セイゴのニンニク・香草のローストを作る!

本日はお昼にセイゴのニンニク・香草のローストを作って家の人に振舞った。出来は?上々でした。正直のところ初めて作るので味に自信はもてなかったものの家族は全部平らげてくれた。つまり、好評だったということ。特にローストした後に残った魚やオリーブオイルやハーブのエキスを白ワインと一緒に煮詰めて、トマトのざく切りを加え、それからレモンを絞り仕上げに少しバターを溶かして見たのだがこのソースが大変良かった、のだそうだ。それと、電子レンジのオーブンでローストしていると庭で作っているタイムとニンニクとオリーブオイルの香りがキッチンに溢れました。一種のアロマセラピーのような効果もあった。

そして今日は日曜日。長く続いたお休みも今日で終わってしまう。いつもなら憂鬱になるはずなのだが、全然そんな気分ではない。不思議なものだ。良き料理を味わうことは活力の源???

釣り三昧の合間を縫って真面目な本を年末から昨日まで読んだ。

「アメリカ後の世界」 

ニューズウィークの編集長を務めるインド生まれの俊英による世界情勢についての評論だ。台頭する中国と並んで出身国のインドについても一章を設けて突っ込んだ論を展開している。はしがきにもあるが、アメリカが凋落するのではなく、他の国(中国、インド、ロシア)が台頭するという論点で著者のするどい指摘が随所に見られる。迷走する日本の政治がとても気になる。NHKのお正月特別番組を見たが、識者によれば日本は1980年代までに溜め込んだ国民の資産をこの20年間食い潰している、という言葉が鮮やかに脳裏に刻まれている。物作りが駄目になったアメリカやイギリスは金融大国としてこの20年間繁栄を誇ってきたが現在頓挫してしまった。トップランナーと追い上げる地域大国中国・ロシア・インドとアメリカに挟まれて日本をはじめとする朝鮮半島・台湾や東南アジアの沿岸国はどうなるのか?いろいろ考えさせられる。

「国家と人生」

竹村健一氏と外務省出身で鈴木宗男氏とともに有罪判決を受けて服役した佐藤優氏の対集。文庫本だ。相変わらず佐藤氏は多弁且つ才気を放っている。あの顔を見るたびに西郷隆盛を思い出してしまうのだが、お母様が久米島出身と聞いてナルホドと思った。

「日本にノーベル賞が来る理由」

今年は4人も日本人がノーベル賞を受賞して明るいニュースになったが、そのうちの二人は頭脳流出組み。アメリカで研究の場を見つけて花開いた人。ノーベル財団のホームページはよくみるとアメリカの研究者として紹介されていること、日本にはこのような研究者が花開く場所が相変わらず限られていることを著者は憂慮してる。また面白かったのは、湯川秀樹博士が日本人として始めてノーベル賞を取った背景には欧米(連合国側)の原爆投下に対する贖罪があったという指摘(これは事実だそうだ)。各受賞者の理論を平明に紹介しているのがとてもいいが、正直私にはワカリマセンデシタ。

「ハイエク」(知識社会の自由主義) PHP新書

もともとは経済学者として出発したハイエク。途中からは社会哲学者としての研究が多く最近、彼の全集が再出版されているという。あのケインズの最大のライバルで長い間保守反動として無視されて来た。ハイエク・ルネッサンスはイギリスのサッチャー首相の登場とともに始まった。著者の池田氏は、ハイエクの業績をきわめてコンパクトにこの一冊の新書本にまとめてくれている好著である。ハイエクはウィーンで生まれ、ナチスの台頭とともにイギリスに移り、計画経済は失敗する、ナチスもソ連の共産主義も同じである、mという政治的パンフレットをLSE時代に発表する。「隷従への道」である。これは評判が悪かったらしい。1940年代から1989年のソ連崩壊まで社会主義を奉じる人は多かった。幾多の虐殺・人権侵害があったにも拘わらず。一般には、「市場原理主義」の信奉者と理解される向きがあるが、それは弟子のミルトン・フリードマンら合理的な数理経済学者の説ではあってもハイエクはそうではないと著者は言う。ハイエクの言う「自生的秩序」はインターネットに通じる。著作権とか特許というのは既得者による知識ソースの独占であり本来の自由主義から言うと問題があるという。ハイエクの著書は「隷従の道」を学生時代に購入したまま積読状態となっている。埃だらけになった本をやっと見つけ出した。読める時期が来たというところか?

他に数冊を斜め読みしたのだが、外の陽気はポカポカだ。気になりだした。明日は10時半の出勤だし、行ってくるかぁ、セイゴ釣りに・・・。上げ潮に合わせた夜釣りだから17時~21時までの4時間だ。

続きは釣りから戻ってからにします。

下の写真はセイゴのニンニク・香草のロースト

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菜悶飯

中国風混ぜご飯を食べた。

先週末の日曜日は仕事で職場に一日出勤した。中国からの留学生も仕事を手伝ってくれたのだったが、お昼ご飯は近くの中華料理屋(台湾人が経営)から弁当を取り寄せた。

学生の1人はイスラム教徒で、豚肉が駄目だそうで豚肉抜きでお願いした。彼は聞くところによれば、ペルシャから元の時代にやってきた回教徒の末裔らしい。顔を見ればどことなく彫りが深そうな感じだ・・・。出身は北京。

一方の女子学生二人の一人は、山西省の出身。背が高い。中国人の教授から「貴女は騎馬民族の末裔だね。鮮卑族かな・・・一応漢族だけど」とからかわれている。もう1人は、孔子の故郷に近い山東省の出身、いわゆる漢族?らしい顔立ちである・・・。

と、一応講釈していただいたのは中国人のR教授だったが、先生ご自身は、毛沢東の文化大革命時代に下放を経験して田舎暮らしをしたという。当時学んだ外国語はロシア語だった。ほとんど忘れました、と流暢な日本語で仰る。改革・開放時代に日本語を勉強して遅まきながら日本に留学。明治維新や明の末期に日本へ亡命した中国人学者朱舜水を研究したりした。

混ぜご飯を食べながら、中国語では、「菜悶飯」と言いますと白板に漢字を書いてくださった。 「悶」という時は「密封して蒸す」意味もあるらしい。日本語では「心が 悶々する」という意味で普通イメージするのだが。漢字の妙である。こういう言い方があるのかぁ、と感心してしまった。

ところで、台湾人が作ってくれた混ぜご飯だが、どこが中国風混ぜご飯なのか分からないほど、私の家の人が作るタケノコ、ゴボウ、鶏肉などが入った混ぜご飯と区別が付かないほどだった。味は? もちろん、うまかった!。

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世界カタコト辞典(14)Heute sind wir hin

Heute sind wir hin. 

(ドイツ語でホイヤーソマーヒーと読み下して、南ドイツバイエルン地方の方言。日本語で強いて意訳するならば「ちかれたびィ~」の意味)

ああ、今週もやっと金曜日。一週間は早かった。毎日仕事頑張ってます。私燃えてます。新しい職場に移って3年目。責任者として真価を問われる年でもあるから、そりゃぁ、必死だわナ。と、言う割りには、今年は昨年より余裕がある。季節を眺める余裕がある。

オオルリよ、早く姿を見せてくれ~。キビタキよ、早く来~い。このところ朝5時になると自宅近くで囀るウグイスの声が目覚ましだ。今日は雨だったけど、それでもウグイスは5時過ぎにしっかりと囀ってくれた。緑が萌え始めて気温も上がり心地よい毎朝、私はXXX公園を散歩しながら職場へ向かう毎日だ。

木曜日は、道端の大木の幹の割れ目にシジュウカラの巣を見つけた。湿地帯のヒキガエルの合唱を聞きながら片側の雑木林の縁道を歩いていると、ある大木のすぐ近くで親鳥が大騒ぎしている。いつもと違う鳴き方でどうもおかしい、と思いじっくり辺りを観察したらすぐ目の前の木の反対側に巣があったのだ。一瞬、抱卵していた親鳥のもう一方が目にもとまらぬ速さで逃げ出した。野鳥は人の意表をつく場所に巣を構えるのだ。そーっと覗いて見たら、小さな卵が5つあった。雛が孵って巣立つまで観察する楽しみが増えた。

暖かくなってビールが美味い季節になってきた。毎日一本ずつ、地元産のエールを飲んでいる。水曜日は、ホワイトエール(ハーブとオレンジの風味)、木曜日はドイツ風のヴァイツェン(バナナ風味)。いずれも地元で作られるビールだ。フクロウトレードマークになっている。これも気に入っている。そして昨夜の金曜日はペールエールだった。地元産ですがなかなかですゾ!

