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2008年7月30日 (水)

蝉の幼虫、胡瓜、イラン、モンゴル帝国 (2)

話を戻すと、イラン人というのはアラブ人と全然違うのだと、そのとき初めて知った。誇り高きペルシャ人の末裔達。セム族でない。アーリア人なのだ。私が出会ったイラン人たちは、ちょっと見た感じでは、少し田舎風にしたイタリア人かスペイン人という感じだった。盛唐の詩人李白の詩に出てくる「胡姫」とは、ペルシャ系の踊り子だったという。さぞかしエクゾチックで美しかったに違いない。私が出会ったイランのご婦人方も皆顔の掘りが深く、雑誌から抜け出してきた女優かモデルみたいな女性もいたりした。

現在の国際政治では、イランはヨーロッパやアメリカにとっては頭痛の種、大問題である。何故に彼らはあのような大騒ぎするのだろうか?日本人としてはいまひとつ理解できない。北朝鮮の核問題なぞ、もう過去のものという感じで、拉致被害者を初め日本人はやきもきしているのだが、一方のイランとなると、サミットの時はミサイル実験をして挑発したり、何かと西側マスコミからはものすごいバッシングを受けている。

国際政治の裏側を知る人ならば、北朝鮮とイランでは地政学的な意味が全然違う観点からいろいろ語れるであろう。イスラエルというユダヤ人国家、つまり、アメリカ資本主義が中東イスラム圏の心臓に打ち込んだ楔に対するイスラム圏の反発と言うか憎悪は我々部外者には想像を絶するものがあるだろう。

もちろん、ドバイなどのバブリーな繁栄を見ていると、これがアラブなのかといぶかってしまうほどイスラム世界は多様でもある。欧米に支配されたマスコミに洗脳されている我々の脳では、中近東=イスラム世界の本当の姿を知ることはなかなか難しい。

善=欧米諸国、悪=イランという図式は疑ってみなければならない。日頃、何かとアメリカにいいようにされている日本のだらしなさを思うにつけ、わが道を行きながら、アメリカやヨーロッパを挑発し続けるイランを私は密かに応援している。許されないことだろうか?

しかも、私が個人的に知るイラン人は、マスコミで報道されるイスラムという宗教に染まった人々ではなく、もっと世俗化した普通の人間だった。「イラン人ってイスラム教徒でしょ、アルコール飲んでいいの?」と真顔で聞いた私に、件のイラン人は、「海外に出たらビールは飲み放題さ」、と大笑いしながら缶ビールを2本、3本と開けたものだ。 名前をシェミラー二さんと言ったと思う。もう一人の名前は思い出せない。今頃どうしているだろうか?

世界で始めた書かれた世界史の本、これは何と、イランの宮廷で書かれたという。時代は、モンゴル世界帝国が君臨した13世紀後半のことらしい。

当時のイランは、イル・ハーンといった。ワールドカップ2002のとき、1次予選を勝ち抜いた日本が戦ったトルコのチームにイル・ハーンという選手がいましたね。

ラシード・アディーンという、これまたなんとユダヤ人らしいのでだが、浩瀚な筆致で当時のモンゴル帝国の歴史を記述した歴史本、世界で始めての本だそうだ。ドーソンという著名なモンゴル史の本を書いた歴史家はもっぱらこのペルシャ語の文献をもとにモンゴル史を書き上げたそうだ。

実際に、モンゴルについて記述した資料は20ヶ国語近くもユーラシア大陸の彼方此方に残っているのだと言うが、それだけの言語に精通して統一した立場から歴史記述をする試みはまだなされていないそうだ。

続く

2008年7月 2日 (水)

世界カタコト辞典から

Goy  “ゴイ”と発音する。 語源はヘブライ語? 「(ユダヤ人からみて)異邦人、外人」の意味

昨夜は、先週土曜日に釣り上げた手のひらサイズのカレイ2枚を唐揚げにして弔った。うまかったゼ。

カラッと揚がって香ばしかった。食べながら、ロンドンで食べたフィッシュ・アンド・チップスを思い出してしまった。

ロンドンのフィッシュ・アンド・チップスのフィッシュの方の特徴は、タラにしろヒラメにしろカレイにしろ、衣が分厚く油を沢山すっているので、カロリーに注意すること。現地の人の食べ方を見ていると、衣をわざわざ取って中の美味しい白身の部分を塩とモルトビネガーを振りかけて頬張る人が多い。ロンドンで生活していた時は、大部お世話になったイギリスのジャンクフードだ。

今朝は4時前に目が醒めた。このところ、この時間になると、決まってヒヨドリが隣のNさんの家の屋根にとまって、盛んに囀る。美しい囀りではないが、生を謳歌するような、溌剌とした周りを圧倒する音量で目が覚めてしまうのだ。そう、うるさいのだ。やめてくれぇ~、叫びたくなる。どうも、近くに巣があるようなのだ。もうひと眠りと思うのだが、うとうとしながら眠れない。思い切り読書灯をつけて、本に手を伸ばした。

