涼しい夏の夜に、レニ・リーフェンシュタールの「回想」を読む

残暑厳しいはずが、このところ涼しい。毎日のように夕方近くになると雷雨模様。子供の頃の夏は、午前中は早起きしてクワガタや蝉取りに興じ、その後はお昼までは宿題、お昼ご飯を食べて、それから昼寝だった。松下電器製の扇風機の風を受けながら。(驚くなかれ、まだ健在の両親は、まだその扇風機を今にいたるも愛用している。40数歳である)。そして目が覚めてスイカを食べるころになると積乱雲がみるみる空を覆い、突風が吹き始め真っ暗になって、稲光、ゴロゴロ、ピカッ、ドドドーン、そして土砂降りが30分ほど続いて、雷が遠のき、それから涼しい夕餉の時間・・・だった。

今週は仕事に身が入らない・・・昼休み、たまらず外に出る。雑木林は静かだった。近くを散策して、お弁当をスーパーで購入、事務所に戻る途中、再び雑木林を通りかかるとカラスのけたたましい声とキキキキキィ~とあのツミの声。すぐ目のまえで何とハトサイズのツミが大きなカラスを追い回しているではないか!

ずっと大きい鷹の仲間のトビやオオタカがよくカラスに追いまくられるところを見かけるのに反して、ツミは小柄ながら気が強い猛禽らしく一回りならぬ二回りくらい大きいカラスを攻撃し続けている。ひょっとして子育てしるのだろうか?大きいカラスがうろたえて逃げまくっている。果敢に追いかけてカラスを追い払ったツミはふたたび葉の茂る高木の茂みに身を隠した。

前の会社のM先輩から、女性は小柄なタイプよりもどちらかというと大柄なタイプのほうが、心優しくて素直だぜ、と以前アドバイスを受けたことがある。野鳥と女性をごったにするな、といわれそうだが、自然界も同じことらしい。

仕事は18時前に切り上げて、早々に帰宅。ビールを飲んで、軽い夕食を取り、涼しい夜は相変わらすオリンピックを見たりしている。今日は女子ソフトボールの決勝を最後まで見てしまった。金メダルオメデトウ!やっと米国に勝ったね。次回からオリンピック種目からはずれるのが寂しい。英連邦諸国の国技のクリケットも正式種目に加えていいから、是非存続してほしいと思う。どうだろうか、このアイデアは・・・。

先週始めのこと、以前から見よう、見ようと思っていた第11回ベルリンオリンピックのドキュメンタリー映画を見た。500円のDVDが2枚で1000円。8月始めに東京に出張したとき、たまたまぶらりと入った田町駅前の本屋で見つけて即購入したものだ。学生時代にリバイバル上映されたが見損なった記憶がある。監督はヒトラーの愛人とも噂されたレニ・リーフェンシュタール。102歳の大往生を数年前にした人だ。

映画についてはまたの機会にコメントしたいのだけれど、涼しくて心地よい真夏の夜な夜な、このところ彼女の回想録をベッドの中で面白く読んでいる。文庫本上下で1200ページを超える本だ。読み始めてすぐ、彼女が処女を失う場面に出くわした。ニヤリとする私。若かりし頃の彼女の写真を見ると大変な美人だった。その彼女をイメージしながら、処女喪失の場面を読むのは、いやらしい中年男(英語でdirty old manと言うらしい)にとってはたまらない。 「21歳で初めての男性体験は思っていたロマンチックなものとはほど遠い惨めな体験だった」、と著者は振り返っている。 

数ヶ月前に読んだコリン・ジョイス著「ニッポン社会」入門に「勝負パンツ」の話が出ていたけれど、レニさんも、あこがれの年上の男性のアパートに誘われて、すでに体験のある女友達から「美しい下着」を身につけるようアドバイスを受ける。そして、「黒のレースの下着」を借りたのだった。つまり、「勝負パンツ」であった。 なるほど!

続く

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Elias Canettiの自伝第一巻を読了!

週末は、Elias Canettiの自伝に没頭した。長らく積読状態だった本を思い出したように本棚から取り出して、翻訳本を読み始めたら、おもしろくて食事とトイレの時間を除いてずーっと2階の風通しがよいベッドにゴロリとなって読み続けてしまった。

1巻は、著者の幼年時代から思春期(1905年~21年)を扱っている。驚くのは著者の生まれた文化(言語)環境だろう。15世紀にスペインから追い出されたユダヤ人の末裔で、オスマン帝国に庇護のもと成功した商人の家に生まれたのだが、大家族で語られる言葉は古風なスペイン語だというから驚きだ。周りは素朴なブルガリア人が話すブルガリア語の世界。カネティ一族の家庭で代々話されてきた古スペイン語は、オスマン帝国支配下でトルコ語の語彙がかなり浸入していたという。ドナウ川の対岸はルーマニアでロマンス語系のルーマニア語も理解した。トルコ人、ギリシャ人もいれば、ロシア人もいる。一族の支配者、強烈な家父長権を発揮する祖父は17カ国語が出来るというのが自慢だったという。

エリアスの両親はしかしながら、若き日にウィーンで教育を受け、ドイツ文化の薫陶を受けた。家族での夫婦の会話はなんとドイツ語だったという。幼き日の著者にとっては、それは謎の言語であった。

ウィーンで近代教育を受けた両親(特に母はCanettiに強烈な刻印を残す)は、バルカン半島の「東方的」文化環境に満足出来ず、伝統的家父長権を振りかざして一族の人間を威圧する祖父の軛を逃れを飛び出したのだった。トルコのパスポートを持って母方で成功した商人が住むイギリスのマンチェスターへ移住する。しかし、一家に待ち受けていたのは、あまりに早すぎる父の死だった。

父の突然の死によって、一家は母の希望でウィーンへ移り住むのだが、ウィーンまでたどり着くまでに、一家の伝を頼ってパリ、スイスのローザンヌを旅する。 あちこちに分散するCanetti一族というかスペイン系ユダヤ人(スパニオール)のネットワークには驚くばかりだ。ウィーンに到着する3ヶ月前にエリアス少年は、母親からドイツ語の特訓を受けるのだが、瞬く間にドイツ語をマスターしてしまうのだから驚きだ。

幼年時代を思い出しながら家族や級友達を語るカネティの筆致は精細にして執拗である。そこから浮かび上がるのは母親と長男の特別な関係だ。母親は、ユダヤ人ではあるが、スペイン系のスパ二オールの末裔にして誇り高き一族であるという自覚が強烈であり、いわゆるオーソドックスな宗教的ユダヤ人達とは格が違うと、息子がウィーンで始めて意識したユダヤ性に特別の意識を吹き込む。

豚肉を食べないユダヤ人だが、マンチェスターで息子にベーコンを食べさせた母親。近大教育を受けた啓蒙主義者にしてコスモポリタン。文学的教養から発する彼女の批評は息子を常に緊張状態に置く。母と息子は毎晩読書をしながら「真剣勝負の対話」を続けるのだった。あいまいな言辞に対する母親の明晰な批評と容赦のない嘲笑。

27歳にして未亡人になった母は教養あふれる溌剌とした美しい女性で、長男のエリアスは母に言い寄る男性にことごとく嫉妬を燃やす。母を誰にも渡さないゾ。カネティという個性は、このように母との絶えざる緊張を強いる対話を通して母のあるものが自分のあるものと融合して出来たのだった。

しかし、子供のエリアスにとって母の記憶はあくまで子供の一面的なところの記憶であった。3人の子供を抱えて、切り詰めた生活を強いられる中、母は、何度か病に倒れる。家族はウィーンを去りスイス(チューリヒ)に移住する。サナトリウムに入る母と女子寮の中の唯一の男性として幸福な日々を送るカネティと全寮制の小学校にはいる弟二人はバラバラな生活を送る。

離ればなれになりながらも文通を通して母と固い絆で結ばれるエリアスだったが、スイスの平凡な田舎で本に囲まれて惰弱に育つ息子に危惧を懐いた母は、息子を打ちのめす批評をしてフランクフルトへ移住することを決意する。

以上が第1巻である。時代は1905年~1919年まで。第一次世界大戦というヨーロッパを揺るがす大事件を前半はウィーンで、後半はチューリヒで体験している。チューリヒでは、あるカフェで新聞をうずたかく積み上げて議論する禿頭のレーニンが登場したりもする。

読んでいて何より面白かったのは、この自伝がユダヤ人という日本人にとってはおよそ想像を絶する宗教の民の内情が、オスマン帝国の片田舎、ブルガリアの伝統的世界から両親とともに近代的な世界に抜け出ようとする新しい世代の「教養小説」(ビルドゥングス・ロマン)として、執拗で浩瀚な筆致であますところなく描かれていることだろうか。

筆者の記憶は美しい幼少時代のバルカン半島の風俗、母が実家の果樹園の中で子供の頃よじ登って本を読んだという桑の木や氷結したドナウ川を馬車で渡っていた厳寒のある日オオカミに襲われた話、カネティ一族の邸宅と中庭の様子、物乞いジプシー一団の描写、トルコによるアルメニア人虐殺で家族をすべてなくしたアルメニア人男が中庭で悲しい歌を歌いながら薪割りをする情景。イギリスと特にスイスへの親近感などが綴られる。

スイスはハプスブルク王家の起点となったところだが、ハプスブルク帝国の軛から自らを開放して自由を勝ち得たことに対するスイス市民への共感は、学校で学ぶ古代ギリシャ史の民主主義と共振する。ハプスブルク・ウィーンの皇帝・貴族・ブルジョア達の形式張ったものものしい世界と、スイスの世俗的で平等な市民社会との比較。マクロな歴史叙述では決して見えてこない数世代に渡る記憶と20世紀前半の革命と戦争の激動の同時代の目撃者として20世紀のドイツ語圏が生んだ希なる才能がその文学的泉からのとめどもなく語り続けるのだ。 読みながら、その深い囁きに耳をそばたて、時代を超えた人間のいとなみに共感を覚えさせられた。

