2012年5月18日 (金)

Ken FollettのTriple

たまりにたまった本を整理しはじめることにした。何しろ中学校時代からの本が整理されずに残っているのだ。さすがに本の置き場に困り始めている。

 

整理しながら本を手にする。旺文社文庫、そう、もう絶版になっている旺文社文庫がある。

モンテクリスト伯爵

ジャン・クリストフ

野生の声

 

なつかしいなぁ。でも、ストーリーは大方忘れてしまった。でも、もう2度と読むことはないだろう。

 

創元社文庫だと、いまだに出版され続けているものがある。

グリーン家殺人事件

Yの悲劇

Xの悲劇

フランス白粉の謎

チャイナ橙の謎

ガーデン殺人事件

シャーロック・ホームズ冒険

シャーロック・ホームズの帰還

赤い館の秘密

 

推理小説が多い。これらももう再読することはないだろう。

 

Book Offに持って行ったが、段ボール2箱で500円にしかならなかったが、引き取ってくれるだけましである。

 

整理している中でケン・フォレッとのペーパーバック版が出てきた。1979年印刷となるから大学卒業直後のことだ。手にしてベッドにもぐりこんで読み始めたら目茶目茶おもしろい。先週末の軽井沢旅行にも持参して昨日朝読了した。

 

主人公は、ロンドンはイーストエンドの貧しいユダヤ人家庭に生まれ、第2次世界大戦では連合軍のイタリア作戦に参加、ドイツ軍の捕虜になり強制収容所で地獄の体験をするも生き延びて、戦後はイスラエルに移住、イスラエル諜報機関のスパイである。

時代は1968年前後のこと。戦後オックスフォード大学で主人公と出会った旧友が物語に絡んでくる。

Yassinはパレスチナ生まれのアラブ人で、ルクセンブルクの金融機関に勤めるがエジプトの諜報機関のエージェントである。

ロシア人のRostovは、KGBの諜報員として登場する。

物語は、エジプトがロシアの支援を受けつつ核施設を密かに作って核兵器を作ろうとする情報をキャッチしたイスラエルが自らの安全保障上の危機を乗り切るために、プルトニウムを手に入れる作戦を展開するところから始まる。

 

当時核兵器は、アメリカ・ソ連・英国・フランス・中国の5か国独占の状況であった。主人公はルクセンブルクにあるヨーロッパの原子力機関の職員から情報(ホモの職員を脅して核処理燃料の輸送データを入手)を得海上輸送される船を乗っ取りイスラエルに持ち帰るというプランである。

 

この計画を巡って、ルクセンブルクで偶然再会したYassin(エジプトの諜報員)とKGBRostovが阻止するために動き出す。彼ら3人の恩師でオックスフォード大学教授のイギリス人の妻の娘Suzaが主人公Dicksteinの恋人となる。彼女の母はヨルダン人、つまりアラブ系であり教授もアラブ寄りの人間である。

 

エジプトの諜報機関には、イスラエルのモサドにソ連・アラブ側の情報をリークするダブルエージェントがいたり、それを知っているKGBが偽情報を流したり、国益を巡る諜報員の活動を実態さながらに描いていてスリリングである。

 

モサドは主人公が恋に落ちたスーザがアラブ側の諜報員であると疑い、KGBもそのように彼女を扱ったが、冷徹なKGB諜報員のRostovは最後の最後で墓穴を掘ることになる。

 

手際よくジブラルタル海峡を過ぎた輸送船を乗っ取っろうとした主人公だが、Yassinの計らいで一足先乗っ取りに成功したパレスチナ解放戦線の一味と戦う羽目になり多大な犠牲を払って何とか確保する。

 

その船を抑えてイスラエルが秘密裏に核兵器を持とうという意図を世界に暴露して漁夫の利を得ようとするKGBRostovの目論見は最後の最後で頓挫する。Rostovの船に囚われの身となっていたスーザは、通報受けた主人公が単身船に乗り込んで来て救われる。

 

