圧力で退散を余儀なくされるという失態を演じている。

さらにさらに、アメリカ合衆国は英国がブーア戦争を引き起こす直前の1898年にキューバを巡ってスペインに戦争を仕掛け、フィリピン、グアム、サイパンなども奪っている。ハワイも同時期のどさくさの中で併合された。

誠に帝国主義の当事者たちは、近代兵器に基づく圧倒的な軍事力を背景に自分勝手な振る舞いをしたものである。世界の分割を巡って帝国主義国はあちこちで小競り合いを繰り広げていたが、いずれも直前に譲歩があり戦争回避となるか戦争になっても当事者間の限定戦争で解決していた。

では、何故サラエボのオーストリア皇太子暗殺(1914年6月28日)というローカルな事件が帝国主義国すべてを巻き込んで想像を絶する4年半の長期にわたる全国民を巻き込む総力戦となり桁違いの数千万の犠牲者を出す大惨禍を引き起こすことになってしまったのか。

第一次大戦の原因に関する研究は大戦勃発直後から今日に至るまで延々と続いているという。

ドイツ帝国の出現によりヨーロッパが二つにブロック化したことが大きい。とくに、英国がそれまでの圧倒的な力に基づく「栄光ある孤立政策」を放棄して、フランス(1904年)とロシア(1907年)との軍事同盟ではないが三国協商を結んだのは極東での日英同盟と対になる英国にとってのヨーロッパにおける安全保障を巡る一大政策転換だった。

従来から、ドイツ責任論が優勢で(ベルサイユ条約にはドイツ戦争責任条項がある)あるが、2014年にケンブリッジ大学教授が発表した「夢遊病者たち」という本がハプスブルク帝国の再評価を含むドイツ責任論に一石を投じた。

ハプスブルクのセルビアに対する最後通蝶は大国が小国に対するかなり強硬なものだった。それまでなら小国が(三国干渉で譲歩した日本のように)譲歩して決着が着いていた。しかし強烈なナショナリズムを背景 (冷戦終了後に、バルカン半島の多民族のモザイクを反映した狭小にして苛烈なナショナリズムが再び噴出して悲劇を再現したのは記憶に新しい)にロシアの後ろ楯を頼みとするセルビアは実質的に譲歩を拒んだ。ハプスブルク帝国はロシアが恐いので万が一の場合のドイツの支援をとりつけた上での強硬策であった。面子を潰れたハプスブルク側は局地限定戦争であることを願いながら宣戦布告(7月28日)をする。

そこからは各国の利害が複雑に絡みあってそれぞれが自国にとって有利にことを処理するべく、戦争回避の外交努力と平行した軍部の動員発令のタイミングを巡って錯綜と緊張がエスカレートしながら8月初旬にはの全体を巻き込んだ開戦にいたってしまった。

当事の各国政府のやり取りを逐次フォローするのは大変だ。秘密外交があり、素人の各王室が直接やり取りしたり、国家意志の決定は担当大臣や高級軍人の恣意的判断や裁量に影響される余地が多分にあった。動員のスピードが劣勢にあると目されるロシアがフランスの教唆もあり(シベリア鉄道のみならず、軍隊の動員に必須のロシアにとっての西部戦線向けの鉄道網もフランス資本で大きく改善されていた)まずは7月28日に半動員令、翌29日に総動員を掛けた。7月31日を期限とするドイツのロシア側にたいする総動員解除とセルビア問題への不介入を巡っての交渉は実らなかった。

8月1日にロシアに宣戦布告、総動員をかけたドイツは、即座にシュリーフェン計画(まずフランスを速攻で西部戦線で打ち負かし、動員に時間が掛かるロシアを東部戦線で迎え撃つ戦略で2正面の敵を時間差で破る大変危うい戦略)に基づく軍隊の動員発令し反応した。ドイツは8月3日にフランスに宣戦布告、フランスもこれに応じた。攻撃のために通過する際の中立を拒んだベルギーに進攻すると英国が8月4日に宣戦布告して全役者が参戦する事態となったのである。

国際連帯を謳う社会主義はナショナリズムの熱狂に打ち消された。陶酔と花束の嵐の中前線へ向かった兵士たちの短期戦で勝利してクリスマスまでに戻るという甘い幻想は裏切られ、ヨーロッパ全体が凄惨な塹壕戦を4年半も続けるという奈落の底に堕ちて行った。

この戦争は、銃後の国民も巻き込む総力戦となったこと、武器の性能の向上、新しいテクノロジーとしての飛行機、戦車、毒ガス兵器の登場により死傷者の数は桁違いだった。

長期戦と大惨事を予見した人もいることはいたが、大方の人は夢遊病者のように悲劇に邁進していった。運命の糸に操られた悲劇役者の如く。

そして、オスマン帝国や清朝等の古い帝国は命脈が尽き、第一次大戦に相前後して崩壊した。最大級のできごとは大戦末期のロシア帝国の崩壊とロシア革命による共産主義政権の誕生である。

著者は同時期のメキシコ革命や南米の情勢やアインシュタインの相対性理論を始めとする自然科学のコペルニクス的な展開、新しいタイプの女性の出現、大衆社会と新しいマーケットの登場、大衆娯楽、スポーツの誕生、初等・中等教育の普及などさまざまな新しい社会の変化に触れている。民主主義とリベラリズムが社会的要請となり、普通選挙が普及拡大したのが大戦前のブルジョア社会の趨勢いだった。」

20世紀前半の歴史を自分の興味が赴くままに調べてきた。たくさんの情報をインプットしたのでアウトの素描を試みた次第である。

夕食はタンドリーチキンが出た。入院最後の夕食だ。

日大の内田元監督が常任理事を辞任した。日大騒動はまだしばらく収まらないだろう。

Y医師より次の通院は6月12日(火)だが、包帯の取り替えに来週5日(火)に来診することとなった。

2018年6月11日 (月)

入院日記 リハビリ編 その12

5月31日(木)晴後曇り

明け方、退職する職場の関係者にお礼のメールを送る。今日で5年間務めた職場の仲間たちとお別れだ。最初の会社は49歳の時に将来の展望に見切りをつけての早期退職だった。次の職場はサービス業とは180度転換、教育機関に勤めることとなった。それが縁で第三の今回の職場を得た。忙しかったが充実した5年間だった。円満退職だが自らの不注意でドラマチックにしてしまった。そして幸いにも20日の年休を消化することになった。