読み終わっての余韻がなんとも言えない。著者と一緒にしばらくそのまま留まっていたい、そんな本だった。

第2巻は敗戦後の不穏なワイマール時代のドイツはフランクフルトが最初の舞台となっている。このままだと、一気に第3巻の1937年まで読めそうだ。

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気ままに読書(2)

滅多に夢を見ないのだが、たまに見ることがある。人には言えないおぞましい夢を見たこともまれにあるが、大概見る夢は、何かを探していて見つからない、あるいは、どこかに目的地に向かって進みながら、どんどんずれていって、永遠に辿り着けない、そんな夢が多い。 そして、仕事で忙しくて疲れていたりすると、現実の仕事が夢の中に登場したりする。 つい最近も、あるイベントの場面が出てきて、それもいきなり当日の本番だった。何の準備も出来ていない。表彰状も記念品も準備できてない。何だ、何だ、何だぁ~、まったくぅ~、困ったぁ~。参ったナぁ~、ああ、もう間に合わない、助けてくれ~エ、と叫び声を上げたところで目が覚めたのだった。いい歳して、何て夢かと、苦笑してしまう。

歴史家の山内昌之氏の「嫉妬の世界史」をぱらぱらとめくる。著名な人たちの意外な側面を知る驚きの本である。 嫉妬深い森鴎外が登場する。明治の文豪と言えば、夏目漱石と森鴎外。(幸田露伴もいるが)。個人的には、夏目さんにより親近感を感じる。三島由紀夫氏は森鴎外の武士の末裔らしい感情の抑制のきいた文体に引かれたらしいが。秀才であったものの鴎外は、東京医学校では8番と成績が振るわず文部省給費留学生には選から漏れたという。先輩の手引きで、軍医として陸軍に入り屈折した心で外遊して、ベルリンで出会ったのがあの舞姫だったのだ。官界にはいっても先輩官僚に面倒を見てもらいながらあまりに高すぎるプライドで、自分の文学の中で関係者を揶揄・避難したり、意外とねちねち、嫉妬深く、卑怯な復讐ぶりには唖然としてしまう。

昭和の陸軍の天才参謀と言われた石原完爾は、逆に頭が切れすぎて凡人の東条英機の嫉妬を買い、主流から徹底的に外され干されてしまったという。恐らく、組織のなかでは扱いにくい人だったのだろう。部下としてもったら、持てあまして、振り回され大変な人、それが石原さんだったろうか?東条英機は、所謂、官僚型の秀才で気配りと調整能力は抜群だったという。片や、カミソリの如く切れまくった石原氏からすれば、東条さんは間抜けな馬鹿だったし、そういう態度で接したらしい。どうも、石原さんは、目立ちすぎて周りからは敬遠されて浮いた存在だったようだ。山本五十六みたいな人望がなかった。

似た本には、イギリス人ジャーナリストポール・ジョンソン氏の「インテレクチャルズ」がある。バートランド・ラッセルやトルストイの滅茶苦茶ぶりには驚かされる。特権階級、全てが思い通りに世界を動かせた人たちの善意の部分、ヒューマンな部分は、彼等の表の部分で我々が知っているのだが、無意識の部分での自分勝手振り、我々平凡な人間の価値基準では計り知れない脱モラル振りには驚くばかりだ。

続く

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気ままに読書(1)

水を渡りまた水を渡る

花を看てまた花を看る

春風江上の路

覚えず君が家に到る

このところ、朝目覚めるとベッドの中で1時間、早朝の読書を励行している。気ままに周囲に散らかした本に手をのばす。さて、今朝は何かな、といった具合だ。 夜はさっぱりだ。ベッドに入って5分後には眠りに落ちてしまう。歳だネ。

最初の漢詩は、高校時代の漢文の教科書に出ていた漢詩だ。なかなかいいじゃないかぁ。しかし、当時こんな漢詩を学んだ記憶がさっぱりない。発情期で、もっぱら興味は体力を消耗することだったからだろうか?

月明らかに星稀なり。

日暮れて途遠し。

この辺りは、微笑ましい。ユーモア感じてしまう。

一犬、形に吠え、百犬、声に吠ゆ。

書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。

亡国と事を同じくする者は、存すべからざるなり。

うーん、一言一言が心に沁みます。そして、自分のいろいろな失敗が思い当たる。

振り返って見れば、いろいろなところで、いろいろなハットする言葉に出会ってきた。若い頃、自分にとって言葉は空気と同じようなものだった。文学青年ではなかったし、小説とか評論なんかもさっぱり読まなかったし。

体力が衰え始めた30代に突入したことのある春、当時住んでいた武蔵境の桜並木の美しさにハットさせられたことを思い出す。それまで、花見なぞ、まったく興味がなかったし、なんであんなに群れ集って楽しいのかさっぱりわからなかった。それは、30数歳にして、私の中の何かが、桜の花に感応した瞬間だった。

三島由紀夫氏の自伝的小説「仮面の告白」の最初の方で、「子供心に外の世界にはヒリヒリするような欲望の世界を感じた」、というくだりがあったと思う。この点で、三島先生は、尋常ならざる人だったのだと思う。天才とは、どこかしら、異常に研ぎ澄まされた感性があって、そのするどい嗅覚と直感に苦しみながら大人になって表現方法を確立して、結果的に大多数の凡人が作る世間に認められた人、ということだろうか?アインシュタインも相対性理論をすでに子供時代に直感で理解していたという。 認められなかった人、これすなわち、狂った人ということになるだろうか。

続く

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気ままにおしゃべり(7) 寺山修司~丸山薫~小田実

ふるさとの 訛りなくせし 友といて モカ珈琲は かくまでにがし   「歌集」

グローバリゼーションの時代と言われて久しい。ネスカフェのインスタント珈琲しか知らなかった田舎の学生が東京に出て味わった本格的な珈琲の香りと味。しかし、今日では「喫茶店」はもう死んでしまったのではないか?娯楽があまりなかた学生時代、私は友人と喫茶店によく足を運んだものだ。今じゃさっぱりだが。

当時は、クラシックやロックやジャズを専門に流す喫茶が結構あって珈琲一杯で何時間も粘ったものだ。あるいは、友人と馬鹿話する一方で真面目なおしゃべりも少しはしたと思う(天皇制をどう思う、から始まる政治の議論や、ヘッセの「デーミアン」読んだか?とか、M君は「ハイデッガー全集を読破したらしい」ゼ、オレはさっぱり分からなくて放り投げたよ、などなど)。 

運動部や文化サークル活動に熱中するならともかく、私は、何となく体育会系の雰囲気に馴染めずテニスクラブをやめて、悪友とマージャンをするか、パチンコするか、真面目に図書館にこもって勉強するか、4畳半の裸電球がぶら下がった殺風景の部屋で難しい哲学書を読むか、とにかく授業をサボって部屋で惰眠を貪るそんな日々を送っていた。

8月のブログで登場したN君とはよく喫茶店でモカを飲んだものだ。キリマンジャロ、ブルーマウンテンなど時には奮発もした。山形出身の友人だったN君は寺山修司の声帯模写が絶妙だったナ。 

吶々と早口で語る寺山氏。競馬狂でもあった。 井伏鱒二氏の漢詩訳「花に別れの譬えもあるさ、さよならだけが人生だ」をもじって、「サヨナラだけが人生なら、また来る春は何だろうか」と同氏の競馬エッセイの本の帯にあった。

N君の家に一度遊びに出かけたことがある。蔵王でスキーをしたり、寒河江の実家のそばのパチンコ屋に出かけて遊んだりした(当時はパチンコに凝っていた時期だった)。教師だったお父様と話していたとき、何かの拍子で詩人の丸山薫氏のことが話題になった。 丸山氏はもともとは本州愛知の出身だが戦中から戦後にかけて山形に疎開していて地元ではとても有名だとのことだった。丸山薫氏の詩はたまたま一つだけ知っていた。

汽車にのって

あいるらんどのような田舎へ行こう

ひとびとが祭りの日傘をくるくるまわし

日が照りながら雨のふる

あいるらんどのような田舎へゆこう

この詩を知ったのは、先日亡くなった小田実氏の「何でも見てやろう」だった。思うに自分はまともに詩集なぞ読みきったことがない。どこかの誰かがイイ、と言った詩を拾い読みして原典を買ってきて読む、というのが多いのだ。

小田実氏の「何でも見てやろう」は高校時代に出会って感激した本だった。描かれるアメリカは、1950年年代後半であり、まだ公民権運動もベトナム戦争もなかった。ソ連と冷戦が始まっていたが、世界一豊かなアメリカがキラキラ輝いていた時代だったと思う。 21世紀の今日のアメリカと何と遠く隔たってしまったことか!今や、アメリカは世界のお荷物となり始めているのではないか!これについては、また近々別に論じたいと思う・・・。

小田実がアメリカにいた時代はアメリカの絶頂期だった。マリリン・モンローもジョン・F・ケネディもまだ生きていた。この本は、フルブライト留学生としてのアメリカ体験と、ヨーロッパ、中近東、イラン、インドと巡って日本に戻るまでの11ドル旅行だ。元祖バックパッカーではなかっただろうか?同氏の本は大学時代まではあらかた読んだが、ベトナム戦争終了後から、ボートピープル問題、カンボジア問題、北朝鮮問題が出てくるなかでの同氏の政治的スタンスにはついて行けないものを感じて決別した。しかし、良いものはいい、ということで「何でも見てやろう」は1969年の新装版を今も大事に保管して数年に一度は思い出したようにページをぱらぱらめくって拾い読みしている。 