エンターテインメント小説だけにハッピーエンドではあるが、作者ケン・フォレッと氏の才気がいたるところで垣間見えるなかなかの出来だった。30年近く眠っていた本がやっと日の目を見た瞬間だった。

 

ところで、小説の最後のエピローグでパレスチナ問題の難しさをアラブ人政治家がたとえる話は示唆に富むものだった。

 

「パレスチナ問題は、イスラエルが核兵器を持ったことによって、永遠に解決しないだろう。アラブ側に核兵器はないのだ。パレスチナとはいわばイギリス連合王国のウェールズみたいなものだ。ウェールズ人(スコットランド人と同じくケルト人)は、1000年くらい前にアングロ・サクソン族に占領された被占領民族なのだ。1000年間彼らは屈辱に耐えてきた。出来ることというのは、最近もそうだが、警察署に爆弾を仕掛けることくらいだ。」

 

中東におけるイスラエルとパレスチナ問題に解決の糸口はない。パレスチナ人はウェールズ人のような運命を辿るのだろうか。

 

中東で現在唯一核兵器を持っていると思われるイスラエル。イスラエルはNPT に加盟していない。イランの核問題はイスラエルの存亡にかかわる安全保障問題なのだ。極東に住む平和ボケした日本人からは彼らの緊張感を理解することは不可能だろうか。

 

極東にも核問題はある。北朝鮮だ。北朝鮮は、核を持つことで金王朝政権と取り巻きの特権階層(軍人)の存続を図っている。現在五か国協議の枠組みで解決を図ろうとしているがようとしてその糸口は見えてこない。しかし、脅威の最前線にいる韓国はもちろん、日本には緊迫した脅威の実感がないのも事実である。何故なのだろうか。

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2012年5月 8日 (火)

Kissinger氏の「On China」を読む (その2)

1970年前後の国際情勢は、今日からするとまったく違っていた。

アメリカ合衆国は、194910月に毛沢東率いる中国共産党が樹立した中華人民共和国と国交がなかった(蒋介石の中華民国を承認していた)。

西方では、インドと国境紛争を抱えて敵対していた。

南方のベトナムではアメリカが介入して55万の軍隊が派遣されていた。ベトナムと国境を接する中国は北ベトナムを支援していた。

 

そして、肝心の社会主義の同盟国ソ連とはスターリン死去後のフルシチョフ政権を修正主義と批判・対立しウスリー江では島の領有をめぐって軍事衝突があり、嘗ての友好関係から一転して敵対関係となり、ソ連は国境付近に軍事力を結集していた。

もちろん、アメリカの子分となってしまった日本とも国交はなかった。

外交的には八方塞り状態だった。

 

内政も混乱の極みだった。毛沢東主導で行った1950年代後半の大躍進政策は2000万とも3000万とも言われる餓死者を出すという惨禍を招いた。劉少奇副主席らの実務派に批判され主導権をうばわれた毛沢東は面白くなかったらしい。

 

ここらあたりが凡人の我々には理解に苦しむのだが、唯我独尊、嫉妬深い毛沢東は、実務派の経済立て直しは必要と感じつつも、共産主義革命=永久革命に情熱を持ち続ける、というに満ちた「確信犯」だった。「共産党の親分は自分なのだ」、という自己顕示と権力闘争のために、両派を戦わせながら(劉少奇、周恩来、鄧小平の実務派と毛沢東の3番目の妻・江青らの4人組)や林彪ら人民解放軍らの永久革命派)、権謀術数の限りを尽くして周りの人間を使い捨ての駒のように犠牲にしては、自らの正当性を維持しつつ権力を掌中に維持し続けたのだった。

 

キッシンジャー氏が周恩来首相と秘密会談を行った1971年から72年にかけての中国内政情勢は、外交と同様に出口なしの状態だった。その極め付けが「林彪事件」だった。謎が多いとされる事件だが、文化大革命の過程で、劉少奇の追い落としに功のあった林彪を自分の後継者にしたものの、人民解放軍の実権を握りナンバーツーとなった林彪の影響力に自分の地位が脅かされる不安を感じた毛沢東の粛清劇だったらしい。クーデターを試みた林彪は、失敗し逃亡を企てたものの飛行機がモンゴル上空で墜落(撃墜?)して死亡した。