私の人生訓。後は振り返らない。さあ、次の10年の計画を練らねばと思う。しかし、このような怪我で気分は相変わらず低い。

イソヒヨドリの囀ずりが減って来た。子育てが終わったのだろうか。

サッカーのワールドカップ日本代表チームの本番前の交流試合はガーナに0対2で敗れる。6月の本番2ヵ月前に監督を解任して結果は出なかった。

朝食は目玉焼きといつもの味噌汁に胡瓜もみサラダ。味噌汁の具は豆腐と玉ねぎだがほんの申し訳け程度。

窓越しに昔通った高校のグランドが見える。早期の運動をしてうる生徒がちらほら見える。卒業して35年近くにもなる。

手術から今日で3週間目に入る。担当医師から退院の話しが出た。昨日のレントゲンは問題なし。土曜に弟が来るので、この日の退院を提案した。

9時前に家に電話。異常なし。たとえ何かあっても今の自分では何もできないが。

病院の薬剤師の声が今年の3月で定年退職したMさんにそっくりだ。名前は長谷川さん。

血圧は上が126で下が76。体温は36度4分。いつもこうだといいのだが。

インターネットでニュースを見ていると殺されたというロシア人ジャーナリストは生きているという。身を守るための当局によるフェイク報道だった。殺害未遂犯が捕まった。紛らわしい。

大リーグの大谷選手は華々しいデビューを飾った。シーズンを通してコンスタントに成績を残せれば本物の大リーグ選手になれるであろう。

昨夜は読書後の興奮でなかなか眠れず夜更かししてしまって寝不足気味。11時過ぎに珈琲を買い談話室で飲みながらテレビを見る。相変わらず日大アメフト騒動の続報。日大の杜撰な対応は実力者である監督を守る暗黙のプレッシャーが大学側にありあのようなおかしなことになったようだ。下位の者が自由に批判できない組織ではこういうことはよくある話しだ。日大の理事長はいまだに出て来ないで超然としているのも解せない。

お昼はメンチカツ。期待ハズレだった。メカジキの南蛮風を選べば良かったと後悔する。日本ではメカジキは安物だがイタリアやフランスではそれなりに高級魚として扱われる。マグロ以上のステータスだ。

職場のKセンター長と後任となるKさんからメールをもらう。

13時半からリハビリ。トレーナーの娘さんは風邪気味でやはり手術は延期となったそうだ。それで今日は出勤して私のリハビリをしていただいた次第。優しい方で自分にとってはありがたい。娘さんの手術は来週以降、予定通り退院ならば2週間は自宅療養となり、自宅で毎日リハビリを行う。左足に体重を掛けられるまでの道程は遠い。ため息が出る・・・。終了後、アイスチョコボール6個入りを購入し食す。左足を冷やす。トレーナーさんの目は確かただ。1日置いただけなのに左足の指したあたりが腫れているとの指摘を受けた。

談話室でリンドバーグの「第二次大戦日記」を読みながらテレビを見る。話題は北朝鮮と日大アメフト問題。

夕食を食べに部屋に戻る。ハズレだった。贅沢は言うまい。家に電話。異常無し。担当医師と土曜退院の確認が取れる。

休憩して珈琲を買って談話室へ。リンドバーグの日記をパラパラ読みながら、夏井先生の俳句番組を見る。梅沢名人、九段から八段に降格。

2018年6月10日 (日)

入院日記 リハビリ編 その11

5月30日(水) 曇り

夜中にトイレに起きず4時過ぎの目覚め。イソヒヨドリの囀ずりは5時を回るころに聞こえた。

日大アメフトの元監督とコーチはアメリカンフットボール連盟から「除名」、つまり、実質的な永久追放となった。今回の問題発覚からの日大の関係者の対応はお粗末過ぎた。法的には正しくても倫理の問題だ。学生の言うことは幼いし、指導者からすれば言葉は比喩なのかも知れない。しかし、大学のアマチュアスポーツだ。教育者の観点が抜け落ちている。社会は敏感だ。法的な問題ではない。危機管理学部は地に堕ちるだろう。

フットボール理事会の記者会見の報道を見ると、元監督は指示をしたと判断したようであり、そうだとすれば世間を欺いたことになる。モラル崩壊に唖然とする。最近の高級官僚の不祥事にも共通する堕落を感じてしまう。

納豆の朝食後、家に電話。父はちゃんとディケアに出かけた由。足を冷しながら午前はボブスボームを再読する。Mさんからラインで連絡あり。まだ退院になっていない旨返信する。

昼食はスパゲティミートソースとカボチャのスープにヨーグルト。

リハビリは足の担当の方が娘さんの痣の手術の準備、麻酔問診でおやすみのため替わりの方が担当した。階段の松葉杖を除き全て同じメニューをこなした。終了後、足のレントゲンを撮る。

3週間振りにホット珈琲を飲む。アイスモナカが売り切れだったのでバニラアイスカッブを購入して食べた。

直後、看護婦さん付き添いで松葉杖の練習。一周半歩く。時計は16時を回っている。

体重測定。71.8キロ。200グラム減った。

そのまま談話室でテレビを見る。岡山の14年前の女児殺人の犯人が捕まった続報。相変わらず日大アメフトのスキャンダル報道が圧倒している。大相撲のグルジア出身の力士が大関になった。

談話室の足のけがで入院してリハビリでよく顔を合わせる年配の人。よく演歌を掛けて本を読んでいるが今日は昨夜のシルビー・バルタンに刺激されたのか、メアリー・ホプキンスのヒット曲「悲しき天使」や加藤登紀子も歌った「百万本のバラ」をスマートフォンで聴いている。どちらもロシアの曲だ。ウクライナでプーチン政権に批判的なジャーナリストが銃でうたれて死亡したと言う。恐い国だ。イギリスではもとスパイでイギリスに亡命したロシア人がやはり毒ガスだか何かしらで命を狙われた。確か娘の方は意識を回復してイギリス当局に保護されているはずだ。

夕食後、家に電話。父と話した。元気そうだ。私がこのような失態を演じ、全ての負担が母と弟夫妻にかかってしまっている。長年付き合っている東京の知人にも申し訳ない気持ちだ。

夕食後、談話室で読書。21時前に「英米にとっての太平洋戦争」下巻を読了。チャーチルとルーズベルトそれぞれ英米の二人の戦争指導者から見た太平洋戦争の一大叙事詩的大作。

