蝉の幼虫、胡瓜、イラン、モンゴル帝国 (2)

話を戻すと、イラン人というのはアラブ人と全然違うのだと、そのとき初めて知った。誇り高きペルシャ人の末裔達。セム族でない。アーリア人なのだ。私が出会ったイラン人たちは、ちょっと見た感じでは、少し田舎風にしたイタリア人かスペイン人という感じだった。盛唐の詩人李白の詩に出てくる「胡姫」とは、ペルシャ系の踊り子だったという。さぞかしエクゾチックで美しかったに違いない。私が出会ったイランのご婦人方も皆顔の掘りが深く、雑誌から抜け出してきた女優かモデルみたいな女性もいたりした。

現在の国際政治では、イランはヨーロッパやアメリカにとっては頭痛の種、大問題である。何故に彼らはあのような大騒ぎするのだろうか?日本人としてはいまひとつ理解できない。北朝鮮の核問題なぞ、もう過去のものという感じで、拉致被害者を初め日本人はやきもきしているのだが、一方のイランとなると、サミットの時はミサイル実験をして挑発したり、何かと西側マスコミからはものすごいバッシングを受けている。

国際政治の裏側を知る人ならば、北朝鮮とイランでは地政学的な意味が全然違う観点からいろいろ語れるであろう。イスラエルというユダヤ人国家、つまり、アメリカ資本主義が中東イスラム圏の心臓に打ち込んだ楔に対するイスラム圏の反発と言うか憎悪は我々部外者には想像を絶するものがあるだろう。

もちろん、ドバイなどのバブリーな繁栄を見ていると、これがアラブなのかといぶかってしまうほどイスラム世界は多様でもある。欧米に支配されたマスコミに洗脳されている我々の脳では、中近東=イスラム世界の本当の姿を知ることはなかなか難しい。

善=欧米諸国、悪=イランという図式は疑ってみなければならない。日頃、何かとアメリカにいいようにされている日本のだらしなさを思うにつけ、わが道を行きながら、アメリカやヨーロッパを挑発し続けるイランを私は密かに応援している。許されないことだろうか?

しかも、私が個人的に知るイラン人は、マスコミで報道されるイスラムという宗教に染まった人々ではなく、もっと世俗化した普通の人間だった。「イラン人ってイスラム教徒でしょ、アルコール飲んでいいの?」と真顔で聞いた私に、件のイラン人は、「海外に出たらビールは飲み放題さ」、と大笑いしながら缶ビールを2本、3本と開けたものだ。 名前をシェミラー二さんと言ったと思う。もう一人の名前は思い出せない。今頃どうしているだろうか?

世界で始めた書かれた世界史の本、これは何と、イランの宮廷で書かれたという。時代は、モンゴル世界帝国が君臨した13世紀後半のことらしい。

当時のイランは、イル・ハーンといった。ワールドカップ2002のとき、1次予選を勝ち抜いた日本が戦ったトルコのチームにイル・ハーンという選手がいましたね。

ラシード・アディーンという、これまたなんとユダヤ人らしいのでだが、浩瀚な筆致で当時のモンゴル帝国の歴史を記述した歴史本、世界で始めての本だそうだ。ドーソンという著名なモンゴル史の本を書いた歴史家はもっぱらこのペルシャ語の文献をもとにモンゴル史を書き上げたそうだ。

実際に、モンゴルについて記述した資料は20ヶ国語近くもユーラシア大陸の彼方此方に残っているのだと言うが、それだけの言語に精通して統一した立場から歴史記述をする試みはまだなされていないそうだ。

続く

| | コメント (0)

世界カタコト辞典から

Goy  “ゴイ”と発音する。 語源はヘブライ語? 「(ユダヤ人からみて)異邦人、外人」の意味

昨夜は、先週土曜日に釣り上げた手のひらサイズのカレイ2枚を唐揚げにして弔った。うまかったゼ。

カラッと揚がって香ばしかった。食べながら、ロンドンで食べたフィッシュ・アンド・チップスを思い出してしまった。

ロンドンのフィッシュ・アンド・チップスのフィッシュの方の特徴は、タラにしろヒラメにしろカレイにしろ、衣が分厚く油を沢山すっているので、カロリーに注意すること。現地の人の食べ方を見ていると、衣をわざわざ取って中の美味しい白身の部分を塩とモルトビネガーを振りかけて頬張る人が多い。ロンドンで生活していた時は、大部お世話になったイギリスのジャンクフードだ。

今朝は4時前に目が醒めた。このところ、この時間になると、決まってヒヨドリが隣のNさんの家の屋根にとまって、盛んに囀る。美しい囀りではないが、生を謳歌するような、溌剌とした周りを圧倒する音量で目が覚めてしまうのだ。そう、うるさいのだ。やめてくれぇ~、叫びたくなる。どうも、近くに巣があるようなのだ。もうひと眠りと思うのだが、うとうとしながら眠れない。思い切り読書灯をつけて、本に手を伸ばした。

中根千枝氏の「社会人類学~アジア諸社会の考察」(講談社学芸文庫)を手にした。職場でR先生と話していたときに、「族譜」のことが話題になり、中国の宗族について気になり始めた。先生は、第1巻(目次)は持っているそうで、全部で10数巻になるという。普通は、20年くらいごとに、新たな世代が書き加えられるというが、先生の族譜の場合は、大分前だが、90年ぶりに編纂されたという。義和団事件から、辛亥革命、国共合作、日中戦争、日本敗戦後の内戦、共産党による統一、大躍進政策と文化大革命による混乱続きで、長らく滞っていたのが理由で、鄧小平さんの時代になってからのことだという。 中根氏によると中国及び朝鮮半島やインドもアラブなど広範囲にわたってユーラシア大陸は「父系社会」だという。 ところが、日本は、父系社会ではないし、母系社会でもないらしい。朝鮮半島も含めた東アジアと何か隔たりを感じるのは、この社会構造の故かも知れない。

私の友人で中国通のS氏は、「中国には社会がない」、と言い切っていた。「社会」とは「公共性空間」、と言い換えられると思う。 さらに別の言い方をするなら、「日本人が日本人社会という意味で、中国には中国人社会は存在しない」ということになるだろうか。 中国人にとっての社会=公共性空間とは、「宗族」のことではないだろうか? 「宗族」を超えた世界は、異界、異邦人の世界のようなのだ。「宗族」の外に対しては、平気でウソをついても良いし、商売をしても値段が「宗族」(=血縁共同体)とそれ以外では違うのだそうだ。 中国には、このほかに、「幇」(ほう)という「宗族」(=血縁共同体)とはまた別の、「義理人情で結ばれた人間関係の世界(=三国志でいうあの桃園の義盟=擬似的血縁関係)」、はっきり言えば、「秘密結社の世界」、これは、例えば、辛亥革命を担った孫文を指させた客家の秘密結社「洪門」(天地会)がそうらしく、中国共産党も言ってみれば「秘密結社」だったと言う、もあって、宗族(=血縁共同体)とは違うもう一つの公共空間を作っているのだという。

中国人の社会とは、結局、この二つの世界のことであって、その世界以外は、異界、異邦人の住む蛮地ということになる。極端に言えば煮て食おうが焼いて食おうが、そんなの関係ねぇ、ということになるらしい。中国という世界はこの二つの世界を包む全体集合のことであり、無数にある集合同士の力学が最終的に中国という国の政治現象を作り出しているのだ。だんだん、話が難しくなって来た・・・。

なかなか、本題のGoyに辿り着けない・・・。

ひとしきり、物思いに耽って、8時過ぎ朝食を取った。それから2階に上がってベッドルームに足を入れた途端、本棚にある1冊「ドイツの中のユダヤ」(ピーター・ゲイ著)の背表紙が目に入った。そして、次の瞬間、「Goyという言葉が鮮やかに脳裏に蘇って来た。何故、今、ここで?不思議なものだ。 連想に引きずられて、身支度しながら、話はまたロンドン時代に戻るのだった。

私は、ロンドンの北Finchly Northに半年ほど住んだのだが、事情があって市内に引っ越すことになった。一週間、不動産屋に通いいくつかの物件を見学した。担当する営業マンが車で私を連れて行ってくれたのだった。確か、Golders Greenにある物件を見にいったときのこと、車にもう1人の営業マンも同乗、彼等の世間話を聞く羽目になった。イギリス人同士のしかも下町風の訛がある英語は、なかなか難解である。しかし、彼等が何を話題にしているのかはおおよそ理解できた。彼等はユダヤ人なのだ。それと車のナンバープレートがどうのこうの、と盛んに議論していた。しかし、標題の言葉は実は彼等の口には上らなかったと思う(か、発音が聞き取れなかったのか)。 ただ、話は直感で?理解したのか、私は車を降りて、こっそりナンバープレートを確認したのだった。ナンバープレートには、数字に混じってGOYというアルファベット文字が並んでいたのだ。 どこかで、頭の中をくぐり抜けた単語だった。 ピーンと来た。ユダヤ人にとっての「外人」(=非ユダヤ教徒)、という意味だった。普通、ユダヤ人は、「異邦人」として否が応でも自己認識に迫られるのだが、敬虔なユダヤ教徒としての自己意識からすると、周りこそ「異邦人」達なのだった。従って、語感には、「軽蔑的」な意味があるという。

彼等がひそひそ声を落としてしきりに苦笑いしながら語っていたのが分かるような気がした。自分こそ異邦人なのによりによって、車番にGOYがつくなんて!ということだったと思う。

続く

| | コメント (0)

世界カタコト辞典(13) Would you turn right, please ?

Would you turn right, please ? (英語で「右折していただけますか」の意味)

外国語は本当に難しい。日本語が流暢な外国人は増えたが、やはり外国人は外国人である。テニヲハがやはりどこかおかしいし、発音も出自の民族のなまりが反映されて、いかに流暢に話そうが、思わずニヤリとしてしまう欠点を見つけるものだ。

日本人が喋る英語もしかりだ。ネイティブが聞いたら、腹を抱えて笑ってしまう英語を日本人は一生懸命喋っているに違いない。

ドイツ人をからかう話を聞いたことがある。ドイツ語にはbekommenという単語があって、英語のto get, to haveの意味がある。自国語とパラレルな語並びで意味も同じように思えるこのbecomeという単語はドイツ人にとっては紛らわしいのだ。英語のbecomeは「何々になる」という意味だが、ドイツ語のbekommenの意味にこの意味はない。そこで笑い話がある。あるドイツ人がロンドンのレストランでビーフステーキを注文した。

ドイツ人いわく: I would like to "become" a beefsteak, please. (「私はビーフステーキに

           なりたいです」) 

注)本人は「ビーフステーキを下さいナ」と言った積りなのだ。

レストランのウェイターいわく: I do not hope so, sir. (そうならないことを望みます)

英語のウェイターもとぼけた返答をするものである。腹のなかではクスクスと笑いを堪えていることだろう。

日本人にとっての問題はlrの区別がまったく付かないことだろう。基本的にrの発音が出来ないし聞き分けられない。 Lice () rice (お米) の発音でドイツ人とは違うからかわれ方をしてしまうのだ。

私のロンドン時代の先輩にOK氏がいらっしゃった。私が直接聞いたのではないが、やはり先輩のIさんから、取って置きの笑い話として、以下の話を聞いたことがある。

バブルが崩壊して、最強の円がだんだん弱くなり、日本のプレゼンスが日増しに落ちていった1990年代半ばのこと。仕事に追われながらも、一杯引っ掛けて愚痴を言いながら、やれやれ、きょうも無事に家に帰ろう、と黒塗りのロンドン名物のタクシーで家路についた時のことらしい。

車はOK氏の自宅に近づいた。 そこでOK氏はドライバーに英語でお願いした。

At the next corner, would you turn right, please ? (次の角で右折してください)

車は、角にさしかかると、右折するどころか、車内の明かりがぱっと点いたものの、車はひたすら真っ直ぐに走り続けたらしい。

OK氏は一言、Thank you ! と呟いたままどこまでも真っ直ぐ走り続ける車に乗っていったという。

運転手は、turn right (右折する)ではなくturn light (明かりをつける)と理解したのだった。笑うに笑えぬ笑い話とはこのことであろう。 よくよく考えるに、turn to the rightと言ったほうが正確な言い方のような気がするのだが、それでもturn to the lightと発音してしまうと、運転手が目を丸くするか、You'd better do it by yourself, sir と皮肉られてしまうだろう。イギリス人は皮肉屋だ。さりげなく、温和のようでグサッとくる言葉をはく。いわゆるunderstatementというやつだ。そして、私なら、意味が即座に掴めず、キョトンとしてニコニコしながら、Yes, Yesと頷いてしまうかもしれない・・・。

| | コメント (0)

世界カタコト辞典(12) Wai Ling

Wai Ling  (イギリス系中国人女性の名前、漢字では「呉恵」と書く)

漢字というのは不思議なものだ。表意文字であるが故に、違った言語を話していたとしても、漢字を使って表記することで違った言語を表現しながら、目で読む作業が入ると、完全ではないにしてもある程度意味が通じてしまうのだ。ある程度、という意味は正確には意味は通じないという意味でもある。

湯というのは中国語ではスープのことを意味するという。男湯、女湯というと日本人は銭湯と分かるが、中国人はびっくりするという。男のスープ、女のスープ。こんなのありかよ、である。 自動販売機で電車の切符を買うとき、大人=おとな、小人=こども、というのが日本での読み方でもあり意味であるが、中国語では大人と小人はこれまた意味が違うのだ。

何となく分かっているのだが、私には、この事実を実に鮮やかにはっとさせられた瞬間があった。ロンドンの事務所で中国系のイギリス人スタッフがいた。テキパキと仕事をこなし、しかも東洋系で何かと協力的で好感を持っていたスタッフだった。名前をWai Ling(ワイ・リン)と言った。そして、私はすっかり彼女には漢字の名前表記があることを忘れていた。

ある日、何かの理由で彼女の机に座って書類を開きチェックする作業をしていた。ふと、彼女のパソコンを見るとそこに漢字表記のステッカーが貼られていた。漢字じゃないかぁ、呉恵。ええ、ゴ・メグミ? 何これは?と思わず私は隣の日本人スタッフに聞いてしまった。

となりの日本人スタッフは目を丸くして噴出さんばかりに、何寝ぼけたこと言ってるんですかぁ、Wai Ling  (ワイ・リン)のことじゃないですかぁ!あっ、そうかぁ、「Wai Lingは「呉恵」のことなのかぁ・・・。ところで、この漢字のこの読み方、これは普通語?それとも上海語、はたまた広東語読み?私は中国系の言語についてはまったく無知なので分かりません。分かる方どなたか教えてください。

ロンドンに住んでいる呉恵さん、別名Wai Lingさん、実名使っちゃってますが、悪意はありません。許してください。お変わりありませんか?