(続く)

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気ままにお喋り(6)フレイト・トレイン~97セントのブルース、そして寺山修司氏

しばらく途切れていたシリーズだが、Elizabeth CottenFreight Trainを聴いていたら連想が次々と広がった。

Langston Hughesという黒人の詩人がいた。アメリカ人だ。私は彼の良き読者ではなないが、一冊の詩集(翻訳)をたまたま持っている。もう大分黄ばんでしまった本だ。Collected Poems of Langston Hughes (ラングストン・ヒューズ詩集) 思潮社海外詩シリーズだ。彼は列車の詩を沢山書いた。そのなかの一つに「75セントのブルース」というのがある。書き出しがイイ。

どっかへ 走っていく 汽車の

七十五セント ぶんの 切符を ください

ね どっかへ 走っていく 汽車の

七十五セント ぶんの 切符を くだせい ってんだ

どこへいくか なんて 知っちゃあ いねえ

ただもう こっちから はなれてくんだ。

    ・・・・・・

(木島始訳)

すーっと言葉が心の中に入ってくる。自分の波長に合う詩なのだ。だから、文句なしにイイ。他人がどう何を言おうが知っちゃことない!アメリカに連れてこられた奴隷の末裔として生きる黒人としての鬱屈する怒りだろう。公民権運動が全米に火をつけた1960年代よるさらに30年も前の大不況時代のアメリカだ。

アーサー・ケストラー氏の自伝「目に見えぬ文字」の中に、1930年代前半にソ連の中央アジアを取材旅行していたケストラー氏がヒューズ氏に出会うシーンの記述があった。その時もこの詩を思い出した。ヒューズ氏は当時の共産主義ソ連の招きでアメリカ黒人の解放の映画を作るために招かれていたが、アメリカがソ連を承認する政治的な駆け引きの中で滞在中に話しが流れて中央アジアで足止めを食っていたらしい。

ラングストン・ヒューズ氏のこの詩に出会ったのは、実は意外なところだった。寺山修司氏の「ポケットに名言を」という文庫本だ。二十歳前後の私は同氏の本をよく読んだものだ。田舎出の自分にとって東京はある意味で別世界であった。カルチャーショックまでとは言わないが、やはり地方出身者として違和感がどこかにあったのだろう。青森出身の寺山氏の短歌やエッセイにはいたく共感するものがあった。

(続く)

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「日本近代史の総括」(湯浅赳男著)を読む (その3)

時代は変わって、21世紀の今日でも東アジアの実態は、これは同じなのだという。中国人、朝鮮半島の人々の意識は変わっていない。日本を見る目も変わっていない。従って、第2次世界大戦で負けたはずの日本が、一時はアメリカの国民所得を追い抜くほどの経済復興と成功したことに複雑な感情をもつことは想像に難くない。本来、自分たちよりランクが下のはずの、倭人が。どうして?

これは、実は、中国・朝鮮半島の人々だけではない。日露戦争開戦前、ヨーロッパから「黄苛論」というのが出てきた。ドイツのウィルヘルム2世皇帝がロシアのニコライ皇帝の手紙に書いたという。しかし、これは過去の話ではないのだという。靖国神社参拝や教科書問題、従軍慰安婦にからんで、中国・朝鮮半島と日本が緊張する昨今、ドイツのマスコミから、ドイツは、過去を十分反省し清算した、しかるに日本は・・・というまことしやかな、話が出てきているという。一体これは何か?つまりは、白人正統派(カトリック・プロテスタント)の西洋文明の本家意識から来る、日本叩きであると、湯浅氏は言う。自分たちの立場を脅かす「黄色い異教徒の日本人」という今から100年以上前のドイツ皇帝の発想と同じものが、形を変えてヨーロッパから出てきているらしい。

思うに、我々日本人は、いい加減に、彼ら(アジア・アメリカ・ヨーロッパ)にいい顔をして下手に出る必要はないのだ。おかしなことを言ってきたら、キッパリと言い返して、相手にしないことだ。かといって、彼らの神経を逆撫でするような「単細胞」のようなことは慎むべきだ。ちょっとでも隙を見せれば、その弱みに付込んで難癖をつけ、金をせびり、あらゆる策を弄して、日本人の足を引っ張ることを嬉々としてやってくるだろう。これが、彼らの成り上がりもの、日本に対する深層意識である。

したがって、東アジア経済圏についても、否定はしないが、日本はよほど各国に対するスタンスに注意する必要だろう。適当に距離を取って、肩入れしないで平等主義を貫く。スタンスを間違えれば、アジア諸国はもちろん、アメリカ、ヨーロッパ皆が、手ぐすね引いて、足を引っ張るのだ。日本の舵取りは難しい。まさに、日露戦争後の日本、これが、現在の日本であり、同じ失敗をしないための、冷静さと思慮深さが必要なのではないか。

日本という存在は、もう1度よく考えて見よう。我々は、他国の人々にどのように映っているのか?究極のところ、「目の上のたんこぶ」的存在なのではないか?中国人にとっても、朝鮮半島人にとっても、ヨーロッパの主要国の人たちにとっても、アメリカ人にとっても。そこそこに、おとなしく、ニコニコして、ちょっと難癖をつければ、喜んで大金を出してくれる、その程度だったいいんだけれど。それ以上は絶対許さないぞ、というそんな存在なのだ。

常日頃、日本人のあまりのナイーブさに、このままでいいのだろうか、と疑問を持っていた私だが、湯浅氏の論考を読みかみ締めながら、複雑な気持ちになって来た。

(続く)

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「日本近代史の総括」(湯浅赳男著)を読む (その2)

何故、日本はユダヤ人と同じ位置なのか?次は、日本と中国・朝鮮半島との関係について、同氏の話が続く。

日本が開国する前の時代は、長い間中国を中心とアジア秩序があった。いわゆる華夷秩序に基づく朝貢体制。日本は、実は、中国とは隋の時代に、不遜な外交文書を出して(日出ずるところの君主、云々)以来、明治になるまで正式な外交関係(朝貢関係)がなかった。当時の東アジアには、2000年以上も中国→朝鮮半島→日本という序列意識があって、日本は、中華秩序の一番外側で、まあ言ってみれば、一番の田舎もの、見下されていたわけだ。

明治維新後、近代ヨーロッパの主権国家の考え方が入って、国の大小に関らず、国の主権が対等である、というこの概念は、通用しなくなった。何故か、日本は、開国以来、西洋化を着々と進め、李氏朝鮮をめぐって、清と対立し、日清戦争を起こして行ったのだが、これは、西洋の論理で動く日本と、従来の華夷秩序意識に基づく論理の戦いだったが、結局、日本が採用した西洋の論理の勝利であった。これが、骨の髄まで儒教的(朱子学的)意識が染み込んだ中国・朝鮮半島人にとっては、日本を恨んでも恨み切れない禍根の淵源となった。本来、自分たちより格下の人間に武力で押さえつけられて日本式西洋を押し付けられる屈辱。

湯浅氏は、日本の「アジア主義」を「独りよがりのロマンシズム」と切り捨てている。この「アジア主義」とは、日本を先頭に中国・朝鮮半島を始めアジアの民族は力を合わせて西洋植民地主義者と戦う、というイデオロギーであったのだが、日本人の絵に描いた餅にして「マスターベーション」でしかなかったということだろう。

何故、中国は、日本を敵にして、アメリカと手を組んだのか?非キリスト教徒であり同じ東洋人として、告白しなければならないのは、白人のキリスト教国家(カトリックとプロテスタント)の文明は仰ぎ見る存在だったことだ。日本がそもそも、西洋の近代文明を盛んにコピーしたではないか?中国も、朝鮮半島も、日本も、それ以外のアジアも皆、いろいろ言っても、白人の西洋文明はまぶしい、輝ける仰ぎ見るものだった。中国人や朝鮮人の深層意識として、ロシアを破る日本には喝采を贈るが、同じ東洋人として白人の位置まで上り詰める東洋人は認めたくない、という心理が働いたのだった。西洋を仰ぎ見るという点では皆、横並びで同じなのだ。確かに、日本に留学生が沢山来たが、日本を勉強したのではなく、日本が短期間でマスターしたその手法を勉強して西洋文明(技術)を学びに来ただけだったのだ。そう、日本は自分たちの競争相手なのだ!

このあたり、湯浅氏は、当時の三木清氏や谷川哲三氏が上海で見聞した記録を引用しながら、中国における西洋崇拝振りに触れながら、なおかつ、西洋のカトリックとアメリカの宣教師が中国・朝鮮半島で果たした当時の役割の大きさを指摘している。現在の韓国のキリスト教徒は人口の三分の一にもなるというが大本は、日本の朝鮮併合にあるらしい。

義和団事件というのが1900年にあったが、その賠償金を取った列国のうち、アメリカは賠償金を基金として中国人を中心にした学術研究機関を作って中国に還元している!何と言うソフト戦略だろうか?貧しい日本は、戦争で賠償金を取るごとに、国の軍備増強に投資していたわけだが、ソフト面では、「ひとりよがりのアジア主義」の独善に陥り、招かざる客としてアジア大陸で大暴れしてしまったというわけである。土足で上がりこまれた地元の人たちの恨みは大きい。

(続く)

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「日本近代史の総括」(湯浅赳男著)を読む (その1)

ざっと読みだが、おもしろくて一気に読んでしまった。日本近代史の総括は簡単ではない。副題は、「日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析」。 著者によれば、日本とイスラエル(ユダヤ人)のみが、非キリスト教徒でありながら、近代西洋文明の中枢への入り込みに成功した「民族」である。(民族という概念は結構あやしいのだが、ひとまず、詮索しないで話を進める)。そして両者とも、いわゆる西洋近代文明の担い手とされる白人キリスト教徒(カトリック・プロテスタント)達からは、都合が良いときに利用され、都合が悪くなれば、排除される運命を持っている不思議な共通性を持っているという。なるほど、確かに!