以下自分なりに理解したことをまとめると:

「欧州戦線の敵ドイツに対する英米同盟国と極東の敵日本に対する英米同盟には違いがあった。

蒋介石の中国は日本と和平締結をちらつかせながら英米から最大の援助を引き出すしたたかな政権だったが腐敗も酷かった。しかも日本とは戦わず将来の共産党との内戦のために戦力を温存することが戦略で、日本と戦うことを避けたために英米の不興を買った。英米の本音は戦略的な観点から中国を支援し、中国大陸からの日本爆撃は叶わなかったが、日本の戦力を中国大陸に釘付けすることには成功したものの、ソ連の対日参戦が見えてくると、戦略的な価値は大きく下落した。

それでも蒋介石政権を支援し続けた理由には帝国主義戦争をカモフラージュするためファシスト強権政権にも関わらずアジアの「民主主義政権」と持ち上げ自らの偽善に眼を瞑って自分たちの陣営に加えたのであり、また米国内に抱える人種問題の不安に対する担保とする意味合いもあったようである。

太平洋戦争は英米日による帝国主義戦争であり、初戦の日本の勝利は西洋の絶対的優位の神話を打ち砕き敗戦はするものの西洋による植民地主義の解体を早めることに繋がった。

太平洋の戦争は人種戦争の側面を濃厚にもっていた。戦争前半の英米関係はそれなりに対等であったが、後半は米ソ関係が主となりイギリスはアメリカへの従属を強いられた。

大英帝国は20世紀初頭の日英同盟が衰退の端緒であり1960年代後半から70年代初頭にかけてのスエズ以東から軍事力を引き揚げることにより終焉した。

チャーチルは偉大な戦争指導者だったが、一方で頑迷故老な帝国主義者で極東への理解に乏しく関心も薄かった。ルーズベルトも同様に偉大な戦争指導者だったがオポチュニストであり、東南アジアに対する政策はかなり曖昧で定見と言うものがなかった。チャーチル同様にアジアに対する理解に乏しく、結局のところ米国は自分たちの「明白な使命」(Manifesto Destiny)がアジアにおいて挫折することを理解するには朝鮮戦争とベトナム戦争を戦うこととなった。

著者はパル判事による日本無罪論には否定的であるが、極東での悲劇的な戦乱の淵源が西洋帝国主義の侵略にあることを認めている。」

23時前に就寝。読了の興奮からなかなか眠れなかった。

2018年6月 9日 (土)

入院日記 リハビリ編 その10

5月29日(火) 曇り

朝鮮半島のことが目下の国際情勢の注目度ナンバーワンだ。

金将軍様の非核化の決意は堅いらしい。彼らの核兵器の脅威のレベルは専門家でないとわからない。米国本土まで届くのか。先制攻撃をしたとして、アメリカの報復で木っ端微塵となることは必至だ。まずこの選択肢は考えられない。まともな頭ならば。

北朝鮮の狙いは核兵器での攻撃レベルを相当上げた上での交渉をしかけて来たと見るべきで見返りの期待は大きいはずだ。

非核化が実現することは東アジアにとっては安定化にとてつもない情勢変化をもたらすることは間違いない。

核を放棄して見返りとして体制保証と経済制裁の解除により期待される海外からの投資と国の発展(冷戦終了時のソ連や東欧の混乱を思い起こす必要がある)を期待しているわけだが、何故当時ではなく今なのか。すでに30年という時間の経過のなかで、その後の状況判断はできているであろう。それにしても北朝鮮は自らが抱える負の遺産までも核の放棄との見返りとしてちゃらにしようと言うのか。

日本にとっては植民地支配への補償も含む制裁解除による融和は拉致問題の解決とリンクしている。アメリカや韓国にも北朝鮮に突き付ける条件はいろいろあるわけで、相互に真摯な信頼感が無ければ水面下で足の蹴りあいをしながらのいいとこ取りの駆け引きに終わってしまうのではないか。

使えない核兵器を抱いたまま金将軍の体制が自然死するのを待つ戦略はどうなのか。金体制を自暴自棄に追い込んでしまう危惧(日本の真珠湾攻撃はまさにそれだ)はゼロとは言えない。プライドの高さは中国以上だ。中国は大国であり日本にとってやっかいな隣人だが、朝鮮半島はそれ以上にやっかいだ。

朝食後、洗顔しているとCT写真をとりに行って下さいと看護婦さんに言われ1階へ出かけた。夕方の予定が朝一に変更。戻って血圧を測ったら上が140になっていた。車イスの移動は結構な運動だ。

両親に電話。

90歳の女性が自動車運転中に赤信号にも関わらず直進して横断歩道を歩行中の人を死亡させる事故を起こした。熊本では、警察官が刃物をふりまわす男を正当防衛で射殺したらしい。

評論家の勝間和代がレスビアン、女性版両刀使いであるこてを世間に公表したと言う。

11時過ぎ、松葉杖の練習。汗をかく。談話室ではじめてテレビを見ながらりんごジュースを飲む。

午後のリハビリ後はアイスモナカを食べ、カード引き落としの銀行の振り込み、をやり、談話室に行く。相部屋の相手との相性がよくない。やたらうるさい。屁、げっぷ、痰、鼾(私もだが)、とにかく品がない。同室は願い下げだ。と言うことで談話室でテレビを見たり、本を読む。静かでたまたま同室の人も静かな方で読書が進んだ。

夕食後も、早々と談話室に避難する。歌番組にシルビー・バルタンが出演していた。

入院日記 リハビリ編 その9

 528(月曜日) 曇り

 

いま5時だ。

 

朝鮮半島の南北首脳が会談した。トランプ大統領も来月のシンガポールでの金氏との会談について完全否定はせず含みを残す発言をしている。

 

韓国への疑問。日本は今回の朝鮮半島の一連の動きのなかでは蚊帳の外にある。非核化問題に伴う経済制裁に拉致問題をリンクさせている安倍政権への意趣がえしか。金氏は拉致問題は解決済みとニベもない。

 

韓国の姿勢の疑問は、過去において北朝鮮から被った被害への言及がないことだ。ラングーンのテロ、大韓航空機爆破、砲撃事件や練習艦の爆破など数々の攻撃を受けているにも関わらず何故もかくのごとく融和的に振る舞うのか。非核化が優先されるのは理解できるが見返りをするということは相手の脅しに乗ったことにすらなるわけで、これまでの北朝鮮の罪業を水に流して非核化のために全面的にひれ伏すことに他ならないではないか。このスタンスは大きな疑問だ。文大統領左翼政権は北朝鮮礼讚を続けて来た日本の左翼政党やマスコミ全般と同じだ。イデオロギーを優先すると現実が見えなくなるのだ。現実は恐ろしく単純だ。解釈が入ると複雑となる。

