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2019年7月29日 (月)

素人の「英語」教育雑感

7月28日(日)曇り後晴

熱帯低気圧が一時は台風6号になり関西方面で上陸したのが土曜日の朝。この日の午後は昔の職場の先輩・同僚とのむ予定があえなくキャンセル。

Yちゃん親子は夏休みを利用してバンコクに滞在中。私は両親の実家でヘルパーをしなないといけないので、誘われたがお断りせざるを得なかった。

この一年、無為の生活を送って来た。釣り以外で外にでるのが億劫ということもあるが、家のことで外で定期的な仕事に就くのは厳しい。在宅でできる仕事ということで添削を始めることにした。が、これが結構大変である。正直言うと手間がかかるわりには単価が伴わない。熟練しないと枚数がこなせない。しかし、60代の自分もかつて高校生のころ通信添削なるものをしたことがあってなつかしい感じもある。答案を通した今時の若者世代との対話がそれなりに楽しい。

添削をしながら、日本の英語教育の功罪をあらためて考えさせられた。受験を想定しているのでどうしても熟語や文法がテーマになってしまってあまり面白くないなぁ、というのが感想。自分は、大学ではドイツ語を専攻したこともあって英語は高校で終了。社会人になって実用英語(ビジネス英語)が必要なので、結局は「英語」との付き合いはずーっと定年までそれなりに続いたが、初歩的な文法の知識さえあればあとはとにかく実践あるのみでそれなりに進歩はしたと思う。

しかし、レベルというものはあって、人生後半の11年の大学勤務(事務)では交渉する相手(特にアメリカでは修士、博士号を持った事務職の人が結構いる)次第では「通じればいい」という英語では「足元を見られる」らしく、改めて勉強する(させられる)羽目になった。大学勤務当初は、センター長の教員の英語の授業を聴講したりもした。

外国語(英語)を学ぶことに関する私なりの結論は以下のとおり:

1.外国語をまなぶ以上やはり、文法は大事である。

2.しかし、文法は後から理由を説明する「言葉の構造」の理論であって万能ではなく、いずれにしても「手からこぼれるもの」がある。言葉というのは人間に自然に備わった能力で脳の機能そのものである。人間は言葉を操る動物だけれど、何故、言葉を操ることができるのかは誰も説明できない。人間と言葉の関係はそういうものだ。理論だけではカバーできないそれ以上の何者かなのだ。

3.日本での英語教育は、あまりにも英語の文章を分解していちいち細かく「英語と日本語」を対応させようとしすぎている。日本人が書いた英語は、意味は通じるけど、どことなく平板で奥行きがない、と感じるのは私だけだろうか。英語が「窒息」しているのだ。識者によると、明治時代に始まった日本の英語教育は、日本に伝統的な「漢文訓読」をなぞった「英語訓読」なのだという。つまり、正確に読めるけど、音声によるコミュニケーションは度外視される。個人的な経験では、「正確に読める」もかなり疑問詞がつくが・・・。

4.「日本語」と「英語」はまったく言語体系が違うので対応させるのはほぼ不可能。微に入り際に穿った和文英訳は、その道のプロ(翻訳の道で 飯を食う人)がやればいいので、中高生がやる必要があるのだろうか?中高生はむしろ、自由英作文をどんどんすべきであると思う。一生懸命に自分が言いたいことを辞書を使いながら英語と格闘することは、それなりに楽しいし、モティベーションも上げられるだろう。私の師匠(カナダに帰化した日本人)もおっしゃった:「和文英訳するな。最初から英語で書け」、と。そして、自分で苦労して作った英語は自分の血となり肉となり残るから、音声でのアウトプット(話す)はもちろんインプット(聞く)の大きな武器となる。これを次に述べる「多読」(自習)と併用するのだ。私の場合、毎日インターネットで時事ニュースを読むことを日課にし始めてから数か月続けたある日、CNNニュースの音声がこんなにわかっていいのか、というくらいクリアに聞こえるようになったことに気付いてびっくりした記憶がある。

5.一定のレベル(TOEIC600点前後か)になったら、後は、とにかく何でもいから「多読」(ペーパバック、専門書、雑誌、英語のニュースサイト等) をして、様々な表現方法や語彙力を積み上げるしかない。英語を専門にしない著名人、私の知っているケースでは、「動物王国」で有名な畑正憲 氏や、理科系出身で大蔵省経由経済学者になった野口悠紀雄氏などによるとテキストの「暗記」がベストの勉強法であるようだ。自分の場合は、「暗記」はやらなかたったが、「多読」の効果は身をもって体験した。それも、50歳を過ぎてからの話。家に積読状態だった英語本はほとんど読破した。これによって、会議などの英文レジュメや案件の報告書を作ってもネイティブ教員から直すところがない、と言われるまでになった。
 

結論:

中学校で基本的な文法をやったら、高校では「自由英作文」をベースの授業にする。和文英訳、英文和訳は、その補助とすべきである。自習課題として各人の興味に従って「多読」をやる。

※大学の教養課程の「英語」も改善が必要である。いろいろ改革が試みられているようだが、野口悠紀雄氏が指摘する通り「英文学」の延長のような授業は不可である。基本的に、高校の授業の延長線上でやるべきだ。多読教材は、自分の専攻に準ずる。

 

と、ここまで書いて、英語ネイティブ国民はなんて得な人達だろう、と思わずにはいられない。19世紀から20世紀をへた21世紀の今日、アングロ・サクソンが覇権を握っているのもむべなるかな、である。外国語習得に要する時間とエネルギーを自らの言語の彫琢とその言語にもとづいた思考にすべて注げるのだから。

自分の多読教材は「歴史書」である。英語を勉強するというより歴史に興味があるから英語の専門書を読み漁る。英語が読めれば、日本の翻訳なんていらないとは言わないけれど、翻訳がない良書は数多くあるので、英語が使えないで日本語の世界だけで生きていると、幅広く知る機会は限られてしまうというのが現実である。日本語で書かれた歴史は、みんな英語の原本をアンチョコにしている、と言っても過言ではないくらいだ。

英語で書かれた歴史書の分量には本当に圧倒される。歴史に関し何かを知りたい、と思った時はまず文献がたよりだ。英語によって記述される歴史の文献の質・分量は多言語を圧倒している。そして、実際に、英米の大学での歴史学の履修者は非常に多いらしい。教える教員の数もすごい。日本では歴史は「暗記」(年号を覚える)ものと普通に思われているが、歴史を学ぶとは現在の意味を把握するために過去の解釈することであり、「未来」に向けて人間の決断・行動をなす指針を提供するため根拠を見出すために必須なのだ。歴史とは「暗記」ではなく、イギリスの歴史家カー氏の言葉(現代と過去の対話)のとおりであり、現代人に必須の教養ということだ。

先週アマゾンで注文した歴史書が届いた。「Tragedy and Hope - A History of the World in Our Time」。著者は歴史家のCarroll Quigley。翻訳はないが、アマゾンの書評をみると元クリントン大統領が絶賛したとあった。馬淵睦夫氏の本を読んでいて知った本だが、知る人ぞ知るすばらしい本らしい。1000㌻近い。アントニー・ビーバーの「第二次世界大戦」の読了はあと残すところ三分の一。次に読む楽しみの本がまたまた枕元の本に積みあがった。

Quigly

 

 

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