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2019年6月27日 (木)

イシモチ狙いの夜釣りは不発。アントニー・ビーバーを読み進める。

6月27(水)晴時々曇り

昨日は夕方から2年ぶりの夜釣りを敢行したがあえなく轟沈。夕食の準備と後片付けが終わった18時前、勇んで家を出た。潮は小潮であまりよくないが、満潮は22時ごろ。上げ潮三分から九分まで那珂川河口でイシモチを狙ったがまさかのボウズ。唯一のあたりはクサフグの1尾だけだった。潮は関係ない?むしろ時間帯か。日没2時間後から深夜にかけてバタバタ釣れる経験は過去に何度かあって記憶に残っている。延長戦をしようか。迷った。が、しかし、歳が歳。駄目なときはダメだとあきらめて納竿(21時半)。帰りに那珂湊漁港に寄り道したが釣り人はほとんどいなかった。15分だけ竿を出して、第一投でシロギスを釣り上げて気が落ち着き家路についた。

今日は、いつもの朝の家事をしたあと、再び那珂湊漁港へ。魚の買い置きが切れたのでお魚市場での買い物が目的だったが、1時間半ほど竿も出した。狙いはシロギス。

 Nakaminato5_20190627133901

第一投で20㌢前後の良型がヒット。80㍍近く遠投してサビキながら探っていると何と30㍍地点でコツコツコツ―ンという小気味のいいシロギスのアタリの連打が!心躍る瞬間である。その後も投げるたびに40㍍~20㍍地点でアタリが発生し3尾追徴。初っ端に根掛かりで力糸と25号の天秤おもりとともに仕掛けが取られるトラブルもあった。0.8号のPEと力糸の結び目が脆弱ということにあらためて気づかされる。これで2度目のトラブルだ。1000円近いラインと500円の遠投錘が海に消えてしまってすこしばかり心がいたかった。

手のひらより小さいカレイ

Hirame-karei

冷蔵庫の中はシロギスが10尾となった。今度こそは天ぷらを作ってみようか。

Shirogisu10  

アントニー・ビーバーの「第二次大戦」を読み続ける。北アフリカでのイギリス軍(英国・豪州・ミュージーランド)とロンメル率いる独軍(イタリアがドイツの地中海の護送をする)との戦い。英領マラヤシンガポールの陥落、香港の陥落、蘭領インド、米領フィリピンの陥落。真珠湾攻撃より1時間半早く日本はマレー半島に上陸した。英国に宣戦布告することもなく。チャーチルやルーズベルトにとっての主戦場はドイツが暴れまわるヨーロッパ。日本に対する不安はあったが、見くびっており、チャーチルは2隻の戦艦を新たにシンガポールに配置することで日本を抑止できると考えていた。アメリカもフィリピンの軍事力を増強はしていた。すでに、日本が攻撃をしかけてくることは英米とも予想していたが、日本による彼らの想像を超えた被害にかなり慌てたようである。慌ててはいたが、ソ連のスターリンと同じだった。戦争には勝った、とこの時点で確信しているのだ。この余裕振りは一体何なのだ。戦争に対する見通し(日本は緒戦の半年の展開は想定済みだったがれ以降はまったく白紙だった)のレベルの次元が違いすぎた。

日本に最初の一撃を打たせる英米の戦略は陰謀ではなかった。計算ずくめの冷徹な計算のもとにすすめられた作戦であった。日本は彼らの筋書きどおりに英米を攻撃したのだった。ああ、悲しや。まるで阿呆である。何故、英米をさけて直接に蘭印の石油を取りに行かなかったのか。ハルノートの存在は、事前にアメリカの議会に知らされていなかった。小室直樹氏によれば、ハルノートを新聞等で公表して世界の世論に訴えた上で蘭印の石油を取りに行けば、アメリカは第二次大戦に参戦できなかった、と。岡崎久彦氏はパール・ハーバー攻撃をしなかったとしても、いずれ米英と日本は干戈を交えることになった。しかし、そうだったとしても、真珠湾攻撃がなかったら硫黄島の戦いで休戦協定が成立していただろうと。山本五十六は戦術の天才だったかも知れないが、戦略的観点からは落第生であった。