中根千枝氏の「社会人類学~アジア諸社会の考察」(講談社学芸文庫)を手にした。職場でR先生と話していたときに、「族譜」のことが話題になり、中国の宗族について気になり始めた。先生は、第1巻(目次)は持っているそうで、全部で10数巻になるという。普通は、20年くらいごとに、新たな世代が書き加えられるというが、先生の族譜の場合は、大分前だが、90年ぶりに編纂されたという。義和団事件から、辛亥革命、国共合作、日中戦争、日本敗戦後の内戦、共産党による統一、大躍進政策と文化大革命による混乱続きで、長らく滞っていたのが理由で、鄧小平さんの時代になってからのことだという。 中根氏によると中国及び朝鮮半島やインドもアラブなど広範囲にわたってユーラシア大陸は「父系社会」だという。 ところが、日本は、父系社会ではないし、母系社会でもないらしい。朝鮮半島も含めた東アジアと何か隔たりを感じるのは、この社会構造の故かも知れない。

私の友人で中国通のS氏は、「中国には社会がない」、と言い切っていた。「社会」とは「公共性空間」、と言い換えられると思う。 さらに別の言い方をするなら、「日本人が日本人社会という意味で、中国には中国人社会は存在しない」ということになるだろうか。 中国人にとっての社会=公共性空間とは、「宗族」のことではないだろうか? 「宗族」を超えた世界は、異界、異邦人の世界のようなのだ。「宗族」の外に対しては、平気でウソをついても良いし、商売をしても値段が「宗族」(=血縁共同体)とそれ以外では違うのだそうだ。 中国には、このほかに、「幇」(ほう)という「宗族」(=血縁共同体)とはまた別の、「義理人情で結ばれた人間関係の世界(=三国志でいうあの桃園の義盟=擬似的血縁関係)」、はっきり言えば、「秘密結社の世界」、これは、例えば、辛亥革命を担った孫文を指させた客家の秘密結社「洪門」(天地会)がそうらしく、中国共産党も言ってみれば「秘密結社」だったと言う、もあって、宗族(=血縁共同体)とは違うもう一つの公共空間を作っているのだという。

中国人の社会とは、結局、この二つの世界のことであって、その世界以外は、異界、異邦人の住む蛮地ということになる。極端に言えば煮て食おうが焼いて食おうが、そんなの関係ねぇ、ということになるらしい。中国という世界はこの二つの世界を包む全体集合のことであり、無数にある集合同士の力学が最終的に中国という国の政治現象を作り出しているのだ。だんだん、話が難しくなって来た・・・。

なかなか、本題のGoyに辿り着けない・・・。

ひとしきり、物思いに耽って、8時過ぎ朝食を取った。それから2階に上がってベッドルームに足を入れた途端、本棚にある1冊「ドイツの中のユダヤ」(ピーター・ゲイ著)の背表紙が目に入った。そして、次の瞬間、「Goyという言葉が鮮やかに脳裏に蘇って来た。何故、今、ここで?不思議なものだ。 連想に引きずられて、身支度しながら、話はまたロンドン時代に戻るのだった。

私は、ロンドンの北Finchly Northに半年ほど住んだのだが、事情があって市内に引っ越すことになった。一週間、不動産屋に通いいくつかの物件を見学した。担当する営業マンが車で私を連れて行ってくれたのだった。確か、Golders Greenにある物件を見にいったときのこと、車にもう1人の営業マンも同乗、彼等の世間話を聞く羽目になった。イギリス人同士のしかも下町風の訛がある英語は、なかなか難解である。しかし、彼等が何を話題にしているのかはおおよそ理解できた。彼等はユダヤ人なのだ。それと車のナンバープレートがどうのこうの、と盛んに議論していた。しかし、標題の言葉は実は彼等の口には上らなかったと思う(か、発音が聞き取れなかったのか)。 ただ、話は直感で?理解したのか、私は車を降りて、こっそりナンバープレートを確認したのだった。ナンバープレートには、数字に混じってGOYというアルファベット文字が並んでいたのだ。 どこかで、頭の中をくぐり抜けた単語だった。 ピーンと来た。ユダヤ人にとっての「外人」(=非ユダヤ教徒)、という意味だった。普通、ユダヤ人は、「異邦人」として否が応でも自己認識に迫られるのだが、敬虔なユダヤ教徒としての自己意識からすると、周りこそ「異邦人」達なのだった。従って、語感には、「軽蔑的」な意味があるという。

彼等がひそひそ声を落としてしきりに苦笑いしながら語っていたのが分かるような気がした。自分こそ異邦人なのによりによって、車番にGOYがつくなんて!ということだったと思う。

続く

2008年4月17日 (木)

世界カタコト辞典(13) Would you turn right, please ?