 

ここまで書いていると、イソヒヨドリの囀ずりがようやく聞こえて来た。

 

6時過ぎ、看護婦さんが採血に来た。手術前のみならず手術後も医者は採血がお好きのようである。看護婦さんが女ドラキュラに思えてくる。

 

中曽根元首相が100歳を迎えたと言う。ロン・ヤス時代の1980年代も遠い昔となった。30年近くも前のことだ。バブル景気に入る前後の時代で日米貿易摩擦が顕在化した時代でもあった。現在の米中関係だ。経済発展と景気循環のサイクルと地政学的状況で国内外の環境は大きく左右される。21世紀のこれからはどうなるのか。イスラム問題とユーラシアの大国ロシアと東アジアの大国中国の芻勢が大きな影響力を持つことは間違いない。日本独自のポジションは取りにくいだろう。スイスのようには行かない。欧米勢力の太平洋の前哨基地として朝鮮半島を含む中国・ロシアの圧力に悩むこととなるのではないか。明治時代の日本の状況に戻った感がある。大きく違うのは極東での中国とロシアの力関係が逆転したことか。いや、ロシアは相変わらずで、中国が日本に遅れること100年にして近代化の軌道にようやく乗り格段に強くなったと言うことだろう。そしてまた日本の同盟国はイギリスではなく米国に変わっている。朝鮮半島の迷走ぶりは変わっていない。朝の検診があった。水疱や手術の傷は治ったとの診断。シャワーもOK。また一歩前進だ。外で雷が鳴っている。雨も降って来た。

 

濡れタオルで体を拭いて下着とパジャマを替えてサッパリとした。家に電話して母と話しをする。父は元気にディケアに出かけたそうだ。雷も雨も一時的のようでもうあがったようだ。11時前、松葉杖で院内を一周する。右足だけで杖を補助に両腕で体を支えての歩行は結構な運動だ。

 

お昼は豚肉の薄切りを焼いたものが出た。レモンを掛けて食べた。同室の年配の人は股関節脱臼で2度目の手術に出て行った。

 

13時半から1時間たっぷりリハビリを行った。

 

部屋に戻ってモナカアイスを食す。

入院日記 ~ リハビリ編 その8

5月27日(日)晴

日曜日の朝食はパン食だ。バターじゃなくてマーガリンとジャム、小さいウィンナー2個、
付け合わせに一口サイズのマカロニグラタンとモヤシ、牛乳。簡素だが美味い。 

薬を飲んでベッドにゴロンとなっているとホトトギスの鳴き声が聞こえて来た。初夏の到来だ。一瞬、全身が耳となり心が踊った。

手術後11日が経過した。完治までの道のりは長いが体長は良好。問題はリハビリをしながら有り余る時間をどうするかだ。

この3週間でホッブスボームの「帝国の時代」と平川平祐氏の「アーサー・ウェーリー」を読破した。前者は英語の原著。後者は源氏物語を中心に白楽天などの漢詩などの翻訳者として著名な英国人にかんする比較文化論で難しい文芸理論をふりまわすものではなく地道なテキスト解読によるすばらしい比較論が展開される好著で一気に読んだ。

昼過ぎ弟夫婦がくる。下着の洗濯、コンビニで預金から十万円降ろし両親に渡すよう依頼する。私が銀行に行けないので年金の貯金を引出しにいけないための窮余の策だ。

退院後のリハビリ通院に必要なジャージの購入もお願いする。14時過ぎに帰って行った。

バニラソフトクリームをたべ、15時から松葉づえの練習。看護婦さんが付き添ってくれた。
有り余る時間はかくのごとく流れて行くのだがイライラは治まらない。短気な性格は一生変わらないようだ。釣りに出かけて全然狙った魚が釣れなくてもイライラはしない。好きなことに没頭している限り人は幸せなのだ。

今回のけがの切っ掛けは釣りだった。もう釣りは引退しようかとベッドの中で気弱に思い詰めたりしたが、好きなことができないなら生きてる楽しみなんてないだろうと思い直し初めているところだ。

夜、テレビ(ダーウィンが来た)で野鳥のタマシギの生態を観察した番組を見る。ヤマシギは以前住んでいた千葉の北小金の雑木林で一度出会ったことがある。雑木林にひっそりと佇むすがたを双眼鏡でしげしげと眺め悦に入った。タマシギにそっくりである。タシギというそっくりさんもいるが、鳥同士は違いが分かり、縄張りを侵すと威嚇して追い出す。

2018年6月 8日 (金)

入院日記 リハビリ編 ~ その7 マレーシア雑感

5月末で退職した東京のある大学と嘱託職員の契約をして仕事をしたなかで前歴になかった特筆事項は生まれて初めてアメリカ合衆国に行ったことだが、それにも増して予想しなかったことは毎年夏にマレーシアに出かけたことだった。

マレーシアに最初に行ったのは最初の会社勤務時代の1986年2月だった。都内のある大学の卓球部の学生の引率だった。

クアラルンプールには当時あのランドマークタワーはなかった。

<カンポンヴィレッジから眺めるツインタワー 2016年夏>

Photo_2

しかも、目的地はペナン島であった。現地では華僑系の学生と卓球試合をした。驚いたことに相手側の圧勝だった。強烈な印象は、夕刻みんなで円卓を囲んで味わった魚の清蒸料理であった。驚くほど美味でフランス料理と中華料理がグルメにとっての双璧だと実感できたのはその後も世界あちこち仕事で旅した結果納得したことだがその美味さ加減が尋常ではなかったことは強烈な印象だった。味わいを形容する適切な言葉選びには難儀するがフラン人が言う「悪魔的な」と言ってもいいくらいだった。

その後、この料理はロンドンのソーホー(鱸)、瀋陽(鮃)でも毎回同じ感激を味わったものだ。近年ではY学長とロサンゼルスの中華レストランで味わったのが最後だ。ちなみ魚は淡水魚のティラピアだった。

