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2019年6月27日 (木)

イシモチ狙いの夜釣りは不発。アントニー・ビーバーを読み進める。

6月27(水)晴時々曇り

昨日は夕方から2年ぶりの夜釣りを敢行したがあえなく轟沈。夕食の準備と後片付けが終わった18時前、勇んで家を出た。潮は小潮であまりよくないが、満潮は22時ごろ。上げ潮三分から九分まで那珂川河口でイシモチを狙ったがまさかのボウズ。唯一のあたりはクサフグの1尾だけだった。潮は関係ない?むしろ時間帯か。日没2時間後から深夜にかけてバタバタ釣れる経験は過去に何度かあって記憶に残っている。延長戦をしようか。迷った。が、しかし、歳が歳。駄目なときはダメだとあきらめて納竿(21時半)。帰りに那珂湊漁港に寄り道したが釣り人はほとんどいなかった。15分だけ竿を出して、第一投でシロギスを釣り上げて気が落ち着き家路についた。

今日は、いつもの朝の家事をしたあと、再び那珂湊漁港へ。魚の買い置きが切れたのでお魚市場での買い物が目的だったが、1時間半ほど竿も出した。狙いはシロギス。

 Nakaminato5_20190627133901

第一投で20㌢前後の良型がヒット。80㍍近く遠投してサビキながら探っていると何と30㍍地点でコツコツコツ―ンという小気味のいいシロギスのアタリの連打が!心躍る瞬間である。その後も投げるたびに40㍍~20㍍地点でアタリが発生し3尾追徴。初っ端に根掛かりで力糸と25号の天秤おもりとともに仕掛けが取られるトラブルもあった。0.8号のPEと力糸の結び目が脆弱ということにあらためて気づかされる。これで2度目のトラブルだ。1000円近いラインと500円の遠投錘が海に消えてしまってすこしばかり心がいたかった。

手のひらより小さいカレイ

Hirame-karei

冷蔵庫の中はシロギスが10尾となった。今度こそは天ぷらを作ってみようか。

Shirogisu10  

アントニー・ビーバーの「第二次大戦」を読み続ける。北アフリカでのイギリス軍(英国・豪州・ミュージーランド)とロンメル率いる独軍(イタリアがドイツの地中海の護送をする)との戦い。英領マラヤシンガポールの陥落、香港の陥落、蘭領インド、米領フィリピンの陥落。真珠湾攻撃より1時間半早く日本はマレー半島に上陸した。英国に宣戦布告することもなく。チャーチルやルーズベルトにとっての主戦場はドイツが暴れまわるヨーロッパ。日本に対する不安はあったが、見くびっており、チャーチルは2隻の戦艦を新たにシンガポールに配置することで日本を抑止できると考えていた。アメリカもフィリピンの軍事力を増強はしていた。すでに、日本が攻撃をしかけてくることは英米とも予想していたが、日本による彼らの想像を超えた被害にかなり慌てたようである。慌ててはいたが、ソ連のスターリンと同じだった。戦争には勝った、とこの時点で確信しているのだ。この余裕振りは一体何なのだ。戦争に対する見通し(日本は緒戦の半年の展開は想定済みだったがれ以降はまったく白紙だった)のレベルの次元が違いすぎた。

日本に最初の一撃を打たせる英米の戦略は陰謀ではなかった。計算ずくめの冷徹な計算のもとにすすめられた作戦であった。日本は彼らの筋書きどおりに英米を攻撃したのだった。ああ、悲しや。まるで阿呆である。何故、英米をさけて直接に蘭印の石油を取りに行かなかったのか。ハルノートの存在は、事前にアメリカの議会に知らされていなかった。小室直樹氏によれば、ハルノートを新聞等で公表して世界の世論に訴えた上で蘭印の石油を取りに行けば、アメリカは第二次大戦に参戦できなかった、と。岡崎久彦氏はパール・ハーバー攻撃をしなかったとしても、いずれ米英と日本は干戈を交えることになった。しかし、そうだったとしても、真珠湾攻撃がなかったら硫黄島の戦いで休戦協定が成立していただろうと。山本五十六は戦術の天才だったかも知れないが、戦略的観点からは落第生であった。

チャーチルとルーズベルトの間では1000通以上の書簡が取り交わされたらしいがすべてが、今もってすべてが公開されているのではないという。チャーチルの「第二次大戦回顧録」を原文で毎日少しずつ読んでいるが、ルーズベルト宛てのメモ類があちこちに出てくるけれど当然ながら肝心なものは出ていないと推察される。チャーチルは19世紀の人間であり、大英帝国の栄光を一身に背負っていた。一方のルーズベルトは、アメリカ国民と同様、イギリスの植民地主義に対する嫌悪感があった。アメリカの非介入主義者(「孤立主義」というのは、アメリカのモンロー主義=ヨーロッパの政治には一切かかわらない=そのかわり、アメリカの裏庭である南米にヨーロッパは手をだすな、というアメリカの伝統的な国是。このモンロー主義者を非難するためのウィルソン大統領から始まった海外介入積極派による非介入はに対するネガティブなレッテルである。「天皇制」という言葉がコミンテルンテーゼからでているようにマルクス主義史観からくる日本の伝統を否定し、共産革命を起こすことを前提にしたネガティブなレッテルであることと同じである。つまり、特定の立場の人のバイアスがかかっているのだ)。

岩波新書「昭和史」は大変よく書かれた歴史書である。しかし、著者の視点、歴史を解釈するスタンスは、いわゆる「講座派」である。講座派とは、マルクス主義にもとづく歴史観である。彼らの史観によれば、第二次世界大戦とは3つの性格が特筆されるという。同じことは、イギリスの著名なマルクス主義の歴史家エリック・ホブズボームも述べている(「極端な時代 1914-1991」)。

