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2019年2月 2日 (土)

2度目の雪、映画「マッキントッシュの男」、ヒトラーとチャーチル(後編)。

2月1日(金) 曇り後晴



5時過ぎに目が覚める。


ベッドの中でチャーチルの回顧録を読み続ける。真珠湾攻撃とアメリカの参戦により、チャーチルは急遽アメリカにトップクラスの部下を従えて出かける。アメリカの無限の力をいかに引き出してヒトラーに勝利するか。一方で、アメリカの主敵は日本であることへの不安、つまり、米国が日本と直接闘うことになるためレンドリースで得られる自分たちへの物資支援(優先順位として、①国内、②ソ連、③英国となるため)が回らなくなることへの。


6時半前、辺りが少し明るくなって来た。日没はどんどん遅くなっているが、日の出もこれからは少しずつ早くなっていくだろう。外はほんの少しだけ雪が積もっていた。幸いなことに生活に支障がでるほどのことではないので一安心。北米ではものすごい寒波に襲われている。極渦(Polar Vortex)というらしい。死者も出ている。



Yuki


朝食: 鮭の塩焼き、ポテトサラダ、農民風スープ、ご飯少々。それに、バナナ半分。


生ごみ出し(3袋)。その後、地元の市役所へ父の保険証の再発行手続きに出かける。帰り際、食材の買い物。これで午前中が終わってしまう。その間、父は30分の自宅でのリハビリ、それと、訪問看護師のケアーを受ける。


昼食: 石窯パンのオープンサンド(ポテトサラダとゴーダ・チーズとペストラミ)にコーヒー。
BS3で映画「マッキントッシュの男」(1973年製作)を観る。ポール・ニューマン、ジェームス・メイソン、若き日の美しいドミニック・サンダが出演。冷戦時代のスパイもの。舞台はイギリス、アイルランド、最後はマルタ島のバレッタ。登場人物には実在のイギリスのダブル・エージェント・スパイがモデルとして登場する。



そのスパイとは、、ユダヤ系のイギリス人とオランダ人のハーフで、第二次世界大戦で諜報活動に携わった後、朝鮮半島の英国大使館に勤務、朝鮮戦争で捕虜になり、共産主義を信奉するようになり(連合国の無慈悲な攻撃による名もなき人々の大量殺戮を目撃してソ連に将来の希望を託した)、KGBのスパイとなった。停戦後、帰国して、イギリスの諜報機関で仕事を続けるが、イギリスの機密情報をソ連に渡し始めた。1961年に逮捕され懲役46年刑を受ける。しかし、刑務所を脱獄して、ソ連へ逃亡。1990年代には自伝も出版、2019年現在、96歳でまだ元気らしい。


目まぐるしく展開するストーリーなので詳細は省くが、ジェームス・メイスンが演じるウィーラーことイギリスの愛国的な保守派の右翼国会議員が、実はソ連のスパイだったいう話。
MI6が放ったエースがポール・ニューマン(リアデン)で、ダイヤモンドに絡む事件で懲役刑を受けて収監され、脱獄するのだがその時に一緒に脱獄するのがお目当てのソ連のスパイ(スレイトという)で、リアデンはこのソ連諜報スパイリングの中に入り込み組織を葬ることが、スパイマスター(主人公の親分、マッキントッシュ)の目的だった。マッキントッシュは、ウィーラーを怪しいと睨み、罠を仕掛けて誘き出そうと仕組んだのだが、逆に先回りされて車に引かれて殺されてしまう。その娘が、リアデンをアシストするドミニック・サンダ。マルタ島の教会でウィーラーとソ連のスパイであるスレイト対リアデンとドミニック・サンダ演じるスミス夫人の対決。拳銃と拳銃を突き合せた対峙となる(Mexcian standoffと言うらしい)。



ウィーラー側から、お互いに今回のことは無かったことにして無傷で別れようという妥協を
提案がなされる。黙認するかのように銃持ったままのニューマンの前で、銃を置いて現場を去ろうとするウィーラーとスレイトだが、最後の最後でスミス夫人ことドミニック・サンダが二人を撃ち殺す。父の仇打ちでもある。「あなたは組織の命令を最後は無視したわね」と、スミス夫人は冷たく言い放ち、昂然とニューマンに背を向けて町の暗闇のなかに去っていく。佳作である。監督は、ジョン・ヒューストン。


休憩して、パクテー料理を仕上げる。たかが豚肉の煮込み(おでん)なのだが初回の出来はどうだろうか。




Pakute

17時からBS1で「ヒトラーとチャーチル」の後編を見る。以下、その内容と自分なりの視点を入れながら補足・要約すると、1940年5月10日、まさに、チャーチルの首相就任日だが、ヒトラーはフランスへの電撃作戦に着手。連合軍はなすすべもなく追い詰められる。ダンケルクの戦い。息の根を止められる寸前だった。


しかし、ヒトラーは抹殺の命令をしなかった。ダンケルクでヒトラーが寛大だったことの裏には、ヒトラーの対英融和の意図があった。チャーチルは、そのおかげもあって、武器類を放置したまま最小限の被害のもとに兵士たちの命を救い出すことに成功し、国民の喝采を浴びる。自国の兵士を単なる消耗品のごとく扱い無駄な死を強いる無慈悲なヒトラーとはまったく対照的である。