http://www.kodawari.cc/html/nest/nestbeer.html

つい最近までラガービールしか飲めなかった日本だが、近頃はいろいろな種類と風味のビールが楽しめるようになった。昔は何故か麒麟麦酒一本やりだった。最近イギリス人ジャーナリストで日本滞在歴14年の日本通であるコリン・ジョイス氏の著書「ニッポン社会」入門」を読んだところなのだが、日本人のグルメ振りと食の繊細・豊富さに敬意を表しながらも、イギリス人らしくジョージ・オーウェルのイギリス料理擁護のエッセイを引きながら、10数年前に来日した頃の日本ビール文化のお粗末さ(最近は大分改善された!)と日本米の食べ方の単純さ(パンの種類の豊富さを見よ!)に苦言を呈している。

エールビールの本場はイギリスやアイルランドらしいが、インターネットで調べると、我が人生においてはあちこちでエールビールを飲んできたようだ。ドイツはジュッセルドルフのアルトビール(Schlosser Alt)ケルンのケルシュ(Koelsch)、アイルランドのギネス(Guiness)、ミュンヘンのヴァイツェン(Weizen)というか、東京の神田神保町の三省堂書店の地下のビアホールで飲んだバニラ風味のヴァイツェンビールは実に美味かった。おっと忘れてはいけない、ベルギー産のホワイトエールであるヒューガーデンHoegaardenもなかなかだ。

表題のドイツ語だが、20代後半の頃、日本のある家電メーカーが招待した売り上げ優秀なドイツ人の訪日報奨旅行の仕事を担当した時に、お客のドイツ人が私に掛けてくれた言葉だった。

バイエルン方言だから、さっぱり分からなかった。音で聞くとカタカナの通りだが、文字に書いてもらって初めて意味が分かったのだった。先方は、「お疲れさーん」とい言いたかったのだろう。そんな表現は日本語しかないのだが・・・。

エールビールを購入した食品スーパーだが、昨年ここで子育てをしたツバメが戻って来ているのに気がついた。昨年は途中巣が壊れてしまったのだが店の人が補強板で何とかしのいだのだった。すでに巣はちゃんと修復されていた。驚きであった。

木曜日の午後から天気が崩れ、金曜日も午前中は雨、午後から風が強く春の嵐だった。何とか一週間を乗り切ってほっとして帰宅、今週のことをあれやこれや思い出しながら美味いペールエールを飲み、30年以上前に聞いたバイエルン方言を思い出した。 さあさあ、もう店じまい、ちかれたびぃ~。もう一杯ビールを飲んでさあ寝よう。いい夢を見ながら・・・、と昨夜は熟睡した。

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お昼に「清蒸黄魚」を食す

春の自然観察ですっかり脳内がα派に満たされたのだったが、午前11時過ぎ、ピンキーとキラーズの「恋の季節」の歌詞「忘れられないのぉ~、あの人が好きよぉ~、青いシャツ着てさぁ~、海を見てたは~、私ははだしでぇ~、小さな貝の舟ぇ~、浮かべて泣いたのぉ~、わけもないのにぃ~・・・」を口ずさみながら帰宅した。

途中スーパーに寄った。昨日職場の図書を整理していたのだが、加藤千洋氏の「中国食紀行」をたまたま拾い読みしていたら「清蒸黄魚」の話が出ていた。イシモチの中華風蒸し物だ。

先日はキンメダイですでに実験済みの料理だが、なかなかの出来だった。もし、イシモチがあったら、昼は作るぞぉ、と意気込んで海鮮コーナーに立ち寄ると、あった、あった、地元産のイシモチが。20センチサイズの小ぶりなものだが、4匹で300円。安い、安い。紹興酒も買った。

早速魚をさばいて(鱗とはらわたを取って)、ねぎ、しょうが、干ししいたけなど下ごしらえの上、そこの深いお皿にねぎを敷き、イシモチを乗せて、塩・胡椒して紹興酒をかけて蒸しこと15分、さらに10分ほど置いて、食卓に供する。 そして、みんなでこのイシモチを頬張ると・・・やったぁー、なかなかの出来だった。イシモチの身はやわらかい。しかし、蒸し過ぎると身が固くなってしまうらしい。ちょうどいい加減で蒸しあがっていた!!!

確かに、加藤氏の言うようにイシモチは和食では人気がない。そもそもレストランのメニューで見たことがない。せいぜい、蒲鉾の原材料になるくらいだ。しかし、しかし、料理一つでこんな美味い味わい方が出来るとは!

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気ままにおしゃべり(10) かっぱ巻きとアフタヌーンティー

しばらく途切れていたシーリーズの復活編は、かっぱ巻きで始まる。

先週末の土曜日はいつものように双眼鏡をもってバードウォッチングの散歩を楽しんだ。ウグイスがところどころで遠慮がちに囀っていた。ミソサザイ、エナガ、カワラヒワ(囀り)、ルリビタキ(♀2羽)、オオタカ、キクイタダキ、ツグミ、シロハラ、シメ、メジロ(囀り)、コゲラ、キセキレイ(囀り)、セグロセキレイ(囀り)、カワセミ、ホオジロ(囀り)、コジュケイ(叫び!)、キジ、ダイサギ、コサギ・・・たっぷりと楽しんだ。野鳥がだんだんと囀るようになって来た。

午前中たっぷり3時間歩き回って、すっかりお腹をすかせ、途中スーパーにより巻き寿司を買って帰宅した。お茶を飲みながら巻き寿司3種を頬張った。かんぴょう、梅、そして胡瓜。それぞれに美味いが、わさびの利いたかっぱ巻きを食べていたら、急にロンドンでいつだったか、アフタヌーンティーで食べた胡瓜サンドイッチを思い出した。

確か、サボイホテルだったと思う。10ポンド以上もする贅沢なアフタヌーンティー。ものは試しと大枚をはたいて体験しに行ったのだった。物々しい服装で入館する者を気後れさせるようなドアマンに挨拶されて中に入った。イギリスは万事がものものしく、まるで皆が歌舞伎役者のように演技していると思うことがあった。

さてこのアフタヌーンティーだが、注文してしばらくすると3段だか4段の銀器にものものしく乗せられて出てきたのが、食パンの耳を落として白い部分だけを使ってハムとか胡瓜が挟んであるシンプルなサンドイッチやクリームとビスケットのようなものも(スコーン)と果物だった。それに紅茶もいろいろな種類があって、私はダージリンを頼んだのだった。内容はたいしたことないのだが、時代ががかったものものしさだ。日本の喫茶店でするアフタヌーンティーとは大違いだった。

別段おししいとは思わなかったが、妙にお茶と合うなぁと思いながら食べたのが胡瓜サンドイッチだった。もぐもぐとかっぱ巻きを食べながら、具の胡瓜とつーんとくるわさびの味に感心した時、突然思い出してしまった。あの、胡瓜サンドイッチを。

イギリスにはローストビーフというおいしい牛肉の食べ方もある。牛肉の塊をローストして(外側はこんがり焼くが中身は半生である。つまり、牛肉のたたきだ)薄くスライスして、ホースラディッシュ(西洋わさび)と一緒にローストしたときに出る肉汁を煮詰めたグレイビーソースで食べるのだが、アングロサクソンの食事は不味い、という定評にも関わらず、これを食べたときの美味しさには感激した。そして、この食べ方を発明したイギリス人に敬意を覚えたものだ。個人的には、Strandにある有名なSimpson’sなんかのローストビーフより、日本のホテルで出されるローストビーフの方が美味しい気がするが・・・。

牛肉をわさびで食べる、というのがミソなのだと思う。牛肉というかステーキの一番美味しい食べ方は、塩と胡椒でシンプルに食べることだと思うのだが、ローストしてわさび(西洋でも日本わさびでもどちらでもいい)で食べるのも捨てがたい。

やはり、マグロを生でわさびと醤油で食べる日本人の味覚の本能からだろうか?