<ロサンジェルスで食べた清蒸>

Photo

いずれもメニューには「時価」とあり安くはないがひとときの快楽としては安いものだろう。

中華料理の話しになってしまったが主題に戻ろう。マレーシアの問題はマレー人が少ないことらしい。

総人口の6割だそうだ。2割5分は中国系だが広東省や福建省からの移民でいわゆる北京語(普通語)は話さない。1割はタミール系のインド人でどちらかというと肌は浅黒い人たちだ。残りは少数民族だがどこにいるのかはよくわからないし、マレー人と見分けをつけるのは難しそうだ。

<クアラルンプールのチャイナタウンの関帝廟>

China_twon_kanteibyo

<ヒンズー教寺院 バトゥー・ケーブ>

Batucave

これらの人びとが国としてまとまる時に使用する言語は英語だ。マレー語は国語で公立の
教育はマレー語が使用されるが日常生活はそれぞれの言語で行いながら、共通語としての英語なしには国としては機能しない。マレーシア人とは二重言語生活者である。

マレー人は基本的に田舎(カンポン)に住む人が多く、中国系とインド系は都市に集中する傾向がある。クアラルンプール市内はカンポン村と呼ぶ区画があり田舎からでて来たマレー人が肩を寄せあって生活している。外食するのが一般的なのか朝食は百円も出せばお腹一杯になるし店も繁盛している。

カンポン区画にはすばらしい建築様式をたたえたモスクが建って多くの人が礼拝に訪れる。

<クアラルンプールのカンポンヴィレッジにあるモスク>

Photo_3

朝の目覚めはモスクの拡声器から朗々と響きわたるコーランの朗唱で始まる(あなたがイスラム教徒でなければ)。マレー人の宗教はイスラム教だ。イスラム教の国としはマハティール首相の手腕もあり経済的に一番成功した国として尊敬を集めているらしい。クアラルンプールの空港にいると中近東の国からやってくる旅行客が多いことに驚く。

マレーシアは独立国だがかつての大英帝国の遺産を濃厚に残している。イギリスだけではない。ユネスコ世界遺産のマラッカに1日学生たちと出かけたがボルトガルやオランダの影響も残っている。

<マラッカ~オランダ広場>

Marakka_1

<砦から眺めるマラッカ海峡>

Photo_4

16世紀に始まる西洋の大航海時代から交通の要衝として栄えたのだ。日本にやって来た
フランシスコ・ザビエルもここを通過したのだ。いや、そもそも西洋の大航海時代前から栄えていたようだ。

8世紀に始まるイスラム世界の大膨張は西はイベリア半島まで東はインドネシアあたりまで通商を通して展開しイスラム化したのだ。13世紀のモンゴル帝国の繁栄は中央アジアの内陸部の通商ルートのみならずイスラムが打ち立てた海洋通商ルートをも組み込んだ世界規模の流通革命を実現したことによるらしい。14世紀の明朝時代の大航海有名な宦官鄭和はイスラム教徒であった。マレー半島は世界史の十字路である。

大英帝国時代は「海峡入植地」と呼ばれ、錫の採掘とゴムの生産地として世界経済に組み込まれて一定の繁栄を謳歌した。イギリスの老練さか、マレー半島は各地に割拠するスルタンに特権を与え名目的な支配権を認めて実質的には甘い汁を貪った。日本軍が侵攻するとあっけなく敗北、屈辱的な占領を許してしまう。虎の子の戦艦もあっけなく日本海軍に沈められ時の首相チャーチルは涙して嘆いた。白人の威厳は粉々になり日本敗戦後、戦前への復帰はもはやかなわなくなった。

シンガポールの哲人宰相リー・カンユーは「日本人の占領は過酷ではあったが、秩序があり学ぶものがあった。」と回想し、独立国後の西側リベラルによる政権批判をものともせずにみずからの強権政治スタイルを貫き今日のハイテク都市国家の繁栄をもたらした。マレー半島は戦後独立国となりさらに中国系が九割を占めるシンガポールはマレーシアと別々となった。

日本人が知るマレーシア情報量は非常に限られている。イスラム教国家でありつつ、豚肉を食べてアルコールを飲む異教徒への寛容さを併せ持つ不思議な国である。特に、マレー人の人懐こさと客のもてなしは日本人に共通するものを感じる。人がいい分、計算高くて頭の回転が速い華僑や印僑には実務の世界で歩が悪い。これが「マレーシア・ジレンマ」(マハティールさんの著作)である。マレー人優遇政策である。

マレー料理の評判は日本人には相半ばするようである。ナシ・ゴーレン(チャーハン、目玉焼き他がトッピング)やミー・ゴーレン(焼そば)は20代後半にアムステルダムで研修生として修行していたころインドネシア料理として馴染みのある料理だ。イスラム圏の定番ケバブも美味しい。サテー(焼鳥)は甘いココナッツソースで食べたい。南方系の中華やインド風のカレーはもちろん、クアラルンプールならタイ、ベトナム、中近東料理など選択肢はふんだんにある。和食もほとんどが日本と同じように味わえる。そして、忘れてならないのは、豊富なフルーツだ。

<マレーの庶民の定番>

Photo_5

<フルーツの王様ドリアン? 、マレー人は目がない>

Photo_6

その国を知るには実際に出かけて自ら体験するに越したことはないが、長く住んだからと言ってきちんと理解できる保証はない。アプローチの仕方も大事だし個人的な体験には限度もあるからだ。様々な人による様々なアプローチによる情報源に当たって、自分の見聞を振り返ることがその国の理解を深めるコツかと思う。

以上は、まだ中途半端にマレーシアを知る自分の雑文だが、個人的な知り合いが今月初めからペナン島に移り住んだこともありマレーシア情報はもっとアクチャルなものが入るであろう。今後さらに精査し突っ込んだマレーシア論を展開してみたい。

入院日記 リハビリ編 その6

5月26日(土) 雲

熟睡した。トイレは1時半と5時半の2回。6時に花火の音が聞こえた。何かイベントがあるのか。東京ではい知り合いのお子さんの運動会がある。見に行くと約束していたのに残念ながら見に行けない。

移動がままならずかつ安静が要件でベッドに横になっていると本を読むか野次馬根性を発揮して世間のニュースをフォローするくらいしかやることがない。世の中は事件に満ち満ちている。今回の骨折は自分や家族関係者には大事件だがそれ以外の人にとっては個人にたまたまふりかかった事故にしか過ぎない。過去の思い出に浸って時間を潰すと言うのも一興だが私は未来志向でありたい。