 

キッシンジャー氏の周恩来や毛沢東との会談と回顧しながらの氏のコメントは現代史の生き証人の言葉だけに読んでいてゾクゾクしてしまう。当時、キッシンジャー氏は40歳後半後半の若造だった。片や、毛沢東、周恩来はたたき上げの革命家で日中戦争とその後の国民党との内戦を勝ち抜いて大混乱の中国を再統一した「超大物」であり半端な政治家・革命家ではなかった。

 

周恩来に初めてあったときキッシンジャー氏は周恩来氏の存在(圧倒的な存在感、優雅さ、炯々と輝く眼光、鋭い知性、包容力等)に圧倒されたことを正直に告白している。(同氏に、「まともに戦略の話などできない」と酷評される日本の政治家・外交官とはまったくレベルが違うということだろう)。

 

話は脇道のそれるが、日本の政治家のレベルが何故にかくも見劣りするのか。宮崎市定氏の指摘に納得せざるを得ない。 つまり豊臣秀吉級の人間が中国にはゴロゴロいるというのだ。人口一億の日本を束ねる指導者が人口13億を束ねる中国の政治家と比較するのが間違っているということだろう。しかも、中国は多民族国家である。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康級の人物が各地域に割拠しているのだ。このレベルの指導者が、ベストエイト、ベストフォーで戦い、決勝で勝ち残ったチャンピョンが、中国の歴代の皇帝であり、毛沢東だったのだ。

 

キッシンジャー氏は、近代ヨーロッパ外交史の権威だが、そもそも16世紀に現在のヨーロッパ地域に於いて「主権国家」が登場して勢力均衡による外交が確立し伝統となり、第一次世界大戦前まで続き、その結果として両世界大戦による惨禍の結果EC,EUという統一欧州共同体が出来たことを踏まえて、16世紀から20世紀世紀前半までのヨーロッパを紀元前の中国春秋・戦国時代になぞらえている。

 

このブログは、この本の要約ではない。気になるところを記そう。 最終章を先に読んだのだが、キッシンジャー氏は、21世紀の現在、中国の台頭を、19世紀後半のビスマルクによるドイツ統一事業がヨーロッパの地政学的状況に根本的な変革をもたらし、結果として第一次、第二次世界大戦につながった事実に触れながら、アメリカ合衆国をイギリス、中華人民共和国をドイツになぞらえたアナロジーに注意を促す。

 

歴史がそのまま繰り返せばとてつもない悲劇となる。そうはならないだろうと、キッシンジャー氏は言う。単純な人は米中戦争を考えてしまうが、第一次大戦まえのヨーロッパの指導者は、近代兵器の惨禍を予想できなかった。21世紀の今日の指導者達はそれを知っている。

 

米中は相互の国益を追求しながら、破滅的な対立にならないよう、おもに非軍事的に調整を図りながらともに「進化」していく関係を築くべきであると提言し、それは可能なはずだと言う。

 

(続く)

2012年5月 6日 (日)

Kissinger氏の「On China」を読む その(1)

キッシンジャーの「On China」を読み始めた。2011年の春に出版されて評判になった。Timesにはイギリス人の歴史家Niall Ferguson氏の書評も出ていたし是非読んでやろうと思ってアマゾンですぐ注文した。しかし、なかなか熟読する時間を見つかられずに半年が経ってしまった。

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やっと時間が出来た連休前に読み始めた、と、皮肉なことに新聞広告で岩波書店から「キッシンジャー回顧録」という名前で翻訳が出たことを知った。題名が良くないと思う。やっぱり、原題のニュアンスは尊重すべきだろう。「キッシンジャーの中国論」が妥当ではないか。

 

読みながらつくづく思うのは、欧米の政治家がどれだけ中国を中心とする東アジアの歴史と現状を理解しているのか、という疑問である。旧西ドイツの首相だったシュミット氏も彼の著書で「無知ぶり」を正直に告白している。彼らは、驚くほど自分たちの文明・文化圏以外の世界については無知なのだ。彼らにとっての教養とは、あくまでも同じキリスト教共同体から発展したヨーロッパ史であり、その枝分かれした北米アメリカ史なのだ。