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味覚の記憶~パエリャ~

連休の初日は、恒例のバードウォッチングを3時間楽しんだ。1ヶ月ぶりに逆川緑地周辺をうろついた。空はどんよりとミルク色に染まり、日本列島は雪模様となるらしい。とにかく凍えるような寒さだった。大好きなルリビタキ、ジョウビタキ、エナガそして、今年の目玉キクイタダキにも出会えて満足した。収穫は、この時期にイカルに出会ったことだった。

インターネットで検索すれば・・・

http://www.asahi-net.or.jp/~yi2y-wd/a-uta/uta-ikaru.html

http://www2.odn.ne.jp/wildbird/atori_4.htm

毎年5月の連休に北関東の嵐山と言われる御前山にバードウォッチングに出かけるのだが、2006年あの山頂で美しい囀りとともに目の前で対峙した出会いが忘れられない。昨年は、春先に徳川博物館のある雑木林で囀っているのを通勤途中に聞いたものだ。アトリの仲間だが、カワラヒワやシメに比べると出会う機会はかなり限られているように思う。先日はキャンパスでマヒワに出会ってうれしかったが、アトリに至っては、もう4年近く出会っていないのだ。

帰宅して昼食をとったが、食べたのは「すいとん」。久しく食べていなかった。凍えていたのでからだがホカホカに温まった。一息つきながら、いつも「家の人」に食事を作ってもらっているが、今日は俺が何か手料理をしよう。 うーん、ようし、今日はパエリャだ。何故か?それはよくわからない。

天気予報がはずれて雪ならぬ凍えるような小雨の中、早速食材を買いに出かけた。海老、鶏肉、アサリ、イカ、セロリ、鞘インゲン、赤ピーマンなどなど。こんなところだろうか?にんにく、たまねぎ、オリーブオイル、トマトは買い置きがある。 とは言え、まだ夕餉の準備までは時間がある。コタツに入り、大福餅をたべたりお茶をのんだり、本を読んだりしてゆったりしながら、そういえばパエリャをはじめて食べたのは・・・いつのまにやら味覚の思い出に浸り始めた。

我が人生で初めてパエリャを食べたのは何とアムステルダムだった。1983年の秋のことだ。会社派遣の研修員で赴任してすぐのこと、前任者と引継ぎが終わって、生活のことをいろいろ話していたら、やっぱり米が食べたくなる、ということで、中華料理はインドネシア風のものもふくめてたくさんあるから心配ないけど、米を使ったおいしい料理が他にもあるんですよ、と言って紹介されたのが、悪名高いというより観光名所として世界的に有名な「赤い飾り窓」の一角にある教会!!!のすぐそばのスペイン料理店だった。

記憶は定かでないが、4人か5人の若い独身男性が、深鍋のなかの黄色いサフランライスと一緒に黒いからす貝にそっくりな貝(あとで、ムール貝ということを知った)やイカ、鶏肉、赤いピーマンなど具がたくさん入った炊き込みご飯で、めちゃくちゃうまかったのだった。しかし、若かっただろうか、Tボーンステーキやらタルタル肉のサンドイッチだとかナシゴーレンだとかいろいろ食べ歩いているうちにすっかり記憶から忘れ去られてしまっていた。

次にパエリャを食べたのは、1999年の秋深まるパリだった。仕事は大きな壁にぶつかり、後ろ向きの仕事をする毎日。残務処理をしながら日本帰国をひかえたある日打ち合わせでロンドンからパリに出かけた後、ぐったり疲れてお別れ会をしようということになった。パリに永いS氏の提案でパリは世界中の料理がおいしく食べられるという口宣伝に載せられて何と入ったのは、セーヌ左岸のとあるスペインレストランであった。しこたまワインを飲み、ギターの弾き語りの演奏を聴いたりで、何をたべ何を語らったのかほとんど記憶がないのだが、最後にパエリャを食べたのをかろうじて覚えている。当時の我が心はいろいろなもの思いに引き裂かれ美食どころではなかったのだった。

そして、パエリャに目覚める日がやってきた。それも、中近東のクウェートで!200某年、仕事で出かけたのだったが、ドバイに移動する合間に、市内のホテルで仮眠をとり、空港へ移動する直前に偶然取ったホテルのバイキング料理だった。正確に言うとそれはパエリャではなかった。アラブ風の炊き込みご飯だ。お米はもちろんサフランを使って美しい黄金色だった。赤ピーマンや青ピーマンもはいっていたが、具は羊の肉だった。とにかく美味しかった。要は、サフランを使った米の炊き込みご飯なのだ。具は何でもいいのだ。

かつて仕事で知り合ったドイツ人とパエリャ談義をしたことがある。何故ドイツ人とパエリャ談義? 彼は東ドイツの出身でベルリンの壁が出来たころ西ドイツに逃げ、旅行会社の仕事を得て、ドイツ人の人気旅行スポットのスペインのマヨルカ島に長年住んでいたのだという。その彼によると、いろいろなパエリャのバリエーションがあるのだという。つまり、家庭ごとにレシピがあるらしい。彼の場合は鶏肉ではなく、ウサギ肉を使うという。また、使用する豆にもこだわるのだという。インゲン豆の他いろいろな種類がある。

ドバイのスークで安いサフランを大量に購入して、帰国後の一ヶ月は、毎週のようにパエリャを作った。最初は水加減を間違えてオジヤのようになってしまったり失敗を重ねたが、3度目か4度目からは納得のいく仕上がりになった。底に少しおこげが出来る具合で仕上がるのがベスト。魚介類と肉類と香味野菜とサフランのうま味と香りが織り成す味のシンフォニーがご飯の一粒、一粒に吸収されて炊き上がれば成功である。味付けは少々の塩とレモンの絞り汁に胡椒だろうか? これもお好み次第だ。

時計は、17時前だ。さてとぉー、おもむろにキッチンに立ち、素材の仕込みを始める。田舎に戻って転職して3年になろうとしている。

     鶏肉を簡単にオリーブオイルで炒める。表面全体に焦げ目がつく程度で取り出す。

     オリーブオイルでニンニクとたまねぎのみじん切りをいためる。

     セロリのみじん切り、赤ピーマンのざく切り、鶏肉を順次加え、最後にお米を加えて炒める。

     別途事前に準備した米と同量の水を沸騰させて適量のサフランとチキンブイヨンを溶かしたものをフライパンの中の①~③に加える。

     砂抜きしたアサリを適量、下向きにして全体にちらすかたちで米の中に埋め込む。

     海老を中心点から放射状にシンメトリックにならべる。

     鞘インゲンを半分に切って表面に振りちらす。

     フライパンに蓋をして最初は強火、沸騰したら中火、最後は弱火にする。時折蓋をあけて水分をチェックする。 頃合を見計らって火を止め蒸らす。

久しぶりに男の手料理を披露した。17時35分にはもう完成。炊き込みご飯なんて簡単なのだ。15分ほど蒸らした。炊き上がったフライパンの蓋を取り、レモン汁を振りかけて小皿に盛り付ける。海老は一人2本ずつだよ・・・・おいしい、おいしい、と皆が言ってくれる。私も頬張る。水加減もよくアサリのうま味を中心にほどよくそれぞれの素材のうま味が凝縮されて調理できたようだ。ああ、満足、満足。赤ワインのグラスも1杯、2杯、3杯・・・。 テレビでは東京都心も雪模様だという。外は凍えるような寒さ。久しぶりのくつろぎの1日だった。

PS

今回はトマトを入れるのは忘れました。上記③の段階でぶつ切りを入れます。さらに風味が増すでしょう。

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味の記憶 その5 カツレツ~ キエフ風チキンカツレツ・狩人風カツレツ・ウィーン風カツレツなどなど

阿川弘之氏の「食味風々録」をぱらぱら読んでいたら、ビフテキとカツレツの章で、同氏がパリで食べた「コットレット・ア・ラ・キエフ」のくだりに出会い、思わず、そうだぁ、と呟いてしまう。私にも思い出がある一品である。

ロンドンで仕事をしていたころに出会った料理だ。来る日も来る日も仕事に追われ、ロンドンという食事には期待できない?大都会で、毎日をジャンクフードで打っちゃる日々だった。が、夜は若い日本から派遣されてきた研修員とよくイタリアレストランやハノーバー・スクウェアーにある日本料理店に出かけてはお腹一杯食べたものだ。

パスタやピザ、カツどん、餃子、チャーハン、ラーメン、焼肉定食、鯖の塩焼き定食にあきあきしていたある日、会社の近くのイタリアレストランでメニューを見ながら、何か違うものを頼んでみよう、ということで、Chicken Kievというのを頼んでみた。誰も食べたことのないメニューだ。どんなのが出てくるのか?あまり期待しないで待っていた料理だったが、出てきたのはチキンカツレツだった。

こんがりと狐色に揚げられた鶏肉。ナイフを入れると、バターとレモンとニンニクとパセリの混じったスープが中から溢れ出て来ていかにも美味そうな匂い。一口頬張ると、メチャクチャ美味かった。これをきっかけに、病み付きになってしばらくは、このキエフ風チキンカツレツを贔屓にしたものだ。

カツレツというと、ミラノ風カツレツ、ウィーン風カツレツとあるが、こちらは、豚肉とか仔牛肉を使っていたと思う。ドイツ語では、Schnitzel(シュニッツェル)と言う。1976年に初めて海外に出かけてこのシュニッツェルを食べたのは、チェーンレストランWienerwald(ウィーンの森)で場所は北ドイツのハノーバーだった。学生でお金もなく、お腹がすいていたので、ウィーン風カツレツに山盛りのフライドポテトは美味かったことを覚えている。

次の記憶は、やはり、ドイツのフランクフルト郊外の地元レストランで、取引先の方にご馳走になった「狩人風カツレツ」(Jaegerschnitzel)であった。これは、カツレツに盛り沢山のキノコを使ったクリームソースがたっぷりかかった料理だ。