| | コメント (0)

世界カタコト辞典(11) Mina rakastan sinua

Mina rakastan sinua (フィンランド語で「私はあなたを愛しています」の意味。Minaを省略して、Rakastan sinuaと言っても良い。主語を省略できるのがなんとなく日本語に近くてうれしい。「愛してるよ」という一層親しみやすい意味になるのだろうか)

彼女はAnneと言った。フィンランドからやってきた長い金髪を肩まで垂らした本当に青い目の優しい女の子だった。Finlandというけれど、お国の言葉ではSuomiというのだと教えてもらった。私の国も横文字系の人はJapanと呼ぶけれど我が国の言葉ではNipponというのだと教えてあげた。

フィンランド人は北欧人だと日本人は勝手に思っているけれど、他のゲルマン人系のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンからは仲間はずれにされているらしい。お隣のロシアからも長い間いじめられていたから、日露戦争で日本がロシアに勝ったこともあって、トルコと並んで親日的な国らしい。ビールにトーゴービールがあるという。まだ、飲んだことはないのだが。

ハノーバーの工科大学で知り合ったのだが、ある日曜日市内のノミの市で彼女に偶然再会してから何となくお互い親しく話すようになった。冬季札幌オリンピック(もう36年も前の話だ!)のこと、黒澤明の映画と生け花が好きと彼女が言えば、フィンランド語とハンガリー語はウラル・アルタイ語属でモンゴル語や日本語と親戚なんだ、シベリウスのフィンランディアはとても好きだ、などと、私は応じ、彼女の耳に心地よい御託をならべたのだった。

1976年の夏のヨーロッパは記録的な猛暑だった。8月のある日曜日、Altstadtfestというお祭りがあった。ヨーロッパの町は昔は城壁で囲まれていて、その旧市街をAltstadtとドイツ語では言った。狭い路地、レストランとパブ、お店が並んでいた。ハノーバー工科大学に世界各国から集まった若者もみなでPeterのパブ「裸足」(Barfuss)に集まって盛り上がった。

いつの間にか私は彼女と二人きりになって腕を組んで歩いていた。お酒に酔い、周りもカップルだらけ、池のそばの芝生ではあちこちで若いカップル達の熱い抱擁が始まっていた。私たちもいつのまにか抱き合い、熱いキスを交わした。舌を絡ませたディープキスだ。レモンの味ではなかったが、今でもあの甘い香りと何とも言えない甘美な感覚を覚えている。私の手は彼女の胸をまさぐり・・・。長ーい長ーい抱擁と愛撫。

腕を組んで歩き、長ーい長ーい抱擁と愛撫。そしてまたその繰り返し。二人は若く、夜も若く、私の心も若くそして甘かった。 最終バスがなくなっちゃう。彼女をバス停まで送って、またバスが来るまで長ーい長ーい抱擁と愛撫。 お堅い彼女は下宿していた。大家さんが煩いからとバスに乗って帰っていった彼女。そして、私は長ーい長ーい間、一人でバス停にぼーっと立ち尽くしていた。勢いで押しかけて行くべきだったか・・・。

翌朝、Kolpinghaus(昔の徒弟制度で旅の遍歴をした独身の若者が宿泊した施設)でギリシャ人のヤニス君にばったりあった。意味ありげに笑って、「お前ら・・・・っつたのかぁ?」と。彼はスウェーデン人と仲良くなり、早くも肉体関係を持って、一部始終を我々にアケスケと語ってくれた。筋肉質のジゴロと言った風情の男だった。ヌーディストクラブ(FKK)でもよく遊んだが、彼の一物はでかかったが、見事な包茎だった。

翌々日、彼女は故郷に帰っていった。ヘルシンキからさらに列車に乗ってHyvinkaという町に住んでいるという。住所を教えあってしばらく文通が続いたが、いつしか、途絶えた。

その当時持っていた辞書だが、ボロボロになっているものの30年を経た今でも私は大事に保管している。そこには、彼女に教えてもらった愛の言葉が記されている。Mina rakastan sinua。我々が、本当にこの言葉通りだったかはちょっと疑わしい。しかし、黄ばんだボロボロの辞書の裏表紙の裏側に書かれた文字を見るたびに、30年以上も前のあの暑かった真夏の夜の夢が甦るのだ。

| | コメント (0)

世界カタコト辞典(10) LutetiaとLaetitia

Lutetia (ラテン語で「パリ」のこと) 

Laetiia (「レティシア」女の子の名前)

日本の漫画が世界を席巻している、と言うと大げさかもしれないが留学生たちが何故日本に興味を持ったかの理由で日本の漫画との出合いをあげる人が大変多いのだから、確かにそうなのだ、と思う。

しかし、海外にもいい漫画がないわけではない。フランス原産の漫画Asterix(アステリックス)はなかなか楽しい。ヨーロッパでは大人も子供も読んでいる。残念ながら日本語への翻訳はないようだ。読んでみると、ヨーロッパの歴史の勉強にもなるし、他民族国家ヨーロッパの各民族比較がおもしろおかしく描かれている。主人公はガリア人、今日のフランス人の古代人のことだ。ケルト系の土着民で、ローマ帝国に支配されローマ化されてさらに、ゲルマン人の一派フランク族がやってきて混血して出来たのが今日のフランス人らしい。

ページを開くとBC50年のガリア地方の地図が描かれている。アキターニと言えば、今日のアキテーヌ地方のこと、プロヴィンキア・ナルボネシスは今日のプロバンスやナルボンヌと言った具合だ。ルーテチア(Lutetia)は現在のパリだ。余談だがマルセイユはもともとはギリシャ人の殖民都市でマッサリアと言った。ヘルベチアはスイスのことだ。ブリタニアはブリトン人の住むイギリスのことだ。カレドニアはスコットランドだ。ゴート族はゲルマン人の一派でライン川の右岸にすむ人たちで今日のドイツ人の祖先だ、と延々と続く。

話は飛ぶ。アラン・ドロン、リノ・バンチュラ、そしてジョアナ・シムカスが競演した「冒険者たち」というなかなかいいフランス映画があった。バックに流れる口笛のメロディーが印象的だった。男二人とカワイイ女一人の三角関係。シムカス演じるヒロインが映画ではLaetitia (レティシア)だった。

話はまたまた飛ぶ。ロンドンの職場で、Lydia(フランスはレンヌ出身の「ふくよか」で「気立てのいい」フランス人女性)が産休で休みに入るとき、非常勤パートで何ヶ月か雇った女性、この子がまたLaetitiaと言った。「なかなかの美人」だった。ビジネススーツを着こなして、黒縁のめがねをかけて出勤してきたり、ファッションセンスが抜群だった。イラクのクウェートに住んでいたこともあるという。お父さんがフランスの戦闘機ミラージュのエンジニアだった。社内の男性同僚達は、「ウチはブスばっかりだぜ」、と日頃は不平を言っていたのだったがLaetiiaがやって来て社内の雰囲気が変わった。なかなかの美女(「スバラシイ」とは言っていない)が入ってきて皆の視線が彼女に集中するのだった。ああ、Laetiia。 今頃どうしているだろうか? イギリス人の彼氏がいたはずだが。それから、猿と蜘蛛が大嫌いだと言っていたっけ。

職場での楽しみが一つ増えたな、と思っていた矢先、私は日本に帰国することになった。帰国してしばらくして落ち着いたある日、ロンドンの事務所に電話をする機会があった。電話に出たのは職場復帰を果たしたあの「ふくよか」で「気立てのいい」フランス人女性Lydiaだった。パリのホテルのことで話しをしたのだったが、「Lutecia Hotel」と私が口にすると、何を思ったか、Lydiaは「Laeticia !?」とあの「なかなかの美女」Laetitiaの名前を口にしてケタケタと笑うではないか!私はからかわれてしまったのだった。彼女は鋭く気付いていたのだ。疲れ気味の私の視線がオアシスを求めるように時折Laetitiaに注がれていたのを・・・。 ああ、Laetitia…….我がいとしのレティシア・・・嗚呼。

| | コメント (0)

世界カタコト辞典(9) 「アッチャ」

インド人はやはり「アッチャ」とつぶやいた。

先週の土曜日は、ある人を成田空港に出迎えに行ってきた。20時過ぎの成田空港の風景にびっくりした。アジア系の人々で溢れかえっていた。特に中国語があちこちに飛び交っていた。まずビールで喉を潤してからぼんやりとロビーで待っていたのだが、ふと気がつけば周りは中国人だらけだった。皆、ニコニコ顔、外国についた興奮だろうか、目があちこちキョロキョロ、そして思い思いのポーズで写真を撮ったり添乗員さんが大きな声で案内したり、風景はいずこも同じかと感じ入ってしまった。

ロンドンでもこれに似た経験がある。1999年の秋のある日のこと、東京からの出張者を出迎えにヒースロー空港に出かけたのだった。確か、ターミナル3だったろう。遠距離のフライトが発着するターミナルだ。ぼんやりとロビーでまっていると、いつの間にか周囲はインド人で埋め尽くされたような混雑具合であった。同時刻にインドからのフライトが到着したのだったが、ロンドンのインド人の人口を改めて思い知らされた。

ロンドンといえば、カレーの町である。カレーについてはすでにブログでアップしたけれど、

http://birds-eat-bookworm.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_96e6.html

とにかくインドレストランが多い。私も住んでいたアパートの近くに行きつけのレストランがあった。毎週日曜日の夕食はカレーと決めていた。 ナン(ガーリック味)、野菜カレー、チッキンティッカにシシケバブ、そしてサフランライスが定番だった。ちょっと食べすぎだったかも知れないが、ストレス多き日々故の過食だったと思うのだ。

毎回毎回、決まったようにレストランに現れて同じメニューをTake-Awayする私にレストランのインド人店員は笑顔で迎えてくれるようになった。料理が準備できる間の10分前後は、ハーフパイントのビールを飲みながら、新聞を読んだりしていた。そして、用意が出来ると、店員はオーダーした内容をぶつぶつと繰り返しながらレジに打ち込んで代金を請求するのだった。

ぼんやりとこれを繰り返す日々だったが、ある日のこと、ガーリックナン、・・・、野菜カレー・・・チッキンティッカ・・・といつものようにレジを打ちながらつぶやくインド人店員の・・・が「アッチャ」という間投詞であることにハッと気付いた。学生時代以来おりに触れては思い出したように読んだ開高健・小田実氏共著の「世界カタコト辞典」で小田実氏がインドで聞いたに「アッチャ」(ヒンディー語で、おや、まあ、ええと、さて・・などを表す間投詞)であった。本の中の言葉が、現実に私の耳を捉えた瞬間だった。

| | コメント (0)

世界カタコト辞典 (7)

Teilweise nicht hatte nai  (ドイツ語と日本語のちゃんぼんで「ところどころ張っていない」の意味) と Kann ich Ihnen behilflich sein ? (ドイツ語で「何かお困りですか?」の意味)

アムステルダムに1年間の研修で赴任して1ヶ月ほどたった1983年の11月のある日、ハンブルクに住んでいた女性のYさん(日本人)から突然電話がかかってきた。「XX君、急な話だけれど、休暇を取ったからそっちに遊びに行くノ、案内してくれない?」

私は一気に舞い上がってしまった。年上だけれどなかなかの美人だ。K大学独文科出身の才媛で会社を辞めて当時の西ドイツはハンブルクに職を得て住んでいたのだった。

ハンブルクから到着したYさんを東京駅にそっくりなアムステルダム駅(逆かぁ)で出迎えて、予約しておいたホテル(もちろんシングル)に案内、夕刻は市内の南、高級住宅街がある行きつけのレストランに招待した。いつもは、一人か友人の同僚と食事をしていたレストランに入った瞬間、中の人たち(当然オランダ人)の注目を浴びるほどYさんはやはり美しかった。

何を話したのか覚えていない。Beaujolais Nuveau(ボジョレ・ヌボー)を飲んだような記憶がある。ムール・マリニエールも食べたのだと思う。それとリンゴソースがおいしいポークソテーも食べたはずだ。定番なのだ。しかし、その後が問題だった。私には勇気がなかった。たとえば、ホテルオークラの最上階でカクテルを飲むとか、いろいろあったのに、結局は駅に戻り飾り窓を散歩してホテルに送り届けて、私は一人アパートに戻ったのだった。

翌日彼女は、私のアドバイスに従って市内観光をして夜また会う予定だった。しかし、昼過ぎに会社の私に突然電話がかかってきて、「私、やっぱり帰る」とハンブルクに帰ってしまったのだった。ああ、とちってしまったぁ・・・と思ってももう遅かった。

半年後の5月のこと。私はハンブルクへ遊びに出かけた。Yさんにも会うつもりだったというよりも、仕事でお世話になったK氏が是非遊びに来い、というご招待あってのことである。K氏は、私より一回り上の世代で、昨年亡くなった小田実氏の「何でも見てやろう」にあこがれ、日光で知り合ったドイツ人を頼りに渡独。横浜~ナホトカまで船、そこからシベリア鉄道でモスクワ経由、フィンランドへ。そこで、女性を引っ掛けて、妊娠させて、逃げ出して、ドイツへやってきて、柔道を教えながら大学に通った。結局、卒業はしなかったが、こちらで仕事を見つけて独立していた侍日本人だった。K氏の家のお庭でガーデンバーベキューを楽しんだ。気を使ってか、どうかしらないがYさんも招待されてやってきた。饒舌なK氏はさかんに冗談を飛ばして我々や招待されたドイツ人達を笑わせてくれた。K氏の家はいまでも覚えているがあの文豪の名前にちなんだThomasman Strasseにあった。買ったばかりの家だかで天井の張替えなども作業中だったらしい。その天井を指さして、Teilweise nicht hatte naiと語るKさん。ドイツ人のS氏が思わず噴出す始末だった。

翌日は彼女の運転する車で(私は当時もそしてつい3年前まで運転免許を持っていなかった)ドライブを楽しんでトラーベミュンデ、リューベックに足を伸ばした。トーマス・マンの「ブッデンブローク家の人々」の舞台となったゆかりの場所だ。確か、50マルク札のデザインにもなっていたリューベックの城壁跡だか教会の建物にも案内してもらった。

Yさんは、方向音痴でよく道に迷った。私も田舎に戻って車を運転して初めて分かった。道が分からないと迷うのだ。当たり前の話なのだが。気ままに運転するほどには運転技術もないし、自信がないので走り方が不安定になる。私は隣に座りながらナビゲーター役だった。道に迷って地図を見ながらどこだ、どこだ、とやっていたら年配の折り目ただしそうなドイツ人が通りかかり、Kann ich Ihnen behilflich sein?と助け舟を出してくれた。

最終日は、天気がよかったことを記憶している。ハンブルク市内のアルスター湖を散策しドイツ人に混じって日光浴をした。シューマンの「麗しい五月」を髣髴とさせ青空が広がり、日光が燦燦と照り、5月の香りが心地よかった。

私の記憶はこれだけである。23日した。Baselerhofというホテルに宿泊したのも覚えている。しかし、Yさんと一緒に何を食べて何を喋ったのかさっぱり記憶にない。不思議といえば不思議なものだ。結局二人の間には何事も起こらなかった。今でも鮮やかに記憶が残るのは何故か、K氏の饒舌とドイツ語と日本語のちゃんぽんフレーズ、Yさんがよく道に迷ったこと、ハンブルクの5月の麗しい天気と、そしてリューベックで道に迷って声を掛けてくれた初老の言葉なのだ。

| | コメント (0)

世界カタコト辞典(6)

Fuck off !!!