ヒトラーは、ポーランドの行動の自由を認める代わりに、ドイツは大英帝国の権益を尊重する、という提案をチャーチルに行う。しかし、チャーチルはニベもなく拒絶し、目論見は頓挫する。そして、ゲーリングの指揮のもとドイツ空軍によるイギリスの軍事施設攻撃が始まり、イギリスは窮地に追い込まれる。流れが変わったのは、ドイツが、誤ってロンドンに爆弾を落とした(軍事施設以外への攻撃は戦時国際法違反)ことを口実に、チャーチルが、
周囲の反対を押し切って断行した軍事施設ではない首都ベルリンの爆撃。心理作戦である。空襲の規模は大したことはなかったが、ヒトラーは激高して、イギリスの諸都市への戦略爆撃を開始する。イギリスはその間に軍需施設で航空機を増産できることになり、結局のところ、バトル・オブ・ブリテン(7月から10月)でドイツは破れ、制空権を失ってしまうという皮肉な結果となる。このあたりの経緯は紙一重のような気がする。


イギリスへの侵攻をあきらめざるを得なくなったヒトラーは、翌年の1941年6月、独ソ不可侵条約を破ってソ連へ侵攻する方針転換を行う。スターリンの失策もあって、破竹の勢いでレニングラードとモスクワに迫るドイツの機甲師団だったが、いつもより早く訪れた「冬将軍」の前に立ち往生する。



日本は、独ソ戦開始の前の4月12日にソ連と日ソ中立条約を結んでいる。ヒトラーは、対ソ防共協定であった1939年の三国軍事同盟締結の直後にも、独ソ不可侵条約をスターリンと結び、日本を困惑させたのだが、ソ連侵攻も,まったく同盟国のイタリアや日本に前もって相談せずに独断専行したのだった。事前に日本と相談して共同歩調を取っていれば、日本は北進=ソ連攻撃もあり得たのではないか。



ソ連はスパイ・ゾルゲ(それ以外の情報も複数あったらしい)をもとに、日本が南進することを見極めた10月にはに極東軍を西部戦線に充てる行動に移っている。アメリカのレンド・リース(武器をはじめとする戦略物資の支援)も始まった。この二つの要素が、ドイツを敗北へと導いていく。そして、12月の日本による真珠湾攻撃とアメリカの対日宣戦布告。三国同盟には、この場合、ドイツに対し自動的に対米宣戦布告となる条項はなく、ドイツが宣戦布告をしなければ、アメリカは欧州戦線では戦わず、日本だけとの闘いになる可能性があり、チャーチルは回顧録でこの点を密かに心配していたと正直に告白している。「歴史の謎」だが、ヒトラーは、アメリカに対し宣戦布告した。テレビのドキュメントでは、ヒトラーは、3000年不敗の日本が同盟国として戦列に加わった。ドイツは勝つであろう、と楽観していたらしい。


1943年、春の到来とともに、戦争経済の台所事情からヒトラーは石油を取りにボルガ川・コーカサス方面へ侵攻する。軍事的には間違った戦略(戦力の分散)だったが、石油がなければ戦争は出来ないドイツの弱点(ルーマニアの石油は貧弱なものだった)故の選択であった。スターリングラードの死闘。そして、2度目の冬将軍。そして、ドイツ軍の降伏。ヒトラーは呟く:勝利の神様は敵側に行ってしまった。一方で、この年の5月には連合軍がシシリー上陸。スターリンの要請によるヨーロッパの第二戦線の開戦である。この年11月に開催されたテヘラン会談で、チャーチルは大英帝国の立場が、アメリカとソ連の立場と比較して2次的になってしまったことに愕然とする。


そして、北アフリカ戦線での攻勢、、1944年6月のノルマンディ-上陸作戦。ヒトラーの運は尽き、劣勢に歯止めがかからず引きこもりになる。戦争指導をヒトラーが一人で決定するのに対し、チャーチルは、アメリカをはじめとする連合国首脳陣との連携努力はもちろん、大好きな戦場へしばし足を運んで激励をするパフォーマンスをするなど、対照的だった。1945年1月、ベルギーのアルデンヌの森で繰り広げられたヒトラー最後の反攻も緒戦は善戦したがあっけなく敗北。万策尽きたヒトラーは、首相官邸のの地下塹壕室にこもりドイツの破壊を命じ、エヴァ・ブラウンと結婚した直後に自殺を遂げる。ドイツの暴走は終わった。ドイツを破ったチャーチルだが、このときはもはや英国の首相ではなかった。2月のヤルタ会談の途中で労働党に政権を譲り途中で帰国したのだった。しかし、ドイツの敗北で沸き立つロンドン市民が歓呼の声でたたえたのは王室と並んで映し出されるチャーチルであった。一番幸せだった時のことを聞かれて、チャーチルは1940年に首相に返り咲き戦争指導を始めた瞬間だった、と答えたという。


夕食:パクテー(豚肉の煮込み)、オレンジジュース、ポテトサラダ。それに、農民風スープにきしめんを入れて仕上げる。パクテーは塩加減が不足していた。少々だが醤油をかけてちょうどいい味になった。ただ、肉は思ったほど柔らかくはなかった。次回は圧力鍋を使ってみよう。さっぱり味のおでん風のパクテー味がいいのか、甘辛くねっとりと柔らかく調理するトンポウロウのほうがベターか、迷うところだ。

夜遅くまで2階で日記を書いたり、ブック・サーフェインとネット・サーフェインに興じる。サッカー・アジアカップの決勝戦だが、23時から。歳を考えてその前に就寝。

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