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2019年4月20日 (土)

庭のモクレンが開花

4月19日(金)晴

日記を書きそびれているうちに一週間があっという間に過ぎてしまった。

先週末は上京。Yちゃん親子と一緒に食事をしたり、軽音楽部に入るので、エレキギターの購入に付き合ったり。出発の当日は春爛漫のぽかぽか陽気。歩いて地元の駅まで散歩したが、空にはツバメが舞っていた。

父の風邪が順調に快方に向かったので安心して上京したのだが、日曜日の夜に帰宅してみると、今度は母が風邪の症状になっていてびっくり仰天、病院騒ぎにはならなかったが、少々焦ってしまった。

三寒四温の寒も徐々に遠のき、もう初夏の予感。庭ではモクレンの花が今週火曜日から開花した。

Mokuren  

パリではあのノートルダム寺院が火災で大きなダメージを負ったとの騒ぎ。1976年の9月に、ドイツゼミ(3か月)の終わりに初めて訪れたパリのこの寺院はその後も、何度かパリに足を運ぶ度に目にしたエッフェル塔とならぶパリのランドマークだ。奈良の法隆寺が焼け落ちたみたいなものだろう。気の毒なことだ。

平成の残りも秒読みに入ったが、自分は相変わらず、ぶらぶら、家事のヘルパーをしながら、読書三昧で日々を打っちゃる日々で、この一週間は、ソ連の外交官だったグロムイコの回想録が面白くて他の本そっちのけで読みふけった。1909年に生まれ、1989年に他界。ロシア革命が勃発した時は8歳。共産主義ソ連とともに生き、崩壊する直前にに他界したある意味で幸せな人。ベラルーシの寒村(グロミキィ村、これがグロムイコさんの姓にもなっている)の半農・半工の家にに生まれた。お父さんは、日露戦争と第一次大戦に徴兵されている。

革命精神をごく自然に受け止め、共産青年団(コムソモール=ヒトラーユーゲントの共産主義版)に参加する。優秀さを買われ、上級の学校に進学し、とんとん拍子で最後はモスクワで経済学を学び、研究員になってすぐに、外交官のキャリアパスに入る。1939年ということは、弱冠30歳でアメリカ大使館に送られる。スターリンを始めとするソ連の指導部のサークルに入り認められ、ルーズベルト、チャーチル、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディー、ニクソン、カーター、レーガン、毛沢東、周恩来、ナセル、ネルー、カストロ、ダレス兄弟、キッシンジャー等、世界を動かした数知れない大物たちと半世紀に渡って渡り合うという稀な人生を送った人だ。

グロムイコさんは、根っからのソ連共産主義の信奉者であった。ソ連に忠実な立場で世界情勢を語りながらその時代、その場所で出会った人達
の寸評がとにかく面白い。芸能人では、エドワード・G・ロビンソンやチャップリンやマリリン・モンロー、はたまた、パリではあのピカソも登場する。

回想録が発表されたのはゴルバチョフのペレストロイカ時代でソ連崩壊直前のこと。この本が日の目を見たのは幸運だった。グロムイコは共産主義の教義に対する確信は最後まで揺らぐことなかった。あのあっけないソ連邦の崩壊に居合わせなくて幸せだったと言える。それは別として、子供時代のかすかに残る帝政ロシア時代のこと(一番恐ろしかったのは皇帝ツァーであり、その代理人である髭を生やした官憲と彼らが乗る馬具の鈴の音)回想シーンや、自分の読書体験(グロムイコ氏は無類の本好きだった)や最初の妻との出会いでの恋心の正直な吐露など、氏の語り口には、人間として率直さ、誠実さとそこはかとないユーモアが感じられて共感すら覚える。

キッシンジャー氏については、彼の非凡な能力を認めつつ、グロムイコ氏は、SALT交渉ではお互いの誠意が通じて成立したと思っていたのに対し、キッシンジャー氏が回想録で、いかに自分が相手を出し抜いたかを得意げに語っている箇所に違和感と幻滅を感じたと本音を吐露している。マルクス・レーニン主義者としてロシア革命の正義をを固く信じていたグロムイコ氏には結果がどうあれ、一貫した立場があったが、キッシンジャー氏には堅固な立場というものがなく、時と場合によって立場を180度変えるオポチュニストにして、相手を出し抜く油断ならない野心家である、との人物評価をしている。

それは、そのまま、アメリカという国の政策にも当てはまることで、それに対して、グロムイコ氏は失望を表明している。アメリカがそのままルーズベルト路線を踏襲していればまるで問題はなかったような願望的ビジョンを持ち続けていた。ヒトラーの裏切りにより独ソ戦が始まり、レンド・リース(アメリカのソ連に対する武器・食料の援助)がアメリカの議会で承認されたものの、実際に物資が届き始めたのは独ソ戦開始の1年後、つまり、ソ連が負けることはないことが分かってからのアクションだった、というアメリカの計算高さ(アメリカを動かしているのビッグ・ビジネスの都合)にもチクりとコメントしている。


国連創設のために1945年4月に開催したサンフランシスコで出会ったイギリスの駐米大使のハリファックス卿(ヒトラー政権に宥和的だった貴族政治家)については、彼はほとんど国連というものがどういうものなのか、とんと興味もなく理解していなかった、と皮肉っている。彼の話ぶりも、もったいぶっていて独特の装飾で散りばめられ、何を言っているのかさっぱり分からなかった、と。


アパルトヘイトで悪名高い南アフリカのスマッツ首相(オランダ系のアフカーンス)とのちょっとしたやりとりの挿話も笑える。

Smuts: You should be aware, Mr. Gromyko, that during the Boer War I took Chruchill himself prisoner.
(グロムイコさん、ブーア戦争時、私はチャーチルを捕虜にしたということ、是非ともお知り置きください)

Gromyko: That did not prevent you from becoming a prisoner of his politics later.
(そうだとしても、あなたは結局のところ、彼の政治の捕虜になることを防げなかったではないですか)

スマッツ首相はグロムイコ氏の非肉を理解していなかったようだと回想している。


スターリン時代の圧政による凄惨な犠牲についても回想録では正直に触れている。キッシンジャーの「On China」について香港政庁最後の総督だったパッテン氏が書評で、彼の中国との長年の外交の回想において、毛沢東が引き起こした内政上の惨禍について一言も触れていないないことに関して疑義を呈していたことを思い起こせば、その対比において人間としての誠実さにおいてはグロムイコ氏に軍配が上がるのではなかろうか。キッシンジャー氏はどこか無慈悲さがあり、それは、べリアに通じるものがあるのではないか、と勝手ながら勘繰りたくもなる。

スターリンのもとで、無慈悲な粛清劇の執行者であったべリアだが、スターリンの死後、ベリヤ(スターリンの粛清劇の執行者)は失脚した。
グロムイコ氏はひとつの挿話を披露している。それは、べリアが同じ社会主義国として仲間になった東ドイツについて「東独が何なのだ。ソ連軍の戦略的駐屯地以外の何物でもない」という冷酷で吐き捨てるような発言に対し、政治局の面々が唖然とし、反論し、一人だけ気まずい困惑に取り残される場面だ。その後、べリアは失脚、銃殺刑となった。

読了は本日21時41分、2階のベッドの中。なかなか読ませてくれる回想録だった。良質の文学作品を読んでその感動の余韻にひたるようなそんなほのぼのとする読後感に包まれながら就寝。

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