① 帝国主義戦争(英米対日独伊)
② 民主勢力(英米+ソ連)対ファシズム勢力(日独伊)
③ 被圧迫民族の民族解放戦争

①と③についてはまったく同感である。しかし、②は間違っているとは言わないが表現が誤解を招くので言い換えが必要だ。「民主勢力」というのは目くらましの言葉だ。英米の民主とソ連の民主は意味が全く違うのだから。北朝鮮だって人民民主共和国と、民主を謳っている。真相は、「優位にある帝国主義国(英米自由民主主義)」と「赤い帝国主義国(自由民主主義とは無縁の全体主義国家)」によるグローバル版「国共合作」勢力と、「劣位にある帝国主義国(ファシズム、ナチズム、軍国主義であれ、自由民主主義とは無縁の全体主義国家)」との戦いであった、ということだ。「優位にある帝国主義国」と「赤い帝国主義国」と「劣位にある帝国主義国」、つまり、3つの勢力が覇を競うグローバル版の「三国志」であったのだ。だから、1945年の「劣位にある帝国主義国」の敗戦は、第二次世界大戦の終了ではなかった。あくまでも「三国志」の一角が崩れたという意味であって、「赤い帝国主義国」ソ連の崩壊した年、1989年が実質的な終了であった。つまり、「民主勢力」というのは、本来なら相容れない「自由民主主義の英米」と「共産主義・全体主義のソ連」が自らの原則を曲げて便宜上手を結ぶという道徳的な後ろめたさをカモフラージュするための一般大衆にたいするプロパガンダ用語であった、ということである。

20世紀の悲劇は、「社会主義」(インターナショナリズム)と「ナショナリズム」(自民族優先主義)の2大潮流の激闘に淵源がある。その悲劇の度合いも、西洋が生み出した「近代資本主義」が土台とする「テクノロジー」の発達により前代未聞の凄惨さとなった。

日中戦争は、日本が中国に仕掛けた帝国主義戦争であり、中国にとっては民族解放戦争であった。日中戦争の同じバージョンが、1945年以降、朝鮮半島やベトナム、英領マラヤ、蘭領インドで繰り広げられた。イギリスを含む欧州の帝国主義国は、遠隔地アジアで戦力を保持して権益を維持する力はなくあっさりと撤退したが、アメリカは、朝鮮半島とベトナムでドロ沼にはまり前者では引き分け、特に、後者においてはまさに、日中戦争を地で行くような長期戦の泥沼を強いられ結局敗戦と国力の消耗を味わう屈辱となった。しかし、ニクソンとキッシンジャー時代に自ら撤退した、というのがアメリカの自己修正能力の偉大さである。日本が、徹底的に不様な敗戦を自ら招いて、明治維新以来営々として積み上げたすべてを失い茫然自失となるまで転落してしまったのとは大違いである。

英米は決して一枚岩ではなかった。ある意味、同床異夢であった。イギリスから独立した植民地アメリカはむしろロシア革命後のソ連に対する親近感があったことは否定できない。性質はまったく違うが、民が主の、皇帝や王様がいない、共和国であった。ルーズベルトの構想の基本は、植民地主義を否定する点でソ連と価値観を共有し、アメリカとソ連が世界を2分割して牛耳る、それに、アジアは、蒋介石の中国、植民地を清算した大英帝国(植民地がなければ大英帝国は没落するが)の4大国による世界統治だった。ちなみに、ルーズベルトはド・ゴール将軍を毛嫌いしフランスを戦後の世界統治構想からはずしていたが、チャーチルのとりなしでしぶしぶ入れたらしい。ルーズベルトが重用した取り巻きに共産主義者・社会主義シンパが多かった。一部の人間は1990年代のベノナ文書公開でソ連のスパイであったことも実証された。つまり、マッカーシー上院議員が行った左翼狩りは行き過ぎはあったが、主張は間違っていなかったのだ。ルーズベルトは、彼の取り巻きの影響を受けた結果、ドイツの非工業化=農業国化構想、ヨーロッパ大陸全体をソ連に引き渡す考えまで持っていたというから、恐ろしい。テヘラン会議までは楽観主義に満ちていたルーズベルトだったが、さすがに、ヤルタ会談(死の直前)ではスターリンに疑念を持ち始めていたらしい。それでも、ソ連の対日参戦に関連しては千島列島も含む日本の領土や満州での権益(南満州鉄道や大連、旅順などの使用権)までスターリンに譲歩(蒋介石の事前の了解をとることなく)しているのだ。急死したルーズベルトを引き継いだ根っからの反共主義者トルーマン大統領がヤルタの密約を知り茫然自失したのはむべなるかな。

チャーチルは、共産主義にナイーブなルーズベルトへの批判は一切押さえた。チャーチルの側近の証言では、屈辱的なへつらいの態度で接していたという。アメリカの援助なしにはもはや大英帝国は風前の灯であったからだ。1940年5月からのほぼ1年ちょっとはイギリスだけが暴れまわるドイツと孤軍奮闘していた。1941年6月22日の独ソ開戦は天恵であった。チャーチルは、ロシア革命直後に干渉戦争を強硬に主張した張本人であり反共スタンスは筋金入りである。そのチャーチルがソ連へのスタンスを180度変えた。ソ連は難敵ドイツの牙の矛先を受けてくれるのだから、すぐに負けてしまっては困る。頑張れ、ソ連!。すぐさま、チャーチルはスターリンにシグナルを出して、英ソ連携と支援に動いたのだった。疑い深い性格が骨の髄までしみ込んだスターリンは最後までチャーチルの真意を見抜いて疑念を持っていたらしい。一方、天真爛漫なルーズベルトには心底信頼感を持っていたという。何せ、じゃぶじゃぶと援助物資をアラスカ経由、ペルシャ経由でそれも無償で(?)貢いでくれるのだからルーズベルト様様であった。一方のイギリスは口先だけで、援助も時代遅れの役に立たない代物だけだった。

