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2018年8月 6日 (月)

入院日記 リハビリ・直立歩行編 その30

8月4日(土) 晴

寝不足気味だなまま6時前に起きる。昨日は「インド漬け」の1日だった。

療養を口実に無為の生活を続けているのだが、のめり込む対象ができただけでも有り難い。張り合いができた。

今朝も、入念にストレッチと左足指のマッサージをやる。装具をずすのはのはいつになるのか。

朝食をとって、2階で日記をつけながらくつろいでいると、10時前に弟夫妻が買い出しに来てくれた。

大リーグの大谷選手がホームラン2本を含む5打数4安打。久方ぶりの大当り。打率は2割7分代まで下がっている。シーズンが終わって3割前後を残せたら本物だ。ベーブ・ルースの記録(1シーズンの勝利投手数とホームラン数)には並んだらしい。

お昼はヒレカツ弁当。寝不足もあり2階で冷房を効かせて昼寝する。

BS放送で原爆投下の経緯の新しい事実についての特集を見る。昼寝で第1部を見逃し、2部のみだけ。4月にルーズベルトの急死で引き継ぎもないまま大統領になったトルーマンは当初は充分にリーダーシップを発揮出来ず、軍主導で計画がすすんでいく。京都が投下の第1候補(原爆の破壊効果が最大限に得られると言う地形から)にあったが、スチムソンの提言(一般市民を犠牲に巻き込まない)もあり自身も戦争指導者としてヒトラーの残虐性を越えることはしたくないとの恐れから京都は外された。軍事施設都市であるはず(軍部からの資料)の広島の原爆犠牲者に多くの女子供など一般市民が多数犠牲になった事実を知り、事の重大性に改めて衝撃をうけたのは、長崎に次の原爆が落とされる半日前のことだった。

原爆は2発目の長崎投下後も次のが準備でき次第、次々と候補地に投下することになっていた。「アメリカ人のみならず日本人の大規模な犠牲を避けるための原爆投下」と言うレトリックは、長崎投下直後の国民へのラジオ放送で、トルーマンの良心の呵責をことするために使われた(最初の手書き原稿には入っていなかった)、と言うのが最近のアメリカの歴史家による研究で明らかになった。

軍はマシンであり命令が下れば容赦なく突き進む。軍の原爆担当責任者(グローブス)が一番気にしたのは、破格の予算を使って開発した原爆で費用に見合う成果を出すことであったことで(議会への説明)、これもぞっとする事実。人は官僚機構の非人間性にのみこまれてしまう。原爆投下が長崎で終わったのは、トルーマンが原爆の恐ろしさと道徳的責任の重大性に耐えかねて、そう決断したから。ルーズベルトがまだ生きていたらどうなっていただろうか。

水撒きをしてから夕食。ビール、冷奴、焼き鳥、笹かまぼこと鮭茶漬け。昼飯が重すぎて軽め。

テレビサーフィン(池上彰氏の解説番組や高校野球特集)をするが昨夜の寝不足からか体がだるくうとうとする。

両親の部屋からのテレビの音(ベートーベンの第九)で目が覚める。23時前。行ってみると、照明もテレビもつけたまま眠っていた。母に注意を促すも深夜過ぎに再び同じ事を繰り返して漸く深い眠りについた。

ベートーベンの第九だが、第一次大戦のドイツ人捕虜(日本は中国の青島を攻めてドイツ人守備隊を捕虜にした)が、収容されていた徳島県の鳴門市で初演したらしい。番組は鳴門市での日本とドイツの関係者による合唱らしい。

その捕虜だが、リューネブルク市出身者が多かった。これが縁で、鳴門市とリューネブルク市は姉妹都市関係を締結、市民の交流があった。まだ20代の頃、自分も交流に関わる仕事をした。鳴門市にはドイツ人に同行して足を運んだ。収容所跡地を訪問したり、渦潮も見た。タイの刺身と阿波おどりの歓迎会にも末席に連なった。

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