(英語で卑語、「うせろ、どこかに行きやがれ」の意味)

大東亜戦争の敗戦が軍国日本を大きく変えたのと同じように、ベトナム戦争を通してアメリカ合衆国は大きく変わったという。作家の石川好氏は、たとえば、それまではfuck(「性交する」という卑語)やそれに関連する卑語は普通の会話では滅多に使われなかったのが、普通に女子学生も使うようになった、という。 これだけでも当時は大きな社会的な変化だったそうだ。

とは言え、外国人である自分が海外に出かけて英語でコミュニケーションをするなかでこの言葉を聞くことは滅多にない。やはり、下品な言葉なのであり、とくに人間関係から言って一元さんである赤の他人には、fuckとか今やveryと同じ意味で単なる強調の副詞で使用されるfuckingなる言葉はやはり、使用しないものだ。

自分が日本語を話す外国人に、「クソッタレ」とか「オXXコ」とかはやはり言わないものだ。もちろん、学生時代に我が家にホームステイに来たMichael君は違った。友達付き合いをしたし、ドイツ語の卑語を沢山教えてもらった代わりに、こちらも日本語の卑語をしこたま教えてあげたのだった。したがって、ある日、グループで日光に出かけたとき、ドイツ人の女性が日本人から貰った甘いお菓子を「オマンジュウ」と言って得意げに皆に配っていたら、悪餓鬼のMichael君はケタケタとお笑いしたのだった。

さて、それでも私はロンドンに住んでいたある日、間近にこのFuck off !!!を聞いたことがある。

来る日も来る日も仕事漬けで、満足に食事をする時間もなかったのだったが、仕事が終わって帰宅する深夜、住んでいたアパートの近くの中華レストランでよくTake-away (持ち帰り)をしたものだった。そこは、シンガポール系の中国人が経営している店で、私の好物はローストダックにココナッツミルクソースをかけた一品だった。ココナッツミルクソースは、この店で毎度顔を合わせる一家の一人の青年中国人が、ローストダックに合うよ、と勧めてくれたソースで、目茶苦茶うまくて病み付きになったソースだ。確かパイナップルも入っていたと思う。これと、春巻きと白いご飯を毎回のように持ち帰って、深夜のアパートでギネスの缶ビールを飲みながら、一人寂しく食べては就寝という日々だったのだ。

そんなある日も、またこの店に寄ってまたいつものようにローストダックを注文したのだったが、この店の中国人の様子がいつもと違うのに気付いた。近くには、マレーシア系と思われる青年がいて、どうもこの店の雇われ店員で出前を担当しているようだった。電話がかかってきてすぐのこと、中国人が大声でこのマレーシア系の青年を怒鳴り始めた。客からのクレームのようだ。私にはいつもニコニコ(私の地顔がニコニコしているからかも知れない)対応してくれる中国人の顔つきが鬼のように膨らんで、大声で喚きながら、最後に一言怒鳴ったのだった。 「Fuck off !!! と。

決まり悪そうなマレーシア系の青年は黙ってその場を離れて行った。気の毒なことに・・・。

しばらくして、店の中国人はがらりと豹変、ココナッツミルクソース付のローストダックと春巻きと白いご飯を私に渡しながら、Thank you, Good night!といつもの笑顔で応対したのだった。 先ほどのあの怒りの爆発とこの穏やかな笑顔のコントラストに戸惑いつつ、Fuck off !!!とはこういう風に使うものか、と半ば感心しながらも、異常な感情の爆発と悪態にタジタジとなって、家路についたのだったが、その後、折に触れてはあの怒気を含んだFuck off !!!が思い出されるのだ。

| | コメント (0)

世界カタコト辞典 (5)

Voulez-vous crocher avec moi ce soir ?

(フランス語で、「今晩いっしょに編み物をしませんか?」)

グローバリゼーションという言葉が人口に膾炙して久しい。たまたま先日のこと、偉い先生とお話していた時のこと。ネパールの子供達の目がとても生き生きしているのに、何故いまの日本の子供達の目はそうじゃないのか、というのが話題になった。

ネパールというと、いま暴動で問題になっているチベットの近くのどこか、というイメージだけで普通の日本人にはなじみがない国だ。今問題になっているチベットも蓋を空けてみれば近代化に取り残された貧しい国、というのが実態だ(スミマセン、お国の方)。中国の弾圧とは言うけれど、チベットの民度は、近代化された豊かな国の国民と比較するとまったくひどいのだ(まあ、中国も農村戸籍の方々はどっこいどっこいだという話らしいが、日本の報道機関はほとんど報道しないのは何故なのか?)。 中国共産党とは近代化政党であり、非西洋国が近代社会を作るためには、トップにエリートが強制的に愚民を啓蒙して国民意識をもった新人類を作り出すことは必要なことで、かつての明治日本が軍国主義だったように、また戦後のアジアで成功してきた国々は皆一様に開発独裁型ではないか?民主主義とはほど遠い、人権なんてかまっていられないのだ。人権、人権というなかれ、欧米日の恵まれた立場にいる人たちよ!食べられるようになっただけましではないか、近代化という甘い果実を得るための代償なのだ・・・。

と、ここまで賢しげに語る自分に、ちょっと待て、という声がする。人間の幸福とは、突き詰めれば哲学的な問いである。哲学的という意味は、答えのない問い、問いが問いを呼び、ぐるぐる回って留まることのない、永遠の堂々巡り、という意味、私なりの定義である。

社会格差、ニートだ、フリーターだ、と増え続ける非正規雇用が日本では大きな社会的関心を引いている。私の世代だと、父親が働いて母親は主婦専業で子供を二人育てることが十分に出来た。しかし、今日の日本はどうか?共稼ぎしないと平均的日本人は二人の子供を育てられないらしい。アメリカではすでに30年以上前にそうなってしまったという。家族がばらばらになり、皆がそれぞれ非情なマーケット市場の単位となって効率と時間に追いまくられる。

昔は時間がゆったりと流れていた。そして、50歳を過ぎた私がしきりに思うこと、それは少年時代に父や母の実家、つまり田舎の川や野原で遊びまわったことだ。そこには永遠に楽しい空間だった。大きくなるにつれて疎遠になり、大人になってまったく無縁となってしまったかつての桃源郷。あの頃は毎日毎日が楽しかったし、よかったなぁ・・・・・。きっと目がキラキラしていたに違いない。

だいたい、学校が終われば、遊んでいたのだ。宿題はしたけれど。塾なんて行く必要もなかった。(しかし、すでに塾は存在していた。)今の子供達を見ていると確かにあの頃の私が無心に遊んだような楽しい体験をもっているのだろうかと思ってしまう。万事が計算ずくめ、効率と偏差値と・・・私自身も気がついたら、子供の世界のみならず、息苦しい世の中の住人になってしまったのがこの日本なのだ。

30代から40代を振り返ると、とにかく仕事しかしていなかった。独り者であったから、週末は仕事と縁を切ってスピリチュアルな世界を彷徨したこともないではなかったが、虚しかった。何かに打ち込んでいるしかなかった。

ロンドン時代は最悪だった。2年だけだったが、ほとんど職場とアパートの寝室を往復するだけだった。土曜日もほとんど休んだ記憶がない。日曜日は1日ゴロゴロするだけだった。スコットランドもアイルランドもそしてヨーロッパ巡りもする余裕がなかった。よくもまあ、あんな生活をしていたものだ、と今思えば信じられないひどい生活だった。

疲れ切ってぼんやりとしながら地下鉄で通勤する日々だったが、ある日のこと、どこかの駅で停車中の地下鉄ガラス窓越しに、このフランス語の文字がさっと目に入った。思わずニヤリとしてしまった。 学生時代、ハノーバーに2ヶ月近く滞在してネジを作る工場で働いていたのだが、紹介先のハノーバー工科大学で知り合ったスイス人二コル君から教えてもらったフランス語の殺し文句のもじりだったのだ。

オリジナルは、Voulez vous coucher avec moi ce soir ? (今夜は一緒に過ごさないか?)。フランス語に無知な私をからかって教えてくれた言葉であった。ドイツ人の女性に使って、Nonと言われてしまったが、皆で大笑いしたものだった。

Crocherの意味は知らなかったので職場のフランス人Lydiaに聞いたら、「レース編みをする」という意味らしい。冒頭のフランス語は、どこかのメーカーのちょっとオフザケ広告だったのだろう。それとも、もっと深い意味があるのだろうか?

| | コメント (1)

私の世界カタコト辞典から (3)

Du kannst dir die Vorhaut schieben ! (ドイツ語で「ずるむけチンコ」の意の卑語)

今日は、早めに職場を出て家路についた。梅の香りが漂う早春の空気を吸いながら。何故かこの季節になると憂鬱と期待の入り混じった気分になる。

帰宅して、牡蠣フライと鯵の干物とお好み焼き(自家製関東風のシンプルなもの、葱と白魚と桜えび入り)を肴に白ワインを久しぶりに飲む。鯵の干物を頬張りながら、何故か突然30数年前の夏、ドイツからMichael君がホームステイで2週間、我が家に滞在したことをまた思い出してしまった。

朝食で出たアジの干物をぺろりと平らげて、Das schmeckt ja ganz prima! (ドイツ語で「とってもうまい」の意味)Michael君。

魚全般が苦手だった私だったが、鯵は好きな魚だ。鯵の刺身はもちろんだが、鯵の塩焼きは絶品だ。地元で水揚げされる大型の鯵、それも刺身用の生きが良いものをシンプルに焼いて、レモンを絞りオリーブオイルを少し掛けて白身を頬張るとウーンと唸りたくなる。美味い日本酒かドライの白ワインがあれば申し分ない。そして、アジの干物。これもなかなかだ。ああ、安くて美味しい鯵よ!

話がそれてしまった。二十歳は過ぎていたが、世慣れしないもののそれなりに悪がきっぽく突っ張っていた時代だった。彼の姓はMartinkovsky、日本語で発音すれば、マルチンコフスキィーだ。ドイツ人らしくない名前だ。家系を辿るとポーランドあたりから炭鉱労働者としてライン地方にやってきたらしい。しかし、この「マルチンコ」が日本語ではよくない。散々日本語のことを説明してからかったのだが、彼がウィンクしながらニヤリとして教えてくれた罵り言葉が表題の表現だった。「このずるむけチンコ野郎メ」。

| | コメント (0)

東松山で歩き、そしてバードウォッチング・・・

1週間前の週末は1年ぶりに埼玉県の歩く国際大会に出かけてきた。今年で30回を迎える国際大会だ。その昔、訪日外人がらみで仕事にかかわったことがある。最後は10年前の20回記念大会でその時で訪日した外国人は200名近かった。オランダを中心に、ベルギー、スイス、ドイツ、イギリス、ノルウェー、アイルランド、ルクセンブルクとヨーロッパ人が多かったが台湾、韓国、アメリカ、オーストラリア、イスラエル、ロシア、中国からも少数ながら参加者があったと記憶している。今回は300人近い参加だという。大会最初のころは10数人の外人参加者しかいなかったのだが、感無量である。

初日は20キロを歩いた。東京から北へ電車で1時間のご当地は、信じられないくらいの里山環境が保全されている別天地だ。天気にも恵まれてなんとも気持ちよく5時間を歩いた。歩き終わればおいしいビールと焼き鳥で疲れを癒し、大理石の風呂に入り、昼寝をした。そして、夕刻は歩く仲間達と宴会。詳細は個人情報の関係もあり省略。年配の我々が飲んでいると10人近い背のすらりとしたアマゾネス軍団がやってきた。みな美女ばかりだ。華やいだ雰囲気がうらやましい。我々はみな50歳を超えているおじさん、おばさん連中だ。

一番最後にアマゾネス軍団のピンボケ写真を掲載します。尚、この写真は彼女たちの了承のもとに撮ったものです。

翌日は、6時過ぎに起きて、双眼鏡を持って森林公園に出かけた。バードウォッチングだ。森林公園を探索したかったのだが、入園は9時半からだ。仕方なく2時間ちかく周辺のサイクリングロードをほっつき歩いたが、なかなか楽しかった。歩き始めてすぐに、今まで聴いたことのない囀りを聞いた。何だ、何だ、心が高鳴る! 野鳥が目に入り双眼鏡で除いてみると何とガビチョウだった。南アジア原産のいわゆる「カゴヌケ」といわれる鳥だ。1960年代までは中国から安く輸入されて鳴き声が綺麗なので結構愛好家がいたらしいが、その後急速に人気を失ったという。確かに、囀りは美しい。その場に立ち尽くしてあちこちで喉を振るわせるガビチョウの群れを双眼鏡で眺めた。インターネットで囀りを聞けます。

http://midopika.cool.ne.jp/songs/gabi.html

こんな出会いで始まった散策だが、あちこちでジョウビタキに出会った。それも♀ばかり。どうしてだろうか?とうとう、♂には出会えなかった。そしてアオジ、シジュウカラ、ビンズイ、ホオジロ、ヒバリ、チョウゲンボウ、キセキレイ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、カワラヒワ、イソシギ、モズなどなどを次々と観察した。天気が良かったからだろうか、ホオジロは2箇所のソングポストで囀っていたし、ヒバリも囀っていた。空をヒラヒラと飛ぶ猛禽、チョウゲンボウもじっくり観察させてもらった。身の危険を感じたと思われるヒバリ数羽が盛んに追い回していた!