ルーズベルトはチャーチルの、イギリスの狡猾さをしらなかったわけではないようであったらしい。ルーズベルトの取り巻き(親ソ派が大多)は、一貫してイギリスの植民地主義を毛嫌いしていた関係もあり、チャーチル批判が喧しかったという。それを押さえて丁重に扱ったのがルーズベルトらしい。イギリスもソ連もアメリカ頼みだった。ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3人の主役は当然ながらルーズベルトであった。そのルーズベルトは第二次大戦の結果を見ることもなくヤルタ会談直後に急死してしまったのは残念である。とくに、回顧録に類する証言を残して繰らなかったことはかえすがえすも悔やまれる。

2019年6月24日 (月)

週末は天候悪し。ビーバーの「第二次世界大戦」を読み進める。

6月23(月)雲り、時々雨

シロギスの天ぷらんは断念。面倒くさい。スーパーで天ぷらの盛り合わせで代替し、7尾のシロギスは素焼きにして酢醤油で食した。シンプルな味で美味。こういう食べ方も悪くない。

終末は天気が悪く、釣行は断念した。日曜日は中潮最後の日で、満潮が夜の21時。サンマの切り身を餌に那珂川河口付近で夕方からイシモチを狙おうと朝からソワソワしていあのだったが、冷たい風が吹き、夕方からパラパラと雨。残念であった。

その代わり、2階のベッドにゴロリとなって3月以来休止していたアントニー・ビーバーの「第二次世界大戦」に再び着手。3章ほど読み進めた。

以下、その雑感:

独ソ戦開始とともに始まった戦線の背後で行われた陰惨な大量殺戮(ユダヤ人、戦争捕虜、一般市民、はたまた、ドイツ国内の精神疾患者の安楽死)はうんざりする。

7月になると英国とソ連で協定が結ばれるが(共同でドイツと戦う)、その直後、米国のルーズベルトの特使ハリー・ホプキンスがスターリンに会いに来る。現状の確認である。アメリカ大使館の軍事専門家が5~6週間でソ連は負けると考えていたが、ホプキンスはソ連は持ちこたえると結論してルーズベルト大統領に報告するくだりがあるがその判断の根拠は何なのかは本で示されていない。

ソ連に対する英国の援助と米国の援助には雲泥の差があった。イギリスの物質的援助は旧式の戦闘機や戦車で使い物にならなかった一方、アメリカのそれは軍需物資を始め食糧など圧倒的だった(議会の承認を得るために実際にソ連に届いたのはほぼ1年あとのことらしい→グロムイコの回顧録にもあった)。1945年、ソ連がベルリンに快進撃したジープや輸送車はアメリカ製であった。同様に、満州に攻め入ったソ連軍の移動に使われたのも同様であった。

スターリンは、チャーチルに、ドイツの同盟国軍として参戦しているフィンランド、ルーマニア、ハンガリーに宣戦布告するように要請したがなかなか応じなかった。冷酷な計算、つまり、ソ連は負けるだろうという様子見。チャーチルにしてみればソ連ができるだけながく持ちこたえてドイツとたたかっている間に、大英帝国の防衛固めながらドイツとの長期戦を戦い抜く体制を作っていくという冷徹な戦略の計算があった。スターリンはスターリンで、ドイツと西側の帝国主義国との血で血を洗う戦いで消耗させたかった。

ビーバーの筆致では、ルーズベルトのアメリカのソ連支援はまったくの善意、他者への施し的なものだったという書き方をしているのだが、これには疑問符がつくであろう。すでに世界の超大国であったアメリカは、第一次世界大戦においてそれまでの伝統的な国是であった孤立主義を捨てたのであり、この時期は内向的になっていたが、ルーズベルトのリーダーシップは、世界の秩序の混乱要因であった日独伊らの遅れた資本主義国の独裁国家による乱行をイギリスとソ連でが戦うのを支援して、漁夫の利を得ることで世界に君臨する(アメリカ的な民主主義と産業・商業主義を広める)ことを目指していたのだった。

スターリンのずうずうしさ:イギリスのモスクワ大使に、ポーランド東半分やバルト三国、ルーマニアなどナチスと共謀して獲得した領土(かつてはロマノフ王朝の領土であった)を戦後に承認してほしいという要求している。ハリー・ホプキンスのソ連は負けないという判断は、スターリンを始めクレムリン指導部のこのような余裕?から推察したのだろうか。

イギリスとソ連の侵略:ペルシャ(イラン)は中立国だったが、石油資源とコーカサスへの輸送ルート確保のために共同で軍を派遣して押さえた。戦略上の必要から行ったことだろうが、著者はinvade(侵攻、侵略)という言葉を使っている。日本の仏印進駐(英米の蒋介石支援ルートを封鎖するため)と同じことである。

ゾルゲのことも出てくるが、真珠湾攻撃の直前、フォン・ボック将軍の独中央軍がモスクワまで100キロと迫ったところで、ジューコフのソ連が反撃にでる。そこでの主役はシベリアから送られた精鋭部隊であった。ちなみに、孫崎氏の本「日米開戦へのスパイ」では、シベリアの精鋭部隊をヨーロッパに移動させる決断はゾルゲ情報が出る前の時点ですでになされていた(ジューコフの要請によりスターリンが決断)という。ソ連にとっての心臓はソ連の西半分であり極東はいったん捨ててもいいという背に腹は代えられない覚悟での決断だった、と。ゾルゲ情報が決定打となってソ連を救ったというのはすくなくとも事実ではない。

ソ連の強さとは広大無辺の空間と過酷な気候(冬)、無尽蔵と思えるほどの資源(人的および物理的の両方)。総勢150万のドイツ精鋭部隊が蹴散らしても蹴散らしても、どこからか湧いて出てくる戦闘部隊。攻め入って気が付くと長く伸び切ったロジスティック・ライン。分断とゲリラ作戦による後方攪乱。過酷な冬。精神も肉体もやられ戦意を失っていくドイツ軍。