入院中の事件というと、新潟県で起きた小学生女児誘拐殺害事件。犯人はあっけ
なく捕まった。近所に住む23歳の若者だった。幼い男児が若い女に誘拐されて命を落とすケースは聞いたことがない。その代わり、熟女が老年の男を毒殺したり殺害したりするケースが目につく。

北朝鮮問題は韓国で開催された模索する試みだが6月に予定されたシンガポールでの首脳会談は延期となった。北朝鮮が核兵器を持っていることは周辺国には脅威だが、抑止力であって原則として実際に使うことはできないと考えられている。米ソ冷戦の相互確証破壊だ。勿論、北朝鮮の場面はソ連とは違う。かつての日本の特攻隊のようなことが起こり得る危惧は可能性として払拭できないのが潜在的不安である。日本が核攻撃を受けた場合、アメリカは本当に核の報復をしてくれるのだろうか。日本独自の核武装論がおこる所以である。あるいは、アメリカの了解のもとに核シェアリングを検討する案もある。冷戦時代に西ドイツが実際に採用している。

原油価格がまた上がりだした。ガソリンスタンドでは1リッターあたり150円を越えるらしい。アメリカのFRBによる長期金利の上昇で石油に群がる投機マネーに動きがかわるか。クリーンエネルギーと安全性に危うさをかかえたままの原子力と化石エネルギー。クリーンで行けるに越したことはないのだろうが。エネルギー問題と環境問題のジレンマ。この解を解けば、ノーベル賞間違いなし。

日大アメフト問題はひどいの一言だ。最後は監督と反則タックルをした本人の言った言わないの内部争いになってしまった。監督は理事長候補と言われる実力者らしいが一連の対応を見るとそれに足りうる見識があるとは思えない。この程度だとすると唖然とするばかりだ。

こんな感じでニュースをフォローしているのは最初の会社をやめて山形の新庄市に運転免許を取りに行った時以来だ。2005年の11月の2週間だったが時間を持て余しながら会社の先輩と酒を飲んだり、野鳥観察で11月だったが自然豊かな周辺を散策したあの頃が懐かしい。サラリーマンを辞めた開放感が心地よかった。

私より早く早期退社して福岡に戻ったKさんから三島由紀夫の命日の日にメールをもらったのを思い出す。三島の命日を意識するのが同氏の同氏たる所以だ。当時、世間を騒がせていたのは栃木県で小学生の女児が誘拐され茨城県北部で遺体遺棄された事件と一級建築士による耐震数値の偽造事件だった。

今回の入院による日常生活からの離脱は複雑な思いが去来する。退社まで3週間となり5年間の激務から無事開放される、しかもそれなりの達成感を味わいながらの最後の段階だっただけに残念である。

入院日記 リハビリ編 その5  北朝鮮再び

5月25日(金) 雲

5時半に目が覚める。

その前にはもう夢うつつのなかで窓の外からイソヒヨドリの美しいさえずりが聞こえてはいた。毎朝の最初の目覚めは完璧だ。そして、病室に横たわる自分、足首の骨折と当面向き合わねばならない新しい現実に改めて気付かされる自分を見いだしては落ち込むこての繰り返しだ。

携帯でインターネットを見ると米国と北朝鮮の首脳会談は中止となった。当然だと思う。これまでの毎度繰り返される喜劇的ですらある強硬ぶりから、あまりのこの変身ぶりは何だ。あやしすぎる。駄々をこねる子供のようだ。

この話しが出た経緯からして怪しいと思っていた。北朝鮮とは通常兵器より安上がりな核兵器を梃子に東アジアの緊張を作り出し自分の生き残りのために回りから金をせびる浅ましいやくざまがいの金王朝体制である。みずから経済制裁を招いて立ち行かなくなり、韓国の左翼政権と冬季オリンピックを利用して局面を打開しようとしたのがこれまでの経過だ。

「朝鮮半島の統一」とは言葉としてはすばらしいが現実をみれば韓国と北朝鮮の国としての原理が違い過ぎており統一後の姿はイメージできない。北朝鮮の将来は、現在のベトナムをモデルとした国の発展を考えるべきだろう。いわゆるアジアの国々の経済発展の離陸モデルの内のもとは共産主義政権で「開発独裁」による資本主義世界への参加である。中国もそうではないか。しかし、現在の金一族では無理だ。余りにも重大な事件を起こし罪を重ね過ぎたのだ。

「天命」は尽きたのだ。清算が必要なのだ。悪あがきは止めて潔く退場するしかない。
亡命なのか、リビアのチャウシェスクのような処刑なのか、ヒトラーのような自殺となるか。
そういうことだ。それほどに金一族の罪かは重い

2018年6月 7日 (木)

入院日記 手術後 その4 訃報 星由里子に寄せて

5月24日(木)

入院中、何人かの芸能人の訃報に接した。西条秀樹、星由里子、浅丘雪路・・・・・。

そのなかで、星由里子さんについての雑感を少しばかり。

加山雄三の「若大将シリーズ」でヒロイン役に登場していた。初期から中期の作品だと思う。このシリーズは自分の一回り上の世代、つまり、1960年代に高校や大学生が見た映画だろう。この時代の私にとっては、同じ東宝のゴジラやモスラやキングギドラに興奮したものだ。1960年代前半、小学生時代だ。

60年代後半となる中学時代は、洋画だ。たぶん、学校で映画鑑賞したソ連制作「戦争と平和」が忘れがたい。長時間に加え、ナポレオンの侵略に対する祖国解放戦争の場面や帝政ロシアの上流階級の華やかな社交の世界の場面等、北関東の地方都市に生きる少年にとってはただただ、時代も場所も違うとは言え圧倒された。しばらくは映画のそこかしこの場面が脳裏につきまとい、何もできなくなった放心状態に囚われたものだ。いま考えるとこれほどまでに囚われるほど影響を受けた映画は思いあたらないくらい衝撃的だった。

さて、星由里子に戻ろう。

大学生となって上京してからのことだから1974年春からあとだ。池袋の東口側、従って有名な文芸座地下ではなく東口にあるオールナイト上映に通って全シリーズを見たと記憶する。話しの筋はワンパターンだが海外ロケ(ハワイ、ニュージーランド)あり、スポーツと恋を軸に青春万歳的なハッピーエンドで終わる溌剌たる映画だった。分かっているけど最後まで一気に見てしまう。盛り上がる場面になると館内は拍手で大いに沸いたものだ。