9時半に森林公園がオープンしたので入園した。入っていきなり、ホオジロが美しい囀りで私を迎えてくれた!サイクリングロードを離れて森の中に入る。エナガの群れに出会ったり、シジュウカラ、ヤマガラ、ヒヨドリ、ジョウビタキ、アオジ、キジバト、トンビ、カケス、最後にベニマシコの♀にも出会った。この時期としてはまずまずだろうか?池ではマガモとカイツブリ。何故かカルガモの姿がなかった。ツグミの姿もそろそろかと思ったのだが、出会えなかった。昨年はこの時期に自宅のピラカンサをついばみにやってきていた。

お昼過ぎまで約5時間はあっという間に終わった。最後に見上げるとカラスに追われるオオタカの姿とツグミらしき群れ。ヒヨドリとサイズは同じだが飛び方が違うのだ。目がキラキラしている自分に気づいた。久しぶりあの充実感と体が空っぽになった心地よさに満たされて帰路についた。電車の中で、昨夜のアマゾネス軍団の美女達を思い浮かべながら。

Kif_1516_3

| | コメント (0)

旅の記憶シリーズ(6)アルマータ

アルマータ(現地ではアルマトイと言うらしい)と聞いて、何処にあるのかすぐ答えられる日本人はそういないと思う。 旧ソ連から独立した中央アジアの共和国カザフスタンの都市である。「リンゴの町」という意味らしい。

ロシア人が作った街だ。街中を歩くと、あの懐かしいロシアの匂いが充満していた。ウォッカとロシアタバコと燃費の悪そうなガソリンの排気ガスが混じったような匂い。 街の雰囲気だが、同じイスラム教とは言え、アラブのイメージとは程遠く、長い旧ソ連共産主義時代の影響を受けた、世俗化したイスラムの国、ということになるだろうか? 

カザフスタンとはカザフ語(トルコ系言語)で「カザフ人の土地」という意味らしい。商談で東京の見本市に訪れていたウズベキスタン人と話したことがある。あの広大なユーラシアの草原に住むトルコ族の末裔、つまり、西はトルコ共和国から中央アジアを経て中国の新疆・ウィグル自治区にいたるまでの人々が話す言語に大差はなく、いまでも普通にしゃべってコミュニケーションが取れるのだと言う。

仕事上のことで詳細は書けないけれど、中央アジアのひとつカザフスタン共和国のかつての首都・アルマータ(首都はアスターナ、地元の国営航空会社もアスターナ航空と言う)を2度訪問した。2003年の冬の2月に一度、3月にもう一度。 給油の為に早朝到着し、一旦市内のホテルにチェックイン、休憩して、夕刻再び次の目的地への移動、というただそれだけの為に滞在しただけだったが。

空港で気づいたことだが、ドイツのフランクフルトから直行便が乗り入れている。大韓航空も飛んでいて韓国からも人が沢山来ているようだ。冷戦が終わって、西側諸国の資本が投下されているのだ。もちろん、地勢上、大国ロシアと中国の勢力の狭間でいろいろと両国からの直接・間接の影響力は大きいだろうことは言うまでもないことだが。

チェックインした、ホテルのスタッフはと言うと、英語がちゃんと通じる。当たり前だ。どうも白系ロシア人が幅を利かせているような感じだ。しかし、トルコ系との混血種らしい、あるいはモンゴル系の特徴を刻んだような顔立ちのスタッフもいる。

エレベーターの中で、ロシア系ビジネスマンと思しき人から、「キタイ?(中国人か)」と声を掛けられた。「ニェット、ヤポンスキィ(いいえ、日本人です)」と答えた。

部屋に入る。テレビをつけると、丁度、マドリッドの地下鉄でイスラム過激派の爆弾テロ事件があったというCNNのニュースが流れていた。 

世界どこに行っても変わらないと思われる極めて衛生的かつ画一化されたアメリカ風のバイキングの朝食を取り、部屋に戻る。南向きの窓を開ける。冷たい風が入ってくる。目の前を何と、カササギが飛んできて、すぐ近くの木に止まった。ルァッキィ!双眼鏡を持参しなかったのが惜しまれる。 午前中は仮眠を取った。

お昼過ぎに目が覚める。昼食はまたホテルのレストランで食す。ランチセット。カレーソースのかかった白身魚のグリルとご飯に温野菜。味はさっぱりだった。

食後は、街中を散策した。雪が残っている街路はアイスバーンになっていた。歩きなれない自分は何度も路上で転倒しそうになった。 

道ですれ違う人々を観察する。彫りの深い顔立ちだが褐色がかったトルコ系の人々が多数派らしい。時折、ヨーロッパ人風の白系ロシア人と日本人そっくりのモンゴル系も混じっているがどちらも少数派だ。 道端で出会う10人中6人~7人はトルコ系の顔立ちであった。

市場を覗いた。沢山の生活必需品、食品(野菜、肉、魚)が並ぶ。魚は見ものだった。今まで見たこともない得体の知れない大きい魚が並ぶ。海水魚ではなく淡水魚だ。全体の印象としては、どことなく、まだ、現代文明と高度な消費生活が隅々まで行き届いたとは言いかねる、そんな印象だ。

ケバブの屋台を見つけた。ロンドンで見かけるのとほぼ同じ。しかし、肉の塊は小さかった。ピータというナン(インドのパン)にそっくりのパンに切れ目を入れて薄切りにした羊肉に生玉ねぎのスライスやパプリカの漬物とかニンニク・ヨーグルトソースを掛けて頬張る定番のサンドイッチだ。食べたかったが、やはり、お腹を壊しそうな感じの衛生管理に見えたため、見合わせた。ケバブには目がないのだが。ロンドンでは何度お世話になったかわからないあのケバブ。ドイツでも、ニュージーランドでも食べたあのケバブ・・・。

アルマアタは坂の町だ。たぶん、西のほうに向かって傾斜が上がっている。そのはるか向こうには雪を抱いた高山の峰々が見える。大変美しい。太陽の輝きを反射して神々しく見えるのだ。 

アルマアタの町にはシジュウカラが溢れていた。こんなにシジュウカラがいるとは!カササギもところどころで見掛けた。尻尾がとても長いカラスに似た鳥だ。関東地方でよく見かけるオナガと同じ仲間である。

仕事で同行した一行と夕方、ホテルで再び夕食を取る。衛生的だが、味はいまひとつのフランス料理を食べて、空港へ。 男だけの一行で酒が飲めるでもなく、無聊を慰める手段もなくアルマアタの滞在は終ろうとしたが、空港の出国手続きの際に、制服を着た若いモンゴル系の女性係官と出会ったことが唯一の慰めか? 皆で異常に盛り上がり記念写真を何枚も撮っていたら、年配の女性係官がやってきて、若い彼女に厳しい顔つきで一言二言すると、彼女は立ち去ってしまったのは残念だった。

| | コメント (0)

旅の記憶シリーズ(5)中国・長春~北京

ハルビンには3泊し、長春へは国内線の飛行機で移動して1泊した。気の強い若くて美しい中国人ガイド氏(山口百恵が出演していた赤い疑惑のファンだった)の案内で観光をした。記憶に残るのは、関東軍指令本部があった日本のお城のような構えの建物がそのまま残っていて、現在も地方政府によって使用されていたことだった。 

その後、大連にも出かけて目撃したけれど、旧満州には、旧ロシア帝国の遺産もそうだけれど、旧大日本帝国のインフラ遺産が沢山残っていて人々が継承していることが印象深かった。

1泊しかしなかった長春だが、夜の沿道の散策、屋台巡りも楽しかった。屋台の食事は、衛生的にどうもお腹を壊しそうで、とうとう手を出せなかったが、片言を話せる年配の日本人氏と何気なしに入った食堂で一杯飲みながら、地元の人とカタコトの中国語で会話しながら地元の料理に舌鼓を打ったことが記憶に残る。何を話したのか、何を食べたのかは、さっぱり記憶にないのだが。

それと、あの気の強い美人のガイド氏。 ホテルの名前は忘れてしまったが、モダンなホテルにチェックインした後、ホテル内をぶらぶらしていたら、ちょうどシャワーを浴びた直後の彼女に出会ってしまった。正確には、向こうはこちらに背を向けていたので気づいていない。髪が濡れていた。女のエロチズムを垣間見た瞬間だった。そうでなくても、日本語に非常に堪能で中国人らしいユーモアと機知に富む話しぶり、しかし、時折、過去の日本の侵略の歴史への断罪を匂わせる厳しい物言いが混じる、そんな彼女に我々一行は圧倒もされつつ、好感を抱いていたのだったが、その彼女が仕事を終えてホテルでシャワーを浴びて、無防備な素顔を垣間見せてくれた瞬間だったのだ。声を掛けようと思ったが、気後れして出来なかった。

翌日は、列車で北京まで一昼夜の旅を楽しんだ。どこまでも、どこまでも真平らに続く畑・畑・畑と言うか、一言で言えば地平線の彼方まで延々と続く大平原。やはり、ここでも日本の風景とは違うスケールを感じた。列車の服務員がお茶のコップとお湯をサービスしてくれた。中国でのお茶の飲み方を知ったのもこのときからだ。

早朝の北京駅に到着して、最初に目にしたのは、沢山の人々。そして、沢山の自転車。2008年北京オリンピックを控えて盛り上がるテレビに流れる最近の北京市内の様子とは大違いであった。そして、人民服を着ている人がまだ結構いたと思う。この辺りはぼんやりとした記憶なのだが。

泊まったホテルの名前は今でも覚えている。市の中心からはずっと離れた燕翔飯店だ。そこに1泊した。残念ながら北京飯店ではなかった。そしてお決まりの観光をした。天安門広場、万里の長城、明の十三陵、天壇公園、王府井などなど。 万里の長城は感動物だった。

紫禁城は見損ねてしまった。 牡丹江からの残留孤児で戦後早い段階で帰国した日本人の一人が、どうしても買いたいという日中辞書を探しに王府井の大きな書店に出かけたからだ。 買い物が終わって、紫禁城の反対側の出口で見学中の一行を待った。先にやって来たガイド氏(今回は男性)と雑談した。「文化大革命で中国は道草を食ってしまった。これからです。10年で日本と同じレベルに追いつくはずです。」 自信たっぷりの余裕の発言だった。

真夏の北京の日差しは強くて蒸し暑く埃っぽかった。

| | コメント (0)

旅の記憶シリーズ(4) 中国・ハルピン

中国に初めて出かけたのは1985年の夏だった。北京経由で、向かった先がハルピンである。日本人の言う旧満州、中国では東北地方と呼ばれる地域だ。文化大革命が収束し、毛沢東は1976年にこの世を去り、鄧小平氏の改革・開放路線が始まったばかりの中国で、一般の外国人が普通に旅行を出来るようになったばかりのころだ。

空港から市内のホテルまでの道がどこまでも、どこまでも真っ直ぐなことにビックリした。

狭い島国の日本の風景とスケールが全然違う。植生も違う。何となく、北方の風景だ。沿海州のナホトカからハバロフスクの原野を列車で走った風景と何となくダブってくる。

ホテルにチェックイン。一段落。と、しばらくして、同行の人が、部屋のトイレの水が流れないと大騒ぎ。別の人はお風呂のお湯が出ないとまた大騒ぎ。インフラはまだまだお粗末であった。お昼に飲むビールは生ぬるかったし、とても文明の恩恵を受けた快適な旅とは言えなかったが、戦前の満洲で生活をした一行の人たちは、全然苦にすることなく旅行を楽しんでいたようだった。そして、私にとっても、別な意味で楽しい旅だった。

一緒に旅行したのは、旧満洲帝国で獣医をしていたもと人たちの一行と、満洲で生まれた引揚者の人たちだった。彼らから聞かされた当時の思い出話は、「本当ですか?」と我が耳を疑いたくなるような話が沢山あった。

例えば、真っ黒い何かが蠢いているなと道端に目をやると、それは無数のハエが死骸に群がっているとか、零下何十度という凍てつく真冬には、凍死した浮浪者の死体が毎朝のように見つかったこと、大空も真っ黒に埋め尽くすカラスだとか、不衛生極まる現地の人々の状況、内情偵察で知り合ったオロチョン族という少数民族の視力は日本人の視力では絶対に見えない1キロ位先の獲物をいとも簡単に見つけて見事な射撃で射止める話などなど。 生ぬるい中国名産青島ビールに氷を入れて飲みながら、そして、あまり美味しくない中華料理を食べながら聞いた話である。

松花江では、遊覧船に乗った。この川はアムール川の支流である。アムール川は、旧ソ連時代のハバロフスクに立ち寄ったときに、一度だけ、川岸を散策した記憶がある。ロシア人の子供が釣りをしていた。昭和30年代の少年時代、母の実家近くの川で魚釣りをした頃の原風景が蘇るくらい牧歌的な情景だった。しかし、川のスケールが日本の場合とは違う。向こう岸がはるか彼方。水は濁りに濁っている。川なのか海なのか一瞬わからなくなる。中国大陸の河川は、日本の河川とはスケールが違うのにビックリした。 

そして、キタイスカヤ通りだ。ハルピンは、東へ東へと膨張したロシア人が作った街だ。ロシア正教の教会や西洋風の建物がそのまま残っていて、これが中国なのか!と思わされるほど異国情緒豊かな美しい町並み。「キタイ」とはロシア語で中国(人)の意味だ。数年前、カザフスタンはアルマトイに滞在した時、エレベーターでロシア系の人と一緒になり、目と目があって、先方から「キタイ?(中国人か?)」と声を掛けられ、「ニェット、ヤポンスキィー(いや、日本人だ!」と答えたなぁ。

唐が崩壊して、再び北方の蛮族に国を荒されて混乱が続く中国北部は、契丹族が「遼」という王朝を立てた。 11世紀のことだ。契丹=キッタンが当時の中国を意味する言葉であったのだ。キタイ、カタイとも訛って呼ばれ、今日のCathay Pacific航空にもその名をとどめている。パックス・モンゴリカ(モンゴル帝国のユーラシア大陸征服による安全保障)のもとに旅したマルコ・ポーロの「東方見聞録」を読んでみると元の植民地となっていた当時の中国のことをカタイと呼んでいる。(厳密には、黄河流域である中原以北を指し、揚子江地域はマンジと呼ばれていた)

ハルピンで記憶しているのは、他にハルピン動物園で大きなトラを見たことだ。地元で捕獲された虎である。ライオンなんかりより全然大きいし風格があって圧倒された。イザベラ・バード著「朝鮮紀行」は1890年代の朝鮮半島の事情をいろいろ伝えていて興味深いのだが、虎が沢山いることを記述している。朝鮮半島も含めた旧満州一帯にはまだ沢山の虎が生息していたようなのだ。

下町のショッピング街を散策したり、ハルピン医大(ここで、嘗ての満州国軍に勤務した獣医さんたちは、現地の人に教育を施したという)を見に行ったり、強烈な匂いが充満する漢方のお店に行ったり、道端のあちこち置いてある痰壺を覗いて吐きそうになったり、同じ東洋人とは言いながら、何もかもが違う中国・東北地方の都会・ハルピンに魅せられたのだった。

(続く)

| | コメント (0)