アメリカもロシアもそして、中国も(そしておそらく、インドも)等は別次元の存在である。nationa state(国民国家)を超えた何かである。現状では他の多くの国と同じ振る舞うことを原則とする国際法にしばられる存在ではあるが、いざとなれば、私のいうことが法である、という行動を取れる潜在的能力を持っている。「封じ込めができない存在」とも言える。最悪は、どんな形にせよ自給自足が可能。

ルーズベルトもチャーチルもスターリンもそれぞれの国柄を背負った上での有能で稀有な「独裁者」であったと言えるだろう。ヒトラーという独裁者を持ってしまったドイツは不幸であった。ヴェルサイユ条約という欠陥だらけの平和協定がドイツに押し付けられなければヒトラーは登場しなかっただろう、と言う一部の主張があるが、歴史におけるifだとしても、十分根拠のあるように思える。残念でならないのは、日本にこれら第一級の政治家と伍していける賢明で有能な政治家がいなかったこと。いたとしても、陸軍のテロで暗殺され、結局は1945年の運命を免れなかったのだろうか。

2019年6月21日 (金)

何とかシロギス7尾。

6月21日(金)晴れたり曇ったり

世間を騒がす事件がおぞましい。子どもの虐待による死亡事故は悲惨である。いつの時代にもあっただろうとは思うけれど、豊かになって久しい日本でなぜなのか。農林水産省のもと事務次官が引きこもりの息子を刺殺して殺人罪で起訴される事件もむごい。むかし、息子が親をバットで殴り殺した事件もあった(1980年ごろ)。「8050問題」というのがあるのを始めて知った。そして、警察官が命を狙われて銃を奪われる事件がまた起こってしまった。一方で、交通事故死はかつて年間1万人以上が死んでいたのが昨年は3千人ほどに減ったというのは朗報だ。しかし、気になるのは高齢者が引き起こす事故(逆走、操縦ミス)が頻発している。他人事ではない気がする。

このところ朝の目覚めの読書にシュテファン・ツバイクの日記を拾い読みしている。第二次世界大戦勃発(ドイツのポーランド侵攻)の部分。すでに祖国オーストリアを脱してロンドンに逃れていたユダヤ人のツバイクはそのころ同じユダヤ人で精神分析学の創始者であったフロイトがロンドンで客死した際、弔辞を読みに葬式に参列してた。ドイツのポーランド侵攻の2週間後にソ連がポーランドの東側半分を占領したことに対し何故英仏がドイツと同様に宣戦布告しないのか憤慨している。よくよく考えると、確かに不思議なことだ。ポーランドの独立を保証したからこそ両国は対独開戦に踏み切ったのに、ドイツと共謀したソ連は対象にしなかったのは何故なのか。ヒトラーもスターリンも同じ穴の貉みたいなものだった。ドイツにしか宣戦布告しなかった理由は英仏だけでは、ドイツだけで持て余しているのにソ連も含めて敵対することはまったく物理的に無理だった、という単純な理由からだろう、と推察される。その後の推移で、ヒトラー没落の原因となった2年後のソ連侵攻によってソ連は連合国の仲間になってしまったのだが、イギリスはそれを見通していただろうか。

Zweig

家の玄関先でカメムシを発見。始めてみるカメムシだ。インターネットで調べるとヨコヅナカメムシというらしい。

Kamemushi

水疱瘡の罹患と治療から一ヶ月が経過した。ようやく神経痛も収まり幸いにも後遺症はのこらず完治したようだ。そして、不調のイシモチ釣り(鹿島灘のヘッドランドでは爆釣らしいが、足のケガが治ったとは言え、足場が悪い上に、海に落ちたら離岸流に流されるか、はたまた消波ブロックに挟まれてまず助からないというり命がけの釣りはしない)昨日と今日は半日ずつ那珂湊漁港でのんびりと竿を出してシロギスを狙ってみた。本当はサーフから遠投して本格的に狙いたいしそのためにPE0.8号のラインも準備したのだが、5色、6色(100㍍以上)投げるのがしんどくて結局、漁港でのちょい投げを選んだ。

Nakaminato

昨日は(早朝2時間と午後の1時間半)何とか3尾(13㌢~15㌢)。

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本日は午前中(9時~11時半)で4尾(13㌢~19㌢)。

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合計7尾。先週3尾釣ったときは50㍍先のポイント前後で釣れた。昨日は70㍍地点で2尾、25㍍地点で1尾だった。今日はすべて90㍍地点前後だった。時間と潮の状況でこれほど違うのだからたかがキス釣りとはいえ奥が深い。問題はまだ時期的にキスの存在が薄いことだ。アタリが出たらすこし先になげてそこを集中的に狙うのだけれど2尾、3尾のあとが続かない。アタリが消えてそのままだ。どこへ行ってしまうのか上げ潮のときはどんどん護岸によって来るのだろうし、下げ潮のときはどんどんポイントが遠くなるのだろう。頭で理解はしていても50㍍以上先のポイントへ誤差ナシで仕掛けを投入するのは結構年季がいる技だ。

那珂湊漁港の利点は万が一釣れない場合はお魚市場で鮮魚を買って帰ることができることだろう。今夜は、購入した大きめのメバルの清蒸を久しぶりに作って白ワインを飲みながら食べた。香草は三つ葉を使った。清蒸は、生きのいい素材のおいしさを味わうにはもってこいの調理法だと思う。シロギスのほうは、合計で7尾になったので夏野菜と一緒に近々天ぷらに挑戦してみようかと思う。

Mebaruchnjon

2019年6月19日 (水)

なかなか爆釣モードにならない釣り。ゾルゲスパイ事件について。

6月13日(木)晴れたり曇ったり~6月19日(水)晴れたり曇ったり

またまた日記とご無沙汰してしまった。

イシモチ釣りがなかなか爆釣モードにならない。2時間から3時間やって1尾か2尾ではどうしようもない。釣れないわけではないが時合、バタバタっと押し寄せる生命の息吹みたいなものがないのは寂しい限りだ。どういうことなのだろう。