清楚で気品に溢れた星由里子は若大将のパートナーでありヒロインだった。自分よりはかなり年上で憧れの対象とはならなかったが美しい女性として忘れがたいスクリーンのマドンナである。

蛇足だが、若大将シリーズで最後に加山雄三が登場するのはこの1981年の「帰って来若大将」だ。自分は数年前にBS放送で見た。ヒロインはデビューしたころの坂口良子であった。この坂口良子も数年前にまだ若くしてこの世を去ったのはさびしい。

今月末で退職する職場は小田急線成城駅の近くにある大学だ。聞くところによると若大将シリーズのロケで使われたのはこの大学だという。映画では京南大学だ。銀杏並木の道を青大将こと田中邦衛が車で通学しながらガールハントするシーンがあった。

出不精の私は、結局目と鼻の先にある東宝撮影ミュージアムに足を運びそびれ、講演に訪れたパキスタン大使もファンだと漏らしたゴジラに再会する機会をとうとう逃してしまったようである。

2018年6月 6日 (水)

入院日記 手術後(最初の一週間) ~ その3

5月17日(木)~22日(火)

手術後の虚脱感で一日一日が真っ白のまま過ぎ去った。虚ろな気分で本を読んでは、うとうと眠る。

3度の食事以外に口にするのはミネラル・ウォーターと薬(痛み止め)だけだ。幸いなことに痛みはほとんどない。

リハビリ・ステーションでトレーナーの指導のもとにリハビリが始まった。午後の1時間である。 上半身(松葉づえを使うため)と両足の運動だ。寝たきりなので、足の筋肉はあっという間に衰えるらしい。松葉づえの練習は、日一日と距離が伸びた。最初は、50メートルでも息が上がったが、100mくらいまでは歩けるようになった。

松葉づえは退院して自宅療養するための準備で、入院中の移動は基本的に車いすだ。その車いすも看護婦付き添いでの移動だったが、ようやく後半からは自分で好きな時に自由に動いていいという「院内フリー」の許可を担当医からもらうことが出来た。

入院患者な弱者である。自分はそうでないと思っても病院関係者はそういう対応をするために衝突はしないが、カチンとすることを言う関係者もいることに気づいた。その立場にならないとわからないのだ。

足の骨折がこんなに大変だとは・・・・・。退屈しのぎに部屋に備え付けのテレビをつけるようになったが、どのチャンネルも同じニュースばかりですぐに飽きてしまう。北朝鮮問題と日大アメフト問題がメインだ。阿部総理にからむ財務省の文書改ざん問題。明るいニュースと言えば、大リーグの大谷の活躍ぐらいだろうか。 

Photo_3


5月23日(水)晴れ時々雲

朝4時に目が覚める。トイレを済ませて、左足の指の運動を時折しながらホッブスボームを読む。

そとから例によってイソヒヨドリの美しいさえずりが聞こえる。入院直後から毎朝、毎夕、日中も時折聞こえるこの野鳥のさえずりを聞くたびに心が和む。

入院してから2週間が経過したが足の回復にはほど遠いというのが実感である。気が滅入る。朝の回診で手術の傷の手当て。これで3回目。足首の内側の水疱はかなり良くなっているとのこと。安心する。傷についてはもう心配はいらないらしい。瘡蓋ができたと思ってればよろしいという。

担当医師より昨日の血液検査を踏まえ足の血管に血栓ができていないかエコーの検査をすると言われる。

回診終了後、母に電話。実家は異常なし、父は新聞を読んで横になったばかりとのこと。お金は弟が来たら渡す段取り予定である旨伝えた。弟とはラインで確認した。

14時ぐらいから約1時間リハビリ。松葉杖で結構あるく。屈伸が気持ちいい。

汗を流して車イスを自分で操縦して部屋に戻る間もなく、今度は血栓のエコー検査に出かける。終了してベッドに横になったのは16時半前だった。

ベッドでホッブス・ボームを読んでいると担当医がきて血栓の方は問題なしとの報告。ほっとした。

 

2018年6月 5日 (火)

手術当日 ~ その2

5月16日(水)

手術当日である。朝の血圧測定で上が160、下が100を越えた。心は平静と思っていても体はそうではない、正直なのだ。

食事は朝からなし。10時までは水のみオーケー。13時前に弟夫妻が来た。血圧のことを話すと弟が白内障で手術した際は上が200もあったという。

13時半、手術室へ移動する。たかが足首の手術なのに半日がかりの大手術だ。

手術室に入る時は死刑室に入るような気分だった。一度入ったきりで戻りがない部屋。部屋に入ると局部麻酔のために横向きになり脊椎に管を入れられた。そして全身麻酔。「大きく深呼吸してぇ」、の医者の声聞いて2回か3回するかしない内に意識がすーっと消えた。

そして「はい、目が覚めますよ」という医者のが聞こえてきて意識が戻った。時間を聞くと18時半とのことだった。何と5時間が経過していたがあっという間のことだった。医学とは魔術だと思った。医師によると実質的な手術時間は2時間半だったらしい。

弟夫妻は待ち合い室でこの間ずっと待機してくれていた。年老いた両親は来れないし、東京で付き合っている彼女も子育てがあるので来れない。

病室に戻る。弟夫妻は帰って行った。血圧は平常以下に戻っていた。上が110、下が70。麻酔がまだ残っていて薬付けのような感じだ。しかし意識が戻り、手術前の自分に戻れたことが分かってぼんやりとだがうれしかった。戻れなかったらどうしようという不安は手術前の自分頭の片隅に常にあった。安堵して麻酔漬けの感覚に体をゆだねた。

足の痛みはないと言うか感覚があまりなかったし、体に点滴の管や酸素呼吸装置(鼻から)やらで窮屈なことこの上なかった。尿も管が入っていて、トイレに行く必要はないようだった。

この夜は、1時間か2時間ごとに看護婦がベッドにやって来て、点滴やら何やらで熟睡はできず朦朧とした意識で一夜を過ごすこととなった。

2018年6月 4日 (月)

入院・退院の日々 その1 ~ 手術まで

5月7日(月) 天気 曇後雨

昼食後の午後、涸沼川の大貫橋に出かけて、何と、土手で転倒。左足を骨折してしまった。15年前に職場の階段の踊り場でこけて軽い左手首の骨折をしたが、生活にほとんど支障はなかった。