旅の記憶シリーズ(3)菜の花を巡る旅・ 我が家~鹿児島~ドイツの田舎

菜の花は大好きだ。宅地化が進んで我が家の東向きの畑と雑木林がいつのまにか無くなってしまった。18歳で上京したのだが、それ以来ろくすっぽ実家には寄り付かなかった。それでも、7~8年前までは、たまの夏休み、帰省すれば、東向きの畑と雑木林からは涼しい風が入って、2階のベッドで昼寝を貪るのはなかなかの快楽だな、と思ったものだ。言ってみれば別荘みたいなものだった。

子供の頃、春先になるとあちこちでヒバリの囀りを聞いたものだが、そのころの情景はあたり一面咲き乱れる菜の花の黄色と一緒に、なつかしく、そしてまた愛着を感じるセピアカラーの記憶として残っている。

社会人になって、しばらくてのこと、30代前半のころだろうか?鹿児島に出張したとき、鹿児島空港から市内までバスで移動中に、ぼんやりと外の景色を眺めていたら、一面、黄色・黄色・黄色の菜の花畑に出会った。息を呑んだ。

途端に、郷愁を覚えたものだ。春先の菜の花畑の黄色・黄色・黄色。そして、あちこちで乱舞するモンシロチョウ。

東京を引き払って、田舎に戻った年2年前の春、ドイツを仕事で旅行した。あちこちでまたまた、あの黄色い菜の花を見かけた。聞くところによると、環境問題に取り組む国の政策で積極的に菜の花を栽培してるという。時期はまさに、麗しき5月。 Im wunderschonen Monat Mai …. ロベルト・シューマンの歌が頭の中で響き渡る。

帰国前日の夕方、取引先の人に連れられてフランクフルトの郊外をドライブし、夕刻、旅籠風のレストランで夕食を取った。旬のアスパラガスを賞味した。何の変哲もない白い根っこを湯がいたものだが、バターソースを掛けて食べる。なかなか美味かった。

おいしいドイツビールを飲み、香草入りのワインも一杯飲んだ。MAIL BOWLERとかなんとか。ご一緒していただいたS女史は、Saumagen(豚の胃袋)を食べている。 大丈夫っすか? そんなグロテスクなもの食べて! おいしいですよ! 名前と違って、中身は胃袋ではないんです、といいながら、酢漬けのキャベツと一緒に頬張っている。 胃袋でないなら、一体何なんだろうか? しつこく聞くのが憚られて、小職も一口頂いたが、なかなか美味であった。 「豚の胃袋」と言われて、腰を引いてはいけないのだ。

デザートはApfelstrudel。 ドイツ風リンゴケーキだ。一口頂いたが、めちゃくちゃうまい。一口頂戴して、私は、自家製のチーズをさらに食べた。 このチーズはモッツアレラチーズみたいでアッサリしている。玉葱の輪切りとワインビネガーが掛かっている。 こういう食べ方もあるのか! メニューの名前は、Hauskaese mit Musik。 日本語で訳すと、「音楽付きの自家製チーズ」である。 Y社長によると、音楽付きの意味は、チーズを食べるとオナラがでるとのことである。 洒落た名前をメニューに付けるものだと感心する。

レストランのシェフは190センチはあろうかという巨体の持ち主。Y社長によると、ある日本人の女性に惚れて一度、日本まで追いかけていったらしいが、夢破れて、いまは、この辺りでは評判のレストランを経営しているのだと言う。人間は挫折を糧に、飛躍するということか?そして、挫折は、人を哲学者にもする。 レストランのメニューを見ればわかる。 持って帰りたいぐらいだった。ドイツの文人の食に関する箴言の抜書きがところどころにプリントされている。肉料理のところは19世紀の哲学者ニーチェだった。

Man lebt nicht nur vo Brode, sondern auch vom Fleische…….

人はパンのみで生きるにあらず、 肉もまた必要なり・・・

出典は、「ツァラトゥストラはかく語りき」からとある。 もぐもぐと、食物を咀嚼しながら、あれこれ思い巡らす。 箴言の楽しみだ。

食事をしながら、Y氏の音楽に関する薀蓄を聞く。 「小さい秋みつけた」という日本の歌は、チェコの作曲家スメタナの「パクリ」だそうだ。 スタンリー・キューブリックが「2001年宇宙への旅」で「美しき青きドナウ」を使ったのは天才的なヒラメキである。 私が割り込んで、マーラーの交響曲5番のアダージョ(これほど耽美的なメロディーがあろうか?)は、ルキノ・ヴィスコンティ監督が映画に使いたくて、トーマス・マンの「ベニスに死す」を映画化した、などなど。 

菜の花から脱線してしまった。菜の花に戻る。菜の花はおいしい。我が家で春先は、毎度のように「おひたし」が食卓に出る。飽きない。そういえば、数年前、悪友と広州で遊んだときに、中国人と飲みながらつっついた菜の花の中国風おひたしは絶品だった。海南島に移動する飛行機の乗り継ぎでたまたまビールを飲みながらつまんだのだったが、あの中華風おひたしは、忘れられない。菜の花を湯がいて、ニンニクと油と醤油とお酒と何か調味料の味付けをしたシンプルなものなのだが、何故もあのような絶妙な味になるのだろうか?

| | コメント (0)

旅の記憶シリーズ(2) ドバイのスークを歩く。

2003年の2月と3月に2度、仕事の帰りに1泊ずつした。これが、あのイスラム教の世界なのだろうか?我が目を疑う町だった。アラブ首長国連邦にあるバブリーな町である。

2月だというのに日中は真夏の日本のようにメチャクチャ暑い。建物の中は、クーラーをメチャクチャ効かせて涼しいのだが、外に出たらもう大変である。気温は、30度をはるかに超える。

アラブの問題はアラブ人が少ないことではないだろうか?この国も、いわゆるアラブ人よりも、インド人、パキスタン人、スリランカ人、アフリカからの黒人、東南アジアからフィリピン人、タイ人がいわゆる普通の労働力として住んでいるのには驚いた。

タクシーの運転手というと決まって、インド人かパキスタン人だ。ホテルのスタッフやレストランのウェイター・ウェイトレスはフィリピン人やタイ人が多いような気がする。ロシア人がいるのにはこれまたびっくりした。最近は、ロシアからもかなりの人が観光でやってくるという。

市内観光や砂漠サファリツアーのドライバーだが、私の場合、アフリカは、ザンジバル出身の黒人ドライバーで、日本語ガイドはスリランカ人、という具合だった。ちなみに、夕方からの夕食付きサファリツアーでは、大阪出身の独身女性の二人ずれとオーストラリアに孫夫婦を訪ねた後、帰国途中にドバイに寄ったというイギリス人夫婦と一緒になって楽しんだ。

何という人種の多様さであること!聞くところによると、この国には税金がないのだそうだ。石油収入でいわゆるアラブ首長国のアラブ人は、生まれながらに裕福な金持ちで、投資家ばかり。仕事をするのは皆外国人ということだそうだ。

大阪からはエミレーツというアラブ首長国連邦の国営機(というか王室の所有)の直行便が飛んでいる。日本人が一人歩きしても安全な町、というのがこのドバイ。お隣りというか海を隔てたイラクでは内戦状態で沢山の人が死んでいるのが嘘のようだ。

カザフスタンやクウェートでの仕事で疲れ、日本へ帰国するためにやむなく、たまたま一泊しただけだったが、貪欲に観光をした。見るところは正直に言ってあまりない。イギリスの植民地だったころの砦の後が、博物館になっていた。季節柄なのか、アマツバメが盛んに飛び交って、砦の石垣の隙間に入り込んで巣を作っていた。

クリークでは日本でもおなじみのユリカモメがいた。フェリーでクリークを渡ると、すぐそこに大きなスーク(アラブの市場)があった。雑貨屋が多いが、目を引くのは、香辛料を扱う店がやたらと多いことと、それから金細工の店だ。店を冷やかしながら、サフランを大量に安く購入した。日本で買うサフランはとても高価だからだ。あと、目に付いたのは「乳香」という香料だ。宗教の儀式にも使うらしいし、医薬品としても使うものだそうだが、日本人にはなじみがない。きょろきょろしていると、隣にドイツ人らしき団体がやってきてドイツ人のガイドが、スークの香料についてひとしきり、ドイツ人らしい徹底した説明をやっていた。

半日、このスークをあっちこっち、気ままにぶらぶらするだけだったが、エキゾチックで飽きなかった。途中、びっくりしたのには、ISETANという店を見つけたときだった。日本の伊勢丹とはまったく関係のない、いわゆる雑貨屋であった。

この日は、どういうわけか、あちこちでラジオに聞き入る浅黒いインド・パキスタン人の姿を見かけた。何か、スポーツ中継に聞き入っているようだった。歩き疲れて、とあるお土産屋を覗いていたら、彫りの深いインド人らしき男と目があった。さっそく、人なつかしそうに、彼がやって来た。 

日本人か? そうだ。あなたは? インドから出稼ぎに来ている。 単身で来ていて毎月、家族に仕送りしているという。ラジオでは一体何を放送しているのか?インドとパキスタンのナショナルチームによるホッケーの対抗戦だ。 なるほどぉ~。

それで、皆、一喜一憂しているのが分かった。インドとパキスタンは、宿命のライバルであり、ことごとく対立している。サッカーの日韓戦みたいなものだろうか?

かくして、私は、タクシーに乗り、これまた彫りの深いインド人のドライバーの運転で、インド対パキスタンのホッケーの試合中継の話をしながら、ホテルに戻った。シャワーを浴びて、さっぱりして、クーラーの効いたレストランでアラブ料理のビュッフェの昼食をたっぷりと取る。羊の肉がこんなに美味しいとはまったく知らなかった。

満ち足りた私は、そのまま、空港に向かい、シンガポール航空でドバイを後にしたのだった。

| | コメント (0)

旅の記憶シリーズ (1) ドイツ ~ Minden

自分の享楽の為に旅行はしたことがない。これまで、いろいろなところを偏って旅行してきたが、ほとんどが学生時代の研修は別として、「仕事」の為に出かけたのだった。泊まるホテルだって、安宿がほとんだ。ここで告白しておこう。私は、アメリカ合衆国に行ったことがない。ハワイ、グアム、サイパンはもちろん、北米大陸に足を踏み入れたことがない。別に恥とは思っていないのだけれど。結婚したことなし、車の免許なし、アメリカに行ったことなし、の「3なし」なのだった。しかし、田舎に戻って、運転免許だけは、生活上の必要から取ってしまった・・・。が、いまだに、車は持っていない。車なぞ、誰が買うものか!である・・・。

学生時代にドイツ語なぞ勉強してしまって、その延長で、会社でもヨーロッパ方面にかかわる仕事を主に担当した為か、ヨーロッパには随分出かけた。だから、旅の思い出となると、断然ヨーロッパが多い。しかし、偏っている。ドイツだと、大都市ばかり(ハンブルク、フランクフルト、ミュンヘン、ベルリン、デュッセルドルフ、ケルン、ボン、シュトゥットガルト)、オランダ、フランス(パリとマルセイユだけ)、オーストリア(ウィーンだけ)、デンマーク(コペンハーゲンだけ)、フィンランド(ヘルシンキだけ)、スウェーデン(ストックホルムだけ)、ベルギー(ブラッセルとアルデンヌの森、リエージュ)、ルクセンブルク、イタリア(ローマとフィレンツェだけ)、ハンガリー(ブダペストとヘレンド、プスタ大草原)、ロシア(沿海州のハバロフスクとモスクワだけ)、ギリシャ(アテネとエギーナ島だけ)、そしてイギリス(ロンドンとイングランド周辺だけ、スコットランド、ウェールズは行っていない)と言った具合。それも、仕事だから、夕方チェックイン、翌朝チェックアウト、1日仕事して(数泊することもある)、また夕方次の都市に移動して、チェックイン。というパターンが多い。観光なぞ、ほとんどした記憶がない。つまり、昔の有閑階級が、仕事ではなく、暇を使って旅する旅はしたことがないのだ。ああ、悲しいヤ。

アジアもそれなりに縁があって出かけている。マレーシア、シンガポール、タイ、インドネシア(ボロブドールも出かけた)、香港、中国は、ハルピン、長春、大連、旅順、北京、上海、蘇州、広州、海南島。仕事だから、いつもピンポイント。観光もあまりしていない。

などと、くどくどと愚痴っても始まらない。昔は日記なぞ付けていなかった。記憶を頼りに、そして途中からは(1995年)つけている日記を頼りに、旅のスケッチ、を試みてみよう。もう、取替えしのつかない「失われた時を求めて」・・・。

まずは、ドイツから。

ジュッセルドルフから1日日帰りでMindenという町に出張したことを思い出す。ニーダ-ザクセン州の田舎町だったと思う。大方は忘れてしまったが、何故だか、列車の中のこと事務所でのやり取りを断片的にだが鮮明に覚えている。

ヨーロッパの列車は、コンパートメント式の車両の場合がよくあり、このときは、ビジネスアタッシュケースを持った自分が一人で乗っていた。連日の緊張で、疲れがでてうとうとしていた。

途中で、母親と小さな子供連れの親子が乗ってきた。そしてまた、どこか途中で両親に見送られたと思しき男性の大学生が乗ってきて、コンパートメントは4人で一杯になった。 私は、うとうと眠っていた。 端々に会話が聞こえる。 

どこかの駅で、ギターと歌が聞こえてくる。「花は何処へ行った」というフォークソングを当然だがドイツ語で歌っていた。若い女子高校生らしきグループがギターを伴奏に、合唱していた。

Sag mir wo die Blumen sind ? (Where have all the flowers gone)

Wo sind sie gebliegen….(Long time passing)

英語の対訳ではなかったが、確か、マレーネ・ディートリッヒが歌って大ヒットした記憶がある。

列車は走る。カタカタコットン、カタコットン。私はうとうと眠り続けていた。

子供連れの母親と若い学生の会話が聞こえる。

大学生は哲学専攻の学生らしい。

親子は休暇で外国、どうもスペインに行くらしい。子供が大学生に問いかける。

Waren Sie schon mal in Spanien ? (スペインに行ったことある?)