6月13日の一尾(イシモチ26㌢)@那珂川河口

Ishimoti-26cm

イシモチのボンファム風。

Bonfamu

6月14日の3尾(シロギス3尾、18~19㌢)@那珂湊漁港

Shirogisu-3

本の整理がとまったままだ。コンマリさんの言う通り思い切りが大事だ。もう2度と読まない本はどんどん捨てよう、と思いつつ捨てきれない。
グッバイ・トゥー・ブックス。お別れするにしても今一度何等かで手にして買った本なので確認して処理してから捨てよう、そう思い始めている。その一環ということではないけれど、昔ドイツ語を習いたてのころ、19世紀の作家でシュトルムという人の対訳本を読んだ。整理したら出てきたので先週家籠りしていた間に、毎朝一つずつ読んだ。「広間にて」「マルテと彼女の時計」「陽を浴びて」。高橋義孝訳のみ「みずうう」、「ヴェローニカ」「大学時代」も再読した。

Storm

北ドイツ人のシュトルムは法律家。南ドイツ人のカロッサは医者。創作者(Dichter)としては2流だとは大学時代のN先生の言。カロッサは、第一次世界大戦に軍医として従軍した「ルーマニア日記」を読んだことがある。未読の岩波文庫「美しき惑いの年」を読み始めることにした。毎朝、一篇ずつ。

 

さて、孫崎享氏の「日米開戦へのスパイ」について。

ゾルゲスパイ事件というのは東条英機が近衛文麿政権を崩壊させるために仕組んだ政治的な陰謀だった、というのが同氏の主張で驚いた。日米交渉にあくまでこだわって開戦阻止に望みをかけていた近衛文麿だったが、巌のごとく立ちふさがる陸軍に脅され、ずるずると譲歩を繰り返していた。日米開戦は9月にすでに決定していたが、11月になっても非戦に望みをかけ、ルーズベルトと直接交渉し、天皇陛下の聖断で開戦を阻止することも考えていたようだが、結局、意志薄弱もあって実現することなく、政権を放り出した、と従来はされてきた。しかし、ことはそんな単純な話ではないらしい。

そもそもゾルゲ・スパイリングというのはそれほどおおがかりなものだったのか。赤軍情報部のゾルゲの親分はスターリンの粛清にあい処刑されていた。ソ連崩壊後の資料では、ゾルゲ情報の信用度は低かった。ゾルゲはドイツのスパイだと疑われていたのだ。スターリンは複数の情報網があり、赤軍情報はそのひとつにすぎない。独ソ不可侵条約を破ってヒトラーがソ連を攻める情報はあらゆるところからスターリンには来ていた(チャーチルも私信で警告していた)が、スターリンは信じなかった。そもそも、スターリンの大粛清という凄惨な粛清劇は、ドイツ諜報機関の仕掛けた偽情報をスターリンが信じたために自ら引き起こしたというトラウマがその原因だったらしい。

死刑になった後も祖国ソ連では無視され続けたゾルゲだったが、1960年代半ばにひょんなことから英雄として称えられることになった。冷戦の最中である。ゾルゲ事件は、冷戦下のアメリカによる反共政策(赤狩り)に利用された面もあり、その反動もあったのだろう、ゾルゲの顕彰はソ連側の反資本主義プロパガンダであったようだ。

そして、現在知られているゾルゲ事件だが、ことの真相の一面だけが冷戦時代によって極端にゆがめられたまま現在にまでいたるのだ、というのが孫崎氏の主張である。ゾルゲは自分の情報をソ連だけでなく、いわゆる反ファシズムのスタンスを取る人には分け隔てなく提供していたらしい。それというのも、自分がソ連で評価されていないことへの不満があったからだ。ゾルゲの情報は、実はアメリカやイギリスやフランスの要人にも提供されていた。ゾルゲ・スパイリングの情報は、もっと上のレベルの国際的な諜報ネットワークの中で流通していた。

一つの手がかりは、イギリスのMI6の大物スパイであったキム・フィルビー事件で疑いをかけられていたフィルビーがベイルートからソ連へ亡命した(1961年)ことが切っ掛けとなって、スキャンダル(ソ連側のプロパガンダ的な暴露を恐れて)を恐れたイギリス諜報機関が先手を打って出版した本A man called intrepid(イントレピッドと呼ばれた男)である。この本には日本に関する部分でそれを暗示する記述があるのだという。

暗号名イントレピッドというMI6諜報員がやったことは、第二次世界大戦中にチャーチルがルーズベルトと話をつけて、イギリスの諜報機関がアメリカ国内で堂々とアメリカを戦争に参戦させるため行った世論誘導作戦=アメリカの孤立主義派追い落としキャンペーン(リンドバーグなどの有力な孤立主義者を貶めるキャンペーンを張ったり、ハリウッドでは反ナチス映画を作った)である。

ゾルゲの日本国内の情報ネットワークには、実は執行猶予とはなったが事件に連座した共産主義者・西園寺公一(西園寺公望の息子)がいるほか、陸軍(特に、皇道派)ともつながっていた。しかし、陸軍には司直の手は伸びていない。況や、英米他の関係筋についても同様である。今日までゾルゲ事件の研究からはこの部分が抜け落ちたままなのだ。

Sorge

終末は1ヶ月ぶりの上京。叙々苑でYちゃん親子と焼き肉を賞味した。

Jojoen

その前後も含めてこの数日は、某通信添削に関わることに没頭、なれないこともありエネルギーを消耗してしまった。続けるべきか、やめて、もっと単純で歩合のいい仕事をするべきか。

一段落した明日は降水確率30%だが、早起きして久しぶりの釣りに出かけようかと思っている。大潮で絶好のタイミングだ。大釣りは大潮直後の中潮とはいうらしいが。

2019年6月11日 (火)