ユダヤ人と日本人。個人的な経験によれば、まったく対極的な人間である。片や、2000年に及ぶディアスポラを経験した抜け目のない、知能指数の高い、商売上手でしたたかな民族、というイメージ。一方の日本は、島国育ちの大アマちゃんで、人が良くて馬鹿正直で、スレッカラシのユダヤ人(だけではないが)とは程遠い存在。これは、歴史的な境遇の違いからたまたまそうなのだろうか。

高名なアメリカの国際政治学者ハンチントン氏はその著名な「文明の衝突」の中で、日本をひとつの文明として扱い、しかも、孤立した文明、つまり、日本以外に共感を共有できるパートナーが居ない文明と位置づけていた。言葉としてはなんとなく分かるのだが、本当の意味をこの湯浅氏の著書ではっきりと理解した。

明治維新から大東亜戦争敗戦までの時代は、2段階に分かれる。西洋から見れば、未開とは言わないまでも、十分に文明化したとも認められない、半文明国であった日本。偽善といってしまえばそれまでだが、アメリカは、キリスト教的使命(神の福音を伝えることが人間になることであり、文明の恩恵にあずかること)と世俗的な近代資本主義の欲望に基づく帝国主義の2面作戦で、日露戦争までは、日本を支援した。日露戦争での勝利の原因は、日英同盟とアメリカのユダヤ資本による日本に対する戦争ファイナンスなど、アングロサクソン勢力の支援がなければ到底望めないものだった。

外交文書で明らかなことは(セオドア・ルーズベルトがドイツの外交官に語ったこと)、ロシア(キリスト教徒だが、ギリシャ正教とであり、むしろ、モンゴルの再来。西洋から見ると、シンパシーがあまりない)の強大化を阻止するために、日本を利用するだけ利用した。すなわち、どちらも勝ちすぎてはいけない。双方がそれなりに犠牲を出し疲弊したところで調停役として講和を実現させたのだった。日露戦争での日本の戦いぶりは確かに立派であったが、イギリス・アメリカのアングロサクソンパワーの後押し・冷徹な計算が見え隠れしている。つまり、当事の超大国のシナリオでの戦争だったのだ。

しかし、この日露戦争を境として、アメリカの政策は露骨に変わる。日本人の排斥、日英同盟の分断、ワシントン条約から1945年の日本の敗戦まで、アメリカは日本に対する敵対政策を取ってきた。日露戦争でロシア勢力が撤退、第1次世界大戦でヨーロッパ勢力が弱まり、その隙間に日本が一人勝ちしてしまった。ベルサイユ条約で、敗戦国ドイツの青島の利権を日本に認めさせたものの、対華21か条の要求あたりから、五四運動(反日運動)が中国で展開されていくのだが、この影にはアメリカの影響が大きいという。よく言われるのは、日本が満洲の利権を独り占めして、アメリカを排除したことが大きいようだ。(アメリカの鉄道王ハリマン商会の共同出資提案を断ったこと)。

1929年の世界大恐慌、満州事変、日中戦争勃発(当時は、シナ事変で、戦争とは言っていなかった)、そして、ハルノートによる日米交渉決裂。私の両親から上の世代、戦前の日本を記憶している人たちは一様に当時の本音として、アメリカがとにかく日本を追い詰めた、だから、真珠湾攻撃で日本が開戦したときは、ホットして、胸が晴れた、という感情を吐露していることを思い出そう。当時の大方の日本人は、自らの自衛の為に大陸に進出し(現地の人にすれば、侵略かもしれないが、なら、アメリカのハワイ併合、グアム、サイパン、フィリピン植民地化は何なのか?そもそも、アメリカ大陸のインディアンはどうなるのか?)生存権を確保することのどこがいけないのか?(あぶない、あぶない、こんなことを言っていいのか!?)ちなみに、当時は、大恐慌で世界が本当に疲弊し、大英帝国は連邦間でブロック化し他国の商品を排除していたし、アメリカ合衆国は、高関税障壁を実践する保護主義の国であったことを誰が今日想像できるだろうか?しかし、これが事実なのだ。

結局、アメリカの日本追い落としは、1945年にその目的を達した。中国の蒋介石を支援して日本と戦わせようとしたり(実際、蒋介石は対共産勢力用に戦力を温存して戦わず、ルーズベルトの不興を買った)、ソ連のスターリンと手を結んで、ヤルタ会談では、中国すら裏切り(スターリンには、日ソ不可侵条約を踏みにじり参戦することを引き換えに、日本敗戦後の満洲や樺太など北方4島の譲渡を認めたりしていた)日本をぶったたき、極東でのアメリカの地歩を確立する寸前まで行った。実際には、第2次世界大戦の「熱戦」が終了すると同時に、その延長の「冷戦」が始まり、日本は、再び、アメリカに支援され、利用されることになったのだが。1945年の日本敗戦までは、19世紀のアメリカの戦略家マハンの教科書どおりであったと言う。(いわゆるオレンジ計画) アメリカという国の独善。西部フロンティアを開拓しつくし、太平洋に進出し、キューバのスペインを鎧袖一触して、グアム、サイパン、フィリピンを奪い、ハワイも手中に収め、最後に行く手の邪魔になったのは日本だったのだった。

(続く)

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チェーホフから~「美女」その2

二人目の美女は、主人公が大学生のころの話し。こちらは、一人目より描写が短い。ある年の5月、主人公が列車で旅をして何処かの駅での話し。夕方プラットホームをあるいているとある車両の前で人が行ったり来たりしているのに気づく。近くにいた汽車旅で知り合った将校に聞くと、一人の女性を眼で示す。車両の窓の前に佇むロシア風の身なりをした17歳前後の若い娘だ。駅長の娘か妹か。

「自分が眼にしたものがまだはっきりとわからない内に、わたしは不意に、かつてアルメニア人の村で味わったあの感情に襲われた。娘は素晴らしい美人だった」

そのあと、その描写が続くが、個々の顔の特徴はありきたりであり、「本当に美しいのは頭の上で黒いリボンで束ねた、やわらかに波打っている豊かなブロンドの髪」だけだった。それでも、この娘は「本当の美人だという印象を見るものに与えた」

「ロシア人の顔というのは、美しく見えるためには、輪郭の厳密な正しさなど必要ではないのだ。それだけではなく、かりに、この娘に、心持ち上を向いた鼻の代わりに、あのアルメニア人の少女のような、彫刻的に一点非の打ち所のない、輪郭の正しい鼻をつけたならば、おそらくそれだけで、彼女の顔は魅力をすべてなくしてしまうに違いなかった」

「彼女の美しさの秘密と魅力は、限りなく洗練されたさりげない動作や、微笑みや、めまぐるしく変わる表情や、私たちにさりげなく投げる素早い視線の内に秘められているのであり、これらの動作の、えもいわれぬあでやかさが、若さや、みずみずしさや、笑い声とか話し声に感じ取れる心の清らかさや、私たちが子供とか小鳥とか、若い鹿とか若木などの中にみいだしてとても愛しいと思う、あのかよわさなどと結びついているところに秘められているのだ」

「それは、ワルツや、花園の散歩や、笑い声や、明るい気分などのしっくり似合う、蝶の美しさであり、きまじめな考え事や、悲しみや静謐などとは結びつかぬものだった」

汽車の出発のベルがなる。「さて、と…。」という言葉と溜息まじりに呟く顔見知りの将校。「さて、と…。」は何を意味するのか?「美人や春の夕暮れをあとにして息苦しい車室へ去るのが心淋くて気が進まないのか、それとも私と同じように彼も、この美人や、自分自身や、その他物憂げに自分の車室へしぶしぶ引き上げて行く旅客たちなどが、なぜともなく、あわれに思えたのかもしれない」。

将校と2人で車室に戻る途中で見かけた、「青白い、頬骨の張った、しなびた顔付きの電気技師」の様子から、将校は、電気技師が、あの美女に惚れこんでしまったことを指摘する。「なんという不幸な話し、何と言うお笑い種。技師は妻子ある身。どちらも、猫背で、そそけ髪で、退屈極まりない律儀な人たちなのだ」

汽車の車掌も、美女が立っていた辺りを眺めている。寝不足の中年男。人生の苦労の皺を刻んだ顔。自分の失われた青春、幸福、実直さ、清らかさ、妻子の面影などを、あの美しい娘に見出したのだろうか?