元祖オリジナルはミラノ風カツレツだと聞いた。フランス料理だって、イタリア宮廷料理が17世紀以降に洗練されて出来たものだ。イタリアは偉大なり。残念ながら、ミラノには出かけたことがないので、ミラノ風カツレツは味わったことがない。しかし、ミラノの伝統は、ハプスブルク帝国の支配時代を通じて、ウィーンに根を下ろし、今ではオーストリアを代表する?定番メニューの一つとなっているようだ。

数年前のある日、ウィーンにはかなり造詣が深い会社の先輩に連れられて、池袋は江古田にあるレストランに出かけて、ウィーン風カツレツなるものを賞味したことがある。学生時代に海外で食べて美味しかった記憶があるのだが、実は味覚そのものはすっかり忘れていたのだった。 シェフが作るウィーン風カツレツは、すでに中年の域に達して、多少は修行を積んですれているはずの自分の舌を納得させるだけの見事なものだった。

そのレストランのシェフは、日本人で、確か、横浜グランドホテルの厨房で修行して、海外に飛び出し、ウィーンに流れ着いてさらに腕を磨いたそうだ。確か、そうだった。カツレツも美味かったが、いっしょに食べたリゾットも美味かった。

ロンドンのキエフ風、フランクフルト郊外の狩人風、日本は江古田のウィーン風のカツレツ。どれに軍配を上げるか?これは、ちょっと難しい。強いて言えば、やはり、バターとレモンにニンニクとパセリがミックスしたロンドンの、もう名前は忘れてしまった、ニューボンドストリート界隈にしては、すこし、安っぽいイタリアレストランで食べたあの、Chicken Kievになるだろうが、狩人風も、ウィーン風カツレツも、又、機会があれば是非賞味したい料理である。

(続く)

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気ままにおしゃべり(3) 日本人の食生活が豊かになったのはこの30数年だ。

連想と飛躍をしながら、お喋りを続けます。

映画「1900年」で小作人の農家の一家が、ガツガツ食べるシーンを見ながら、昔は世界どこも貧しかったのだなと思う。地主の倅だった父の記憶によれば(2006年12月7日のブログ参照)、小学校で、洋服を着て、靴を履き、お弁当にはご飯に卵焼きがついていたのは父だけで、普通の小作農の子供たちは、ボロボロの着物で裸足、鼻水をたらして、お弁当は白米と梅干しだけ、だったそうだ。 映画「1900年」の世界そのままじゃないか。また「1900年」では、子供がカエルを捕まえて、地主の家族の食卓にタンパク質の供給源として並べられているのを記憶しているが、父の実家では、やはりタンパク質をとるべく、田圃でイナゴを捕まえて、佃煮にして食べたそうだ。このあたりもパラレルだ。

父のすぐ上の兄だが、大東亜戦争中、満州国はソ連との国境にいたというが、食べ物の話として、毎日毎日が日本で言うご祝儀並みのご馳走だったそうだ。それほど当時の満州は、地味豊かで食べるものが一杯あったらしい。明治維新当時、3000万と見積もられる日本の人口が、その後の50年間で倍に増えた当時、世界的な不況の中で、日本の農村は疲弊した。イギリス連邦、アメリカ、フランスなどが次々とその植民地とともに地域ブロック経済圏を作って、閉鎖的になったのだから、行き場のない日本が満州に活路を見いだす為に出て行くことは、やむを得ないことだった。 父の兄だが、その後、南方の島に転戦となり、ネズミ、カタツムリからなんでも食べるという餓えを経験し、栄養失調になって死線をさまよったが、何とか生き延びて帰国。現在、84歳で健在だ。

邱永漢氏の「中国人と日本人」をたまたまベッドの中で就寝前に読んでいたら、日本人の食卓は戦後もしばらくは、つつましやかで、実際の所、貧しかった、と指摘している箇所に出くわした。高度経済成長を経て、生活に余裕が出来て、今では、東京のレストランとなると、世界のいろいろな国の料理がトップレベルの品質で賞味できるまでになったが、ここ30数年のことなのだという。戦後の日本人の味覚の大きな変化は、アメリカの影響で、戦後、まずパン、チーズ、牛乳、バター、それにハンバーグなどが普及したが、アメリカの味覚にあきたらなくなった日本は、フランス料理に行き着いた。日本料理は、フランス料理の影響をうけつつ進化しているのだという。なるほど・・・。

四方を海に囲まれ、緑豊かな自然に恵まれた日本。新鮮な素材(特に、魚介類)をシンプルに味付けして賞味する味覚は、日本人の擦れていない故に「ウブで鈍感」とも言え味覚にその秘密があると、邱氏は自説を展開するのだが(中国語の味覚を区別する語彙に比べると、日本語の語彙は貧弱だという指摘)、豊かになるとともに、世界の未知なる新しい味覚に「敏感に反応」し、料理の洗練度でいう世界の双璧である中華とフランス料理とは全く違う角度(これが日本だ!)から日本刀のように鋭い切れ味で日本の味覚を洗練して、世界の檜舞台に躍り出たのが日本料理だ。これが現在、世界的に、日本料理店が増え続けている理由ではないだろうか?

寿司の例で言うと、私事だが、2年前、ベルリンで2度、寿司を食べたけれど、ひとつは、上海人経営のレストラン、もうひとつは、グランド・ハイアット・ホテル内でミャンマー人が握る寿司バーだった。ロンドンのシティーにある某日本レストランで握る寿司職人はタイ人だった。(8年前の話)。味は、日本で食べるにぎり寿司職人の味と全く変わらなかった!海外の日本食も、ここまで来たかぁ、という感慨を持った。

20年前のオランダ時代だと、日本食は、少数の海外駐在日本人が食べるマイノリティーの食事だった。日本人が作って、日本人と地元の余裕のある人が話の種に食べる程度の食事だった。だいたい、「魚を生で食べる」というのは、野蛮人、未開人の習慣だと、偏見を持って見られた。彼ら同士が曰くありげに目配せしながら、日本食なるものを食べるわけだ。

日本料理の神髄は、と問われれば、「新鮮な素材をシンプルに味わう醍醐味」と要約できるだろうか。確かに、フランス料理はいろいろなソースで味付けするし、中国料理もいろいろな調味料が登場する。つまり、いろいろと手を掛けて加工するのだ。それが、芸術の域にまで洗練されているのが両者の共通点だろう。「70%が調理法、30%が食材の割合」で東西の双璧であるのに対し、日本料理は「70%が食材、30%が調理法」だそうだ。

邱氏の話で目から鱗だったのは、中国人は、フランス料理と日本料理を選ぶとしたら、間違いなく日本料理を選ぶという。理由は何か?驚くなかれ、中国人にとってフランス料理とは自分たちの「亜流」だと思っているのだそうだ。「フランス料理の調理法で中華料理にないものは一つもないが、中華料理にあってフランス料理にないものはいくらでもある・・・。中国人がフランス料理から習ったものがあるとすれば、それはフランス風の調理法ではなく、フランス風の飾りつけや盛り合わせだろう」。中国人が日本料理に1目も2目も置くのは、ズバリ言うと、「彼らの発想外の味覚」だからだそうだ。

(続く)

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「あらかぶ」~煮魚についての雑感

NHKの子供向けの番組を見ていたら、日本人が年間に消費する魚は一人平均約60キロ。欧米人や中国人だとその三分の一という。我が家の場合は、日本人の平均をさらに上まることは間違いない。兎に角、ほぼ毎日、煮魚、焼き魚、干し魚、刺身のいずれかがメニューなのだから。

魚は生臭くて苦手と言う人が多い。寿司でも「ひかりもの」は駄目という人が結構いる。我が家の食卓では、鯖があまり出ないのでどうしてだろうか、不思議に思っていたら、父が鯖が苦手なのだそうだ。年老いた父だけに、好きなものを食べてほしいので贅沢(鯖は贅沢ではないのだが)は言わない。鯖の押し寿司は絶品なのだが・・・。脂ののった秋サバの塩焼きも美味いし、味噌煮だって美味いのだが・・・。

私にとって苦手な魚介類は唯一、「酢だこ」くらいだろうか?タコのマリネは好きなのだが、どうも「酢だこ」だけは、おいしいと思ったことがない。それ以外なら、何でも来いである。

さて、この魚だが、世界的に狂牛病やら鳥インフルエンザの影響だか、知らないが、需要が逼迫してあのマグロも近い将来、今のように食べられなくなると危惧されている。生魚をほとんど食べない中国でも、高度経済成長で所得が伸び、沿岸部では、寿司、刺身の需要はうなぎ登りらしい。中国では魚介類は高級食材なのだそうだ。すでに沿岸部の4億に相当する人口は日本が東京オリンピック前後の所得倍増を達成したまさにその熱気の中にいるという。どうなる、日本!?!