Would you turn right, please ? (英語で「右折していただけますか」の意味)

外国語は本当に難しい。日本語が流暢な外国人は増えたが、やはり外国人は外国人である。テニヲハがやはりどこかおかしいし、発音も出自の民族のなまりが反映されて、いかに流暢に話そうが、思わずニヤリとしてしまう欠点を見つけるものだ。

日本人が喋る英語もしかりだ。ネイティブが聞いたら、腹を抱えて笑ってしまう英語を日本人は一生懸命喋っているに違いない。

ドイツ人をからかう話を聞いたことがある。ドイツ語にはbekommenという単語があって、英語のto get, to haveの意味がある。自国語とパラレルな語並びで意味も同じように思えるこのbecomeという単語はドイツ人にとっては紛らわしいのだ。英語のbecomeは「何々になる」という意味だが、ドイツ語のbekommenの意味にこの意味はない。そこで笑い話がある。あるドイツ人がロンドンのレストランでビーフステーキを注文した。

ドイツ人いわく: I would like to "become" a beefsteak, please. (「私はビーフステーキに

           なりたいです」) 

注)本人は「ビーフステーキを下さいナ」と言った積りなのだ。

レストランのウェイターいわく: I do not hope so, sir. (そうならないことを望みます)

英語のウェイターもとぼけた返答をするものである。腹のなかではクスクスと笑いを堪えていることだろう。

日本人にとっての問題はlrの区別がまったく付かないことだろう。基本的にrの発音が出来ないし聞き分けられない。 Lice () rice (お米) の発音でドイツ人とは違うからかわれ方をしてしまうのだ。

私のロンドン時代の先輩にOK氏がいらっしゃった。私が直接聞いたのではないが、やはり先輩のIさんから、取って置きの笑い話として、以下の話を聞いたことがある。

バブルが崩壊して、最強の円がだんだん弱くなり、日本のプレゼンスが日増しに落ちていった1990年代半ばのこと。仕事に追われながらも、一杯引っ掛けて愚痴を言いながら、やれやれ、きょうも無事に家に帰ろう、と黒塗りのロンドン名物のタクシーで家路についた時のことらしい。

車はOK氏の自宅に近づいた。 そこでOK氏はドライバーに英語でお願いした。

At the next corner, would you turn right, please ? (次の角で右折してください)

車は、角にさしかかると、右折するどころか、車内の明かりがぱっと点いたものの、車はひたすら真っ直ぐに走り続けたらしい。

OK氏は一言、Thank you ! と呟いたままどこまでも真っ直ぐ走り続ける車に乗っていったという。

運転手は、turn right (右折する)ではなくturn light (明かりをつける)と理解したのだった。笑うに笑えぬ笑い話とはこのことであろう。 よくよく考えるに、turn to the rightと言ったほうが正確な言い方のような気がするのだが、それでもturn to the lightと発音してしまうと、運転手が目を丸くするか、You'd better do it by yourself, sir と皮肉られてしまうだろう。イギリス人は皮肉屋だ。さりげなく、温和のようでグサッとくる言葉をはく。いわゆるunderstatementというやつだ。そして、私なら、意味が即座に掴めず、キョトンとしてニコニコしながら、Yes, Yesと頷いてしまうかもしれない・・・。

2008年4月15日 (火)

世界カタコト辞典(12) Wai Ling

Wai Ling  (イギリス系中国人女性の名前、漢字では「呉恵」と書く)

漢字というのは不思議なものだ。表意文字であるが故に、違った言語を話していたとしても、漢字を使って表記することで違った言語を表現しながら、目で読む作業が入ると、完全ではないにしてもある程度意味が通じてしまうのだ。ある程度、という意味は正確には意味は通じないという意味でもある。

湯というのは中国語ではスープのことを意味するという。男湯、女湯というと日本人は銭湯と分かるが、中国人はびっくりするという。男のスープ、女のスープ。こんなのありかよ、である。 自動販売機で電車の切符を買うとき、大人=おとな、小人=こども、というのが日本での読み方でもあり意味であるが、中国語では大人と小人はこれまた意味が違うのだ。

何となく分かっているのだが、私には、この事実を実に鮮やかにはっとさせられた瞬間があった。ロンドンの事務所で中国系のイギリス人スタッフがいた。テキパキと仕事をこなし、しかも東洋系で何かと協力的で好感を持っていたスタッフだった。名前をWai Ling(ワイ・リン)と言った。そして、私はすっかり彼女には漢字の名前表記があることを忘れていた。

ある日、何かの理由で彼女の机に座って書類を開きチェックする作業をしていた。ふと、彼女のパソコンを見るとそこに漢字表記のステッカーが貼られていた。漢字じゃないかぁ、呉恵。ええ、ゴ・メグミ? 何これは?と思わず私は隣の日本人スタッフに聞いてしまった。

となりの日本人スタッフは目を丸くして噴出さんばかりに、何寝ぼけたこと言ってるんですかぁ、Wai Ling  (ワイ・リン)のことじゃないですかぁ!あっ、そうかぁ、「Wai Lingは「呉恵」のことなのかぁ・・・。ところで、この漢字のこの読み方、これは普通語?それとも上海語、はたまた広東語読み?私は中国系の言語についてはまったく無知なので分かりません。分かる方どなたか教えてください。

ロンドンに住んでいる呉恵さん、別名Wai Lingさん、実名使っちゃってますが、悪意はありません。許してください。お変わりありませんか?