太陽は沈み、うら寂しい気分が垂れ込めていた。車掌は、車室に入って明かりをともすところで、短編は終わる。

本を引っ張り出して、批評しようと思ったら、抜書きになってしまった。

チェーホフは、かなり身持ちの固い人だったらしく、晩年のトルストイに女のことで、ずいぶんからかわれたらしい。汚れを知らない清らかな美少女趣味だろうか?世に言うロリータ趣味。清らかな美しい娘が、男を知り、女になり、美貌と才覚で男を振りまわし、骨抜きにする悪女に変身する女の妖しさについては、残念ながらチェーホフとは無縁だったのか。 彼には、続編で「美貌の悪女」を書いて欲しかったのだが・・・・・。

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チェーホフから~「美女」その1

アントン・チェーホフ (ロシアの作家)  「美女」 (原卓也訳)

ロシアの作家チェーホフは好きな作家です。 それも有名な戯曲よりも彼が生活の為にチェホンテのペンネームで学生時代から書きなぐった短編が私の好み。ちくま文庫で全集が安く手に入りますが、とても全部を読んだわけではありません。彼が手当たり次第に書きなぐったように、自分は20代後半に手当たり次第拾い読みしただけです。

そして一番記憶に残っているのは、本屋で立ち読みした「美女」という短編です。 チェーホフは、ロシアの文豪トルストイやドストエフスキーとは比較になりませんが、生まれが開放農奴という低い階級出身でありながら、モスクワ大学で医学を修めた苦学生。 いろいろ苦労もあったのでしょうが、彼の魅力は普通の人を描写する眼差しにあるのだと思います。 そしてその行間から匂いたつ雰囲気と情感は独特です。 

「禅機に触れる」というのでしょうか、「生命の根源に触れる」ものがあります。ふっと、眼差しを落として、ため息をつく。そして、何事もなかった様に、生活に戻る。日本語にある「仕方ないという諦観」ということでしょうか?肯定もしなければ否定もしない。うーん、ちょっと違うか?うまく言えません。チェーホフにはいたるところ、このモチーフがあって、読み終わると、ウーン、とうなずき、黙ってしまうところがあります。 20代は、これで何度も「身動きできなくなる」ことがありました。 土曜日が休みだったりすると、夜から朝まで徹夜して読んだものです。 といっても一年に1度か2度、忘れていたことを思い出したようにです。

前置きが長くなりましたが、この「美女」に登場する2人の美女についてチェーホフの語りを見てみましょう。

一人目は、主人公が中学生の頃(10代の半ばか?), 祖父に連れられて、8月のある日、ある田舎の住んでいる村からドン川沿いにある大きな市へ旅行する途中でのアルメニア人の村でお茶を飲んで休憩した時に出会った、お茶屋の娘マーシャという美人です。 長旅、土ぼこり、暑さとけだるさでウンザリしていた主人公がはっとする。

「わたしは、コップをさしだした少女の顔をちらりと眺めやった。 と急にまるで、さわやかな風が私の心を吹きぬけて、今日1日の不快な印象を砂埃や退屈感もろとも吹き払ってくれたような気持ちをおぼえた。いつの日か現実に出会ったり、夢に見たりした数多くの顔の中で、もっとも美しい、目鼻立ちの魅惑的な顔を、私は見たのだった。わたしの前に立っていたのは、すばらしい美人だった。わたしは一目見たとたんにそれを理解した」

文中で主人公は言う。「彼女は本当の美人だった。だが、それを証明して見せることが、私にはできない」。

主人公は、「おさない感じを白い首や若々しい胸に残している、端正な古典美を持つ」美女が、自分にさっぱり注意を向けてくれないことに、腹立たしさと情けなさを感じる。 彼女の、満ち足りた「幸せそうな、傲然とした、一種独特な空気が、彼女と私を分け隔て、ねたみ深く私の視線をさえぎっているかのように思われた」のである。

しかし、しばらくすると、「自分自身のことなど次第に忘れ、美の感覚にすっかり見をまかせた。もはや、荒野の退屈さも砂ほこりも思い出さなければ、蝿の羽音も耳に入らず、お茶の味さえわからないで、ただただ,自分のテーブル一つへだてた所に、美しい少女がたっていることだけを感じていた」。

しかし、主人公は気づく。自分の美に対する感じには奇妙なものがあると。「マーシャがわたしの心に呼び起こしたのは、欲望でも、よろこびでも、楽しみでもなく、快くはあるが重苦しい淋しさだった。 この淋しさは、夢にも似て、そこはかとない、あいまいなものだった 。なぜか、わたしは、自分自身にも、祖父も、アルメニア人も、その娘のマーシャも、気の毒になった。 まるで、わたしたち、4人が、もはや2度と見出せない、人生にとって必要な、大切なものを失ってしまったような感じが、心の内にあった」。

80歳を越して、自然美や女性にはほとんど無関心な一徹者である祖父も同じような「淋しい思い」をしているのか、「ひっそりと黙って、物思わしげにマーシャを眺めていた」。

場面は、その後このアルメニア人の家族の生活振りを主人公が観察する描写が続く。 美少女マーシャはその都度「ふわりと風を匂わせて」素足で歩きまわる。自分の馬車の御者、荒くれの男もこのマーシャを見ると一瞬黙り込み、しばらく荷馬車のほうを無言で眺めやり、少女が通り過ぎて行ってしまうと、がっかりしたような声で。 馬を怒鳴りつける「えい、くたばりやがれ、畜生ども!」。そして、マーシャが美しい姿を何度もちらつかせるにつれて、「私の淋しさはますばかりだった」。やるせない視線を送る御者もあわれに思える。

「それが彼女に対する美しさに対する私の妬み心なのか、あるいは、この美少女が自分のものではなく、また決して自分のものになる筈もなく、自分なぞしょせん彼女にとっては赤の他人にすぎないことを、心惜しく思ったのか、それとも類まれな彼女の美しさも、かりそめの無用なもので、この地上のあらゆるものと同じように、たまゆらの生命に過ぎないことを、漠然と感じたのか、あるいは私の淋しさが、まことの美をしみじみと眺めていることによって人の心に生まれる、あの一種独特な感情であったのか。それは知るよしもない」

3時間の休憩後、一行は出発する。押し黙ったまま。そして2時間ほど経って、御者のカルポがポツリと呟く:「あのアルメニア人とこの娘は、いい娘でしたね!」。そして、ピシリと馬に鞭を当てる。

(続く)

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南蛮阿房列車と開高健

南蛮阿房列車、南蛮阿房列車第2列車 (新潮文庫) 阿川弘之著

積読しておいた本である。昨年、帰郷して本を整理したら出てきた本だ。ある日、何のことはなしに読み始めたらたちまち引き込まれてしまった。 同氏の著書はじつはこれが始めてだ。 評伝「志賀直哉」や「山本五十六」は読もう読もうと思ってまだ読んでいない。氏の列車に対する情熱のほとばしりが余技となって実に楽しい本に読み物となっている。「阿房列車」といえば、元祖は内田百閒氏である。内田先生の場合は、日本国内の列車だが、阿川氏は、その海外版ということになる。

読んでいるうちに、阿川氏が非常に短気で瞬間湯沸かし器タイプであることが良く分かった。頭の回転が速い。 そして、驚くのは昔の海軍の同期生達の人脈の華々しさ。 行く外国では、商社の重鎮やら、大使館の大使やらそうそうたる顔ぶれである。

さて、私のお気に入りは、開高健氏が登場する「第2列車」の「マッキンレー阿房列車」と「ニューヨーク国際阿房列車」である。 故開高健氏の本はほとんど読んでいるが、同氏の釣り紀行は、傑作だと思う。 開高氏の友人にして批評家の故向井敏氏は、開高氏の「もっと遠く、もっと広く」(北米、中米、南米縦断釣り紀行)は「現在のオデッセイ」と評したが、私も美しい自然の写真と開高氏の文体に魅了されたものだ。

さて、阿川氏のこの本で開高氏は、「憂鬱なエスキモーの詩人哲学者」として登場してくる。 昔、そういえば、サントリーの宣伝でアラスカで髯もじゃの開高氏が登場するのがあったなぁ、と思いつつ、このときに阿川氏も登場していたのである。 開高氏の大食振り、大きな声の饒舌は伝説的だが、鼾の轟音もすごかったらしい。 それと、釣りの名人であるはずの開高氏だが、阿川氏の前では、さっぱりだったという裏話。 阿川氏は密かに、自分が開高氏から疫病神・貧乏神と思われていると気遣いつつも、自称「釣りの名人」にして大法螺吹き男が、一匹も釣れずジレンマで悩んでいるところを「意地悪く」高笑いしている。

カナダの提督として登場する阿川氏の友人宅で感じ入った漢詩だが、これは魯迅作の「自嘲」という漢詩らしく、「カナダの提督」が香港駐在のときに中国人書家に書いてもらったらしい。

以下その、読み下しと開高氏訳を記す。(もっと遠く 下巻 131ページと134ページ、 文春文庫)

運ハ華蓋(カガイ)ニ交(ア)イ何ヲ求メント欲スル

今ダ敢テ身ヲ翻サズ己ニ頭ヲ碰(ア)ツ

破帽モテ顔ヲ遮(カク)シテ闇市(ドウシ)ヲ過(ヨギ)リ

漏船(ロウセン)ニ酒ヲ載セテ中流ニ泛(ウカ)ブ

眉ヲ横タエテ冷カニ対ス千夫ノ指

首ヲ俯シテ甘ンジテ為ル儒子(ジュシ)ノ牛

小楼ニ躱(ノガ)レ進(イ)リテ一統ヲ成シ

牠(ソ)ノ冬夏ト春秋タルニ管センヤ

(開高氏訳)

凶運に出会ってどうにもならぬ

身をかわすすきもなく、頭、ぶっつけた

破れ帽子で頭をかくして雑踏をよこぎり

ボロ船に酒を積んで河をさまよう

みんなが何をいおうと知ったことかい

家で背中に子供をのせてオ馬ドウドウ

二階にこもってこぢんまり家族を守り

この世は春だの秋だの、勝手にしやがれ

尚、インターネットで調べたら、偶然以下の解説にぶつかった。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p4zichao.htm

読み下しがところどころ違う。 漢文を読んで解釈するのは実際大変である。

ところで、阿川弘之氏の話から、開高健氏になって、最後は漢詩になってしまった。 南蛮阿房列車は、阿川氏が、出版社の方々や遠藤周作氏、北杜夫氏などを引き連れて世界各国の列車に乗りまわる楽しいエッセイである。 阿川氏の瞬間湯沸かし器振りは、随所に出てくる。 登場する相棒だが、他に「奇人幽霊」とか「葱」とか「砂糖」とか、いろいろ綽名をつけられて出て登場るのだが、とにかく可哀想になるくらい、阿川氏の毒舌の犠牲者になっている。 この辛口ぶりと随所で出てくる瞬間湯沸し器のフィルターを通した文明論というと大げさなのだが、珍道中ぶりと、氏の列車にまつわる執着振りと情熱が何と言っても魅力である。 今は、もう絶版になっている本だが、時折、手にしたくなる本である。

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未完の傑作 「詐欺師フェリックス・クルルの告白」

1999年ロンドンの夏~秋にかけて英語版で読んだ。 この本は、マンの絶筆である。

書き始めたのは第一次大戦の始まる前、80歳を超えて結局完成しないで終わってしまったが、30歳から50年書きつづけてきた(途中もちろん中断しているが)ひょっとすると、一番トーマス・マンが書きたかったテーマかも知れない。それは何か?