昨夜は、「あらかぶ」という魚の煮付けを肴に酒を飲み夕食を食べた。赤い魚だった。赤い魚の煮付けには思い出がある。子供の頃、地元では「アカジ」と言っていた、安い魚があった。「アカジ」の煮付けと言えば、我が家の食卓の定番メニューであった。「ええ、またぁ、アカジぃ?ハンバーグが食べたいヨ~」。子供心に、アッサリ系の魚より肉類が食べたい、と思ったものだ。

しかし、しかし、しかし、である。この「アカジ」とは、現代の高級魚となってしまった、あの「キンキ」のことであった。「ええ、そうなのぉ~、もっと食べとけば良かったぁ!」 後の祭りである。今じゃ、一匹あたり千円以上する。「アカジ」(キンキ)の煮付けが食べたいなぁ、とひとしきり、昔話をしていた矢先、父は、市内の高級スーパー?で偶然見つけて?この「あらかぶ」を買って来て調理したのだった。

関東では聞いたことがないこの魚、九州は長崎で取れた魚だという。こういう時、インターネットは便利だ。早速、検索してみると、何のことはない、関東で言う「カサゴ」の仲間であった。赤カサゴ。道理で、煮魚にして食べたのだが、大変美味い魚だった。

→ http://www4.ocn.ne.jp/~goto-sea/ajisai/ryouri/arakabu/arakabu.html

ちなみに、キンキとは、

→ http://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/92-kichiji.html

カサゴの仲間はおおむね美味ではないだろうか?煮付けが一番美味いだろう。つくづく写真や図鑑の絵を見ていて愛着が湧いて来た。この煮つけだが、日本の煮付けは、中国に比べると薄味だと思う。関東は、関西に比べて味が濃いと言われるが、5年ほど前、中国は大連に旅行して海鮮料理を食べたときに、カサゴらしい魚の煮付けを食べたが、こちらは、関東育ちの小生にとっても、こってり濃い味で煮付だなぁと思ったもので、日本の煮付けに軍配を上げたのだった。

しかし、しかし、しかし、である。煮付けの一種の蒸し魚となると、中国の調理方・味つけは、驚嘆の一言だ。いわゆる、「清蒸石斑魚」というやつだ。最初に食べたのは、1985年のこと。場所は、マレーシアはペナン島。一夕、大きなテーブル10人近くで囲み、何故かブランデーのオンザロックスをお酒に、大変大型のハタ類の魚がこれまた大きなお皿にまるまる一匹乗せられて出てきた。葱と香草と生姜と醤油とたぶんお酒とかいろいろな調味料が隠し味に、見事に調理されていた。皆で、箸をのばして、白味を取って頬張る。頬が落ちそうになるくらい、うまかった。あれ以上おいしい蒸し(煮)魚は、その後、出会っていない。 

ロンドンで仕事をしてた当事は、ソーホーの中華によく足を運んだものだ。毎回必ず、この「清蒸」料理を頼んだものだが、材料は、何故かいつも鱸(すずき)だった。しかし、味にはいつも満足だった。

2004年、2005年と立て続けに上海、瀋陽と旅行したときも、もちろん「清蒸」料理を堪能した。上海では、石斑魚を2種類―赤い種類と黒い種類と2種類―二晩連続賞味した。伊勢海老の刺身と海老雑炊も食したが、断然、この清蒸石斑魚に軍配が上がった。 瀋陽は、中国東北部の内陸部。清朝の故郷である。ここで賞味したのは、平目の清蒸であった。これも涙が出るくらいうまかった。

一度、イシモチの「清蒸」を自分で作ったことがある。しかし、失敗であった。インターネットからレシピを検索して見よう見真似で作ってみたのだったが。葱と生姜と醤油と酒だけじゃ、あの味が出ないのだ。 日本風の醤油、みりん(砂糖)、日本酒の味付けはそれはそれで美味いが、どうも清蒸のあの上品なコクが出ないのだ。

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味の記憶 その4~「卵料理」

父の話から始めよう。ある時、父から戦前(大東亜戦争前)の子供の頃の話で、昔は本当に食べるものがなかったという話を聞いた。大正生まれの父は幸いながら、地主の倅(三男坊)で甘やかされ可愛がられたそうだ。小学校時代、何しろ、靴を履いて通学したのは珍しがられたという。お昼の弁当だが、まわりの同級生はみんな、日の丸弁当。ご飯と梅干だけ。新聞紙に隠すようにして弁当を食べる同級生を尻目に、父の自慢は、自分は毎日卵焼きがあったので堂々と見せびらかして食べていたという。

自分が子供の頃、お弁当と言えば母の手作り弁当。そして、おかずは、ウィンナーソーセージと卵焼き、海苔を二段にしいてもらったお弁当である。寒い冬は、石炭ストーブに乗せて、あったかくして食べたっけ。

それから、母が時折作るオムレツ。これもうまかったなぁ。玉ねぎのみじん切りとひき肉が具のオムレツだった。茶碗蒸しも良く食べたなぁ。遠足で持参したおにぎりに付属のゆで卵もなかなか美味しかったし、東京で外食するなか始めて食べたオムライスはなかなか美味かった。すき焼きを溶いた生卵で食べるのも東京に出て知ったことだ。お正月に食べる伊達巻、それと、出し巻き卵って言うんだっけ?たまに旅館なんかで朝食を取れば、生卵に醤油を入れ、ご飯にかけて頬張る。これもおいしい卵の食べ方である。

高度経済成長時代と共に、卵を毎日食べることは、珍しくなくなり、いろいろな卵料理を味わったものだ。しかし、日本が豊かになるにつれて、素朴な家庭料理、卵料理は長いこと私の記憶から忘れ去られてしまった。まるで、バナナが、そう、子供の頃、バナナといっただけで心がときめいえたものだ。あのころ、バナナはめずらしかったし、たまに台湾バナナを食べる機会があれば大騒ぎだった。それが、いつの間にか、ありふれた安い果物の代名詞に成り下がってしまった。

しかし、しかし、しかし、である。卵料理は奥が深い。社会人になって、日本が豊かになって、あちこちで、贅沢な?卵料理を食べた。

パリで食べた香草入りのプレーンオムレツ、これはシンプルだが美味かった。 

オランダに住んだとき、会社の近くに、De Hutというレストランがあった。ここで食べたBoeromlette(農民風オムレツ)も美味かった。この農民風オムレツだが、ヨーロッパではどこでも作っているらしく、ジャガイモ、ベーコン、玉ねぎ、その他いろいろなくず野菜の具を卵で包んだオムレツである。スペインならスパニッシュ・オムレツで有名だ。ドイツでも農民風オムレツと言うらしい。

イギリスではどうか、寡聞にして知らない。イギリスだと、フライド・エッグ(目玉焼き)かいり卵がつくイングリッシュ・ブレックファストを思い出す。

おなじ、不味い食事で有名な?オランダではUitsmijter(アウツマイター)というシンプルな料理もあった。何のことはない、食パンの上に、おいしい薄切りのチーズとハムとレタスを載せ、その上に半熟の目玉焼きが載った料理である。これはこれで、なかなか美味かった。時折思い出しては、この日本でもたまの朝食に作ることがある。アムステルダムの中華街で食べた芙蓉蟹(かに卵)もなかなかであった。

ポーチド・エッグというのもある。沸騰したお湯に酢を入れて、その中に生卵を割って黄身と白味をそのまま入れて料理したものだ。これはうまいのか不味いのか、私にはよくわからない。何がいいのだろうか?

数年前、中国は広東省の広州に滞在したことがある。現地の中国人の招待で一杯飲んだ。普通のレストランである。ビールを飲みながら、普通の家庭料理を食べた。菜の花の茎のおひたし、イカとグリーンアスパラガスの炒め物、など出てくる料理はみなシンプルなのだが、皆美味い。そして、トマトと卵の炒め物も食べた。これがまた美味かった。どういう味付けをしているのだろうか?中国料理は全てとは言わないが、「悪魔的」な美味さを持っている。フランス料理と双璧である。

昨年、中国は遼寧省の省都・瀋陽に仕事で出かけたおり、海鮮料理に招待された。そこで食べたサヨリの串揚げみたいな料理、これが、また、すばらしく絶品だった。どうやって調理するのだろうか?中国の奥深さを知った。

話が少し脱線したが、トマトと卵の炒め物は、ごく普通の中国家庭料理、お袋の味なのだそうだ。しかし、しかし、しかし、である。なかなか、ふっくらと適度に水分のあるこのトマトと卵の炒め物は出来ないのである。ちなみにご自身で試してください。簡単にはいきませんよ!

最後の締めくくり。いまじゃ作りませんが、子供の頃、夏、卵の黄身と牛乳を混ぜて砂糖を入れ、冷蔵庫で凍らせてアイスクリームにしてお八つで食べたものだ! 