 

裏を返せば、日本の政治家を始め、アジアの政治家がどれだけ欧米(ヨーロッパ・北米のキリスト教圏)の歴史・文化を理解しているかという、問いになるが、状況は同じだろうか。いや、明治維新で西洋化に目覚めた日本を始め、いわゆる近代化路線を取らざるを得なかった東アジアのみならず全世界の非西洋諸国の政治家たちはいやがおうでも手本として主要欧米諸国についての知識と理解を持たざるを得ないのだから、欧米のカウンターパート達よりは少しは上回っているのではないだろう。

 

キッシンジャー氏は、南ドイツの片田舎に生まれたドイツ系ユダヤ人だ。ヒトラーの迫害を逃れてアメリカに移住。どういう経緯でハーバード大学に入れたのかはわからないが、秀才ぶりを発揮して、ハーバード大学院で19世紀のヨーロッパ外交史の論文を書いて博士号を取った。米ソ冷戦真っ最中だったニクソン政権時代に大統領と二人三脚でそれまで国交のなかった中華人民共和国と国交回復を実現して世界をあっと言わしめた辣腕の外交官にして冷徹な戦略家、というのが私の知る大まかな氏について知るところである。

 

日中国交を回復した故田中角栄氏がロッキードスキャンダルで失脚して刑事被告となって晩節を汚しても「井戸を掘った恩人」として中国は彼に敬意を表し続けた。キッシンジャー氏は、そのアメリカ版である、とは言っても彼は晩節を汚している分けではない。キッシンジャー氏と中国との繋がりは深い。

 

大革命家にして大戦略家かつ暴君であった毛沢東とその子分(毛沢東に死ぬまでいじめられ続けたらしいが)周恩来との出会いから始まって今日までの歴代の中国のトップとの付き合いは長い。1972年から今日までの50年、半世紀である。国際政治学者として日本では紹介されるキッシンジャー氏だが、正確に言えば、彼はstrategist、つまり、戦略家というのが正確なところだろうと思う。

 

読みながら思ったのは、21世紀は中国が19世紀半ばごろから強いられた「150年」の屈辱をようやく清算して、かつての大国へ回帰する過程なのだ、ということだ。過去20世紀のうち18.5世紀において中国の力は圧倒的だった。その圧倒ぶりは、島国に住む現在の日本人には実感しずらい。

 

満州事変から日中戦争を戦って日本は中国に負けたのだが、大方の日本人の認識は中国に負けたのではなく、アメリカに負けたと漠然と思っている人が多いだろう(最近は、日本とアメリカが戦ったことを知らない世代が結構いると知って私はショックを受けたのだが)。

 

歴史をきちっと勉強すれば、日本は中国に負けたことが良くわかる。大戦略家であるキッシンジャー氏は、最初のほうの章で「孫子」に触れている。中国の古典「孫子」は、「戦いで最上は戦わずして勝つこと」としている。19世紀のプロイセン軍人クラウゼヴィッツの「戦争論」は、兵力の運用に重きがあるのに対して、「孫子」の戦略的観点(心理戦、謀略)はその上を行っているのだ。しかも、紀元前200年~400年のころの話なのだ。

 

日本は、中国の戦略に負けた。蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党(八路)軍は、西安事件を契機に2度目の国共合作を実現した。彼らの伝統的な戦略である「遠交近攻」政策に基づき、当面の敵である侵略者・大日本帝国と戦うために同じ帝国主義で苦しめられたイギリスやアメリカ、ソ連と手を結んだ。日本が真珠湾攻撃をした時点で、アメリカの第2次世界大戦の参戦が実現し、イギリスのチャーチルも国民党の蒋介石もこれで、日本に勝てる、と狂喜した。

 