「芸術」というと何か崇高で立派なものだと思う人が多いかもしれないが、そのいかがわしさをかなり自覚していたのがマンだ。詩人を例にとろう。実利主義が跋扈するこの近代の資本主義時代に、詩人など必要だろうか?繊細な感性によって、この現実世界のなかにポエジーを見出しそれを言葉で構築していくプロ。

しかし、「売りと買い」「食うか食われるか」が現実の非情なこの世界ではは決して勝者になれない役立たずの余計者でもある。詩人というこの道化者。敗北者。何故に、それにもかかわらず、世間は「詩人」に敬意を表するのだろうか?彼らはこの世の普通の人々の生業になじめず、不器用で、時には滑稽ですらあるのに。

詩人というのは、芸術家一般と置き換えても良い(音楽、絵画、映画、陶芸、歌舞伎、能、などなど)。美を作り出すのが芸術であるとしても、肝心の作り手である本人は、美からもっとも隔たっているというこの逆説。

人はなんらかで美しいもの一般に魅惑され続けながら生きていくというのがこの殺伐とした非情とも言える現実のもう一つの現実ではないだろうか?さて、その美の作り手である芸術家の内なる実態を知ったら……・。

物語は、決して生まれは卑しくはないが、破産が原因で自殺したシャンペン業者の父親を持つ青年。生まれ持った美貌と演技の才能で、徴兵検査に落第する演技をし見事、兵役を免除、名付け親となった叔父のツテでパリへ。パリへ行く列車の中で、偶然にもある大金持ちの貴婦人の宝石を手に入れてしまう(盗んでしまう)。

パリで就職するのは、今もチュイレリー公園の前にあるSt. James Albhany名門ホテルである。主人公は、エレベーター・ボーイの職を手に入れる。時代は19世紀末か今世紀初頭、いずれにしても第一次大戦前の時代。見事なコスチュームを身につけ持ち前の美貌と演技力と語学力で滞在する富豪立ちを次々と魅惑して取り入っていく。

スコットランドの独身城主。ルクセンブルクの貴族の有閑マダム、何と、パリへの列車に乗り合わせた貴婦人、つまり宝石を偶然から盗んでしまった人だ。この貴婦人とはベッドをともにし、最後は、すべての宝石をせしめてしまう。それも婦人が敢えて主人公に盗まれるように仕向けるのである。婦人は、主人公の教養の無さに気づくが、主人公の美しさ、優雅さに屈して快楽の世界に身を任せる。

客に評判の良い彼はある日、高貴な生まれの青年学生と知り合う(もちろん、客とボーイの関係)。青年学生は、いわゆるディレッタント。お金に不自由するわけでもなく、一生、労働とは無縁に暮らせる資産家の御曹司だ。が、女に入れ揚げ、学業を放棄する不良振り。 行く末を心配した両親が、女と縁を切らせるために、世界旅行を思いつく。新しい世界を見せて人生の見聞を広めるよう仕向け、冷却期間を設ければ女とも切れるだろうと。

ところが、どっこい不良青年も悪知恵は天下一。主人公の優雅さと才能を見こんだ不良青年は、役柄を交代しようと申し出た。世界旅行を提供するから、自分に成り代わってくれと!自分は、女とよろしくやっている。契約成立!

かくて、フェリックス・クルル青年は、最初の旅の目的地ポルトガルへと向かう。金持ち御曹司に成り代わって!列車の中で、やんごとなきポルトガル人ククック博士と知り合う。

リスボンではその家族(魅力的な妻と娘)に出会う。主人公は、高貴な生まれの青年を堂々と演じ、リスボンの王室にまで紹介され国王を魅了する。かと思えば、滞在を伸ばし、何とか頑なで尖っている性格の娘の心を捉えようとする。場面は、娘が心を開いて主人公になびくところで密会の現場を母親に見つかり、二人のこれからは?主人公の旅は?さて、乞うご期待。

で残念ながら未刊となってしまった。誰か、続編を書いてくれないだろうか?英語で読んだので細部が粗い読み方になってしまったが、例によって、文中思わず書きとめたくなるような、「魅惑的な文章」にでくわことたびたびで、楽しく読了した。

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同世代作家 村上龍の 「69」

Sixty nine 69(村上龍、講談社文庫)

69というのは、連想でエロチックなことを考えないでもないが(作者を考えれば)1969年地方の高校3年生を描いた、青春小説。 なかなかの傑作だと思う。 作者の本は、芥川賞受賞作も含めてほとんど読んだことがなかった。 小生よりちょっと年上だがほぼ同世代の作家。 

「限りなく透明に近いブルー」も合わせて読んだが、20歳のころこれを読んでも理解できなかっただろう。 麻薬と乱交パーティーに明け暮れる毎日。 20歳前後のパワー満開の時期、勉強して一流大学に入って既成の社会秩序に居場所を確保しようというコースを放棄し、何をどうしたらいいのか、まだ目的すらつかめない若者がひたすら快楽の世界に浸かりながらも、それゆえの不安の中で彷徨する自画像が村上龍の肉体言語で描かれていると言えば良いのだろうか?

それに比べると、69は作家として地位を確立しつつあった村上龍が、すでに過去のものとなった自画像を距離を置いて、ユーモア小説仕立てで綴った小説と言えると思う。 彼自身は略歴を読むと、早熟で文才もあり中学時代から目だっていたようだ。 

作品の舞台は、村上龍の母校、地元佐世保市の進学校。 かわいいESSの女の子の気を惹こうと左翼かぶれの同級生や自分の子分を巻きこみ、いたずらを校長室に仕掛け(机の上に何とウンコをした)、過激な横断幕を屋上から吊るし、バリケードを気づいて学校閉鎖を試みる。 もちろん周りは騒然となり、停学を食らう。 ねらい通り女の子の気を惹くことに成功。 デートに誘い出すが、キスも結局出来なかった。 結局、卒業して上京した直後に振られる。 

同級生の友人達は皆カリカチュアライズされている。 実際も、友人とは言え、本人達には気の毒なくらい、村上龍は一人目だって周りを振りまわしていたのかも知れない。 

時代はベトナム戦争の真っ最中。 アメリカ第七艦隊空母エンタープライズが佐世保港に入港しようとして反対運動が盛り上がっていた時代だった。 

サイモンとガーファンクルのレコードを女の子に貸したりするシーンに思わずニッコリしてしまう。  そして、ランボーが映画のシルベスター・スタローンではなく、まだフランスの詩人として文学青年達に認知されていた時代だ。 

小生は、氏の良き読者ではないが、文学が尊敬に値する高い価値を有するとまだ人々が素朴に信じていた時代が去った後に(三島由紀夫の死が最後と言ったのは桃尻娘を書いた橋本治氏だった)、颯爽と登場した伝統的な日本文壇とは無縁の戦無派によるアメリカナイズされた同世代として喝采したい。

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強烈な人 「田中清玄自伝」

本人の筆になる自伝ではない。ジャーナリストがインタビューを行い膨大な証言からまとめられた、田中清玄氏の波乱万丈の記録である。私が読んだ自伝の類では、まれに見る傑作である。とにかく話が面白い。

明治維新で敗れた没落会津藩士の家に生まれ、青森を経て函館で育つ。当時の函館は、海外に開けたばかりのモダンな町だったらしい。ロシア正教の教会もある。旧制弘前高校では共産主義思想にふれマルクスボーイとなる。東大に進学して活動を続けるが、忽ち特高に検挙・監獄に収監される。誇り高き会津藩の母は、これを恥として自決する。田中にとっては、これが全ての原因ではないにしても、出所を許され禅師のもとに身を寄せながら、改心する。いわゆる転向である。

親の財産を元手に、土建屋請負で財をなすと、戦後は政界のフィクサーとして活動を始める。私には、児玉誉士男や笹川良一らと何が違うのか、この本を読むまではよく知らなかった。武士の末裔としての自覚からか、自分はかれら成り上がりチンピラヤクザとは違うんだという、「プライド」をもち、彼らとは常に一線を画して生きてきたきたという。同じ右翼でも、獄中で出会った橘孝三郎(農本主義者として「愛郷塾」を水戸市郊外に設立。 5.15事件の首謀者。因みに、評論家の立花隆は彼の甥に当たる)を、本当の右翼と敬愛していたという。

戦後は、マルクスボーイ時代に培った人脈を見込まれアメリカ進駐軍の諜報活動に従事する。いわゆるCIAのスパイとなり、対ソ連共産主義の諜報である。 読んでいて一番スリリングだったのは、このくだりである。

戦前、東大新人会(マルクス・ボイーズの巣窟)に籍を置いて地下活動をやっていた当時のモスクワのコミンテルンから東京に派遣されれてきたソ連大使館員のスパイ(女性)が、戦後になって田中氏にコンタクトしてくる。共産側も当然再度のリクルート活動をしかけて来たのだろう。

田中氏の例は氷山の一角であり、どれだけの左翼転向者がどちらかのスパイになりすまし、カウンター・インテリジェンス(二重スパイ)をやっていたのだろうか? 田中氏がスターリンに疑義を覚えるのは、自分たちを指導する(オルグする)モスクワから派遣される人間が、出世してモスクワに帰ると次々と姿を消す指摘である。これは、のちに明らかになったスターリンによる惨憺たる大粛清劇で犠牲になった人たちである。