いつしか、列車はミンデンに到着。いつの間にか、学生も親子もいなくなっていた。

北ドイツの田舎の小さな駅。駅から徒歩で中央通りといってもほんとに狭い中央通り、訪問先はすぐだった。アポで会う社長さんは、何故か事故で骨折してしまったらしく病院に急遽入院。変わりに、スタッフの女性二人が私の相手だった。一人は、金髪の大柄な女性。名前もインゲ。ゲルマンの官能的な名前だ。もう一人の黒髪のテキパキとした女性が社長の右腕で、仕事の話は問題なく済んだ。

話しもまとまったところで、私は彼女たちをお昼御飯に招待した。外のレストランに出かける前に、インゲがお手洗いに行きます、と席をたった。入ったところは、小さな事務所に直結したトイレ。直後、彼女のオシッコの音が高らかに響き渡り、黒髪の彼女と私は目を丸くして笑ってしまった。

彼女たちと何を食べたのか、さっぱり記憶がない。食後、街中を案内してもらって歩いていたら、大型バスが通った。日本人の旅行者を乗せていた。エキゾチックな東洋人満載で、道行く人たちの好奇心を掻き立てていた。

たった、これだけの記憶である。1980年代前半の6月半ばのころだったと思う。セールス訪問の成果があって、この田舎の旅行会社は、シベリア経由で日本訪日団を送ってきた。何故だかよく分からないが、この日の列車の旅でのドイツ人の会話とミンデンという田舎の小さな旅行社の大柄なインゲのオシッコの音が、いつまでも記憶に残っていて、時折思い出すのだ。

| | コメント (0)

私のヨーロッパ体験記 ~ その6

さて、話が支離滅裂気味になってきました。まとめです。私の体験を思い出すままに、メモを見ながら話してきましたが、

1)ヨーロッパというのは一つの世界で、他民族国家であること。言語も沢山あります。たまたま仕事の関係で、私は、ドイツ語と英語が仕事に差し支えない範囲で一応できますし、オランダ語は生活するに困らない程度に出来ます。フランス語はレストランのメニューが読めて注文が出来る程度です。それ以外にヨーロッパには沢山の言語があります。最近、密かに思うに、ヨーロッパというのは、中国と同じレベルの概念です。違いは、ヨーロッパは今、EUというまとまりに進化しておりますが、先にドイツとかフランスとかオランダとか国があって、それが、ヨーロッパという経済統合体にまとまりつつあること。(厳密に言うと、中世は今の国という概念はなかったようで、ヨーロッパのキリスト教共同体というおおきな単位があった)。中国の場合は、最初から大きな括りとして国家という枠があることでしょうか(北京を中心とする地域がドイツなら、上海周辺地域はフランス、広州地域はイタリアという感じではないでしょうか)? 突飛な飛躍と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、本学で少し前まで教えておられたxxxx先生の本を読んだことがあり、私はこの考えはあたっているとの思いを強めております。

2)30年前と比べて、日本文化というものの存在感は間違いなく、ヨーロッパでは高まったこと。文化というのは定義は難しいんですが、アメリカ文化(文明)というものを、American way of lifeと見なせば、日本文化(文明)はJapanese way of lifeと定義して良いと思います。食文化の普及というのもそのひとつです。特に、寿司については驚きます。 30年前の当時、生魚を食べるのは野蛮人だ、みたいにヨーロッパ人には思われていました(例外は、ノルウェーとか、南イタリアとか南フランス)が、今日では、ロンドンなどは寿司バーが沢山あって、握っているのは、日本人ではなく、ミャンマー人だとか、タイ人です!回転寿司もあります。デザートにドラ焼きがのってたりもします。ベルリンにも沢山すし屋があったのには驚きました。ベルリンで評判になっているというので行ったすし屋ですが、オーナーは上海出身の中国人で、出てきた寿司は、日本のすし屋で食べるのとまったく遜色がなく美味しくて、値段も安かった! 日本人の手を離れて、寿司という食文化が広がっているということ。余談ですが、ロンドンでもサラリーマンをしてましたが、北海では美味しい鯖が取れるんですね。で脂ののった鯖の塩焼きが美味しいですが、金融街に勤めるイギリス人も鯖の塩焼き定食を食べるのをよく見かけます。

3)マンガに戻りますが、フランクフルトの駅の本屋にマンガコーナーを見つけてびっくりしました。しかも、日本と同じ若者が一心に立ち読みしてるんです。これまた、新たな発見です。ミュンヘンの本屋にもマンガコーナーありましたし、以前、NHKのニュースでフランスでのマンガの浸透ぶりの報道も見ました。本物だと思います。若者の心を捉える新鮮さとメッセージ性があるということだと思います。

4)カラオケですが、これも、日本とはスタイルが違いますが、浸透しています。ロンドンの場合ですが、ある中華レストランでは、テーブル席の手前のバーにスクリーンが設置されていて、そこで、ロンドン子は歌合戦をやっています。テレビ番組もあります。ちょっと、日本の趣とは違いますが、男性チームと女性チームに分かれて、得点を競うという趣旨で長寿番組です。(2000年当時)。いわゆる、カラオケボックスははやらないようですが、こういうオープンなスタイルで好まれるようです。

5)そして、日本の作り出す製品というのが高品質で、信頼に値するという評価が浸透していることです。 製品の向こうに日本人そのものに対する信頼性というものもあります。ヨーロッパ人と付き合っていて心地よいのは、そういう意味で、30年前の保護者的な立場で日本人に接する人が姿を消して、対等な人間として話しているというのには感慨深いものを感じます。

最近、ベストセラーに「世界の中の日本人ジョーク集」というのがあります。 これだけジョークネタになるというのも、それだけ、注目されている証拠でもあります。私が20数年前オランダで聞いた日本人ジョークは以下のものでした。

無人島に漂着した二人の男性と一人の女性という想定:

ドイツ人の場合: 一人の男性が女性と結婚して、もう一人の男性が、戸籍係になる。

スペイン人の場合: 二人の男性が女性の取り合いで、決闘して、二人とも死んでしまう。

ロシア人の場合: 女性は好きでもない一人の男性と結婚して、3人とも何と人生はつらいことかと、皆で嘆き悲しみ、涙を流す。

フランス時の場合: 女性は一人の男性と結婚し、もう一人の男性と浮気する。

イギリス人の場合: 紹介してくれる人がいないので、3人ともよそよそしく打ち解けないまま終わってしまう。

日本人の場合: 本社にテレックスを打って、指示を仰ぐ

というものでした。日本人の会社人間振りを皮肉ったジョークです。このベストセラー本を覗いて見ると、「テレックス」が「携帯電話」になってました。e-mailでもいいと思います。当時はインターネットも携帯電話もありませんでした。オランダ時代は1984年ですから、ファックスが普及し始めた頃ですね。

                    

さて、私の人生はまだ終わっておりませんが、長い異文化交流を通して良かったと思うのは、日本とは違うものを触れることで、日本と言うもものを強烈に意識すること、自分とは、日本とは何かと考えること、又、自分を突き放して、客観的に見つめる視点を獲得したことではないかと思います。上で紹介したジョークはまあ、あたりさわりのないものですが、実は、ジョークには、相手の痛いところついた鋭いジョーク、皮肉、当てこすりなどもふんだんにあります。

多文化社会では、当然文化摩擦があるのですが、彼らはジョークを一種のガス抜き、笑うことでストレス解消してる部分があるようです。日本人も自分の滑稽さを自分で対象化して外国人と笑えるようになれば、もっと、外国人とのコミュニケーション(相手を理解し自分を説得する)が上達するのではないかと思います。 

以上で、私の話を終わりにします。 ご清聴ありがとうございました。

(終り)

| | コメント (0)

私のヨーロッパ体験記 ~ その5

さて、写真ですが、2枚の町の風景が写ってます。これはドイツのリューネブルクという町で、1枚は1976年のもの。もう一枚は2005年にとったものです。1976年は友人のペーターさんのご両親に食事に招待されて出かけました。 

中世は岩塩で有名な町として栄えました。この町は日本とゆかりがあり、徳島県鳴門市と姉妹都市を結んでいます。第一次世界大戦で日本は日英同盟にもとづいて中国・青島のドイツ人と戦ったんですね。捕虜となったドイツ人捕虜が鳴門市に抑留されたのが縁らしいですが。又、近くには日本企業の工場もあって、地元の雇用に貢献しているそうです。

たまたま今回の話をするので写真を見ていたら、同じアングルで30年後にまた写真を撮っていたのでびっくりしました。景観はほとんど変わってないですね。 

次の写真はこのリューネブルクを訪問した前に通った、ハンブルク郊外のアルテスラントという町で、白い花はりんごの花です。ちょうどりんご祭りをしているところでした。リンゴで作った蒸留酒もあります。 もう一枚の写真は、北ドイツの農家の写真です。 わら葺き屋根ですね。 実は、私の母の実家の家ですが、15年前に築100年以上の年代もののわら葺き屋根の家を改築したんですが、そのわら葺き屋根の家が妙になつかしくなってとったものです。特に意味はないんですが、いいですね。自然の素材というのは。

そして、もう1枚は、現在の私に近い写真ですが、ベルリンで取ったものです。壁がなくなった後のベルリンです。それとアスパラガス料理です。これは春先にドイツでは良く食べる料理です。グリーンアスパラでなく、根っこのホワイトアスパラを湯がいて、バターソースをかけて食べるんですね。旬のものをシンプルに食べる、家庭料理です。 

最後の写真4点は、2003年秋のハンガリーはヘレンドという陶磁器で有名な町に行ったとき、ヘレンド製の食器で食べた昼食です。前菜は、グヤーシュというパプリカ(唐辛子)を使ったスープ、メインは、鹿のステーキ(10月、11月の狩猟のシーズン)柔らかくて、とても美味しいステーキで、赤ワインとよく合いました。ハンガリーは実は、ハプスブルクのオーストリア人=ドイツ語をはなすドイツ人がワインつくりを導入して、とても美味しいワインを造ってます。最後は、ラズベリーソースのかかったあまいデザートです。

30年前の貧乏学生では味わえないヨーロッパの料理です。実は30年前の貧乏学生のときは、工場で食べる毎回のお弁当以外は自炊してました。だいたいサンドイッチを買ってきて食べたり、焼きソーセージやポテトフライを食べてましたが、貧乏学生なりに、発見して病み付きになった料理があります。

ギリシャ料理で、スフラキという料理です。ドイツにはギリシャ料理屋がたくさんあって、ご飯が食べたくなると、当時は、中華かギリシャ料理なんですね。「スフラキ」というのは串に赤ピーマンや玉ねぎと豚や牛、羊の肉を刺してグリルしたものとお米の種類は違いますが、オリーブオイルであえたご飯と野菜の付け合せ(たいてキュウリとトマト)のやはりギリシャの家庭料理です。とにかく安かった。 お互いお金のないペーターさんとよくギリシャレストランに出かけてお腹一杯食べました。何度いったかわかりません。後で知った話ですが、このスタイルの食事はトルコとか地中海沿岸の地域では共通する食事スタイルで、はやり家庭料理なんですね。

パリで同じような体験をした友人は、チュニジア料理の「クスクス」で毎日空腹を満たしていたと言ってました。 クスクス料理をご存知の方いらっしゃいますか?これは、パスタを粉々にしたものに、羊と野菜のシチューをかけて食べる料理なんですが、パスタがシチューのスープを含んで膨張して、お腹にはいるとものすごい満腹感が得られます。 若い学生の見なさんが、ドイツかフランスに言ったら、是非、試してみてください。お金持ちになった日本人からすれば、どうってことない料理ですが、私は、機会があって、ドイツ・フランスに出かけるときは、かならず、一度はこの料理を食べて、若かりし頃の感傷にひたることにしてます。

(続く)

| | コメント (0)

私のヨーロッパ体験記 ~ その4

いずれにしましても、2ヶ月は、あっという間に過ぎてしまいました。締めくくりは、ドイツ人の大学生・日本に興味を持つ一般社会人といっしょにベルリン・パリ・ゼミ旅行をしました。ドイツに散らばっていた学生がみな一端ドルトムントに集まり、ベルリン1週間、パリ1週間の旅行をしました。博物館めぐり、美術館めぐり、ジャズの生演奏を聴きにいったり、オペラ鑑賞、学校訪問などいろいろ体験しました。 

印象的だったのは、陸の孤島ベルリンから東ドイツを抜け、西ドイツのライン川を渡りドイツを抜け出て、フランスに入ったことです。風景がガラリと変わりました。色彩が変わるんですね。やわらかく、太陽がさんさんとして、ほっとする雰囲気になったのを記憶しています。パリは、ヨーロッパ大陸最大の都会です。そして、華やかさもあり、言葉も違います。食事が、これまた、段違いにおいしかった(朝食だけは、パンとカフェオレで物足りなかったのだが)。セーヌ川左岸のユースホステルに泊まりました。ここでは、チェコからやってきた学生と知り合ったり、カナダはケベック州(フランス語圏)からやってきた学生と知り合って、夜を通して語り合ったりした記憶があります。そして、強烈な記憶は、私がちょうどパリに滞在していたこの時にあの毛沢東が死んだことでした。

パリは、たった一週間の体験でしたが、その後、仕事で何度もパリには足を運びました。ドイツと比較すると面白いです。 

実は、今日、マンガにも触れてください、とのことで、フランスのマンガもって来ました。これです。 Asterixというマンガなんですが、これ、ヨーロッパのベストセラーです。私が持っているのはドイツ語版です。ヨーロッパの言語にはほとんど翻訳されています。英語版ももちろんあります。残念ながら、日本語訳はないみたいですね。

なんで、この話をするかというと、このマンガは、ヨーロッパの記憶のおおもと、ローマ帝国時代が背景になってるんですね。ヨーロッパ人は全てとはいいませんが、子供の頃からこれを読むんですね。フランスが中心なんです。シーザーとかローマ軍団は制圧者として描かれてます。ローマ軍に頑強に抵抗するゴール人(ガリア、ケルト人)というのがフランスの基層にあるそうです。フランスという国は、その後、ゲルマン人の一派のフランク人が君臨してゴール人と混じって出来たのが今のフランスということらしいです。

ちなみに、ドイツは同じゲルマン部族のフランク人の末裔なんですが、ローマ帝国に占領されず、ローマ化=文明化が遅れた地域だったんですね。今日でもフランス人から、ラインの向こうは、野蛮人と揶揄されることがあります。

で、Asterixのマンガでは、ドイツやフランスやイギリスやベルギーやギリシャ、コルシカ島やいろいろな国への冒険譚がおもしろおかしく描かれて、最後はかならず主人公が笑うハッピーエンドの物語です。国民性の比較というのが随所に出てきて笑わせられます。ドイツ人は田舎者として笑われています。

読んでいて面白いのは、あと、ラテン語の成句が出てくることです。皆さんは「賽は投げられた」というのをご存知だと思います。日本で言えば、古典漢文の名言でしょうか?「水魚の交わり」とか「三顧の礼」とか、三国志とか中国の古典にはいろいろ名言ありますね。それと、同じです。 ですから、マンガの中の国名も、ラテン語表記です。 

みなさん、ここで、ちょっとクイズです。このマンガで出てくる国名つまりラテン語を言いますので、現在のヨーロッパのどの国か当ててください。当たっても、賞品はありませんが・・・

まず、ブリタニア。 さあ、どこでしょう? これは類推できまそうですね。(答えは「イギリス」)