ところが、今回は左足首の骨折(転倒したときにはボキッと音がした)の場合はそうはいかなかった。

この日は、13時すぎから大貫橋上流でせいご釣りをしていた。雨の予報だがまだ降っていなかった。1時間半ほどで、セイゴ3尾、手長エビ1尾を釣った。雨がパラパラ降りだした。散歩人がやって来て四方山話しをしていたら、竿先の鈴がなった。4尾のセイゴが釣れた。取り込んで、魚を手にして、これで帰ろうと土手を斜めに横切り車の後ろに向かう途中、誰がポイ捨てしたのか、折から雨でぬれた草の葉に隠れていたプラスティックのコップに気付かずに踏んでしまいすってんころりん、足首を変にひねりながら滑って転んだのだった。

一瞬に地獄に落ちた。意識はしっかりしているが、周りの風景がよそよしく遠のいていった。散歩人が救急車を呼んでくれた。近くの病院に搬送された。レントゲン写真が取られ、気が付くと医者が骨折だね、手術が必要だね、最低でも2週間の入院・・・・・・・・

ショックをう受け何も考えられないまま、入院は実家の家の近くにするので今日は帰りますと入院を断り宛名なしの紹介状をいただいて、タクシーを呼んで帰宅したのだった。自分の車は涸沼川に置きっぱなしだ。

5月8日(火)

前夜は足の痛みが少しあったがうとうとながら眠ることはできた。朝食後、職場に連絡を入れる。人事責任者に連絡を入れ退院するまで休むと伝えた。年休分20日使えるとのこと。たまたまだが、自分は今月末で円満退職の予定で引き継ぎも課長補佐にあるていどしていたので問題はないので心配はなかった。

タクシーを呼び、地元で一番大きい病院へ急ぐ。9時過ぎのこと。前日搬送された病院で借りた松葉づえを使って、窓口で健康保険証もないまま事情を説明し診察券を発行してもらい、整形外科に並ぶ。レントゲンや血液検査やもろもろで1時間近くかかった。そして、順番が来て診察を受ける。入院してください、と言われる。準備もないまま、車いすと看護婦が現れ4階の病室へ運ばれた。

時計を見ると13時を過ぎていた。家族に連絡を入れ入院のことを説明、機動性のある弟に翌日来院してもらう段取りをしてベッドに横になった。

夕刻、複数の担当医たちが現れ、足を検分した。足の手術は翌日9日(水)を当初考えていたが、水泡が出来ており様子をみないといけないとのことになった。

5月9日(水)

4人部屋に三人が入っている。左隣の人の鼾で早朝は眠れなかった。幸いなことに本日退院らしい。

昼すぎに弟がやって来た。入院に必要は下着やら電気カミソリやら洗面セットやらすべて院内の店で購入してもらった。便利なもんだ。この病院は昨年11月父がデイケアー先で血圧があがり意識を失い搬送されて2週間ほど入院した病院である程度勝手がわかっているのも心強い。しかし、まさか自分が入院患者としてお世話になるとは。足を動かせないし、行動の自由がない。トイレにいくのもそのたび看護婦さんを呼ばないといけない。不便極まりない。

涸沼川の車が気になり、ディーラーの担当者に電話して事情を話したところ取りに行ってくれるという。JAFのレッカー車が事故じゃないと使えないらしい。ありがたや・・・。

弟に自宅から本を何冊か持ってきてもらった。

平川平祐氏の「源氏物語の翻訳者としてのアーサー・ウェイリー」

ホッブズ・ボーム 「帝国の時代」

クリストファー・ソーン「英米にとっての太平洋戦争」(下)

リンドバーグ「第二次大戦日記」(上)

Photo


Photo_2


普通の通勤ではなかなか読めない本格的な本である。時間はたっぷりあるであろうからとうつもりだ。2週間か3週間は持つだろう。

5月10日(木)

医者から手術は来週前半か半ばに行うと言われた。

3度の食事以外は、左足を冷やしながら、うとうと眠るかひたすら読書に没頭した。手始めに、ホブズボームを詠み始めることにした。

5月11日(金)

前日同様の生活。5時には目がさめる。朝食は7時半、お昼は零時、夕食は18時。21時半ごろ就寝。あとは昼寝と読書。午後は、手術後にそなえてベッドの中で簡単な足リハビリも行なった。

検温と血圧を測る。熱はないが、血圧は上が120~140、下が70~90とあまり安定しない。

手術に向けて、麻酔担当医との問診があった。母が10年前に入院・手術をしたときのやり取りを思いだしながら、ハイハイと話しを聞きながら、すべてはお任せします、一番良いという方法でお願いします、と同意する。

夕方、担当医が来て16日(水)に手術をすることが決まったと聞く。 手術の承諾書の準備をする。

ディーラーの担当者から車を回収したとの報告がありほっとした。店で預かってもらうことに。車内なすごい匂いだったらしい。捨ててもらうようお願いした。点検パッケージで未使用のクーポンがあるとのことで(本来は2月だがわすれていた)それも併せてお願いした。

5月12日(土)、13(日)、14日(月)、15日(火)

毎日同じパターンの生活だ。 早く手術をしたいのと、たかが骨折なのに入院とリハビリも含めて相当期間が必要という医者の話を聞いて、怪我の現実がじわじわと見に染みてきた。自分の家族はみな健康で父は盲腸で入院したくらい。母は76歳の時に胆石の手術で1か月入院した。弟が日帰り入院で白内障の手術をした。それくらいだ。とうとう自分も入院することになったかとため息をつく。

同期や歳の近い先輩で、前立腺癌や大腸ポリープの手術をする人がいることは知っているが、まだ、骨折であれば気が楽か、と自らをなぐさめる。

しかし、気持ちの整理はなかなかできない。病室の相方とも波長が合わないし、うるさい。私も鼾をかいてうるさいらしい。看護婦に2度、3度起こされたことがある。

食事については不満はなかった。田舎育ちの自分ではあるが、できるなら美食はしたいとは思うが、しかし、62歳を過ぎた現在、こだわりはない。一度、鰆が出たときはおやっと思いうれしかった。昔は豚肉とジャガイモが好きだったが、今は、ご飯とみそ汁、それに、魚(鮭やアジの干物)、それに、煮物野菜で十分だと思う。

明日は手術となる前夜は、この1週間は長かったとなぁ、と振り返りつつ明日の手術が順調に早く終わることを祈りつつ、22時前には眠りについた。

« 2012年9月 | トップページ | 2018年7月 »