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東京で、両親を「鉄板焼き」でもてなす ~ ステーキ編 その1

ステーキは何と言っても大好きである。 子供の頃の記憶を辿れば、始めてステーキらしいステーキを食べたのはいつ頃のことだろうか? 関東は豚肉が主流である。 肉じゃが、といえば、豚である。 関西は牛らしい。 子供の頃のステーキといえば、ポークソテーのことだった。 大学時代は、牛とは無縁に(マクドナルドのハンバーガーは別)、ひたすら、豚肉のしょうが焼きとポークソテーを食べたものだ。 

すくなくとも、私にとっては。何千円もする牛ステーキは社会人になってから覚えた贅沢だと思う。社会人になってすぐ、先輩と一緒に松坂牛のステーキを食べたのは忘れられない。今でも鮮やかに記憶に残っている。 牛ステーキはこんなに美味いのか! 鉄板焼き、韓国風の焼肉、英国風のローストビーフ、オランダで病みつきになったTボーンステーキ、パリで味わったアントレコット(つまり、サーロイン)、イタリアはフローレンスで味わった700グラムのビステッカ・フィオレンティーナ、 記憶を辿っていくと、いろいろおいしい記憶が蘇ってくる。

先日、両親を連れて東京に出かけた折り、鉄板焼きを食べた。 昭和初期の生まれの両親は贅沢が出来ない。 たまに、牛肉を食べるといえば、スーパーの大安売りでくず肉を買って来てのすき焼きならぬ、牛丼まがいを作ってみたり、海老を食べようと思えば、大振りのものを買ってきてお腹一杯食べればいいのに、小振りのものを申し訳程度に買ってきて、つい最近もパエリャなるものを食べたのだが、どこに海老があるのか?と文句を言いたくなるくらい、つましいのである。 コレばっかりは、生まれ育った環境が体に刷り込まれて、贅沢が出来ないのだなと諦めた。

とは言え、自分の懐とは関係なければ、やはり、人間である。 一人15000円!!!!!、税金・サービス別の鉄板焼きをペロリと平らげ、おいしい!と喜んでくれた次第である。 都内のレインボーブリッジを望む某ホテル最上階のレストランで夜景を眺めながらの鉄板焼きフルコースである。 こんな贅沢をするのも、現金には換えられない旅行券で、期限切れ前日という特別な事情があったからこそ出来るものである。さすがの私も、現金だったら・・・と思ってしまう。(金額を書くなんてハシタナイと思われる方もいるかと思いますがご容赦願います。田舎の普通の庶民の束の間の贅沢なんてこんなものだのです!)

18時過ぎ、高層階のデラックスルームで、お風呂に入って禊を済ませ、十分くつろいだ我々は、まだ誰も居ないと思った三十階のレストランに入る。 すでに、品のよさそうなオバサマ達3人トリオが、食事を始めていたのにはびっくりした。 両親は少し緊張していたが、東京湾の夜景を見て、リラックス。 白装束のコックさんの前のテーブルカウンターに着席した。

第一ラウンドは、ムール貝と牛肉の佃煮とキノコのマリネ。 前菜である。 ワインと熱燗とウーロン茶で乾杯して、食事は始まった。 

第二ラウンドは、魚介類のメニューである。 帆立貝と海老が出てきた。 目の前で担当のコックさんが、鮮やかな手つきで、海老の殻を取り、背綿を取ったりして、最後は、シェリー酒とバターに檸檬を絞ったソースを作ってくれて、お皿に美しく盛り付けてくれた。 これだけで絵になるような、そんな技である。 これまた、あっという間に胃袋に収まる。 我々は、無言で、ただひたすら食べる。 

そして、第三ラウンド、いよいよ、ステーキの登場である。 母は脂身を避けたいということでヒレステーキ。 父と私は、サーロインを選んだ。 隣の席に北欧出身らしきビジネスマン男3人がやってきて目で挨拶して着席した。 肉の焼き方は、母がウェルダン、父がミディアムレアー、私がレアーということで決定。 目の前では、ステーキを焼く前に、美しく下ごしらえした、エリンギ、玉ねぎ、サツマイモ、茄子が、またまた鮮やかな手つきで見事に調理されて、用意された。 お塩や、トマトと玉ねぎのソース、それからポン酢と薬味が容易されて、いろいろな味を楽しみながら、賞味した。 上品な味である。

隣の外人だが、母の目の前で、イセエビを焼き始めた。 この野郎! 負けてるぜ・・・と思いつつも、やがて、ステーキがコックの見事な手さばきでサイコロステーキ風に調理されて食パンをひいた皿にキレイに盛り付けられて出てきた。

3人ともうっとりして、ステーキに舌鼓を打つ! 美味い! 言葉も出ない! 牛肉の銘柄はどうでもいい、特選国産牛としか知らないが、柔らかくて、口の中でとろける。 母はあっという間に平らげてしまった。 驚くべき食欲である。 75歳である。 80歳になったばかりの父は、小食である。 5切れほど食して、残りは、私が食べることに。 モヤシと脂身をカリカリに焼いてくれたものが出てきて、それから、ガーリックライス(母はニンニク・チャーハンと理解していた)が出てきた。 それに、野菜サラダ(ドレッシングが悪魔的に美味い!)、香の物とお味噌汁が出てきて、もうお腹はパンパンである。 いやーっぁ、食べた、食べた、食べた。

やがて、案内があり、席を移る。 岡山で取れたマスカットと何とかというブドウを掛け合わせた甘いブドウの一種、大粒のもの5粒のデザートである。 甘くてとてもおいしい。 それとミルクティーをオーダーして、目の前の東京湾を見る。 イルミネーションに輝く東京湾が美しい。 屋形船が結構浮かんでいる。 昔話やら、ホテルは外国みたいなところだとか、両親の率直な印象を聞く。 ホテルで迷子になってしまう。 カードキーの使い方が紛らわしい。 電話1つかけるのも大変などなど。 

お腹一杯になり、幸福感につつまれた我々は、その夜、豪華ホテルで熟睡し、翌朝は、京風会席の朝食を堪能し、父念願の築地周辺を散策、買い物をして、無事に帰宅した。 父は、一言、ステーキは美味かったけれど、俺は、やっぱり、魚(刺身、煮魚、焼き魚)だ・・・・・・・。

私から一言: 東京湾の夜景は美しかったが、やはり、香港の100万ドルの夜景にはかなわないような気がした。 シドニー湾のオペラハウス周辺の夜景にも負けているような気がしてならない。 趣味の問題といってしまえばそれまでだが。 それでも、昔、旧ソ連の客船が入港していたころのお台場とは比較にならない華やかさであることは確かであった。

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味の記憶 その3 「じゃがいも」

今回も、ロンドン時代のメモをまとめてアップしてみた。 1998年のころのものだ。

「ジャガイモ」が今回のテーマである。私の記憶をたどると、ジャガイモが私の意識にきちんと定着したのは、小学校の理科の時間でジャガイモを自分の庭で植えた頃からでは無いかと思う。植えてから毎朝庭を見て芽が出るのはまだかまだかと心を躍らせた記憶はあるが、芽を出してちゃんと実りがあったのかどうかとなると思い出せない。人は死ぬ直前に、生まれてからこの方記憶が走馬燈の様に脳裏を駆けめぐる体験をするらしいが、そのときこれを思い出すかも知れない。

ジャガイモの記憶は、それから母がよく作ってくれたジャガイモバターに繋がる。アルミホイルにバターを敷いてその上に大きな皮付きのジャガイモを乗せ塩をふってからくるんで、蒸し焼きにする簡単な料理なんだけれど、それを何故かご飯のおかずとして食べた。栄養学的に考えると澱粉質の取りすぎに思えが....。 アルミホイルを開けたと時のバターの香りが何とも言えなかったけれど、社会人になって札幌に行って、大通り公園でその匂いを思いだした。北海道名物のジャガイモバター。人はおいしいと言うけれど、母の作ってくれたじゃがいもバターの方がうまいと思った。母の料理は偉大なり!

