2018年9月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

« 入院日記 リハビリ編 その12 | トップページ | 入院日記 リハビリ編 その14 »

2018年6月12日 (火)

入院日記 リハビリ編 その13

6月1日(金)曇り後晴れ

昨夜は同室の患者のいびきが酷かった。退院まであと1日の我慢だ。骨折で入院。余りのショックに自分の心の整理がつかずいらいらしていることもありここの居心地は良くない。病院で報酬を得る人は別としてお世話になりたい人などいるはずもない。

イソヒヨドリの囀ずりが聞こえた。朝4時過ぎでもう辺りは薄明かるい。

入院した翌日に弟に自宅から持ってきてもらった厚い本もほぼすべて読破した。ホブズボームの「帝国の時代」はほぼ2回読んだ。

以下、自分なりに理解したことの要約も含めてメモにすると以下のようになる:

「日本の明治維新のころ、欧州ではブロイセンによるドイツ統一がなり欧州の中央にかつてない強国が誕生した。フランスはブロイセンに敗れ、主役の座を降りる。同時期にイタリア半島も邦の統一がなった。この本は1914年の第一次大戦までを扱っているが、この戦争は欧州の転落の始まりでもある。第一次大戦によりそれ以前と以後では世界がまるっきり変わってしまうのである。

帝国主義の時代であり欧州の限られた複数の国が世界を植民地化し、ブルジョア階級がかつてないほどの繁栄をする一方で、産業化により都市化が進み、農業の従事者が減少、下層中流階級が膨らんでいく。啓蒙主義と永続的な進歩への信仰が浸透しはじめ、世俗化がすすみ、キリスト教の力は廃れ始める。社会主義と民主主義、それにナショナリズムがキーワードになりとくに労働者階級の組織化がなされていく。

非西洋の世界は中東のオスマン帝国、東アジアは清朝が支配はしていたが西洋のテクノロジーにもとずく軍事力に侵食され瓦解する運命にあった。西洋と東洋の合の子と見られていたロシア帝国は農奴解放を行い開明的皇帝の指導で中東、ペルシャ、中央アジア、極東に膨脹しながら大英帝国とグレート・ゲームを繰り広げていた。

ハプスブルク帝国も西洋列強に入っていたが多民族国家でとくにバルカン半島のナショナリズムの勃興により守護者を任じるロシアと緊張関係にあり、政情は不安定で将来が不安視されていた。

日本の近代の歴史を評価するには当事の国際政治のパースペクティブをしっかり掴み、その中で極東の政治情勢にどのような力が働いてあのような日本を含むアジアの悲劇となったかを見ないといけない。日露戦争(1904年~05年)の評価はもっと欧州列強の帝国主義との関連で理解することが必要だと言う小室直樹氏の指摘を思いだしながらこの本を読んだ。

第一次大戦(1914年~18年)と日露戦争は繋がっているのだ。日露戦争は膨脹するロシアに対抗するための安全保障の観点から日本の自衛の戦争であったことは間違いない。清朝も朝鮮も戦う意思も物理的手段もなかった(近代化の遅れ)。この戦争は近代国家間の帝国主義戦争だった。

ロシアは持久戦に持ち込み日本に最悪引き分けに持ち込む可能性はあったが、ロマノフ王朝打倒を狙う革命騒ぎがあったこととアメリカの仲介(日本へ恩を売り満州での利権獲得が背景にある)でボーツマス講和条約が締結された。日本は日清戦争のような賠償金は取れなかった。賠償金によるさらなる軍備拡張(日清戦争による賠償金が拡張が日露戦争の準備資金ともなった)による日本の強大化も恐れられた。

日露戦争での敗北でロシアは一時的に国力回復のためにエネルギーが国内に向けられ、ロシアとグレート・ゲームを繰り広げていた英国は一息つくことになる。

日英同盟(1902年)とは直前のブーア戦争(1899年~1902年)で苦戦し国力を消耗し、産業新興国であるドイツとアメリカ合衆国の追い上げで大英帝国の力に陰りが見え始めた英国が国際政治で守りに転じた第一歩であった。

ロシアが極東に進出する屋台骨はシベリア鉄道の敷設である。この交通インフラは、ドイツに敗れたフランスが自国たけでは対抗しきれないドイツを牽制し将来復讐を遂げるためのやむに止まれぬ選択肢である仏露同盟締結(1894年)にもとずくフランス資本の資金提供によるものである。日清戦争講和直後の三国干渉でフランスがロシアに加担したのは当然であった。ドイツも加わったが当事はロシアと直接国境を接していたため、ドイツ皇帝はいとこのロシア皇帝の注意を極東に向けるよう策動(「黄禍=Yellow Perilはドイツ皇帝の造語」しての相乗りだった。1900年の義和団事件で青島を勢力範囲としていた事情もあった。後進の日本はなめられたのである。

一方で、ドイツは英国を追い抜く勢いのある新興国として、遅れた帝国主義を歩み始めた。しかし美味しいところは英仏で殆ど分割されていた。そんな中で日露戦争を挟んでロシアが極東で身動きがにぶっているすきに、フランスの影響下にあると目されていたモロッコにちょっかいを出す事件を仕掛けたが英国の圧力で退散を余儀なくされるという失態を演じている。

さらにさらに、アメリカ合衆国は英国がブーア戦争を引き起こす直前の1898年にキューバを巡ってスペインに戦争を仕掛け、フィリピン、グアム、サイパンなども奪っている。ハワイも同時期のどさくさの中で併合された。