梅雨入り。家でくすぶる日々。

6月11日(火)曇り、時々雨

先週金曜日から今日まで、天気が崩れた。梅雨入りである。気温は下がる、雨が降る、風が吹きまくるという悪天候で、家に閉じこもったっまま家事(毎度の食事の世話)をしながら、読書に没頭。

この一週間はもと外交官・孫崎享氏の「日米開戦の正体」と「日米開戦へのスパイ」の力作2冊を読破した。前者は500㌻、後者は340㌻近い膨大なものだが、学術論文とは違う文体で読みやすかった。

満州事変からシナ事変、そして真珠湾攻撃と1945年の敗戦。著者は、軍事史上最悪の愚挙「真珠湾攻撃」に至る道のりの淵源を日露戦争の結果締結されたポーツマス条約を日本が当初から勝手に間違って理解していたことにあると指摘している。条文を読めば、南満州鉄道の利権がロシアから日本に移されただけであって、満州そのものの主権は清朝(1912年以降は中華民国)であることが明記されているのが、日本では、「満州は日本の権益」というものにすり替わって行ってしまった。伊藤博文は本来の意味を明確に意識してしており大陸進出へは慎重な構えだったが、対立する山県有朋は「満州の権益」積極派だった。伊藤が暗殺されたことにより、山縣の大陸進出派が力を得ていく。この流れができてそれが1945年の敗戦に行きついたのだ。

また、著者によれば、日露戦争で勝ったけれど、戦費(外債)の償還と満州利権を維持する経費としての軍事費だけで国家予算の60%をしめるようになったことは、国民の生活を犠牲にした上でとてつもない無理を日本に強いる経済問題を引き起こし、日本に社会不安を作り出していったことが真珠湾に繋がっているとも指摘している。

真珠湾攻撃までの流れを追っていくと、結局、要所要所で、満州(満蒙)権益をベースにした陸軍(と現地の関東軍)と利権集団が「巌」のごとく日本の政治と外交(国際協調路線)の前に立ちはだかり自分たちのペースで満州→中国本土侵略→ベトナムと南進に向けて(国際敵対路線)勢いを増しながら真珠湾攻撃に向かっていく姿に、改めて唖然とするばかりである。

全ては、日本人の国際環境における自らの力を客観化する能力のあまりのお粗末さ、日本の不敗神話のもとリアリズムの欠如した自己の力の過信、中国への侮蔑、第一次世界大戦後の新しい政治意識=民族自決の潮流への無理解、他民族へのシンパシーの欠如、英米帝国主義を批判しながら、中国や朝鮮、台湾で帝国主義をする矛盾を冒し、本来できるはずもない身の程知らずの妄想を抱き続けて(近衛さんの「英米本位の平和秩序を排す」はいいのだけれど、やり方があるだろう!)破滅への道を突っ走ってしまった。アメリカの陰謀を言う前に、やすやすとその筋書きにそって、ド派手に真珠湾攻撃をやらかした日本とは一体なんなのか?

軍部の独走というけれど、おぼろげに見えてくるのは、時々の状況にあわせて時流に乗った権力に迎合して自分もその権勢にあずかろうとする日本人の性向に行きつくと、著者はいう。外交を任された外務省を例にとれば、吉田茂は、戦前においては、対中国積極論者となって自ら陸軍に迎合して外務次官になった過去が戦後においてきれいさっぱり忘れ去られていると指摘。佐藤尚武、牛場友彦らもそうであった、と。そして、そんな過去をもつ彼らは、節操もなく、戦後はアメリカという新しい権勢に迎合したのだと。外務省の伝統であった英米協調主義を体現する幣原喜重郎らの伝統に背を向け、時の日本国の権力中枢であった陸軍に迎合し権勢に預かりのし上がった一群の人々がいたからこそ陸軍の独走が可能になったのだと。エリートの節操のなさ、責任感のなさ。国益がかかった場面で、間違っているのではないか、と思っても保身、自らの利益などから変節し、時の力に身を委ねる無節操ぶりが見えて来る。外務省ばかりでなく、権力を監視するマスコミが軍部を応援した罪も大きい。(これは、日本ばかりだけではないように思うが・・・・)

ライシャワーの「権威に弱い日本人の全体主義的な無差別奴隷社会」が開戦前の日本であった、という言葉が耳に痛い。余裕しゃくしゃくの豊かなアングロサクソン社会の人々の本音であろう。著者は、これは、戦後も変わっていないのだという警鐘を鳴らす。つまり、日本人一人一人の民度の問題なのだ、と言う。いう所は、戦後豊かになったにもかかわらず日本人は変わっていない。権威・権勢になびく度合いがひどい。小室直樹氏の「腐朽官僚制」の構造的な日本の問題とならぶシリアスな日本が克服すべき宿痾。

外務省の荻原徹氏の「大戦の解剖」からの引用:大戦を振り返って一番驚くことは、戦争の始めから、この戦争そのものに対する彼我の考え方が根本的に相違していたことだ。日本の当局は始めから「この戦争は、ある地域を占領して頑張っていれば、向こうが嫌になって結局妥協で戦争を終わりえる」と考えていたのに対し、アメリカ側は、はじめから、あくまで東京を占領して、再び日本が侵略をおかし得ないようにしなければならないと考えていたのである・・・・・。何といっても決定的な誤算は、アメリカが妥協によって戦争を終わるという判断であったというべきであろう。

そして、悔やまれるのは、ポツダム宣言の受諾は、あくまで突っぱねる陸軍を前に天皇陛下が「ご聖断」をして決着したが、開戦の際に何故非戦のご聖断ができなかったのか。「独白録」で非戦を詔勅すれば日本に内乱(革命)が起こることを恐れた=つまり、幽閉か、場合によっては、首を取られることを恐れた、ということらしいが、敗戦後マッカーサーに戦争の責任は自分にあるから自分の身の覚悟はできている趣旨をのべるくらいだったら、なぜそのときに命をかけて阻止しなかったのか。戦犯に指定され自殺した近衛文麿も同じである。そして、真珠湾攻撃が延期されていたら、真珠湾攻撃時、ドイツがモスクワ目前でストップたわけで、ドイツの勝利が怪しいことが判明し、真珠湾攻撃は実施されなかった可能性が大きい。

以上、「日米開戦の正体」の雑感。「スパイ」のほうは後日また・・・。

Nichibei

週末から本日まで天候で釣りは出来なかった。先週の木曜日、3時間ほど那珂川河口で竿を出したが、1尾の貧果。ボウズではなかったが、陸釣りはまだまだのようだ。

Kakou Ishimo

2019年6月 5日 (水)

ホトトギスが来た!

