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2019年9月 4日 (水)

「チャンピョン達の朝食」の再読。

9月4日(水)曇り

9月に突入。3月上旬から鳴き始めたウグイスは8月半ば頃までその美声を聞かせてくれたが、それ以降、鳴かなくなってしまった。セミは相変わらず盛んに鳴いている。秋の気配を感じつつ、まだまだ夏は濃厚である。

朝食をとっていると東向きの網戸に蝶というか蛾らしき姿が。2度目である。

Ga3

表にでて確認しようとして何日か前に逃げられてしまったが、2度目はうまく近づいて写真を撮ることができた。夜みかける気持ちが悪い大きな蛾ではないのであまり抵抗はなかった。美しいとまでは言わないが、模様がどこかニイニイゼミに似ている印象。

Ga2

7月から始めた添削(週末)も大分慣れたので、ウィークデーも体に無理がない程度に仕事をしようと探し始めた。が、なかなか都合のいい時間帯で(10時~16時)、自宅近辺で働くというのは見つからないものである。じっくりまつしかないだろう。

添削の仕事が一段落して、久しぶりい思い出したようにカート・ボネガット・ジュニアの「チャンピョン達の朝食」をベッドでごろりとなってパラパラと再読した。1970年代の彼にしてみれば長編小説だ。大学時代に縮刷版のテキストを使った授業で気にいった作家である。振り返ると、アメリカの作家でまがりにも読んだのは、このボネガットで、それ以外ではヘミングウェイとマーク・トゥウェインぐらいだろう。サローヤンの短編もあったか。後は、中学生のころ夢中になったエラリー・クィーンかヴァン・ダインの推理小説くらいしかない。それから、パール・バックの「大地」。that's all。

ボネッガットは、たぶん、自分の両親と同世代。数年前に亡くなったが、アメリカの大不況時代が青春時代だった。もし、1950年代なら「ビートニック」(小田実の「何でも見てやろう」に活写されている)や1960年代の「ヒッピー」になった人だろう。アメリカの文明批判をSF的手法で描いたブラック・ユーモア小説で、アメリカの俗語を学ぶ絶好のテキストでもあった。学生時代は、その反骨精神と過激さに惹かれていたのだと思う。

今回の再読で後半の部分で(年老いて発狂寸前の主人公が、ホリデイ・インのラウンジで高校時代に暗記させられた詩の章句を思い出す)でペルシャの詩人オマル・ハイヤームの4行詩が引用されているのが目に留まった。

The Moving Finger writes; and, having writ,
Moves on: nor all thy Piety nor Wit
Shall lure it back to cancel half a Line,
Nor all thy Tears wash out a Word of it.

岩波文庫の翻訳を持っていたはずなのだが見つからない・・・インターネットで調べたりしたが、言っている意味は、「やってしまったことは、取り返しがつかない。ただ、現在の地点からどんどん先にいくだけだ」ということだろうか。中国の漢詩にも通じるけれど、人生のはかなさ、無慈悲さ。嘆きと諦念。今、この瞬間こそ楽しむのだ。刹那主義。Be happy for this moment. This moment is your life. こんなところだろうか。学生時代には素通りしてしまったのだろう、こんな文句が挿入されていたという記憶がない。

縮刷版は100㌻ちょっと。オリジナルがなかなか見つからなかった2~3日あちこち探してようやく見つけ出した。池袋の芳林堂書店で購入したのだろうか。もう一冊のMother's Nightは1976年6月30日に購入した、と若き日の自分の筆跡で裏表紙にあった。

Photo_20190904132901

ボネガットの本をあちこち拾い読みしていると、卑猥な言葉に刺激されたのか、突然、No love, without gloveという台詞が脳裏を走る。映画「ガープの世界」で、主人公がガールフレンドとセックスをしようとして、コンドームがないことがわかって、拒否されるシーン。gloveにコンドームの意味があるらしい。こんなセリフでも、ちゃんと韻を踏んでいて粋だなぁ、とまでは思わなかったが、理解できない大方英語の台詞群で何故かこの部分だけは鮮やかにすっと耳に入り、自分の脳裏に焼き付いたのだろう。

1980年代半ばから90年代半ば過ぎまでの10年近く、武蔵野市に住んでいたのだが吉祥寺の映画館だろうか、それとも、レンタルビデオだったか。武蔵野市と言えば、よく近くのサイクリングロードをサイクリングしたり時には徒歩で西武球場あたりまで出かけたものだ。よく通った喫茶店「魔法のランプ」がなつかしい。毎回食べた「魔法のランプ定食」がおいしかった。退屈することがめったにないと思っている自分だが、30代の働き盛りのころ、週末がゆっくりできる時は、土曜日の午前中は寝腐って(金曜日は間違いなく、飲んで享楽を尽くしていたか、真面目に残業していたし、昔はいくらでも眠ることができた)、お昼はだいたいいつも「魔法のランプ」定食を食べ、おいしいコーヒーを飲みながら、本を読んだものだ。ハイデッガーの「存在と時間」もここで大体読んだと思う。読了はできなかった。三分の二で終わったままだ。それ以来、手付かずのまま。再読と完読をいずれ近いうちに、とは思っているのだが。

モームは、老いによって耐えがたいのは、精神的・肉体的な能力の衰弱ではなく、過去の記憶の重さだ、とめぐまれたイギリス人らしい捻った言葉を残しているが、自分はこれを予感しつつもまだその域までは行っていないと安堵しつつひたすら、食べて、眠り、両親の食事を作り、少しだけ他の家事を手伝い、それでもたっぷりの余った時間は、釣りに自然観察(主に野鳥、時に、昆虫や草花)や、読書と物思いに耽っている。

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