誠に帝国主義の当事者たちは、近代兵器に基づく圧倒的な軍事力を背景に自分勝手な振る舞いをしたものである。世界の分割を巡って帝国主義国はあちこちで小競り合いを繰り広げていたが、いずれも直前に譲歩があり戦争回避となるか戦争になっても当事者間の限定戦争で解決していた。

では、何故サラエボのオーストリア皇太子暗殺(1914年6月28日)というローカルな事件が帝国主義国すべてを巻き込んで想像を絶する4年半の長期にわたる全国民を巻き込む総力戦となり桁違いの数千万の犠牲者を出す大惨禍を引き起こすことになってしまったのか。

第一次大戦の原因に関する研究は大戦勃発直後から今日に至るまで延々と続いているという。

ドイツ帝国の出現によりヨーロッパが二つにブロック化したことが大きい。とくに、英国がそれまでの圧倒的な力に基づく「栄光ある孤立政策」を放棄して、フランス(1904年)とロシア(1907年)との軍事同盟ではないが三国協商を結んだのは極東での日英同盟と対になる英国にとってのヨーロッパにおける安全保障を巡る一大政策転換だった。

従来から、ドイツ責任論が優勢で(ベルサイユ条約にはドイツ戦争責任条項がある)あるが、2014年にケンブリッジ大学教授が発表した「夢遊病者たち」という本がハプスブルク帝国の再評価を含むドイツ責任論に一石を投じた。

ハプスブルクのセルビアに対する最後通蝶は大国が小国に対するかなり強硬なものだった。それまでなら小国が(三国干渉で譲歩した日本のように)譲歩して決着が着いていた。しかし強烈なナショナリズムを背景 (冷戦終了後に、バルカン半島の多民族のモザイクを反映した狭小にして苛烈なナショナリズムが再び噴出して悲劇を再現したのは記憶に新しい)にロシアの後ろ楯を頼みとするセルビアは実質的に譲歩を拒んだ。ハプスブルク帝国はロシアが恐いので万が一の場合のドイツの支援をとりつけた上での強硬策であった。面子を潰れたハプスブルク側は局地限定戦争であることを願いながら宣戦布告(7月28日)をする。

そこからは各国の利害が複雑に絡みあってそれぞれが自国にとって有利にことを処理するべく、戦争回避の外交努力と平行した軍部の動員発令のタイミングを巡って錯綜と緊張がエスカレートしながら8月初旬にはの全体を巻き込んだ開戦にいたってしまった。

当事の各国政府のやり取りを逐次フォローするのは大変だ。秘密外交があり、素人の各王室が直接やり取りしたり、国家意志の決定は担当大臣や高級軍人の恣意的判断や裁量に影響される余地が多分にあった。動員のスピードが劣勢にあると目されるロシアがフランスの教唆もあり(シベリア鉄道のみならず、軍隊の動員に必須のロシアにとっての西部戦線向けの鉄道網もフランス資本で大きく改善されていた)まずは7月28日に半動員令、翌29日に総動員を掛けた。7月31日を期限とするドイツのロシア側にたいする総動員解除とセルビア問題への不介入を巡っての交渉は実らなかった。

8月1日にロシアに宣戦布告、総動員をかけたドイツは、即座にシュリーフェン計画(まずフランスを速攻で西部戦線で打ち負かし、動員に時間が掛かるロシアを東部戦線で迎え撃つ戦略で2正面の敵を時間差で破る大変危うい戦略)に基づく軍隊の動員発令し反応した。ドイツは8月3日にフランスに宣戦布告、フランスもこれに応じた。攻撃のために通過する際の中立を拒んだベルギーに進攻すると英国が8月4日に宣戦布告して全役者が参戦する事態となったのである。

国際連帯を謳う社会主義はナショナリズムの熱狂に打ち消された。陶酔と花束の嵐の中前線へ向かった兵士たちの短期戦で勝利してクリスマスまでに戻るという甘い幻想は裏切られ、ヨーロッパ全体が凄惨な塹壕戦を4年半も続けるという奈落の底に堕ちて行った。

この戦争は、銃後の国民も巻き込む総力戦となったこと、武器の性能の向上、新しいテクノロジーとしての飛行機、戦車、毒ガス兵器の登場により死傷者の数は桁違いだった。

長期戦と大惨事を予見した人もいることはいたが、大方の人は夢遊病者のように悲劇に邁進していった。運命の糸に操られた悲劇役者の如く。

そして、オスマン帝国や清朝等の古い帝国は命脈が尽き、第一次大戦に相前後して崩壊した。最大級のできごとは大戦末期のロシア帝国の崩壊とロシア革命による共産主義政権の誕生である。

著者は同時期のメキシコ革命や南米の情勢やアインシュタインの相対性理論を始めとする自然科学のコペルニクス的な展開、新しいタイプの女性の出現、大衆社会と新しいマーケットの登場、大衆娯楽、スポーツの誕生、初等・中等教育の普及などさまざまな新しい社会の変化に触れている。民主主義とリベラリズムが社会的要請となり、普通選挙が普及拡大したのが大戦前のブルジョア社会の趨勢いだった。」

20世紀前半の歴史を自分の興味が赴くままに調べてきた。たくさんの情報をインプットしたのでアウトの素描を試みた次第である。

夕食はタンドリーチキンが出た。入院最後の夕食だ。

日大の内田元監督が常任理事を辞任した。日大騒動はまだしばらく収まらないだろう。

Y医師より次の通院は6月12日(火)だが、包帯の取り替えに来週5日(火)に来診することとなった。

« 入院日記 リハビリ編 その12 | トップページ | 入院日記 リハビリ編 その14 »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 入院日記 リハビリ編 その12 | トップページ | 入院日記 リハビリ編 その14 »