2008年4月13日 (日)

世界カタコト辞典(11) Mina rakastan sinua

Mina rakastan sinua (フィンランド語で「私はあなたを愛しています」の意味。Minaを省略して、Rakastan sinuaと言っても良い。主語を省略できるのがなんとなく日本語に近くてうれしい。「愛してるよ」という一層親しみやすい意味になるのだろうか)

彼女はAnneと言った。フィンランドからやってきた長い金髪を肩まで垂らした本当に青い目の優しい女の子だった。Finlandというけれど、お国の言葉ではSuomiというのだと教えてもらった。私の国も横文字系の人はJapanと呼ぶけれど我が国の言葉ではNipponというのだと教えてあげた。

フィンランド人は北欧人だと日本人は勝手に思っているけれど、他のゲルマン人系のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンからは仲間はずれにされているらしい。お隣のロシアからも長い間いじめられていたから、日露戦争で日本がロシアに勝ったこともあって、トルコと並んで親日的な国らしい。ビールにトーゴービールがあるという。まだ、飲んだことはないのだが。

ハノーバーの工科大学で知り合ったのだが、ある日曜日市内のノミの市で彼女に偶然再会してから何となくお互い親しく話すようになった。冬季札幌オリンピック(もう36年も前の話だ!)のこと、黒澤明の映画と生け花が好きと彼女が言えば、フィンランド語とハンガリー語はウラル・アルタイ語属でモンゴル語や日本語と親戚なんだ、シベリウスのフィンランディアはとても好きだ、などと、私は応じ、彼女の耳に心地よい御託をならべたのだった。

1976年の夏のヨーロッパは記録的な猛暑だった。8月のある日曜日、Altstadtfestというお祭りがあった。ヨーロッパの町は昔は城壁で囲まれていて、その旧市街をAltstadtとドイツ語では言った。狭い路地、レストランとパブ、お店が並んでいた。ハノーバー工科大学に世界各国から集まった若者もみなでPeterのパブ「裸足」(Barfuss)に集まって盛り上がった。

いつの間にか私は彼女と二人きりになって腕を組んで歩いていた。お酒に酔い、周りもカップルだらけ、池のそばの芝生ではあちこちで若いカップル達の熱い抱擁が始まっていた。私たちもいつのまにか抱き合い、熱いキスを交わした。舌を絡ませたディープキスだ。レモンの味ではなかったが、今でもあの甘い香りと何とも言えない甘美な感覚を覚えている。私の手は彼女の胸をまさぐり・・・。長ーい長ーい抱擁と愛撫。

腕を組んで歩き、長ーい長ーい抱擁と愛撫。そしてまたその繰り返し。二人は若く、夜も若く、私の心も若くそして甘かった。 最終バスがなくなっちゃう。彼女をバス停まで送って、またバスが来るまで長ーい長ーい抱擁と愛撫。 お堅い彼女は下宿していた。大家さんが煩いからとバスに乗って帰っていった彼女。そして、私は長ーい長ーい間、一人でバス停にぼーっと立ち尽くしていた。勢いで押しかけて行くべきだったか・・・。

翌朝、Kolpinghaus(昔の徒弟制度で旅の遍歴をした独身の若者が宿泊した施設)でギリシャ人のヤニス君にばったりあった。意味ありげに笑って、「お前ら・・・・っつたのかぁ?」と。彼はスウェーデン人と仲良くなり、早くも肉体関係を持って、一部始終を我々にアケスケと語ってくれた。筋肉質のジゴロと言った風情の男だった。ヌーディストクラブ(FKK)でもよく遊んだが、彼の一物はでかかったが、見事な包茎だった。

翌々日、彼女は故郷に帰っていった。ヘルシンキからさらに列車に乗ってHyvinkaという町に住んでいるという。住所を教えあってしばらく文通が続いたが、いつしか、途絶えた。

その当時持っていた辞書だが、ボロボロになっているものの30年を経た今でも私は大事に保管している。そこには、彼女に教えてもらった愛の言葉が記されている。Mina rakastan sinua。我々が、本当にこの言葉通りだったかはちょっと疑わしい。しかし、黄ばんだボロボロの辞書の裏表紙の裏側に書かれた文字を見るたびに、30年以上も前のあの暑かった真夏の夜の夢が甦るのだ。

 

2008年4月11日 (金)

世界カタコト辞典(10) LutetiaとLaetitia

Lutetia (ラテン語で「パリ」のこと) 

Laetiia (「レティシア」女の子の名前)

日本の漫画が世界を席巻している、と言うと大げさかもしれないが留学生たちが何故日本に興味を持ったかの理由で日本の漫画との出合いをあげる人が大変多いのだから、確かにそうなのだ、と思う。