朝鮮戦争の経緯もソ連の崩壊とともに、北側がスターリンに了解を取って仕掛けたことが今日判明しているが、田中は、モスクワから派遣されたスパイとのやり取りから、察知し、当時の吉田茂首相に情報をもたらしている。吉田からアメリカ側に伝えたらしいが、アメリカ側、最後まで相手にしなかったようだ。

マルクス主義転向者が、何故に土建屋業で財をなし、戦後は政界の黒幕としてのし上がって行けたのか、このあたりの事情ははよく分からない。毛並みのよさはともかくとして、本人は痩身で強そうには見えないが、喧嘩は、子供のころから滅法強かったと言う。強かったのは、体だけではなく、「意思」「信念」の強さ、つまり今日の日本人が忘れてしまった
「気骨」のあるサムライという姿が浮かび上がってくる。

安保闘争当時は、新左翼に近づき資金援助するが、これは自民党の吉田派が行った岸内閣打倒劇である。新左翼は代々木系・正統派共産主義を批判する同じ共産主義を奉ずるセクトであるが、共産主義を内部分裂させるアメリカおよび日本保守派の巧妙な意図が、CIAの資金を流し込んで行った反米闘争なのではないか? このあたりは、冷戦終了後、アメリカで続々と公開されるCIA文書をもとに書かれた共同通信社の記者が書いた「CIA対日工作」ではからくも、明らかになった。田中清玄氏は、l児玉誉士男が放った刺客に命を狙われ、被弾するも命を取り留めたりするが、児玉氏は何を隠そう、岸信介の懐刀であった。

余談だが、とっくに冷戦が終了し、歴史の見直しが可能になった21世紀の今日から振り返ると、1960年安保というのは、正に茶番劇であったと言えないか。 なぜなら、同じ自由民主党の中で、党人派=鳩山派 対 官僚派=吉田派の権力闘争とその妥協の産物であったからだ。吉田派はCIAの資金を利用して、一方で安藤組傘下の右翼青年・チンピラを動員しつつ、もう一方で、反代々木系の新左翼にも金をばら撒き日本の左翼運動を分裂させるという巧妙な左右挟み撃ちをしたというのが真相ではなかったか?

田中氏の人脈で驚かされるのはその幅の広さである。暴力団安藤組の組長との交流を始め、世界的経済学者のフリードリッヒ・ハイエク教授*** 注参照 との交流、(京都大学の今西錦司氏との対談をセットしたりもした)、はたまた、アラブの王族たちとの付き合いなど、並みの日本人ではない。田中角栄のことを聞かれてのコメントが面白い:

「彼は偉大な政治家だが、生まれは百姓である。私は、武士の末裔である」。

明治維新とともに武士階級は滅んだが、この強烈な自覚こそは、胡散臭く見られがちな政界のフィクサーでありながら、戦後の「成金・拝金主義」が跋扈する世相のなかで凛として、「ノブレス・オブリージェ」を全うした本物の日本人サムライであったのかも知れない。少なくとも本人はそう自覚していたに違いない。

いずれにしても、下手なスパイ小説より断然面白い自伝であり、且つ又、戦後日本の政治の実相が伺い知れる時代に対する貴重な政治的証言となっている。皆さんに是非一読を薦めたい好著である。

注)
***
ハイエク教授
オーストリアはウィーンの出身の経済学者。
ユダヤ系であった為、ナチスによるドイツ併合とともに、ロンドンへ亡命。ロンドン大学経済学部で教え、戦後は、アメリカのシカゴ大学に移る。自身、ノベール経済学賞をもらっているが、教え子には、同じくノーベル経済学賞を受賞したミルトン・フリードマンがいる。

日本では、アメリカのベストはハーバード大学というイメージがあるが、ハーバードはリベラル派のトップ。 一方、シカゴ大学は保守派のトップ大学である。したがって、ケインズの流れを組むハーバードとは一線を画し、反ケインズ派でレーガン政権時代に主流となるマネタリストを多く生み出している。言ってみれば、共和党のブレインを多く輩出している。亡命ドイツ系ユダヤ学者が多く活躍しているのも特徴(ハイデッガーの不倫でも話題を撒いたハンナ・アーレント、レオ・ストラウスなど。 レオ・ストラウスはアリストテレス学者で、弟子には「アメリカ精神の終焉」を書いたアラン・ブルーム、その弟子が、冷戦終了直後「歴史の終焉と最後の人間」という世界的ベストセラーを書いたフランシス・フクヤマ氏である)

ハイエク氏は、ケインズより1世代若いが、戦前からライバルと目され、ケインズ経済学が全盛時代にあって、「隷従の道」を著し社会主義的計画経済を批判(ファシズムも国家社会主義として批判している)し、終始一貫して、イギリスの伝統である自由主義派であった。晩年は、ヨーロッパに戻り、フライブルク大学教授。又、モンペルラン・ササエティーの
会長も務めた。 田中氏は、ハイエク氏のノーベル賞を受賞式に招待され晩餐会のテーブルで同席の栄誉を得たという。日本人としては稀有な
ことではないだろうか?

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愛着のある本 その4 世界カタコト辞典

文春文庫で出ていた。 もう大分黄ばんでいるけれど、2冊もっている。 もう絶版になっていると思う。 故開高健とまだ現役の小田実氏の共著である。 小田氏の「何でも見てやろう」は傑作だと思うし、学生時代は熟読したものだ。 ベトナム反戦とかまでは良かったけれど、どの後の氏にはついていけないが。

この本は、両氏が精力的に海外を歩き、いろいろな折に耳にした印象の残る言葉を、記憶と共におもしろおかしく語ってくれた得難い本である。

例えば、開高健氏からは、フランス語でPompier et minette (消防夫と子猫ちゃん)の裏の意味を教えられた。 実際に、この言葉をあるフランス人女性に言って確認したら、「その通り」だと確認できた。

小田氏の場合だと、例えばインドを旅行したとき、ヒンズー語の会話でよく間投詞で出てくることばに「アチャ」といのがあるという。 意味としては、「まあ、おや、なるほど、さて・・・」という意味らしい。 

この本を読んだのは、大学卒業した頃だろうと思う。 この「アチャ」に出会って、この本を思い出したのは、ロンドン赴任の時だったから、本を読んだ20年後のことである。 

ロンドンには100メートルに一軒の感じでインドカレーレストランがあったような記憶があるが、当時住んでいたアパートの近くにもあって、毎週日曜日の夜は、必ず、カレーのTake Awayをしていた。

イギリスではとにかく通うこと、顔なじみなることが、買い物のコツだとは、いろいろな経験者に言われたが、まさにその通り。 通算で、1年近く通ったのだが、まず、レストランに入り、挨拶。 それから、野菜カレー、シシケバブ(羊のひき肉)のインド風グリル、チッキンティッカ(チキンのグリルインド風)、ニンニク入りナン1枚を注文し、最後に、ハーフパイントのビールをオーダーして、ビールを飲みながら、料理が出来るまでの10分から15分を待つというパターンである。 途中からは、私の顔見るだけで、ビールが自動的に出てきて、オーダーもこうですね、と先方が確認をするまでになった。 そして、最初は、気づかなかったが、私のオーダーを注文表に書きながら、メニューの合間に、アチャ、アチャ、アチャというのがしきりに入るのに或る時気づいてから、さらに、インド人に妙な親近感を抱くようになったものだ。

閑話休題。 以下、私の「世界カタコト辞典」を少しばかり披露したいと思う。 最初は、ハワイ語である。 スタイルはあくまで、オリジナルの開高・小田風にしてみようと思う。

Ia te aloha ia te oe

(ハワイ語で、私はあなたが私を愛するようにわたしもあなたを愛するの意)

それは、小生がまだ20代の半ば過ぎの頃の話である。 オランダはアムステルダムに1年住んでいたことがある。 昼間は会社の仕事があったけど、夜は全く自由。 独身で(今もそうだけれど)、パワーがまだ十分あって人生が楽しくてたのしく仕方がなかった頃のある日。 あるローカルパブで、チャーミングな女性と出会ったのだった。 オランダ人は言葉の天才である。 准英語国民であり、英語以外にヨーロッパの言語を複数話す人間がざらにいる。 東南アジアの華僑にあたる。かつてタイで出会った日本語ガイド氏は台湾出身の華僑で、日本語はもちろんタイ語、マレー語、広東語、北京語、福健語そして英語をすべて流暢に話す語学の天才であり、将来は実業家を夢見る好青年であった。 オランダ人はヨーロッパの華僑である。

ところで、彼女の名前は、Alma!!!(マーラーの奥さんの名前と同じ)。 カタコトの英語を操りながらお互いに冗談を交わしながら、だんだん酔いがまわり気が付いたら、周りのオランダ人をさしおいて二人で長い長いDeep throatではなくDeep Kissを交わしていた。 お互いにカタコトのいろいろな国のことばを使って冗談を言いながら笑わせながら、最後に彼女が一言呟いた。 「イアテ・アロハ・イアーテ・オエ」。

それってどこのことばとポカーンとする小生に彼女はいたずらっぽく笑って、英語で意味を説明してくれた。二人とも相当よっていたと思う。 閉店間際に彼女のボーイフレンドが店に現われべろべろの彼女をエスコートしてTot ziens (オランダ語でまたあいましょう=さよなら)。 

一期一会ではないが、数年に一度はこの言葉と彼女のことを思い出すことがある。」

以上は、本当にあった話で、脚色はありません。 証人は、当時同じ研修でアムステルダムにいた、情報関係のA君です。 上記の中で、お互いにジョークを言い合ったことになっているけれど、そのジョークについては、また、別の機会に、ブログでアップする予定。 乞うご期待!