冒頭でキッシンジャー氏は、中国の「独自性」(singularity)を強調している。そして、その独自性は、性質は違うが、アメリカ合衆国の「独自性」(exceptionalism)と対をなしている。どちらも、本来であれば、自足的で、周りに気遣う必要がない。違いは歴史の集積からくる中国独特の儒教文明に対し、アメリカは「Manifest Destiny」に象徴される使命感(民主主義とキリスト教を世界に広める)である。

 

どちらの国、というか私に言わせれば「文明圏=一つの世界」なのだが、我々日本人やヨーロッパ人が考える「国」=nation state (通常「国民国家」と訳される)とはmagnitude(度合)がまったく違う。ヨーロッパ大陸国は、ドイツ・フランスおよびベネルクス3国を中核に「ヨーロッパ合衆国」らしきものをつくろうとしているが、アメリカ合衆国も中国も国家としての度合いはこの「ヨーロッパ合衆国」規模なのだ。

 

(続く)

2012年5月 5日 (土)

村上春樹の「1Q84」を読む

開したにもかかわらず半年また沈黙してしまった。新緑の季節を迎えて気分爽快。忘れていたわけではないのだけれど、身辺がやっと落ち着いてきた。これからしがらくは読書日記のエンジンを全開しよう!!

 

連休前半は野暮用で東京へ。久しぶりにシングルマザーの母娘と楽しい時間を過ごして来た。娘はバレエを習っていてその発表会もあった。かわいいですねぇ。良かったですよ。招待してくれてありがとう!!

 

一緒に食事したり、遊園地に出かけたり、買い物に出かけたり、自転車乗りの練習に付き合ったり、疲れましたねぇ、でも、自分はとても元気になってまた田舎に戻って来た。

 

往復の移動中やや深夜、早朝の自由時間は一人で久しぶりに小説を読んだ。村上春樹の「1Q84 」の文庫本(14)を携行したのだった。彼の本を読むのは「ノルウェーの森」を1990年前後に読んで以来だろう。 

 

1984年というと、もう28年前のことだ。1984年のその年、私はアムステルダムで仕事をしていた。若かった。主人公の天吾くんとほぼ同じ年だったなぁと思いながら、第一巻から読み始めたら、面白くてずんずん引き込まれて昨夜遅く4巻まで読了。

 

ストーリーのことはまだ読んでいない人のために書かないけど、子供のころに心の傷を負った二人の登場人物、予備校で数学を教えながら小説家修行をしている男・天吾くんと戦闘的フェミニストにして女版「必殺仕置き人」(すでに3人の男を殺している殺人者)である青豆(あおまめ)さんを中心に、60年代から70年代に盛り上がって消えていった新左翼運動に関わった若者達のユートピアの果てに、80年代のバブル景気がまさに始まったばかりの1980年代に登場してきたオウム真理教を連想させる宗教団体を巡って物語は展開していく。

 

月が二つ見える、空気さなぎ、リトル・ピープル。「巫女」の役割を果たしているらしき発達障害と思われる17歳の美少女の口から語られるこれらの謎に満ちた言葉。小学校時代にたった一度手を握っただけだが惹かれあう天悟と青豆は、この「巫女」=ふかえりさんの狂言回しに乗って1Q84年という「捻じれた?」奇妙な現実の世界へと誘われていく。読んでいて刺激的で楽しい。これが村上ワールドなのだろうか。

 

個人的には、1984年というとジョージ・オーウェルの「1984年」を思い出す。リトル・ピープルとういのは、オーウェルの「1984年」に出てくる独裁者ビッグ・ブラザーのパロディである。当時、冷戦は続いていたし、ソ連が5年後に崩壊するとはまったく想像も出来なかった。

 

学生時代に、すでに新左翼運動は下火にはなっていたが、新左翼崩れの先輩と話したこともあるし当時の雰囲気はよく覚えている。自分は、考え方に付いていていけないなぁと思いつつ、同級生と同じようにリクルートスーツに身を包み何とか就職(オイルショックで就職は厳しかった、2012年の今日ほどひどくはなかっただろうが)して数年経過し、仕事に没頭する毎日だったが、何か飽き足らない日々で、ヨガに興味を持ったり、哲学書や宗教書を読み漁ったりしていた。私にとっての1984年は、バブル景気に突入する直前で日本中が沸き立ち始める兆しがあり、世の中が何か変わったな、と思えるそんな年だった。