しかし、海外にもいい漫画がないわけではない。フランス原産の漫画Asterix(アステリックス)はなかなか楽しい。ヨーロッパでは大人も子供も読んでいる。残念ながら日本語への翻訳はないようだ。読んでみると、ヨーロッパの歴史の勉強にもなるし、他民族国家ヨーロッパの各民族比較がおもしろおかしく描かれている。主人公はガリア人、今日のフランス人の古代人のことだ。ケルト系の土着民で、ローマ帝国に支配されローマ化されてさらに、ゲルマン人の一派フランク族がやってきて混血して出来たのが今日のフランス人らしい。

ページを開くとBC50年のガリア地方の地図が描かれている。アキターニと言えば、今日のアキテーヌ地方のこと、プロヴィンキア・ナルボネシスは今日のプロバンスやナルボンヌと言った具合だ。ルーテチア(Lutetia)は現在のパリだ。余談だがマルセイユはもともとはギリシャ人の殖民都市でマッサリアと言った。ヘルベチアはスイスのことだ。ブリタニアはブリトン人の住むイギリスのことだ。カレドニアはスコットランドだ。ゴート族はゲルマン人の一派でライン川の右岸にすむ人たちで今日のドイツ人の祖先だ、と延々と続く。

話は飛ぶ。アラン・ドロン、リノ・バンチュラ、そしてジョアナ・シムカスが競演した「冒険者たち」というなかなかいいフランス映画があった。バックに流れる口笛のメロディーが印象的だった。男二人とカワイイ女一人の三角関係。シムカス演じるヒロインが映画ではLaetitia (レティシア)だった。

話はまたまた飛ぶ。ロンドンの職場で、Lydia(フランスはレンヌ出身の「ふくよか」で「気立てのいい」フランス人女性)が産休で休みに入るとき、非常勤パートで何ヶ月か雇った女性、この子がまたLaetitiaと言った。「なかなかの美人」だった。ビジネススーツを着こなして、黒縁のめがねをかけて出勤してきたり、ファッションセンスが抜群だった。イラクのクウェートに住んでいたこともあるという。お父さんがフランスの戦闘機ミラージュのエンジニアだった。社内の男性同僚達は、「ウチはブスばっかりだぜ」、と日頃は不平を言っていたのだったがLaetiiaがやって来て社内の雰囲気が変わった。なかなかの美女(「スバラシイ」とは言っていない)が入ってきて皆の視線が彼女に集中するのだった。ああ、Laetiia。 今頃どうしているだろうか? イギリス人の彼氏がいたはずだが。それから、猿と蜘蛛が大嫌いだと言っていたっけ。

職場での楽しみが一つ増えたな、と思っていた矢先、私は日本に帰国することになった。帰国してしばらくして落ち着いたある日、ロンドンの事務所に電話をする機会があった。電話に出たのは職場復帰を果たしたあの「ふくよか」で「気立てのいい」フランス人女性Lydiaだった。パリのホテルのことで話しをしたのだったが、「Lutecia Hotel」と私が口にすると、何を思ったか、Lydiaは「Laeticia !?」とあの「なかなかの美女」Laetitiaの名前を口にしてケタケタと笑うではないか!私はからかわれてしまったのだった。彼女は鋭く気付いていたのだ。疲れ気味の私の視線がオアシスを求めるように時折Laetitiaに注がれていたのを・・・。 ああ、Laetitia…….我がいとしのレティシア・・・嗚呼。

2008年4月 9日 (水)

世界カタコト辞典(9) 「アッチャ」

インド人はやはり「アッチャ」とつぶやいた。

先週の土曜日は、ある人を成田空港に出迎えに行ってきた。20時過ぎの成田空港の風景にびっくりした。アジア系の人々で溢れかえっていた。特に中国語があちこちに飛び交っていた。まずビールで喉を潤してからぼんやりとロビーで待っていたのだが、ふと気がつけば周りは中国人だらけだった。皆、ニコニコ顔、外国についた興奮だろうか、目があちこちキョロキョロ、そして思い思いのポーズで写真を撮ったり添乗員さんが大きな声で案内したり、風景はいずこも同じかと感じ入ってしまった。

ロンドンでもこれに似た経験がある。1999年の秋のある日のこと、東京からの出張者を出迎えにヒースロー空港に出かけたのだった。確か、ターミナル3だったろう。遠距離のフライトが発着するターミナルだ。ぼんやりとロビーでまっていると、いつの間にか周囲はインド人で埋め尽くされたような混雑具合であった。同時刻にインドからのフライトが到着したのだったが、ロンドンのインド人の人口を改めて思い知らされた。

ロンドンといえば、カレーの町である。カレーについてはすでにブログでアップしたけれど、

http://birds-eat-bookworm.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_96e6.html