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愛着のある本 その3 George Mikes

イギリスのユーモア作家にGeorge Mikes(ジョージ・ミケシュ)という人がいる。 既に故人であるが、高校時代に、How to be an alienという本と出合った。これはZ会の通信添削問題の出題であった。 Z会に、感謝、感謝!

英語の勉強の積もりで、同氏の著書は出来るだけ沢山集めて読むようになった。 絶版になっているものが多いが、コレクションした本を列挙してみると

1)      How to be an alien   (イギリス論その1 1946)

2)      How to be decadent (イギリス論その2 1950年代から1960年にかけて)

3)      How to be inimitable  (イギリス論その3 1960年代後半から1970年にかけて)

4)      How to a Yank and More Wisdom  (アメリカ旅行記、他のエッセイ)

5)      Italy for beginners (イタリア旅行記 1950年代)

6)      Switzerland for beginners (スイス人論 1960年代)

7)      How to tango (南米旅行記 1960年代)

8)      How to be Seventy (自伝 1984年、死の3年前。 傑作だと思う)

9)      English Humor for beginners (イギリス人のユーモアについてのエッセイ)

10) Arthur Koestler The Story of a Friendship  (同じハンガリー人で世界的に著名なジャーナリ

スト、作家、哲学者の友人であったアーサー・ケストラー氏へのオマージュ)

11) The Land of Rising Yen (日本旅行記。 1960年代後半)

12) Prophet Motive (イスラエル旅行記)

13Gedanken sind zollrei (ドイツ語版、ババリア地方、オーストリア、ユーゴスラビア、ハンガリー

の旅行記。 時代は冷戦の真っ只中、1970年前半)

14Tsi-Tsa The biography of a Cat (野良猫との出会いを綴ったユーモア譚)

15How to be God (人生論その1)

16) How to be Poor (人生論その2)

17) How to be Guru (人生論その3)

18) Dr. Mikes Goes Around the World (ミケシュ作品のオムニバス)

19)スパイになりたかったスパイ(翻訳で、ユーモア・スパイ小説。ソビエトのスパイがロンドンで活躍するのだが、ドジで失敗の繰り返し。ロシアの諺がスパイスとして前半、効果的に使われているところは、腹を抱えて笑ってしまう)

良くも集めたものである。 ちょっと、マニアック過ぎただろうか? 一部は、アムステルダムに住んでいたころ、オランダの書店で買い集めたのもあるし、ドイツ語版はオランダ人からプレゼントされてもらったものである。 神田の古本屋街で偶然見つけたものもある。

1940年代から70年代のものがほとんどで、自伝は1980年代に書かれた。 ハンガリー生まれのユダヤ人で、ミュンヘン会談のあった年に取材でロンドンにやってきて、それ以後、ロンドンに留まり、イギリスに帰化し、イギリス作家教会の会長にもなって来日したこともある。

同氏の徹頭徹尾のユーモア作家であり、日本人作家ではこのタイプというのはお目に掛かれないのではないかと思う。 How to be an alienには、例えば、イギリス人の性生活を揶揄して、

Continental people have sex life; the English have hot-water bottles.

と一言で片付けているが、これは、当時かなり評判になり、イギリスはもちろん、ヨーロッパでもかなり人口に膾炙してるらしい。  同様に、まずい食生活に関しても、

On the Continent people have good food; in England they have good table manners

と笑わせてくれる。 

ユーモア作家というのは、皮肉屋とは違って、どこかにいたわりがあるのだろうか、相手をばっさり切ってしまう、辛らつなフランス流のウィットとは一味違う感じがする。 同氏によると、イギリス人はユーモアというのはイギリス人の独占物だとおもっている節があるとのことで、English Humor for Beginnersは、それに対する鋭い分析をいろいろなジョークを紹介しながら語っていて、楽しませてくれる。 

日本だが、第1回目の旅行記(East is East)では「Yes, I Am Not という「にやり」としてしまう章があったり、第2回目の旅行記(The Land of Rising Yen)は1960年代後半、学生運動が盛んだった頃の時代背景で、おもしろおかしく、しかも、日本への愛情も感じられて(リップサービスか)、ペンギンブックでは今でも版を重ねているようだ。 今から30年以上も前の日本を取材旅行した本なので、現在の日本一致しないところもあるけれど、鋭い指摘もあって時折読み返している。 イスラエル旅行記やアメリカ旅行記などとにかく、時代背景の制約はあるけれど、今読んでも面白いし笑わされるが、出色なのは、スイス人論ではないかと思う。これは、めちゃめちゃ面白い! ホントに。

最後に、East is Eastのマレーシアの章から一部を紹介してみよう。

Malaya is supposed to be a country of Malays but it isn’t really.  Before going any further, I had better define certain terms. A Malayan is an inhabitant of Malaya,  irrespective of race or creed;  a Malay is a member of the Malay race and a Moslem;  while a Malaysian comes from the common stock of Malays and Indonesians.  So, for example,  a Chinese can be a Malayan but he cannot be a Malay any more than a Malay can be a Chinese.  A Malay can be also a Malayan and so can an Indian but the Indian can never be a Malaysian.  And so on.  I shall open classes for more advanced pupils in the autumn………

分かりましたかぁ? これが分かればあなたの英語は本物です。 私もやっと笑えるようになりました。

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愛着のある本 その2 「2度目のハレー彗星」

ドイツにエルンスト・ユンガーという作家がいた。19世紀末に生まれ、21世紀に入る直前にこの世を去った。 ロンドンで仕事をしていた1998年の冬のある日、102歳で大往生したというニュースが新聞にも載った。日本語の新聞にも死亡記事が出ていた記憶がある。

この人は、ドイツでも毀誉褒貶の激しい人で、プロイセンの軍人として高校を繰り上げ卒業して、第一次世界大戦に従軍。 傷を何度も負いながら戦場に復帰、最後は、第2次世界大戦でも勇名を馳せたロンメル将軍と同じプール・ル・メリット勲章を当時のドイツ皇帝からもらった人である。このときの体験を日記につけていたらしく、敗戦後、本にして出版したところベストセラーになった。 フランスのアンドレ・ジッドは第一次世界大戦について書かれた本でももっともすばらしい作品だと激賞した。

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内容的には、戦場の凄惨な場面も含めて日常生活を客観的に叙述し、レマルクのような、戦争=悪とかヒューマニズム的センチメンタリズムとは無縁なスタイルだった。後年、ナチスが政権をとり海外亡命したトーマス・マンからは、ワイマールの墓堀人と揶揄されたりもした。同氏の著書には、SF風の小説や哲学的評論とかいろいろあるが、出色なのは日記ではないかと思う。第二次世界大戦中、従軍してパリに駐屯したパリ日記もなかなか面白いし、死の直前までずっと日記を書き続けて、出版している。

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1980年代の終わりごろ、世はバブル真っ盛りのころであった。 新宿の紀伊国屋で偶然、ユンガー著「2度目のハレー彗星」のドイツ語版を見つけ、このご老体、まだ生きているのか、と不思議な感動を覚えながら、購入した本だ。 90歳にならんとする歳だが、マレーシア、シンガポール、インドネシアなどを旅行した日記風の旅行記である。 目的は、1986年に地球に接近したハレー彗星(76年に一度大接近する)を見ることだった。 ユンガーは子供のころ、つまり1910年に両親や兄弟と一度この彗星を故郷のハノーバーで見ている。 つまり、生涯2度目のハレー彗星との遭遇である。本の中で、同氏は同様に2度ハレー彗星に遭遇する幸運に恵まれたマーク・トゥエインに言及している。 _091 同時にこの書は生涯の趣味、甲虫類のコレクターとしての昆虫採集の旅でもあった。 昆虫を通した文明論でもある。 昆虫にまつわるエッセイは日本語訳も出ていて(「小さな狩」ある昆虫記)、子供の頃、胸をときめかしてハンミョウやオサムシを追いかけた日々の追憶からマレーシア、アフリカ、イタリアはサルジニアなどの昆虫採集と旅にまつわる楽しいエッセイである。 

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愛着のある本

愛着のある本というものがある。 吉田健一氏の「書架記」もその一冊である。吉田茂首相の息子で、文学青年、若き日にイギリスのケンブリッジ遊学。同時代の日本人とはおよそ隔絶した環境で教養を身につける。この本は、氏が愛着を持つ本についてのおしゃべりなのだが実に楽しい。ラフォルグとかプルーストとかボードレールとかヴァレリーとかこんな高級な?本をいとも簡単に原語で読んで、手に入れた本の経緯なども交えた氏の本に対する愛着が感じられる。実に、楽しそうに吉田氏は語りかけてくる。 

そんな中で、エリオット・ポウルの探偵小説、という1章があって、第一次世界大戦後にパリにやって来たアメリカ人ジャーナリストで、いわゆるフランコフィルという奴だ。 パリに惚れたアメリカ人である。この人の書いたThe Last Time I Saw Parisというのは出色の出来のパリガイドらしい。 吉田氏の永井荷風の「ふらんす物語」なんて寝言に近い、というくだりを読むと、無性に読み無くなってしまったものだ。

ずいぶん昔のことだが、この本を読んで、一度、本屋に注文して入手しようとしたが、適わなかった。絶版だったようだ。 それから10数年の月日がたった。田舎に戻って、ある日、本を整理していて、この本がひょっこり出てきた。 当時はなかったアマゾンドットコムで試しに検索してみたら、びっくりだ。 引っかかって来た。 まだ、版を重ねているのだ。 早速注文した。英語の本なのだけれど、戦間期、最後の光芒を放ったパリの香りがする本に違いない。実際に読んだら、がっかりするかも知れないが。こればっかりは、読んでみないと分からないが、胸が時めいてしまう。

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