チャーチルとルーズベルトの間では1000通以上の書簡が取り交わされたらしいがすべてが、今もってすべてが公開されているのではないという。チャーチルの「第二次大戦回顧録」を原文で毎日少しずつ読んでいるが、ルーズベルト宛てのメモ類があちこちに出てくるけれど当然ながら肝心なものは出ていないと推察される。チャーチルは19世紀の人間であり、大英帝国の栄光を一身に背負っていた。一方のルーズベルトは、アメリカ国民と同様、イギリスの植民地主義に対する嫌悪感があった。アメリカの非介入主義者(「孤立主義」というのは、アメリカのモンロー主義=ヨーロッパの政治には一切かかわらない=そのかわり、アメリカの裏庭である南米にヨーロッパは手をだすな、というアメリカの伝統的な国是。このモンロー主義者を非難するためのウィルソン大統領から始まった海外介入積極派による非介入はに対するネガティブなレッテルである。「天皇制」という言葉がコミンテルンテーゼからでているようにマルクス主義史観からくる日本の伝統を否定し、共産革命を起こすことを前提にしたネガティブなレッテルであることと同じである。つまり、特定の立場の人のバイアスがかかっているのだ)。

岩波新書「昭和史」は大変よく書かれた歴史書である。しかし、著者の視点、歴史を解釈するスタンスは、いわゆる「講座派」である。講座派とは、マルクス主義にもとづく歴史観である。彼らの史観によれば、第二次世界大戦とは3つの性格が特筆されるという。同じことは、イギリスの著名なマルクス主義の歴史家エリック・ホブズボームも述べている(「極端な時代 1914-1991」)。

① 帝国主義戦争(英米対日独伊)
② 民主勢力(英米+ソ連)対ファシズム勢力(日独伊)
③ 被圧迫民族の民族解放戦争

①と③についてはまったく同感である。しかし、②は間違っているとは言わないが表現が誤解を招くので言い換えが必要だ。「民主勢力」というのは目くらましの言葉だ。英米の民主とソ連の民主は意味が全く違うのだから。北朝鮮だって人民民主共和国と、民主を謳っている。真相は、「優位にある帝国主義国(英米自由民主主義)」と「赤い帝国主義国(自由民主主義とは無縁の全体主義国家)」によるグローバル版「国共合作」勢力と、「劣位にある帝国主義国(ファシズム、ナチズム、軍国主義であれ、自由民主主義とは無縁の全体主義国家)」との戦いであった、ということだ。「優位にある帝国主義国」と「赤い帝国主義国」と「劣位にある帝国主義国」、つまり、3つの勢力が覇を競うグローバル版の「三国志」であったのだ。だから、1945年の「劣位にある帝国主義国」の敗戦は、第二次世界大戦の終了ではなかった。あくまでも「三国志」の一角が崩れたという意味であって、「赤い帝国主義国」ソ連の崩壊した年、1989年が実質的な終了であった。つまり、「民主勢力」というのは、本来なら相容れない「自由民主主義の英米」と「共産主義・全体主義のソ連」が自らの原則を曲げて便宜上手を結ぶという道徳的な後ろめたさをカモフラージュするための一般大衆にたいするプロパガンダ用語であった、ということである。

20世紀の悲劇は、「社会主義」(インターナショナリズム)と「ナショナリズム」(自民族優先主義)の2大潮流の激闘に淵源がある。その悲劇の度合いも、西洋が生み出した「近代資本主義」が土台とする「テクノロジー」の発達により前代未聞の凄惨さとなった。

日中戦争は、日本が中国に仕掛けた帝国主義戦争であり、中国にとっては民族解放戦争であった。日中戦争の同じバージョンが、1945年以降、朝鮮半島やベトナム、英領マラヤ、蘭領インドで繰り広げられた。イギリスを含む欧州の帝国主義国は、遠隔地アジアで戦力を保持して権益を維持する力はなくあっさりと撤退したが、アメリカは、朝鮮半島とベトナムでドロ沼にはまり前者では引き分け、特に、後者においてはまさに、日中戦争を地で行くような長期戦の泥沼を強いられ結局敗戦と国力の消耗を味わう屈辱となった。しかし、ニクソンとキッシンジャー時代に自ら撤退した、というのがアメリカの自己修正能力の偉大さである。日本が、徹底的に不様な敗戦を自ら招いて、明治維新以来営々として積み上げたすべてを失い茫然自失となるまで転落してしまったのとは大違いである。