とにかくインドレストランが多い。私も住んでいたアパートの近くに行きつけのレストランがあった。毎週日曜日の夕食はカレーと決めていた。 ナン(ガーリック味)、野菜カレー、チッキンティッカにシシケバブ、そしてサフランライスが定番だった。ちょっと食べすぎだったかも知れないが、ストレス多き日々故の過食だったと思うのだ。

毎回毎回、決まったようにレストランに現れて同じメニューをTake-Awayする私にレストランのインド人店員は笑顔で迎えてくれるようになった。料理が準備できる間の10分前後は、ハーフパイントのビールを飲みながら、新聞を読んだりしていた。そして、用意が出来ると、店員はオーダーした内容をぶつぶつと繰り返しながらレジに打ち込んで代金を請求するのだった。

ぼんやりとこれを繰り返す日々だったが、ある日のこと、ガーリックナン、・・・、野菜カレー・・・チッキンティッカ・・・といつものようにレジを打ちながらつぶやくインド人店員の・・・が「アッチャ」という間投詞であることにハッと気付いた。学生時代以来おりに触れては思い出したように読んだ開高健・小田実氏共著の「世界カタコト辞典」で小田実氏がインドで聞いたに「アッチャ」(ヒンディー語で、おや、まあ、ええと、さて・・などを表す間投詞)であった。本の中の言葉が、現実に私の耳を捉えた瞬間だった。

2008年4月 5日 (土)

世界カタコト辞典 (7)

Teilweise nicht hatte nai  (ドイツ語と日本語のちゃんぼんで「ところどころ張っていない」の意味) と Kann ich Ihnen behilflich sein ? (ドイツ語で「何かお困りですか?」の意味)

アムステルダムに1年間の研修で赴任して1ヶ月ほどたった1983年の11月のある日、ハンブルクに住んでいた女性のYさん(日本人)から突然電話がかかってきた。「XX君、急な話だけれど、休暇を取ったからそっちに遊びに行くノ、案内してくれない?」

私は一気に舞い上がってしまった。年上だけれどなかなかの美人だ。K大学独文科出身の才媛で会社を辞めて当時の西ドイツはハンブルクに職を得て住んでいたのだった。

ハンブルクから到着したYさんを東京駅にそっくりなアムステルダム駅(逆かぁ)で出迎えて、予約しておいたホテル(もちろんシングル)に案内、夕刻は市内の南、高級住宅街がある行きつけのレストランに招待した。いつもは、一人か友人の同僚と食事をしていたレストランに入った瞬間、中の人たち(当然オランダ人)の注目を浴びるほどYさんはやはり美しかった。

何を話したのか覚えていない。Beaujolais Nuveau(ボジョレ・ヌボー)を飲んだような記憶がある。ムール・マリニエールも食べたのだと思う。それとリンゴソースがおいしいポークソテーも食べたはずだ。定番なのだ。しかし、その後が問題だった。私には勇気がなかった。たとえば、ホテルオークラの最上階でカクテルを飲むとか、いろいろあったのに、結局は駅に戻り飾り窓を散歩してホテルに送り届けて、私は一人アパートに戻ったのだった。

翌日彼女は、私のアドバイスに従って市内観光をして夜また会う予定だった。しかし、昼過ぎに会社の私に突然電話がかかってきて、「私、やっぱり帰る」とハンブルクに帰ってしまったのだった。ああ、とちってしまったぁ・・・と思ってももう遅かった。

半年後の5月のこと。私はハンブルクへ遊びに出かけた。Yさんにも会うつもりだったというよりも、仕事でお世話になったK氏が是非遊びに来い、というご招待あってのことである。K氏は、私より一回り上の世代で、昨年亡くなった小田実氏の「何でも見てやろう」にあこがれ、日光で知り合ったドイツ人を頼りに渡独。横浜~ナホトカまで船、そこからシベリア鉄道でモスクワ経由、フィンランドへ。そこで、女性を引っ掛けて、妊娠させて、逃げ出して、ドイツへやってきて、柔道を教えながら大学に通った。結局、卒業はしなかったが、こちらで仕事を見つけて独立していた侍日本人だった。K氏の家のお庭でガーデンバーベキューを楽しんだ。気を使ってか、どうかしらないがYさんも招待されてやってきた。饒舌なK氏はさかんに冗談を飛ばして我々や招待されたドイツ人達を笑わせてくれた。K氏の家はいまでも覚えているがあの文豪の名前にちなんだThomasman Strasseにあった。買ったばかりの家だかで天井の張替えなども作業中だったらしい。その天井を指さして、Teilweise nicht hatte naiと語るKさん。ドイツ人のS氏が思わず噴出す始末だった。

翌日は彼女の運転する車で(私は当時もそしてつい3年前まで運転免許を持っていなかった)ドライブを楽しんでトラーベミュンデ、リューベックに足を伸ばした。トーマス・マンの「ブッデンブローク家の人々」の舞台となったゆかりの場所だ。確か、50マルク札のデザインにもなっていたリューベックの城壁跡だか教会の建物にも案内してもらった。