6月5日(水)晴 

明け方直前、夢うつつのなかでホトトギスの「特許許可局」と聞きなされる待ちわびた声が聞こえてきた。今年もやって来たホトトギス。目が覚めるとまだ外は真っ暗であった。再び、寝入る。

自宅で療養しながら本を読んだり釣りをしたり、母のヘルパーをしたりしながら、3月ごろから左肩が痛くなったり、5月連休明けは水疱瘡になったりで体がいやがおうにも老年段階に突入したことを実感する今日この頃である。

左胸と左側の背中の神経通がいちばんひどかった時、アメリカのトランプ大統領が訪日していた。不動産ビジネスを地で行く交渉スタイルのこの人に、世界は右往左往だ。北朝鮮の金さんの目論見(自分たちの立場がよくわかっていない豊か国・韓国の左翼政権の擦り寄りを利用して経済的苦境の打開をはかる)は、最後の最後でトランプさんに卓袱台返しがあったのが2月末。自分のロシア疑惑にからむ国内問題はまだくすぶっているがどうやら乗り越えたようである。メキシコとの国境の壁の予算問題はどうなったっけ? 目下最大の争点は、米中貿易戦争。エスカレートし出口が見えない状況だ。ファーウェイ潰しは、1980年代の日本が開発したコンピューターOSのトロンを思い出してしまった。トロン潰しによってアメリカのビル・ゲイツのウィンドウズが世界制覇することになったのではなかったか。

まあ、そんなの、俺には関係ねぇ、とまでは言わないけれど、国際社会の現実は厳しい。国家間の紛争を調停する機関というのは一応あることはあるけれど、収拾がつかなければ、結局、武力行使=戦争になる現実に変わりはない。米ソ冷戦と同じで、直接の力の行使はないであろう。あるとすれば、弱くて不安定な場所が犠牲になる。朝鮮半島はその一つだ。アメリカ勢力(日本はその子分、で韓国も本来はそう)と中ソ勢力
(北朝鮮はその子分なのだが、韓国に似た対応を親分衆にとっている)が対峙しているかぎり、朝鮮半島の統一は無理である。東ドイツが西ドイツに吸収されたのは、ポーランドやウクライナなどの独立国が緩衝地帯としてソ連とドイツの間にあるからできたことだ。それが、ドイツと朝鮮半島の違いだ。

ジョン・ミアシャイマーの「大国の悲劇」を時折パラパラ読んでいるけれど、アメリカがモンロー主義から離れた20世紀初頭、つまり、ウィルソン大統領時の第一次大戦参戦だが、アメリカは「ヨーロッパに平和をもたらすために参戦したのではない」と言っている。国力というのは、世界の力関係のなかにおいて自己の力を確保(サバイバル=生存本能)すると同時に拡大するという盲目の意志があるのだ、という(私なりの言葉にすると)。一国の運命を操縦する政治家は、究極的にはこの盲目の意志に突き動かされて判断し決断しているにすぎない。

トランプさんの来日は「令和」時代に入ったかつての敵国であり、いまや、新しい冷戦相手である中国の最前線である同盟国日本への仁義切りでもあったろう。それ以上に、息抜きだったかも・・・。1990年代前後のジャパン・バッシングが、いまや、チァイナ・バッシングの時代。米中の力関係はまだ米国が優位。一位の立場をおびやかす中国を蹴落としを露骨に取り始めた。トランプさんじゃないとできないだろう。オバマさんやクリントンさんなどのソフト派では無理だ。アメリカ国民の無意識が選んだ大統領だ。

この2週間で集中的に再読した本:


「日米・開戦の悲劇」 ハミルトン・フィッシュ著

Fish

「日本の失敗」「大東亜戦争ここに甦る」 いずれも小室直樹著

Komuro1

「昭和史」(岩波新書)
「決定版 日中戦争」(新潮新書)

Showashi1   

いずれ自分の言葉で総括したいと思うけれど・・・今は、事実と解釈の整理をしている段階。満州事変、シナ事変が拡大して大東亜戦争(イギリスは極東戦争;アメリカは太平洋戦争)とエスカレートして墓穴を掘った日本だが、小室氏の指摘:日本には戦争設計がなかった。ぐさりとくる言葉である。日清、日露とちがって、戦争目的が明確ではなかった。陸軍、海軍のなかでも見解が割れ、かつ、それぞれの省益が優先して国益が後まわしになってしまった責任は誰が負うのか。

日本には、ルーズベルト、チャーチル、スターリン、ヒトラーのようなすぐれた指導者=政治家がいなかった。ヒトラーのような指導者は願いさげだが。東条さんがヒトラーだって? ちゃんちゃらおかしい。東条さんは軍官僚としての秀才であった。部下の面倒見もよく気遣いの人ではあった。優秀な官僚は最悪の政治家(マックス・ウェーバー)。政治家と将軍は勉強だけでは作れない。平時にはいいけれど、危機の時は役にたたない。戦争屋と揶揄されたイギリスのチャーチルは、秀才ではなかった。勉強ができなかったが、国語(英語)はよくできた。若き日の従軍体験を本にして印税を稼いだ。彼のウィットの効いたスピーチは独特で、彼にかなう人はそういなかった。小室氏は、日本のエリートの世界の歴史に対する無知を嘆く。日露戦争は、あそこで講和を結ぶべきではなく、断固として戦いを継続すべきであった、と。チャーチルの歴史と軍事への造詣は深い。東条さんは、危機を乗り越えるヴィジョンを持って行動する政治家ではなかった。前例主義を着実にこなす官僚だったのだ。順風満帆の時なら前例を踏襲する中での組織のまとめ役、すぐれた調整者として花咲いた人であっただろう。

