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2018年6月13日 (水)

入院日記 リハビリ編 その14

6月2日(土)曇り

やっと退院の日がきた。

イソヒヨドリが祝福するように囀ずっている。気分の落ち込みは相変わらずだ。自宅に戻れば改善するだろうか。

昨日の続き;

第一次大戦後のこと。

日本は火事場泥棒的にドイツのアジア・太平洋地域の権益を得た。
米国は、欧州の周辺的な立ち位置を脱して、新しい覇権国家として登場し第一次大戦の後始末にリーダーシップを発揮した。中途半端ではあったが。

ハプスブルク帝国は崩壊した。多民族国家は各民族ごてに分かれて独立国家になった。ポーランドも国が復活した。分割していたドイツ帝国とロシア帝国が崩壊した結果である。

ドイツは共和国として再出発した。

大量破壊の復興景気はあったものの1929年の米国の株の大暴落から1945年は再び戦乱の時代となった。皮切りは日本の満州事変だ。ホッブスボームの続編「短い20世紀」の見方では、第一次大戦前の25年近くは空前の好景気に沸いた時代だった。「コンドラチェフの波」は景気循環の約60年説に添って言うなら、その再現は第二次大戦後の1950年代から1970年代のオイルショックによる景気後退の期間だろうと言う。日本は戦後復興を遂げ1964年は東京オリンピックが開催された。

第一次大戦勃発から第二次大戦終了までの約30年は、17世紀にヨーロッパを荒廃させた戦乱(宗教戦争)になぞらえて、二十世紀の「三十年戦争」とも言われる。

この二十世紀の戦乱の時代の極東も戦乱の時代だった。大英帝国の衰退、ソビエト共産主義政権の成立、民族自決に基づく非西洋地域のナショナリズムの高揚と独立の動きは、帝国主義を否定するソ連共産主義と相呼応しながら活発化していく。これは、第二次大戦後もいわゆる「第三世界」が独立しでいく過程で見られた趨勢である。

中国はひとつの一大文明であり、ヨーロッパ近代文明と同じマグニチュードをもつ極東の地勢をなす存在である。清朝の崩壊とともに中国の歴史において独自の地勢にもとっく唯我独尊、「栄光ある孤立」は終わった。日本の明治維新に習った近代化=西洋化を目指して国造りを始めたが、それが本格化するには、しんがい革命、中華民国=軍ばつ割拠と日中戦争時代、日本の敗戦と国共内戦と共産党政権の成立、毛沢東独裁政治期間の混乱を経ての1970年後半のトウショウヘイの登場まで待たねばならなかった。

満州事変、日中戦争、太平洋戦争は、英米の権益と日本の権益の衝突による帝国主義戦争で、中国を含むアジアの国々は戦場となり多くの犠牲を強いられた。

大東亜戦争(日本)、太平洋戦争(米国)、極東戦争(英国)のそれぞれの呼称はそれぞれの立ち位置を如実に示している。

満州事変から1945年の敗戦まで日本は非常に攻撃的だった。これに呼応する如く、ヨーロッパではドイツのヒトラー政権とイタリアのムッソリーニ政権は攻撃的に振舞い自らの権益を追及した。いわゆる、リベラリズムからは「反動的なファシズム勢力」と指弾された。極端なまでのナショナリズムの高揚と独立による強権による政治である。
ヒトラー政権とスターリンのソ連との不可侵条約締結は世界に衝撃を与えた。
ドイツの経済復興とソ連の計画経済による発展は、欧米の自由主義経済と不況から脱却できない低迷と好対照をなし、リベラル派のケインズが新しい経済学を生み出す契機となった。古典経済学=自由放任主義=リベラリズムの「死」が宣言された。

ケインズ経済学は1970年代のオイルショックと不況の始まりとともに批判が始まり、イギリスのサッチャー政権、米国ねレーガン政権は、古典派経済学に先祖帰りすることになった。1980年代の「新自由主義」である。

ソビエト共産主義は第二次大戦後、米国と並ぶ新しい大国となり、冷戦が始まり世界は「資本主義」対「計画経済」の対立があらたな紛争の火種となった。核兵器による人類破滅=共倒れの恐怖による抑止力が働き両者が直接戦うことはなく、周辺部での代理戦争が各地で戦われた。朝鮮半島、ベトナム、中近東、アフガニスタン、アフリカ各地等、枚挙にいとまがない。

ソ連は1970年ごろから西側の技術革新、とくに民生技術への応用などについつ行けなくなり、軍事力をささえる経済力でが低迷、ゴルバチョフが改革による刷新を図ったが1989年遂にソ連の70年に及ぶ時代は幕を閉じた。

お昼はウドン。病院最後の食事だ。デザートに蜜まめが出る。うまかった。

14時まえ弟夫妻が迎にきた。3週間の病院生活もこれで終了だ。自宅での療養と通いのリハビリがさらに一ヶ月は掛かるだろう。

15時半、実家の我が家に到着。当分2階での寝起きは断念して1階のほとんど使うことのないリビングのソファをベッド代わりに使って起居することにした。

気丈な母は暖かく迎えてくれた(けがした直後は嘆き、私の不注意に怒りを露わにしていたが、息子は息子なのだろう)。しばらくは父といっしょに私も一種の介護を受ける身となってしまい、情けない気持ちで一杯だったが、やはり、我が家は我が家で安堵した。

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