Yさんは、方向音痴でよく道に迷った。私も田舎に戻って車を運転して初めて分かった。道が分からないと迷うのだ。当たり前の話なのだが。気ままに運転するほどには運転技術もないし、自信がないので走り方が不安定になる。私は隣に座りながらナビゲーター役だった。道に迷って地図を見ながらどこだ、どこだ、とやっていたら年配の折り目ただしそうなドイツ人が通りかかり、Kann ich Ihnen behilflich sein?と助け舟を出してくれた。

最終日は、天気がよかったことを記憶している。ハンブルク市内のアルスター湖を散策しドイツ人に混じって日光浴をした。シューマンの「麗しい五月」を髣髴とさせ青空が広がり、日光が燦燦と照り、5月の香りが心地よかった。

私の記憶はこれだけである。23日した。Baselerhofというホテルに宿泊したのも覚えている。しかし、Yさんと一緒に何を食べて何を喋ったのかさっぱり記憶にない。不思議といえば不思議なものだ。結局二人の間には何事も起こらなかった。今でも鮮やかに記憶が残るのは何故か、K氏の饒舌とドイツ語と日本語のちゃんぽんフレーズ、Yさんがよく道に迷ったこと、ハンブルクの5月の麗しい天気と、そしてリューベックで道に迷って声を掛けてくれた初老の言葉なのだ。

2008年4月 3日 (木)

世界カタコト辞典(6)

Fuck off !!!

(英語で卑語、「うせろ、どこかに行きやがれ」の意味)

大東亜戦争の敗戦が軍国日本を大きく変えたのと同じように、ベトナム戦争を通してアメリカ合衆国は大きく変わったという。作家の石川好氏は、たとえば、それまではfuck(「性交する」という卑語)やそれに関連する卑語は普通の会話では滅多に使われなかったのが、普通に女子学生も使うようになった、という。 これだけでも当時は大きな社会的な変化だったそうだ。

とは言え、外国人である自分が海外に出かけて英語でコミュニケーションをするなかでこの言葉を聞くことは滅多にない。やはり、下品な言葉なのであり、とくに人間関係から言って一元さんである赤の他人には、fuckとか今やveryと同じ意味で単なる強調の副詞で使用されるfuckingなる言葉はやはり、使用しないものだ。

自分が日本語を話す外国人に、「クソッタレ」とか「オXXコ」とかはやはり言わないものだ。もちろん、学生時代に我が家にホームステイに来たMichael君は違った。友達付き合いをしたし、ドイツ語の卑語を沢山教えてもらった代わりに、こちらも日本語の卑語をしこたま教えてあげたのだった。したがって、ある日、グループで日光に出かけたとき、ドイツ人の女性が日本人から貰った甘いお菓子を「オマンジュウ」と言って得意げに皆に配っていたら、悪餓鬼のMichael君はケタケタとお笑いしたのだった。

さて、それでも私はロンドンに住んでいたある日、間近にこのFuck off !!!を聞いたことがある。

来る日も来る日も仕事漬けで、満足に食事をする時間もなかったのだったが、仕事が終わって帰宅する深夜、住んでいたアパートの近くの中華レストランでよくTake-away (持ち帰り)をしたものだった。そこは、シンガポール系の中国人が経営している店で、私の好物はローストダックにココナッツミルクソースをかけた一品だった。ココナッツミルクソースは、この店で毎度顔を合わせる一家の一人の青年中国人が、ローストダックに合うよ、と勧めてくれたソースで、目茶苦茶うまくて病み付きになったソースだ。確かパイナップルも入っていたと思う。これと、春巻きと白いご飯を毎回のように持ち帰って、深夜のアパートでギネスの缶ビールを飲みながら、一人寂しく食べては就寝という日々だったのだ。

そんなある日も、またこの店に寄ってまたいつものようにローストダックを注文したのだったが、この店の中国人の様子がいつもと違うのに気付いた。近くには、マレーシア系と思われる青年がいて、どうもこの店の雇われ店員で出前を担当しているようだった。電話がかかってきてすぐのこと、中国人が大声でこのマレーシア系の青年を怒鳴り始めた。客からのクレームのようだ。私にはいつもニコニコ(私の地顔がニコニコしているからかも知れない)対応してくれる中国人の顔つきが鬼のように膨らんで、大声で喚きながら、最後に一言怒鳴ったのだった。 「Fuck off !!! と。

決まり悪そうなマレーシア系の青年は黙ってその場を離れて行った。気の毒なことに・・・。

しばらくして、店の中国人はがらりと豹変、ココナッツミルクソース付のローストダックと春巻きと白いご飯を私に渡しながら、Thank you, Good night!といつもの笑顔で応対したのだった。 先ほどのあの怒りの爆発とこの穏やかな笑顔のコントラストに戸惑いつつ、Fuck off !!!とはこういう風に使うものか、と半ば感心しながらも、異常な感情の爆発と悪態にタジタジとなって、家路についたのだったが、その後、折に触れてはあの怒気を含んだFuck off !!!が思い出されるのだ。

2008年4月 1日 (火)

世界カタコト辞典 (5)

Voulez-vous crocher avec moi ce soir ?

