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2018年6月 8日 (金)

入院日記 リハビリ編 ~ その7 マレーシア雑感

5月末で退職した東京のある大学と嘱託職員の契約をして仕事をしたなかで前歴になかった特筆事項は生まれて初めてアメリカ合衆国に行ったことだが、それにも増して予想しなかったことは毎年夏にマレーシアに出かけたことだった。

マレーシアに最初に行ったのは最初の会社勤務時代の1986年2月だった。都内のある大学の卓球部の学生の引率だった。

クアラルンプールには当時あのランドマークタワーはなかった。

<カンポンヴィレッジから眺めるツインタワー 2016年夏>

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しかも、目的地はペナン島であった。現地では華僑系の学生と卓球試合をした。驚いたことに相手側の圧勝だった。強烈な印象は、夕刻みんなで円卓を囲んで味わった魚の清蒸料理であった。驚くほど美味でフランス料理と中華料理がグルメにとっての双璧だと実感できたのはその後も世界あちこち仕事で旅した結果納得したことだがその美味さ加減が尋常ではなかったことは強烈な印象だった。味わいを形容する適切な言葉選びには難儀するがフラン人が言う「悪魔的な」と言ってもいいくらいだった。

その後、この料理はロンドンのソーホー(鱸)、瀋陽(鮃)でも毎回同じ感激を味わったものだ。近年ではY学長とロサンゼルスの中華レストランで味わったのが最後だ。ちなみ魚は淡水魚のティラピアだった。

<ロサンジェルスで食べた清蒸>

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いずれもメニューには「時価」とあり安くはないがひとときの快楽としては安いものだろう。

中華料理の話しになってしまったが主題に戻ろう。マレーシアの問題はマレー人が少ないことらしい。

総人口の6割だそうだ。2割5分は中国系だが広東省や福建省からの移民でいわゆる北京語(普通語)は話さない。1割はタミール系のインド人でどちらかというと肌は浅黒い人たちだ。残りは少数民族だがどこにいるのかはよくわからないし、マレー人と見分けをつけるのは難しそうだ。

<クアラルンプールのチャイナタウンの関帝廟>

China_twon_kanteibyo

<ヒンズー教寺院 バトゥー・ケーブ>

Batucave

これらの人びとが国としてまとまる時に使用する言語は英語だ。マレー語は国語で公立の
教育はマレー語が使用されるが日常生活はそれぞれの言語で行いながら、共通語としての英語なしには国としては機能しない。マレーシア人とは二重言語生活者である。

マレー人は基本的に田舎(カンポン)に住む人が多く、中国系とインド系は都市に集中する傾向がある。クアラルンプール市内はカンポン村と呼ぶ区画があり田舎からでて来たマレー人が肩を寄せあって生活している。外食するのが一般的なのか朝食は百円も出せばお腹一杯になるし店も繁盛している。

カンポン区画にはすばらしい建築様式をたたえたモスクが建って多くの人が礼拝に訪れる。

<クアラルンプールのカンポンヴィレッジにあるモスク>

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朝の目覚めはモスクの拡声器から朗々と響きわたるコーランの朗唱で始まる(あなたがイスラム教徒でなければ)。マレー人の宗教はイスラム教だ。イスラム教の国としはマハティール首相の手腕もあり経済的に一番成功した国として尊敬を集めているらしい。クアラルンプールの空港にいると中近東の国からやってくる旅行客が多いことに驚く。

マレーシアは独立国だがかつての大英帝国の遺産を濃厚に残している。イギリスだけではない。ユネスコ世界遺産のマラッカに1日学生たちと出かけたがボルトガルやオランダの影響も残っている。

<マラッカ~オランダ広場>

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<砦から眺めるマラッカ海峡>

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16世紀に始まる西洋の大航海時代から交通の要衝として栄えたのだ。日本にやって来た
フランシスコ・ザビエルもここを通過したのだ。いや、そもそも西洋の大航海時代前から栄えていたようだ。

8世紀に始まるイスラム世界の大膨張は西はイベリア半島まで東はインドネシアあたりまで通商を通して展開しイスラム化したのだ。13世紀のモンゴル帝国の繁栄は中央アジアの内陸部の通商ルートのみならずイスラムが打ち立てた海洋通商ルートをも組み込んだ世界規模の流通革命を実現したことによるらしい。14世紀の明朝時代の大航海有名な宦官鄭和はイスラム教徒であった。マレー半島は世界史の十字路である。

大英帝国時代は「海峡入植地」と呼ばれ、錫の採掘とゴムの生産地として世界経済に組み込まれて一定の繁栄を謳歌した。イギリスの老練さか、マレー半島は各地に割拠するスルタンに特権を与え名目的な支配権を認めて実質的には甘い汁を貪った。日本軍が侵攻するとあっけなく敗北、屈辱的な占領を許してしまう。虎の子の戦艦もあっけなく日本海軍に沈められ時の首相チャーチルは涙して嘆いた。白人の威厳は粉々になり日本敗戦後、戦前への復帰はもはやかなわなくなった。

シンガポールの哲人宰相リー・カンユーは「日本人の占領は過酷ではあったが、秩序があり学ぶものがあった。」と回想し、独立国後の西側リベラルによる政権批判をものともせずにみずからの強権政治スタイルを貫き今日のハイテク都市国家の繁栄をもたらした。マレー半島は戦後独立国となりさらに中国系が九割を占めるシンガポールはマレーシアと別々となった。

日本人が知るマレーシア情報量は非常に限られている。イスラム教国家でありつつ、豚肉を食べてアルコールを飲む異教徒への寛容さを併せ持つ不思議な国である。特に、マレー人の人懐こさと客のもてなしは日本人に共通するものを感じる。人がいい分、計算高くて頭の回転が速い華僑や印僑には実務の世界で歩が悪い。これが「マレーシア・ジレンマ」(マハティールさんの著作)である。マレー人優遇政策である。

マレー料理の評判は日本人には相半ばするようである。ナシ・ゴーレン(チャーハン、目玉焼き他がトッピング)やミー・ゴーレン(焼そば)は20代後半にアムステルダムで研修生として修行していたころインドネシア料理として馴染みのある料理だ。イスラム圏の定番ケバブも美味しい。サテー(焼鳥)は甘いココナッツソースで食べたい。南方系の中華やインド風のカレーはもちろん、クアラルンプールならタイ、ベトナム、中近東料理など選択肢はふんだんにある。和食もほとんどが日本と同じように味わえる。そして、忘れてならないのは、豊富なフルーツだ。

<マレーの庶民の定番>

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<フルーツの王様ドリア? 、マレー人は目がない>

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その国を知るには実際に出かけて自ら体験するに越したことはないが、長く住んだからと言ってきちんと理解できる保証はない。アプローチの仕方も大事だし個人的な体験には限度もあるからだ。様々な人による様々なアプローチによる情報源に当たって、自分の見聞を振り返ることがその国の理解を深めるコツかと思う。

以上は、まだ中途半端にマレーシアを知る自分の雑文だが、個人的な知り合いが今月初めからペナン島に移り住んだこともありマレーシア情報はもっとアクチャルなものが入るであろう。今後さらに精査し突っ込んだマレーシア論を展開してみたい。

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