英米は決して一枚岩ではなかった。ある意味、同床異夢であった。イギリスから独立した植民地アメリカはむしろロシア革命後のソ連に対する親近感があったことは否定できない。性質はまったく違うが、民が主の、皇帝や王様がいない、共和国であった。ルーズベルトの構想の基本は、植民地主義を否定する点でソ連と価値観を共有し、アメリカとソ連が世界を2分割して牛耳る、それに、アジアは、蒋介石の中国、植民地を清算した大英帝国(植民地がなければ大英帝国は没落するが)の4大国による世界統治だった。ちなみに、ルーズベルトはド・ゴール将軍を毛嫌いしフランスを戦後の世界統治構想からはずしていたが、チャーチルのとりなしでしぶしぶ入れたらしい。ルーズベルトが重用した取り巻きに共産主義者・社会主義シンパが多かった。一部の人間は1990年代のベノナ文書公開でソ連のスパイであったことも実証された。つまり、マッカーシー上院議員が行った左翼狩りは行き過ぎはあったが、主張は間違っていなかったのだ。ルーズベルトは、彼の取り巻きの影響を受けた結果、ドイツの非工業化=農業国化構想、ヨーロッパ大陸全体をソ連に引き渡す考えまで持っていたというから、恐ろしい。テヘラン会議までは楽観主義に満ちていたルーズベルトだったが、さすがに、ヤルタ会談(死の直前)ではスターリンに疑念を持ち始めていたらしい。それでも、ソ連の対日参戦に関連しては千島列島も含む日本の領土や満州での権益(南満州鉄道や大連、旅順などの使用権)までスターリンに譲歩(蒋介石の事前の了解をとることなく)しているのだ。急死したルーズベルトを引き継いだ根っからの反共主義者トルーマン大統領がヤルタの密約を知り茫然自失したのはむべなるかな。

チャーチルは、共産主義にナイーブなルーズベルトへの批判は一切押さえた。チャーチルの側近の証言では、屈辱的なへつらいの態度で接していたという。アメリカの援助なしにはもはや大英帝国は風前の灯であったからだ。1940年5月からのほぼ1年ちょっとはイギリスだけが暴れまわるドイツと孤軍奮闘していた。1941年6月22日の独ソ開戦は天恵であった。チャーチルは、ロシア革命直後に干渉戦争を強硬に主張した張本人であり反共スタンスは筋金入りである。そのチャーチルがソ連へのスタンスを180度変えた。ソ連は難敵ドイツの牙の矛先を受けてくれるのだから、すぐに負けてしまっては困る。頑張れ、ソ連!。すぐさま、チャーチルはスターリンにシグナルを出して、英ソ連携と支援に動いたのだった。疑い深い性格が骨の髄までしみ込んだスターリンは最後までチャーチルの真意を見抜いて疑念を持っていたらしい。一方、天真爛漫なルーズベルトには心底信頼感を持っていたという。何せ、じゃぶじゃぶと援助物資をアラスカ経由、ペルシャ経由でそれも無償で(?)貢いでくれるのだからルーズベルト様様であった。一方のイギリスは口先だけで、援助も時代遅れの役に立たない代物だけだった。

ルーズベルトはチャーチルの、イギリスの狡猾さをしらなかったわけではないようであったらしい。ルーズベルトの取り巻き(親ソ派が大多)は、一貫してイギリスの植民地主義を毛嫌いしていた関係もあり、チャーチル批判が喧しかったという。それを押さえて丁重に扱ったのがルーズベルトらしい。イギリスもソ連もアメリカ頼みだった。ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3人の主役は当然ながらルーズベルトであった。そのルーズベルトは第二次大戦の結果を見ることもなくヤルタ会談直後に急死してしまったのは残念である。とくに、回顧録に類する証言を残して繰らなかったことはかえすがえすも悔やまれる。

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