それでは、カレドニア、これは? (答えは「スコットランド」

ヘルベチア は? これは難しいですね。 答えは、これはスイスですね。スイス発行の切手なんか注意して見るとHelvetiaって書いてあります。

じゃあ、最後に、ルーテチアは? これは国ではなく、ヨーロッパのどこかの都市なんですが、これがヒントです。 どなたか? (パリのことです)

ついでに、ロンドヌムは?はい、これは、ロンドンのことですね?ローマ軍団はドーバー海峡をわたって、ロンドンはおろか、スコットランド(カレドニア)のほうまで行きました。ロンドンのシティーには、当時のローマ軍の砦の後がまだ残ってます。

(続く)

| | コメント (0)

私のヨーロッパ体験記 ~ その3

職場での体験はそれなりに勉強にもなり楽しいものでしたが、やはり、何といっても、いっしょに遊んだ学生たちとの交流です。工場は、16時には仕事が終わります。日が沈む22時までの6時間は外は明るいんです。たっぷりと時間がありました。若くて、元気でしたら、遊び歩きました。付き合ったのは、工科大学に全ヨーロッパから集まる私と同じような学生たちです。定期的な集まりがあり、仲良くなる機会がありました。

国籍をあげて見ます。ドイツ人、ポーランド人以外に、韓国人(よく喋る青年でした。韓国の人というのは、積極的でどこに行ってもアクティブです)、スイス人、オランダ人、イタリア人、アメリカ人、ユーゴスラビア人、フィンランド人、スウェーデン人、エジプト人、フランス人、ノルウェー人、カナダ人、パキスタン人、オーストリア人、イタリア人と仲良くなりました。何ヶ国ですかね。16カ国、自分も入れて17カ国ですか。すごいですね。皆が皆、職業訓練体験と語学の勉強でハノーバーに集まってきて、こうやってドイツ語を介して、楽しむんですね。 少し、紹介しましょう。

特に仲良しになったのは、例のポーランド人なんですが、その友達の女性3人が全員バルバラと言いまして、ポーランド人の女性にはバルバラが多いんですね。3人もなかなかチャーミングな美人でして、気後れしました。が、一緒に映画にいったりしました。ポーランド人というのは何かと親日的なんですね。それで、周りが、ポーランドは美人の産地なんだ、と教えてくれました。ドイツ人はみな体が大きいんですが、ポーランド人は皆小振りなんですね。見た映画はよく覚えてます。フェデリコ・フェリーニ監督の「アマルコルド」やブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」を見ました。 

それから、ギリシャ人ですけれど、これがまた男ばっかりで、5人くらい友人がいたんですが、3人が「ヤーニ」と言うんです。英語のジョン、ドイツ語のヨハンです。アテネの町を歩いていて、石を投げて、誰かに当たる。痛い、といわれたら、ごめんね、ヤーニ、と言えばいい、というジョークがあるそうです。ハノーバーの市内の湖によく皆で水泳に出かけたものです。それで、ギリシャ人なんですが、ギリシャ彫刻とは趣が違って、どうも、印象が、トルコ人と似ているんですね。後で知ったことですが、現在のギリシャ人というのは、ローマ帝国時代を経て、その後の長い歴史、特に、オスマントルコの長い支配を受けたりして、血の混合があって、今日の姿になったということだそうです。

スイス人は、ニコルと言いまして、知ってる方もいると思いますが、スイスはドイツ語圏とフランス語圏とレトロマン語圏の3ヶ国語が共通語です。彼は、フランス語圏出身で、ドイツ語にはものすごいフランス訛りがあり、とてもチャーミングに聞こえて、女性に人気がありました。

ユーゴスラビア人は、髯を生やして、キューバのカストロにそっくりで、カストロとあだ名されていました。今回、この話をするに当たって昔の写真と手紙を見てたら、かれは、スロベニアのリュブヤーナ出身だったことに気づきました。ユーゴスラビアはなくなってしまいましたね。当時はまだチトーさんが生きていて、独自の社会主義路線でソ連と距離をとり、西側諸国とも交流があったんですね。彼には、「インターナショナル」という歌を教えてもらいました。今でも、私はドイツ語で、歌詞を覚えていて歌うことが出来ます。

フランス人は女性のモニカ。写真に写ってますね。ピンクのパンタロンはいてます。9月に帰国した直後、当時のソ連の空軍パイロットがミグ戦闘機で日本に亡命した事件があり、フランスの彼女から問い合わせの手紙をもらい、返事を出した記憶があります。

これは、ベルリンのゼミ旅行ですね。写真には、ポーランドのバルバラの一人も写ってますね。ちょっと太めですね。それと、アメリカ人のキャサリンです。彼女は、ベルリン旅行参加者の中では一番の美人で、男性学生は皆で彼女の気を引こうとやっきになってました。誰も失敗しました。平等に付き合ってくれまして、私も2時間ほど、ベルリンの目抜きとうりを腕を組んで散歩しました。ブランデンブルク門の前の壁です。もうありませんが。 階段で撮っている写真には、他に、オランダ人、彼の名前は忘れてしまいました。宿舎で、アメリカ西部劇ドラマ「ボナンザ」をビールを飲みながら見て、話し込んだ記憶が残ってます。それと、エジプト人のモニー。 彼女は、エジプトの裕福な家の出で、カイロのドイツ学園を卒業してましたから、ドイツ語は一番よく出来ました。 利発な人で印象に残ってます。

それと、フィンランド人のガールフレンドが出来まして、いい思い出を作りました。写真はここにはありません。秘密です。ヘルシンキから電車で1時間くらいのヒュビンカというところの出身で、北欧人らしく、真っ白な肌、金髪に青い目でした。 が、北欧でもフィンランドは北欧人とは違ってました。フィンランド語はヨーロッパの言語とは隔絶してまして、話によるとウラルアルタイ語の仲間で日本語とは遠い親戚にあたるという話でした。少数民族のラップ人は狩猟民族で蒙古斑が出るそうです。ハンガリーなんかもそうです。それで、お互いに親近感を持ったのかもしれませんね。彼女は、黒澤明の映画や、生け花とか日本文化も知っていたのも親しくなった原因だったかも知れません。 

 

それから、ルームメートですが、最初はオーストリア人でしたが、その後、なんと、パキスタン人でした。彼は、パキスタンからやってきた労働者で、経験なイスラム教徒でした。パキスタン特性のカレーをご馳走になったり、コーランを詠唱しながらメッカに向かって祈る姿も一度見せてもらいました。

写真でツーショットで写っているのは、ステファニーというドイツ人の女子学生で、数学専攻の子でした。背景は、何と、フランスはパリの郊外のベルサイユ宮殿のお庭です!

(続く)

| | コメント (0)

私のヨーロッパ体験記 ~ その2

さて、ハノーバーの2ヶ月ですが、私にとっては、とても楽しい経験でした。1976年は、記録的に暑い夏(最近、異常気象でヨーロッパは35度とかになって亡くなる方が出るくらいですが)でした。ドイツの緯度はずーっと日本の北で、夏は、朝は4時前に日が昇り、夜は22時近くまで太陽が輝いています。空気が乾燥していて、日本のような湿気はなく、熱帯夜というのはありません。すごく、心地よい季節なのです。

当時のヨーロッパでは、たまに、経済記事で日本の経済の成長振りを伝える程度で、いわゆる文化も含めて日本というのはまだよく知られていなくて、新聞を読んでも記事にでることは滅多にありません。唯一、記憶があるのは、当時の首相田中角栄氏がロッキード疑惑で逮捕されたことでした。 

若かったですから、すべてが新鮮で日本のことなど忘れて、集まった若者たちと定期的に大学に集まって、ブレヒトの「三文オペラ」を見に行ったり、「ハーメルンの笛吹き」で有名なハーメルンの町に出かけたり、34日のベルリンゼミに旅行に出かけたり、真夏で暑かったですから湖には友達とよく泳ぎに行きました。

そこで知り合ったドイツ人学生が写真のペーターさんです。当時30歳。すでに離婚経験者で、大学に戻って教育学を勉強しているということでした。左隣にいるのがリシャで、ポーランドはポズナン出身で、一番気があって、ペーターさんがアルバイトしていた「裸足」というパブ、ドイツでは「クナイペ」といいますが、よく落ち合って駄弁ってました。

リシャは、日本のゼロ戦はすばらしい、日本のことをいろいろ褒めてくれまして、私は、とても気持ちよかったのを記憶してます。そして、二人でドイツ人の悪口などをいったりして、笑ったものです。 というのも、ドイツ人というのはやはり大国意識、先進国意識が強くて、周りの国の人たちを下に見るんですね。 表立って不愉快な思いをする、ということはなかったんですが、そういう態度をすることがあります。日本人としては、まだ、当時は戦争の記憶があって、同盟国というのもあったのか、私は不愉快な思いをしたことは実はありませんでしたが。 

ある日、ハノーバーの市電の停留所で電車をまっていると、白髪の初老の男に「日本人か?」と話しかけられ、「広島の原爆の話」になり、いろいろとたいへんだったなぁ、という親切にしてもらった記憶もあります。何年かあと、大学を卒業してしばらくして、オランダはアムステルダムで研修で1年いたんですが、そのとき、あるパブでビールを飲んでいたら、となりに、やはり初老の男が座ってきて「日本人か?」と聞かれて、「俺は、戦争捕虜で福岡にいたことがある」と言われたこともありました。一瞬、何をいったらいいのか困りましたが、相手は、とても友好的で、ビールで乾杯、お互いに一杯ずつおごりあって別れました。海外にいるとこういう出会いと別れもあるんですね。まあ、余談です。

それで、2ヶ月間、工場で働いたんですが、螺旋なんかを加工する工場で、写真に写っているのはオーナー社長のミュラー夫妻です。大変お世話になりました。ドイツは働く時間が早いですね。毎朝6時に起きて、市電でLangenhagen(空港のそば)まで出かけて7時から仕事が始まりました。私は、仕事の補助をいろいろやりました。 9時ごろになると、休憩がはいるんですね。30分くらい。みんな、黒パンとブレーチェンという小型のフランスパンみたいなものにハムとかチーズなんかを挟んだサンドイッチを食べながら休憩したり、トランプ遊びに興じたりしてました。 

休憩が終わると12時まで仕事。そしてまた1時間休憩。私は、お弁当をとってもらいました。 ドイツにもあるんですね。毎回、ドイツ料理を食べてました。マッシュポテトに豚肉とか鶏肉とか牛肉と野菜が付け合せのシンプルなものです。時々、ソーセージとザワークラウト(酢漬けキャベツ)なんかもありました。量も多いし、美味しかった。ドイツ料理というのは実はなかなか美味しいです。フランス料理のような洗練はないんですが、家庭料理です。お袋の味です。おししい。当時は若かったですから、豚肉とジャガイモでも問題ない、と大いに思ったものです。ただし、問題は飲み物。水道の水は飲めないんですね。硬水というやつですね。それで、炭酸入りの水を飲んでました。最初は、なんだ、これ、という感じでしたが、毎日肉食していると、妙に、旨いなぁとおもう瞬間があって、それで病み付きになりました。普通の日本人のお腹というか食生活だと、絶対駄目ですね。炭酸のない、プレーンな奴ですね。 

食事はともかく、工場で印象に残っているのは、いわゆるGastarbeiter(お客さん労働者)がいて、親切にしてもらったことですね。トルコ人、スペイン人、ポルトガル人、イタリア人、イラン人、パキスタン人、韓国人(女性で、病院の看護婦が多い)、ギリシャ人、ユーゴスラビア人たちが多かったようです。 だいたい、単身赴任でやってきて、母国の家族に送金してました。 私の工場の場合は、ユーゴスラビア人でした。

 

彼らは、訛りの強いドイツ語を喋ってまして、よく聞き取れなくて困りました。 一緒に物を運んで、「さあそれをおろして」、と言われても、最初は分からなくて、ぽかーんとしたりしてましたが、怒鳴られることもなく、ラッキーでした。

(続く)

| | コメント (0)

私のヨーロッパ体験記 ~ その1

10月終わりに大学の学園祭があって、学生の企画で自分の異文化体験を話す機会があった。 以前のブログで、「二十歳のころドイツ」で、というのをアップしたけれど、それを思い出して原稿を作り、30分ほどの発表をした。 結果は? よく分からない。 今の若者にとって、異文化とは言え、ヨーロッパというのは、遠い存在でしかないのかも知れない。

大学の語学履修にしても、英語の次が、中国語であり、その次が韓国語が多い時代である。 フランス語、ドイツ語は凋落してしまった。 かつての教養語という地位はもう失われてしまったのか? 私にとって、ドイツ語とは、ヨーロッパの教養人が言うギリシャ語であり、英語とは、ラテン語である。 単なる語学屋で勉強したのではない。 Z会の通信添削も夢中でやったけれど、真剣に英文和訳をやって、日本語を鍛えたものだ。 ドイツ語だと、やはり難解な哲学書に挑戦したりして、脳みその訓練をしたものだ。 以下、その講演まがいを6回に分けて、恥を忍んで紹介してみよう。 (写真掲載は、ご勘弁ください)。

ただ今、xxx先生がお話になりましたアメリカのお話に続きまして、お話させていただきます、国際センターのxxxと申します。 私の今日のお話は、アメリカの対比としてのヨーロッパ、それも、自分のドイツ体験、学生時代の3ヶ月のドイツでの語学の勉強や、留学生との交流体験や、その後の民間企業でのビジネス経験などを経まして、ずーっとヨーロッパと関わって来たことなどを、19枚の写真スライドショーで辿りながら、簡単にお話させていただきたいと思います。 大した話は出来ませんが、私のドイツ体験とその後のオランダ、イギリス体験を踏まえて、多国籍の学生との交流、工場での体験、食生活などのトピックに焦点をあてながらの、私というフィルターを通してのヨーロッパの紹介、それも、ドイツ風の、という留保がついた個人的なもの、という位置づけでお話したいと思います 企画しました、学生の皆さんから、マンガのことなんかも触れてほしいとのことなので、それについても触れます。

今ご覧になっている写真は、19766月後半のコペンハーゲンです。二十歳のことでして、当時、すでに日本は先進国の仲間入りに入っておりましたが、そう簡単に海外に行ける時代ではなかったように記憶しています。 バックパッカーが、定期航路で横浜~ナホトカ、その後、ウラジオストック経由、シベリア鉄道で、モスクワ経由北欧に入ってアルバイトして・・・というヒッピースタイルの旅行はありました。

当時、1ドルはまだ350円、アメリカに行ったとしても、物価は今の3倍近いんです。

今はユーロとなってしまったドイツマルクですが、当時1マルク=140円くらいだったと記憶します。 円が最強だった頃は、60円を切ったこともありますから、まだまだ、ヨーロッパは日本から言えば、見上げる国でした。