大学3年の時、ドイツ人の先生が主催する夏ゼミでドイツに3ヶ月滞在した。 私のあらたなジャガイモとの出会いである。ドイツ語でKartoffel。 ドイツ人はジャガイモが主食と言われていたが、ジャガイモにはいろいろ食べ方があることを知った。 いわゆるポテトサラダ(ジャガイモを茹でて適当に切って、ソーセージやタマネギを刻んでマヨネーズやワインビネガー、塩胡椒で味を調える)という一大ジャンルがあり (母が良く作ったポテトサラダもこのジャンルに入る。 確か、スパゲッティーも入っていたと思う))肉料理の付け合わせに、マッシュポテトやベークトポテトや茹でただけのポテト添えてを肉のソースと一緒に食べる。

それからPommes Frites - 私は、ポメス・フリテスと言ってオーダーしたのだけれど、よく聞いていると周りはポム・フリと言っている。ラテン語か?フランス語か? ゼミの最後に、パリヘ行ってフランス語でジャガイモは、Pomme de terreと言い、文字通りには「地中のリンゴ」と知った。 Fritesは、油でフライにする意味だから、ポテトフライとなる。 いわゆる日本では、当時日本に進出して銀座に一号店をだしたマクドナルドのマック・ポテト!マック・ポテトは、塩をふって食べるだけだったけど、ドイツでは、マヨネーズをかけたり、ケチャップをかけたりオニオンを刻んだのを加えたりして食べていた。 

後年、アムステルダムで生活した時にもこのPommes Fritesにはだいぶお世話になった。オランダ語では、Patatfiritte。 但し、ジャガイモそのものは、Aardappel  (フランス語と同じで地中のリンゴ)と呼んでいる。オランダもドイツと同じで町中のスタンドのあちこちでこれを売っていて、みんな立ち食いする。3時のおやつと言う感じ。このPommes Fritesについては、ドイツやオランダのものがかりかりと揚がっていて香ばしい、ベルギーやフランスより(ちょっと油っぽい)勝る言っていたのは故開高健氏だったように記憶する。

30代半ばになって自分で料理に凝りだした頃最初に覚えたジャガイモ料理はフランスのリヨン名物のポテトグラタンだった。 ジャガイモを薄切りにして、耐熱皿に薄く敷き、ニンニクの薄切りを置いてシナモン、胡椒、塩を振り、その上に又ジャガイモを敷いて.....繰り返し。最後に牛乳と生クリームを半分半分に混ぜた物をジャガイモがちょっとかぶるくらいまで入れて、電子レンジ(230度位)で約30分位。10分前に、適当に溶けるチーズをふりかけ(種類はあなたのお好み次第)て出来上がり。 出来上がってから、15分くらい寝かせるのでその間にステーキを焼いて(ビーフに黒胡椒をまぶしたペッパー・ステーキ)、ブロッコリーの塩茹でなどを付け合わせて一緒に食べればちょっとしたフランス料理の醍醐味を味わえる。

かと思うと、スウェーデンのこんなおいしいレシピもある。 じゃがいもを切り(薄切り、フレンチフライスタイル切り何で可)、薄切りのタマネギと一緒にオリーブオイルで炒める。胡椒のみ振り、塩は絶対に振らない。耐熱皿にジャガイモとタマネギの半分を敷き、その上にアンチョビーをお好みで5から6匹敷き、その上に又ジャガイモとタマネギを乗せる。生クリームをひたひたになるくらいまでかけて、電子レンジで20から30分。15分位寝かしてビールと一緒に寒い冬に食べるとたまらない。アンチョビーの塩分がジャガイモとマッチして旨い。 

母の手料理やヨーロッパ大陸では大変お世話になったジャガイモだが、原産地は南米と聞く。コロンブスが梅毒とジャガイモとトマトを南米から持ち帰って15世紀以降ヨーロッパにアッと言う間に広がったらしい。日本にはいつどういう経路で入ったのだろうか? 種子島への鉄砲伝来と一緒だろうか? 梅毒はそうらしいが。 このジャガイモによってヨーロッパは人口が増えたのかも知れない。 永い中世時代からルネッサンスを経て、英国を皮切りにヨーロッパは産業革命を起こしいわゆる近代に突入すると歴史の本には書かれているがこの時期、ヨーロッパでは人口が爆発的に増えている事実は何を意味しているのか。何故? Why?  Warum?  Pourquoi?  私は、当時普及したジャガイモが人々の腹の足しとなり大人数を養い、労働力を提供し産業革命に至ったのだとと密かに思っている。 「ジャガイモ無しに、近代はあり得なかった」! マックス・ウェーバー先生のとなえる「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」なんて言うのは「後から見て結果に付けたさかしい台詞」にしか過ぎない。 世の専門家は、私のこの声に少し注意を向けるべきである!

今日のアメリカがあるのは何故か? 私が思うにやはりジャガイモである。 何?と怪訝に思う向きもあるかと思うが、19世紀に何人のヨーロッパ人がアメリカに渡っただろうか? 今日のアメリカの基礎は確かにもっとそれ以前の時代にピューリターンと一攫千金を夢見たならず者たちが作ったに違いないが、19世紀の気候の関係もあったのだろうか、ジャガイモが獲れなくて、食いはぐれたちが大挙してアメリカへ向かったと言う。 特にアイルランドのPotato Famine (ジャガイモ飢饉)はひどかったらしい。 ジャガイモが縁でアメリカは後の大統領Kennedyや映画の巨匠John Fordを輩出することになったのだ。

さて、現在私はロンドンで生活しているが、再びジャガイモのお世話になっている。 ジャガイモを食べない日など考えられない。 先ず、フィッシュ・アンド・チップス 。13年前に始めてロンドンに来た時には、屋台があちこちに有ったと記憶するが、そういう屋台は姿を消してしまった様だがフィッシュ・アンド・チップスは健在である。 食事をだすパブのメニューを見れば大抵一番最初に出ているのはこのフィシュ・アンド・チップスだ。 フィシュ・アンド・チップスの単語を連発しているが、フィシュは無視してチップスの方を注意してほしい。 フィッシュ・アンド・チップスのチップスは、ポテトチップスでは無く、Pommes Fritesであり、Patatfrittesであり、French Fryであり、マック・ポテト或いはフレンチ・ポテトである。 イギリスでは、いわゆるポテトチップスは、チップスとは言わずCrispと言うのだそうだ。 フィシュアンドチップスは、魚(普通は鱈)のフライにフレンチフライを付け合わせた簡単な料理だ。 フィッシュはもういい、と思ってチキンやラムをオーダーすると、ウェーターがwith chips ?と必ず聞いてくる。 そしたら、にっこりほほえんでYes, please.と応えれば、山盛りPommes Fritesが一緒に出てくる。 唯一、イギリスがヨーロッパ大陸と違うのは、このchipsmalt vinger (奇妙な味のするお酢-麦から作った酢)を掛けて食べることだろうか?

又時折、道を歩いていると、パブの入り口に「Jacket Potato」と書いてあるのをよく目にする。「ジャケットをまとったジャガイモとはこれ如何に」と思われる向きもあろうか思うが、ジャガイモが服をまとえる筈は無い。これは、皮付きのジャガイモをオーブン(又は電子レンジ)で焼いたジャガイモの丸焼きでのことである。 このように、誰もが簡単に出来る料理を、平気でレストランのメニューとしてでだすのがイギリスである。 びっくりしたが、このジャケットポテトにベークトビーンズ(大豆みたいなゆで豆をトマトソースであえた物、缶詰めで売っている。ゆで豆なのに何故ベークトなのかは、イギリス人も分からない)を付け合わせてメニューにしている所もある。

私も、自宅のキッチンにある電子レンジで早速作って見ることにした。ペーパータオルにくるんで(これがポイント、と電子レンジの操作マニュアルのjacket potatoの項には英文で書いてある)、一番高い温度の10番を選び、約10分電子レンジに入れ(5分後にひっくり返す-これもポイント)、10分寝かして、ハイ出来上がり。 ジャガイモに切れ目を入れてバターを乗せてみる。付け合わせは「ビーツのサラダ」(日本にはありませんが、赤蕪みたいな野菜をワインビネガーであえた物)。 一口頬張ると、少年時代に母がよく作ってくれたジャガイモバターと同じ味が広がる。

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味の記憶 その2 「カレー」

今回はカレーをテーマにしてみよう。 私はカレー大好き人間だ。 以下は、過去の日記のメモから抜き出して、アップすることにした。

ロンドンでカレーを食すの巻 

事務所の引越しも終えて一段落した、1998年の12月の或る夜、会社の同僚であるF氏とA氏とLiverpool stationの近くのインドレストランで舌鼓を打った。 ロンドンには、かなりのインド人が住んでいて(大英帝国の遺産)、インド料理店はかなりある。 一度研修員とピカデリーの近くのインド料理に行ったことがあるが、油との相性が悪かったのか、胃腸が疲れていたのか、お腹をこわしインド料理にはその後手を付けずにいたのだった。

もともとカレーは大好き。母親が作る日本的な家庭料理カレーも好きだし、お蕎麦やで食べるカレーどんぶりやカレー蕎麦・うどんも好きだし、本格的なインド料理(カレー)も好きである。 東京は赤坂見附のMotiに、会社の先輩に連れられて行って初めて本格的なインド料理がこんなに美味であることをしったのは、もう20年前近くになる。 

銀座・有楽町の歌舞伎座近くのナイルという老舗も忘れがたい。 もうなくなられたご主人のナイルさんは、戦前の京都帝大で橋梁建築を勉強したインテリでもある。 本も出版しており、かつてはインド独立闘争に深く関わっていたと聞く (いわゆる、ガンジー一派とは別で、チャンドラ・ボースらと同様、日本をイギリス帝国主義の開放者と位置付けて手を組み、インド独立をもくろんだが、その後の経緯は、その後の歴史が語る通りである)。 ナイルの「ムルギランチ」は、店の看板メニューだ。

そう言えば、当社のレセプションで働くHのスリランカ風カレーも絶品である。一度フィッシュカレーを味わったが美味しかった。使った肴がサバなので小骨が多く食べにくかったが、ドーバーで取れる鱈を使ったらと提案した。 なぜ鱈かというと、東京秋葉原のベンガルというカレー屋のカレーで思い出したからだ。ここのカレーも旨かった。フィッシュカレーは、あっさりした、小骨のない白身の鱈だった。 何度、ベンガルのフィッシュカレーを食べたことだろうか!