 

小説にはいたるところで音楽が重要な役割を果たしている。基調音はヤナーチェクだ。映画「存在の耐えられない軽さ」で出会ったピアノ曲を愛好する私だが、「シンフォニエッタ」は聞いたことない。聞きたくなった。

 

続巻の登場が待ち通しいい

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2008年8月21日 (木)

涼しい夏の夜に、レニ・リーフェンシュタールの「回想」を読む

残暑厳しいはずが、このところ涼しい。毎日のように夕方近くになると雷雨模様。子供の頃の夏は、午前中は早起きしてクワガタや蝉取りに興じ、その後はお昼までは宿題、お昼ご飯を食べて、それから昼寝だった。松下電器製の扇風機の風を受けながら。(驚くなかれ、まだ健在の両親は、まだその扇風機を今にいたるも愛用している。40数歳である)。そして目が覚めてスイカを食べるころになると積乱雲がみるみる空を覆い、突風が吹き始め真っ暗になって、稲光、ゴロゴロ、ピカッ、ドドドーン、そして土砂降りが30分ほど続いて、雷が遠のき、それから涼しい夕餉の時間・・・だった。

今週は仕事に身が入らない・・・昼休み、たまらず外に出る。雑木林は静かだった。近くを散策して、お弁当をスーパーで購入、事務所に戻る途中、再び雑木林を通りかかるとカラスのけたたましい声とキキキキキィ~とあのツミの声。すぐ目のまえで何とハトサイズのツミが大きなカラスを追い回しているではないか!

ずっと大きい鷹の仲間のトビやオオタカがよくカラスに追いまくられるところを見かけるのに反して、ツミは小柄ながら気が強い猛禽らしく一回りならぬ二回りくらい大きいカラスを攻撃し続けている。ひょっとして子育てしるのだろうか?大きいカラスがうろたえて逃げまくっている。果敢に追いかけてカラスを追い払ったツミはふたたび葉の茂る高木の茂みに身を隠した。

前の会社のM先輩から、女性は小柄なタイプよりもどちらかというと大柄なタイプのほうが、心優しくて素直だぜ、と以前アドバイスを受けたことがある。野鳥と女性をごったにするな、といわれそうだが、自然界も同じことらしい。

仕事は18時前に切り上げて、早々に帰宅。ビールを飲んで、軽い夕食を取り、涼しい夜は相変わらすオリンピックを見たりしている。今日は女子ソフトボールの決勝を最後まで見てしまった。金メダルオメデトウ!やっと米国に勝ったね。次回からオリンピック種目からはずれるのが寂しい。英連邦諸国の国技のクリケットも正式種目に加えていいから、是非存続してほしいと思う。どうだろうか、このアイデアは・・・。

先週始めのこと、以前から見よう、見ようと思っていた第11回ベルリンオリンピックのドキュメンタリー映画を見た。500円のDVDが2枚で1000円。8月始めに東京に出張したとき、たまたまぶらりと入った田町駅前の本屋で見つけて即購入したものだ。学生時代にリバイバル上映されたが見損なった記憶がある。監督はヒトラーの愛人とも噂されたレニ・リーフェンシュタール。102歳の大往生を数年前にした人だ。

映画についてはまたの機会にコメントしたいのだけれど、涼しくて心地よい真夏の夜な夜な、このところ彼女の回想録をベッドの中で面白く読んでいる。文庫本上下で1200ページを超える本だ。読み始めてすぐ、彼女が処女を失う場面に出くわした。ニヤリとする私。若かりし頃の彼女の写真を見ると大変な美人だった。その彼女をイメージしながら、処女喪失の場面を読むのは、いやらしい中年男(英語でdirty old manと言うらしい)にとってはたまらない。 「21歳で初めての男性体験は思っていたロマンチックなものとはほど遠い惨めな体験だった」、と著者は振り返っている。 

数ヶ月前に読んだコリン・ジョイス著「ニッポン社会」入門に「勝負パンツ」の話が出ていたけれど、レニさんも、あこがれの年上の男性のアパートに誘われて、すでに体験のある女友達から「美しい下着」を身につけるようアドバイスを受ける。そして、「黒のレースの下着」を借りたのだった。つまり、「勝負パンツ」であった。 なるほど!