(フランス語で、「今晩いっしょに編み物をしませんか?」)

グローバリゼーションという言葉が人口に膾炙して久しい。たまたま先日のこと、偉い先生とお話していた時のこと。ネパールの子供達の目がとても生き生きしているのに、何故いまの日本の子供達の目はそうじゃないのか、というのが話題になった。

ネパールというと、いま暴動で問題になっているチベットの近くのどこか、というイメージだけで普通の日本人にはなじみがない国だ。今問題になっているチベットも蓋を空けてみれば近代化に取り残された貧しい国、というのが実態だ(スミマセン、お国の方)。中国の弾圧とは言うけれど、チベットの民度は、近代化された豊かな国の国民と比較するとまったくひどいのだ(まあ、中国も農村戸籍の方々はどっこいどっこいだという話らしいが、日本の報道機関はほとんど報道しないのは何故なのか?)。 中国共産党とは近代化政党であり、非西洋国が近代社会を作るためには、トップにエリートが強制的に愚民を啓蒙して国民意識をもった新人類を作り出すことは必要なことで、かつての明治日本が軍国主義だったように、また戦後のアジアで成功してきた国々は皆一様に開発独裁型ではないか?民主主義とはほど遠い、人権なんてかまっていられないのだ。人権、人権というなかれ、欧米日の恵まれた立場にいる人たちよ!食べられるようになっただけましではないか、近代化という甘い果実を得るための代償なのだ・・・。

と、ここまで賢しげに語る自分に、ちょっと待て、という声がする。人間の幸福とは、突き詰めれば哲学的な問いである。哲学的という意味は、答えのない問い、問いが問いを呼び、ぐるぐる回って留まることのない、永遠の堂々巡り、という意味、私なりの定義である。

社会格差、ニートだ、フリーターだ、と増え続ける非正規雇用が日本では大きな社会的関心を引いている。私の世代だと、父親が働いて母親は主婦専業で子供を二人育てることが十分に出来た。しかし、今日の日本はどうか?共稼ぎしないと平均的日本人は二人の子供を育てられないらしい。アメリカではすでに30年以上前にそうなってしまったという。家族がばらばらになり、皆がそれぞれ非情なマーケット市場の単位となって効率と時間に追いまくられる。

昔は時間がゆったりと流れていた。そして、50歳を過ぎた私がしきりに思うこと、それは少年時代に父や母の実家、つまり田舎の川や野原で遊びまわったことだ。そこには永遠に楽しい空間だった。大きくなるにつれて疎遠になり、大人になってまったく無縁となってしまったかつての桃源郷。あの頃は毎日毎日が楽しかったし、よかったなぁ・・・・・。きっと目がキラキラしていたに違いない。

だいたい、学校が終われば、遊んでいたのだ。宿題はしたけれど。塾なんて行く必要もなかった。(しかし、すでに塾は存在していた。)今の子供達を見ていると確かにあの頃の私が無心に遊んだような楽しい体験をもっているのだろうかと思ってしまう。万事が計算ずくめ、効率と偏差値と・・・私自身も気がついたら、子供の世界のみならず、息苦しい世の中の住人になってしまったのがこの日本なのだ。

30代から40代を振り返ると、とにかく仕事しかしていなかった。独り者であったから、週末は仕事と縁を切ってスピリチュアルな世界を彷徨したこともないではなかったが、虚しかった。何かに打ち込んでいるしかなかった。

ロンドン時代は最悪だった。2年だけだったが、ほとんど職場とアパートの寝室を往復するだけだった。土曜日もほとんど休んだ記憶がない。日曜日は1日ゴロゴロするだけだった。スコットランドもアイルランドもそしてヨーロッパ巡りもする余裕がなかった。よくもまあ、あんな生活をしていたものだ、と今思えば信じられないひどい生活だった。

疲れ切ってぼんやりとしながら地下鉄で通勤する日々だったが、ある日のこと、どこかの駅で停車中の地下鉄ガラス窓越しに、このフランス語の文字がさっと目に入った。思わずニヤリとしてしまった。 学生時代、ハノーバーに2ヶ月近く滞在してネジを作る工場で働いていたのだが、紹介先のハノーバー工科大学で知り合ったスイス人二コル君から教えてもらったフランス語の殺し文句のもじりだったのだ。

オリジナルは、Voulez vous coucher avec moi ce soir ? (今夜は一緒に過ごさないか?)。フランス語に無知な私をからかって教えてくれた言葉であった。ドイツ人の女性に使って、Nonと言われてしまったが、皆で大笑いしたものだった。

Crocherの意味は知らなかったので職場のフランス人Lydiaに聞いたら、「レース編みをする」という意味らしい。冒頭のフランス語は、どこかのメーカーのちょっとオフザケ広告だったのだろう。それとも、もっと深い意味があるのだろうか?