20世紀前半の日本は確かにアジアで覇を唱える強国ではあったけれど、中途半端な強さだった。自滅崩壊した清朝の大混乱(軍閥がそれぞれの地方=といっても、一国の規模だが、割拠する)とソ連という共産主義帝国と国境を接し、世界的な不況の中ブロック化した経済環境により日本商品が大英帝国圏や米国(いずれも高関税が課された)の締め出しにあい、経済的活路を見出そうとすれあ中国大陸しかなかったのは事実。

1945年の敗戦のおおもとの原因、日露戦争の果実であった満州利権のこだわりを非難することは簡単だが、当時において日本国民を食わせるために(明治維新当時の人口は3000万;太平洋戦争当時の昭和の人口は8000万)政治は何をしなければいけなかったのか。いずれ、中国は統一され、第一次世界大戦の結果できた新しい潮流(ウィルソン主義)により植民地は失われるものだとしても、満州利権へのこだわりと中国大陸での商業的活路を見出すことは日本の必然であった。よき政治指導者がいて舵取りをしていたら、もっと違った歴史の軌跡を日本は辿ったであろう、というのが小室氏の考え。人を得ること、つまり、教育の問題に行きつく。(「日本の失敗」)。

小室直樹氏は、シナ事変では断固として蒋介石の中華民国をたたくべきであった、と主張する。そして、「澎湃として起こった中国のナショナリズムによる排日・侮日による在留邦人保護対策」が目的であったとするなら、第2次上海事変では、一気に南京を占領すべきであったと。ヒトラーのフランス占領を地で行く「電撃作戦」である。そして、蒋介石と講和を結ぶ。講和内容は、日本がやった内容吊り上げではなく、寛大なもの(満州の承認は要求しない=実質的に中国は日本の利権であることを認めていた;不平等条約の破棄;北支からの撤退)をすべきだった。

実際には、上海で苦戦をして南京首都の占領には3ヶ月もかかり、蒋介石(日本と講和をして共産勢力を潰したかった)を相手としない近衛声明をだし、トラウトマン調停でも中国への要求を吊り上げた(中国人が絶対に呑めない要求をした)。結果として、同じ、不平等条約をおしつけて利権をむさぼっていたのにイギリスやアメリカと同列の帝国主義国日本だけが、中国の敵としてクローズアップされ、いつのまにか、西欧諸国は中国の味方となり、中国のナショナリズムの矛先が日本だけに向くという最悪の状況を作り出してしまったわけだ。

小室氏は英米との戦いも、シナ事変を上記のような迅速な処理をして戦争目的=中国との平和を即座に実現していれば展開はちがっていたと説く。蒋介石は講和を希望していたが、近衛声明とトラウトマン仲介交渉での日本側の要求の吊り上げで、前年の西安事件もあり、共産党と手を握って日本と徹底的に戦うことになってしまった。講和ができていたら、100万の陸軍を中国大陸に張り付けることでかかる膨大な戦力と経費を対英米戦争に使えるわけで、対英米戦争でも、勝つチャンスがあったというシミュレーションをしている。経済的に圧倒的に強かったアメリカをベトナムが破ったように、アフガニスタンがソ連を破ったように、決して無謀な戦争ではではなかった。日本に第一級の世界情勢を理解した戦争設計者がいなかったから、戦い方が拙劣を極め、場当たり的な対応に終始し、ずるずると負けるべく戦争をしてしまった、というのが同氏の結論である。日本は三流の戦争指導者で墓穴を掘ってしまったということ。

昨日は、午後の3時間、那珂川の河口で竿を出した。ライントラブルが続出して、遠投がうまくいかなかった。3尾以上を目標にでかけたのだが
結果は2尾(27㌢と24㌢)。

Ishimochi_2

 

 

2019年6月 3日 (月)

ついに来たぁ、イシモチ30㌢!

6月3日(月)晴

水疱瘡はなかなか治らない。最初の一週間は薬を飲み続け菌を殺すことに専念。2週目で瘡蓋が少しずつでてきたものの、医者のいう神経痛的な痛みがときおりピリピリと来て、何ともつらかった。

かと言って、家でじっとしているのもつらい。27日(月)、30日(木)、31日(金)、6月1日(土)、2日(日)と早朝、午前中、午後と時間帯を変えて2時間ずつ竿を出した。那珂川の河口側と水族館の海側だ。情報では鹿島灘のヘッドランドではイシモチが爆釣らしいが、命がけの釣りは断念。陸っぱりからの投げ釣りでのんびりつるスタイルにこだわった。となると、時期的にまだ早いのか、アタリは遠く一回の釣行で一尾の釣果という貧果の日々だった(一度はボウズを食らった)。釣れないわけではなく、釣れるのだからまあいいのだが。

早朝の日の出。潮騒の音と荘厳な日の出を見るだけで心が癒される。

Umigawa

23㌢のイシモチ。

Ishiochi23cm

18㌢のシロギス。

Shirogisu_2

24㌢のイシモチ。

Ishimochi-24cm


そして、今日も15時前から17時まで2時間、水族館の河口側で竿を出した。

Kawagawa

ようやく、2尾の釣果。しかも一尾は目測30㌢の良型だった。アタリはポツン、ポツンと出始めたが食いが浅く、空振りも多い。そして、言わずと知れたクサフグの奴の攻撃も。30㌢のイシモチが来た時はこの一週間のフラストレーションが一瞬のうちに雲散霧消した。神経痛の痛みも忘れるほどだった。

本日の釣果
イシモチ2尾 29.5㌢と24㌢

Ishimochi-30cm

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