本日いらっしゃる皆さんの中で、ヨーロッパに旅行とか留学とか何らかで行かれたことのある方はどれくらいいらっしゃいますか?日本という位置から考えるとヨーロッパはやはり遠いですね。私が始めてヨーロッパに出かけたのは1976年ですから、今から30年前です。 日本人にとってはまず、アメリカがあり、そして中国を始めとするアジアの国々というのがより身近な外国という意識だと思います。

全国から集まった約15人ぐらいのドイツ語を勉強する学生が、羽田空港からモスクワの経由(10時間)、給油トランジット後、さらに6時間で、最初に到着したのが、夕方の霧の中から現れた絵のように美しいコペンハーゲンでした。レンガが美しいんですね。私の最初の海外です。 1泊して、それからとことこ電車に乗って、ユトランド半島を下ってドイツに入りました。夜行列車です。途中、私たちは、フィリピン人に間違えられたり(ヨーロッパ人にはアジア人は区別がつかないんです)、荷物の置き引きにあって慌てふためいているドイツ人女子学生に遭遇したり、断片的なことを覚えています。ラジオをつければ、ドイツ語とかデンマーク語の放送が流れていて、心が時めきました。ああ、外国に来たんだなぁと。

ホテルで始めて朝食を食べてまず驚いたのは、パンが食パンじゃないこと。いろんな種類のパンが山ほどあるんですね。それから、ハム、チーズがすごく美味しいこと。朝食だというのに、沢山の果物、ジュース類があって、当時の貧乏学生からすれば、豪華な夕食に思えたほどでした。ヨーロッパは豊かだな!というのが第一印象でした。

オランダと当時の西ドイツの国境、北ドイツ西にオスナブリュックという町がありまして、そのちかくの村の研修施設で2週間の集中語学ゼミに参加しましした。次の2枚の写真は、そのとき親しくなった現地の若者です。大学生とか日本に興味のある若者たちと一緒に研修施設に泊まりこみで、ドイツ流の生活を体験しながら、勉強しました。マンフレッド君と言って、高校を卒業して、実務学校(職業訓練を受けながら、学校でも勉強する)コースの生徒でしたが、気があって、仲良くなりました。聞く・話すというコミュニケーション能力がまだ十分でないので、子供と仲良くなってよく遊びました。ちょうど釣り合うレベルなんですね。肩車にしたり、卓球したり、近くの川で泳いだり、サッカーをしたり、記憶が蘇ってきます。

生活とか基本的な言葉にも2週間で慣れたところで、参加者は皆ばらばらになり、みなドイツ中に散らばって2ヶ月間、オペア(ホームステイだが、家事の手伝いをしたり、子供のベビーシッターをしたりして、実質無料でドイツ人家庭に滞在する)、私のように、ハノーバーの工科大学に登録して、工場で労働体験(語学学習が目的)をしたりということで別行動になりました。 単独行動です。2ヶ月間、まったく日本人と離れて一人での生活です。 全て自己責任、心細さもありましたが、何といっても、「あの時君は若かった」、意外と平気で、駅で切符を買って、早朝に、電車にのり、いまやはっきり覚えてませんが、乗り換えも無事済ませて、昼過ぎには、ハノーバーに一人到着しました。出迎えがあると聞いていましたが、誰も迎えに来てませんでした。 日本では考えられないことです。すこしうろたえました。 

まずは、お腹がすいたので、駅の近くのウィーナーバルトというチェーンレストランに入って、ウィーナシュニッツェルというのを注文してお腹一杯にして、それから、徒歩で、宿泊施設まで行きました。ドイツでは徒弟制度というのが確固としてあって、そういう修行者たちが宿泊する施設が各地にあるんですね。Kolpinghausって言うんですけれど。で、住所を頼りに到着したんですが、どうやって中に入っていいのかわからない。扉が開かないですね。押しても、ひいても、叩いても。 今でもよく覚えています。途方に呉れてしばらしていると、中からたまたま人が出てきて、入り方を教えてくれました。建物の入り口の右手にボタンがあるんですね。それを押すと誰ですかって、フロントの人が出て、名乗ると、自動ドアになっていて空けてくれるんですね。 びっくりしました。 こういう次第でやっと中に入って、チェックインを済ませて、部屋に入ることができましたが、緊張した、ながい長い1日で、今でも鮮明に覚えています。 

ところで、昼食で食べたウィーナーシュニツエルというのは、もともとはイタリアはミラノの名物料理(コットレッタ・ミラネーゼ、ミラノ風カツレツというもの)を、ハプスブルク帝国領時代(イタリア北部はオーストリアの領土になっていた。北イタリアには今でもドイツ語を話す人がいるんです)にオーストリア人が旨いと思ってウィーンに持ち帰って広めた料理なんですが、私にとっては、ハノーバーのチェーンレストランで食べた初めての料理だったんですね。 とりたてて、大騒ぎするほどの料理じゃないんですが、空腹にまずいものなし、美味しい食事の記憶として、今でも鮮明に覚えてます。

(続く)

| | コメント (0)

私の「世界カタコト辞典」から ~ その1

私の「世界カタコト辞典」より

Ich habe Schnupfen (ドイツ語で、「私は鼻かぜをひいている」の意味)

Handle so, dass die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten koenne

(ご存知、哲学者カントの実践理性批判より、有名な「定言命法」で、「あなたの意志の格律(die Maxime deines Willens)がつねに同時に普遍的立法として妥当するように行為せよ」という意味 - ウィキペディアフリー百科事典より)

二十歳のころドイツでいろいろな人と出会って自分の世界が広がったことは、8月のブログで書いた。 その翌年の大学4年生の時、ドイツから、学生、一般のサラリーマンが、そのお返しということで、日独友好交流の為に、来日した。 そして、一人のドイツ人青年が私の実家の水戸に2週間ホームステイし、大学の友人たちと日光に出かけたり、京都・奈良に出かけたりしたのだった。

名前は、ミヒャエル君である。ドルトムント市出身。ドイツ文学と体育を専攻。金髪碧眼で美男ではないが、おお、これは確かに映画でも良く見る西欧の外人だというタイプであった。

高校1年の弟もカタコトの英語で、ちょうど、王貞治が現役でホームラン世界新記録を達成したころで、一生懸命そのことを説明していた。

母は、いろいろ食事に気を使ったりしていたが、心配することはなく、ミヒャエル君は、朝の魚の干物もぺろりと平らげ、旺盛な食欲と充分過ぎる位の日本文化への適応振りを示し、我が家あげての歓待を受けたのである。

父などは、ヒトラーは偉大な政治家であった、などと見当はずれなドイツ礼賛をする始末であった。

ある真夏日の1日、那珂湊に住む叔父夫婦に一日招待され、2人で自転車でサイクリングを楽しみながら遊びに行った。

学校の教師をしている叔父夫婦の温かい昼食の歓待を受け、小生のよれよれの通訳でも話は大変盛りあがり、一段落してから、叔父に連れられて、付近を散歩した。平磯海岸で始めてミヒャエル君は太平洋を見て感激していた。その後、地元のお寺の住職さんを訪ねた。叔父の紹介によると、当の住職氏は、戦前の京都帝大の西田幾多郎門下生で哲学科で勉強しらしい。

住職さんは、ドイツからの青年を見て、昔学んだというドイツ語の本をどこからか持ってこられた。 かび臭く、ほこりを被っている。 昔学んだドイツ語の哲学書である。 埃に咽ながら、いきなり、甲高い声で、Ich habe Schupfen (ドイツ語で「私は鼻かぜをひいている」という意味)と言い、それから上記の文章を空んじられたのである。

ん!? 我々は、鼻風邪をひいているというのはわかったが、その後はさっぱりわからない。 カントの有名な文句らしい。 そういえば、大学のオーストリア人の先生の授業のテキストの中にあったあったような気がする。

我々は、いたく感銘を受け、何度もIch habe Schupfenを連発する住職氏に親しみを感じたものである。 そして、この言葉を、2人で何かあると、「Ich habe Schupfen」と呟き、大笑いした。 ただただ、周りの人間達は、怪訝そうに何故笑うのという顔をするのだったが。

| | コメント (0)

オランダでジョーク3連発

昨日は、オランダはマーストリヒトでベルギーのビールを飲んで覚えたジョーク書いた。

今日は、アムステルダムで、例のAlma嬢とパブで交換し合ったジョークを紹介したい。航空機会社名にまつわる言葉の遊びである。

ベルギー人というと、オランダ人もフランス人も、どことなく、間抜けというイメージがあって物笑いの種になる。 かつてのベルギーを代表する航空会社サベナ。 綴りは、Sabena。What does it stand for ?  ここでジョークが始まる。 ニヤニヤしながら、Such a bloddy experience never again でしょ、と私。 Alma嬢曰く: Sex and beer every night again ってのはどうかな! 大笑いである。

スカンジナビア人というのは、大酒のみでフリーセックスというのが通り相場、 ここでジョークの予感がある。 スカンジナビア航空と言えば、SASである。 What does it stand for ?  ニヤニヤしながら、Sex after sex でしょ、と私。 Alma嬢曰く: Satisfaction after sex ってのはどうかな! またまた大笑いである。

Alma嬢はオランダ人である。 KLMはオランダ人が誇りとする航空会社である。Flying Dutch Man。 ドイツ人のワーグナーも「さまよえるオランダ人」という楽劇を残した。 KLM、what does it stand for ? Alma嬢曰く: Kiss me, Love me, Marry me ! かわいいでしょ! にやりと笑って、小生は切り返す: Keine Lust Mehr (ドイツ語で、「乗る気がしないよ!」という馬鹿にした表現)。

と、Alma嬢のボーイフレンドが、彼女の名誉を守るためか、じゃあ、ドイツの。Lufthansa, what does it stand for ?  難しい! 考え込む小生に、ニヤリと笑って彼氏曰く: Let us fuck the hostess as no steward available !  参った、とはこのことか!

今日は、徹底して、オランダ・ベルギー人のジョークで行こう。 オランダ語(ベルギーではフラマン語=オランダ語の方言みたいなもの)では、gの発音が大変特殊で、喉の奥から吐き出すような音で、日本語のカタカナ表記にすると「ハ」の破裂音みたいな感じである。

例えば、アメリカの有名なもと外交官(国務長官)Kissinger氏。 英語ではキッシンジャーと発音するが、オランダ語では、キッシンハーとなる。 つまり、Kissing her (彼女にキスしている)とアメリカ人やイギリス人には聞こえるのだ。 さてさて、ジョークは以下の如し:

ブラッセルのシェラトンホテルに、ある日Kissinger氏がお忍び(incognito)で滞在したが、チェックインした翌日、行方が分からなくなってしまった。 ホテルは大騒ぎだが、incognitoなので雇われた敏腕の私服刑事がこっそりとKissiger氏を探すことになった。 

刑事は、各階の部屋ごとにノックをして、マスターキーでドアを開けて、「Are you Mr. Kissinger ?」と確認をして行った。 なかなか、見つからない。 と、ある階のある部屋に来て、ノックして、部屋に入ると、暗い部屋の中のベッドで、女性を下に、上になっている男性がいた。 刑事は聞く: 「Are you Mr. Kissinger ?」。 ベッドの男応えて曰く:「No, I'm Mr. fucking her !」

まだまだ、コレクションは沢山あるのですが、今日は、このくらいにします。

| | コメント (1)

マーストリヒトで黒ビール、そして美味しいジョークを!

世界カタコト辞典 その2である。 

「Tatoo」 (刺青(をする)の意味」

オランダの南、ベルギーとの国境にMaastrichtという美しい町がある。近くを流れるMaas川 が国境でもありそれを超えるとベルギー。 対岸にはベルギーのLiegeという美しい響きの町がある。 

このあたり一帯はカトリックの牙城である。 カトリックと言えば、修道院である。 いろいろな宗派があるが日本人に馴染みがあるのはザビエル一派のジェズイット派であろう。 

話の展開が見えないと思われる読者もおられると思うが、何を隠そう、神聖な世界に自己を滅却して禁欲的な生活をおくるはずの神に仕える人たちが、大変美味しいビールを作り出したとしたら皆さんはどう思われるだろうか? 元来、お酒と音楽は神を司る神官の専売特許であったらしい。

小生は、このMaastlichtで100種類にも及ぶベルギーのビールの世界を知ることになった。 アルコール純度が12%もある強い黒ビールがあるかと思うと、さくらんぼから作ったフルーティーな果実ビールまでとにかくビールと言えばドイツと思っていた小生はとにかくびっくり仰天。 世界は広い。 最近でこそ、ベルギーのビールは日本でも本格的に知られて愛好家も増えているというが、これは1984年のころの話である。

ところで、ビールとtatooがどういう関係になるかと怪訝に思われる方も多いと思う。アルコールが入れば、人は饒舌になる。 饒舌になると、ヨーロッパではジョークが飛び交う、これまたごく自然なことである。 日本の言葉遊びに近いジョークから、国民性の比較を笑いの種にしたものから下ネタものまで森羅万象、笑いとアルコールで人々は鋭気を養うのである。 

さてここでtatooが登場する。 黒ビールを飲みながら地元のオランダ人が語ってくれた傑作:

江戸時代は鎖国の日本。 外国貿易はオランダが独占。多くの船乗りが日本にやってきた。 行動範囲は限られていたものの、血気さかんな船乗り達にとって、日本の大和撫子とねんごろになったり、ものめずらしい日本風俗に興味は尽きなかった。

そうこうする内に、日本人が背中に龍を象った彫り物、刺青は瞠目にあたいするものだった。 まじめなJan青年(「ヤン」と発音する。典型的なオランダ人の名前)は、この刺青に魅了され、 からだの一部に刺青をほどこして、悠々の帰国をはたしたのであった。

ところが長旅の疲れか、まもなく体調を崩し、入院するはめに。 高熱が続き一時は生命も危ぶまれたものの、看護婦たちの介護もあって徐々に回復する。

そんなある日、当番の老!看護婦Anneke(「アネケ」と発音する。典型的なオランダ人女性の名前その1)は、Jan青年の体を消毒しなが濡れタオルできれにふいていると、へその下のある所に奇妙なもを発見して眼を丸くする。 

早速、同僚の若!看護婦のTinneke(「ティネケ」と発音する。典型的なオランダ人女性の名前その2)に耳打ちする: 「彼ったら、…・・に見たこともないような美しい文字を刻んでいるのよ。それもよりによって。 ADAM(アダムとイブのアダム)ってね。びっくりしたワ。冒涜的よネ! でも素敵だワ! 」

若!看護婦のTinnekeは好奇心にあふれてその翌日の当番にJanの体を消毒しながら、興味深々とその部分に目をやると! 何と、そこには: AMSTERDAM (オランダの首都の名前)という文字が刻まれていた。

男は普通に笑えます。 女性の方は???

| | コメント (0)