さて、リバブール・ステーション付近のインド人街のとあるレストランに入ってみると、満席、仕方なくパイントのビールを頼み待つこととする。 A氏は、クラシックの愛好家であるが、引っ越したばかりの、当社のビルにかつて、Anton Brucknerが滞在していたことを知らなかったらしい。 建物の入り口を注意深くみれば表示があるのですぐ気がつくのだが。 それによれば、19世紀後半の或る時期にアントン・ブルックナー氏はここに滞在し、かの交響曲2番の構想を得た……。 

クラシックの話がはずもうとすると、F氏から「俺は、音楽も絵画もわからん、女は別だがなあ」と邪魔が入る。 Fさんは、女以外の「美しさ」に虜になったことないのですか?と話はやおら哲学的になる。 小生が得意とする「桜の花の美しさ」にまつわる話をひとしきりすると、「ふーん」と納得したのか、キミは「哲学者」だなと一言。 と席の用意ができたとの案内に従い着席する。

周りを見回すと皆男ばかり。 ひょっとして、などと変な考えがよぎったが、良く観察すれば皆ノーマルな男達ばかりであり一安心。 結局、この手のレストランは、これから、ベッドをともにしようとする男女には不向きなのだろうか? 確かに、男女のカップルが極端に少ない。 こちらで習った英語にいわく:Dinner is a prelude to bed. とにかく男・男・男達の世界。  給仕たちも、皆彫りの深い哲学者然としたインド人たちだ。 勢いわれわれの話も。哲学的となる。 「えーっと、レンティル豆のスープと、タンドリー・チキン、それと、ビリヤニ(五目炊き込みご飯)、普通のご飯、ナン三つ、チキンカレー、ホーレンソーカレー、それから…・・」 一通りオーダーして、先ほどからの続き…・。

話は、モーツァルト音楽から、チベット仏教と修行のこと、オウム真理教の麻原氏のこと(氏の修業体験はかなり本物である)、最近話題になった、「7years in Tibet」という映画、 F氏がかつてインドツアー添乗した時の体験談特にベナレスのすさまじさ(ガンジス川にまつわる生・死のもろもろ、路上に群がる乞食や、らい病患者たちなどなど)、遠藤周作氏の「深い河」(主な舞台はインドのベナレス)のこと、ビジネスでは、インド人とは付き合いたくないこと(とにかく、振り回されて、銭にならない)、 最後は、日本食レストランで食事する英人男女は食後に必ずセックスをするという珍説(英人に取って、日本食はかなり高級料理である。まして、日本料理で食事をしながらデートする英人カップルならば、特に男としては、大枚をはたくわけだから、食後は必ずパートナーにセックスを要求するはずである。もっともらしい話だが)など森羅万象に渡る楽しい一時となった。

もちろん、オーダーしたものはすべて胃袋に収まる。 最後に、デザートのヨーグルトと何故かカプチーノ・コーヒーを飲んで、ようやくTHE END。  時は、金曜日の深夜0時に近かった。 外は、気温ゼロ度の寒さ。 小生は、F氏、A氏と気持ちよく別れ、地下鉄で帰宅した。「週末の楽しみは、金曜日の夜にあり」とはよくいったものだ。

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味の記憶 その1 「スフラキ」

8月のブログで、二十歳のころのドイツでひと夏過ごしたことを書いたけれど、今日は、食べ物のことを書こうかと思う。 

日本では、グルメブームとなって久しいけれど、これは、日本が豊かになったからだと思う。 イギリスに2年間住んだことがあるけれど、人はイギリスの食事のまずさをあげつらう。 けれど、ロンドンで住んでいた限りの記憶では、皆おいしかったぞ、というのが偽らざる印象である。 豊かさこそ、人が美味しいものを求め、口が肥える為の条件ではないだろうか? もちろん、天才的に美味しいフランス料理と中国料理は別格であるが。

ロンドンは大都市で旧植民地の人間も多く、とにかくインターナショナルなレストランが山ほどあって、どれもこれも旨かった。 (確かにハズレはある。 フランスが大好きな友人によれば、フランスでは、ハズレがまったくなく、どんなところでも、美味いのだそうだが)。 特に、インドカレーとトルコのケバブは病みつきになった。 いずれ、そのことも話題にして、ブログにアップするつもりだければ、今日は、手始めに、ギリシャ料理の「スフラキ」と行きたい。

「スフラキ」は串に肉と赤ピーマンとか玉ねぎとかを交互に刺してグリルしたものと、オリーブオイルで和えた?パサパサのライスと一緒に食べるギリシャ料理の定番である。付け合せにトマトとキュウリがついていたと記憶する。 肉は、羊、豚、牛、チキン、魚までチョイスがあるが、初めてこの「スフラキ」なるものを食べたのは、1976年、今からもう30年も前のドイツはハノーバーであった。 1976年は記録的な猛暑に襲われたヨーロッパだったが(最近は毎年、猛暑らしいが)、私はポーランド人の友人と毎日泳ぎに出かけた。 そして、ヌーディストクラブで偶然知り合いになったドイツ人ペーターさん(私は二十歳でむこうは30歳でもうすでに離婚経験者だった)に誘われて食べたのが最初だった。 とにかく、美味しかった、そして、お腹が一杯になった。 又、安いという利点もあった。 特に、ご飯が食べられる!というのがうれしかった。 当時、日本食レストランなんでなかった。 会っても、貧乏学生が食べられるような値段ではなかった。とにかく、この「スフラキ」は、何度食べても飽きなかった。そして、満足感があった。 (グルメのフランスかぶれの友人は、これに当たるのがパリでは、クスクス料理だそうだ)。 たっぷりと食べた後は、トルコ・コーヒーと同じで、コーヒーが沈殿しているとても濃いどろどろしたギリシャ・コーヒーとウゾ(ギリシャのウォッカ)で締めくくるのを常とした。 何度この「スフラキ」を食べただろうか!!!

学生時代の記憶は、長らくよき思い出として脳裏に残った。 1984年、オランダで1年研修生活を送った時に、市内で偶然、ギリシャ料理屋を見つけた。 一瞬にして、あのハノーバーのおいしかった「スフラキ」を思い出して、中に入りオーダーした。 が、昔の感激はどこにいったのか、ああ、こんなものかという感じであった。

時は過ぎて、40代に、ロンドンで激務をこなしていた頃。 若い研修員君が、住んでいるところ(Prime Rose Hill)の近くにおいしい評判のギリシャレストランがあるんです。 道を歩いていると、イギリス人に何度も、行き方を聞かれるんです、おいしいに違いないですよ、という話を聞いて、又、「スフラキ」を思い出した。 よし、行こう! ある日思い立って、出かけた。 前菜は、イワシの塩焼きとタラモ・サラダ(タラコとマッシュポテトを和えたものを、ピータという中近東風のパンで食べる。 とても美味! ワインに合う!)と白ワインで、まずは、乾杯する。 そして、メインは、「スフラキ」である。 学生のころ食べたお肉は、ポークだったと思う。 このレストランは洗練された!ギリシャ料理で、牛、豚、鶏、魚とチョイスもあり、盛り付けもなかなか美しかった。 私は牛を頼んだ。 そして、お味は? やはり、ドイツで食べたときの[スフラキ]が一番おいしかったような気がする。 ここの「スフラキ」ももちろん、オランダで幻滅したときとは違って、洗練されていて、とても美味しかったのだが、それほどの感激はなかったのだ。 

たぶん、自分が変わってしまったのだろう。 生意気にいろいろ贅沢しすぎたからだろう。 よくよく考えると、「スフラキ」は、ギリシャの家庭料理である。 ご飯付きの串焼きバーベキューというシンプルな料理なのだ。 以来、「スフラキ」は食べていない。 そして、1976年、ハノーバーで食べた「スフラキ」は、作家 梶井基次郎が短編小説「檸檬」で書いたように、ますます、輝きを増して、時折、私の記憶の中に蘇っては、また、記憶の奥底に沈んでいく。

日本で敢えてギリシャ料理屋を探して、高いお金を出して食べようとは思わない。 海外に出る機会があって、ふとギリシャレストランに出会ったら、ひょっと入って、「スフラキ」を又試すかも知れないが・・・。 

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