続く

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2008年7月21日 (月)

Elias Canettiの自伝第一巻を読了!

週末は、Elias Canettiの自伝に没頭した。長らく積読状態だった本を思い出したように本棚から取り出して、翻訳本を読み始めたら、おもしろくて食事とトイレの時間を除いてずーっと2階の風通しがよいベッドにゴロリとなって読み続けてしまった。

1巻は、著者の幼年時代から思春期(1905年~21年)を扱っている。驚くのは著者の生まれた文化(言語)環境だろう。15世紀にスペインから追い出されたユダヤ人の末裔で、オスマン帝国に庇護のもと成功した商人の家に生まれたのだが、大家族で語られる言葉は古風なスペイン語だというから驚きだ。周りは素朴なブルガリア人が話すブルガリア語の世界。カネティ一族の家庭で代々話されてきた古スペイン語は、オスマン帝国支配下でトルコ語の語彙がかなり浸入していたという。ドナウ川の対岸はルーマニアでロマンス語系のルーマニア語も理解した。トルコ人、ギリシャ人もいれば、ロシア人もいる。一族の支配者、強烈な家父長権を発揮する祖父は17カ国語が出来るというのが自慢だったという。

エリアスの両親はしかしながら、若き日にウィーンで教育を受け、ドイツ文化の薫陶を受けた。家族での夫婦の会話はなんとドイツ語だったという。幼き日の著者にとっては、それは謎の言語であった。

ウィーンで近代教育を受けた両親(特に母はCanettiに強烈な刻印を残す)は、バルカン半島の「東方的」文化環境に満足出来ず、伝統的家父長権を振りかざして一族の人間を威圧する祖父の軛を逃れを飛び出したのだった。トルコのパスポートを持って母方で成功した商人が住むイギリスのマンチェスターへ移住する。しかし、一家に待ち受けていたのは、あまりに早すぎる父の死だった。

父の突然の死によって、一家は母の希望でウィーンへ移り住むのだが、ウィーンまでたどり着くまでに、一家の伝を頼ってパリ、スイスのローザンヌを旅する。 あちこちに分散するCanetti一族というかスペイン系ユダヤ人(スパニオール)のネットワークには驚くばかりだ。ウィーンに到着する3ヶ月前にエリアス少年は、母親からドイツ語の特訓を受けるのだが、瞬く間にドイツ語をマスターしてしまうのだから驚きだ。

幼年時代を思い出しながら家族や級友達を語るカネティの筆致は精細にして執拗である。そこから浮かび上がるのは母親と長男の特別な関係だ。母親は、ユダヤ人ではあるが、スペイン系のスパ二オールの末裔にして誇り高き一族であるという自覚が強烈であり、いわゆるオーソドックスな宗教的ユダヤ人達とは格が違うと、息子がウィーンで始めて意識したユダヤ性に特別の意識を吹き込む。

豚肉を食べないユダヤ人だが、マンチェスターで息子にベーコンを食べさせた母親。近大教育を受けた啓蒙主義者にしてコスモポリタン。文学的教養から発する彼女の批評は息子を常に緊張状態に置く。母と息子は毎晩読書をしながら「真剣勝負の対話」を続けるのだった。あいまいな言辞に対する母親の明晰な批評と容赦のない嘲笑。

27歳にして未亡人になった母は教養あふれる溌剌とした美しい女性で、長男のエリアスは母に言い寄る男性にことごとく嫉妬を燃やす。母を誰にも渡さないゾ。カネティという個性は、このように母との絶えざる緊張を強いる対話を通して母のあるものが自分のあるものと融合して出来たのだった。

しかし、子供のエリアスにとって母の記憶はあくまで子供の一面的なところの記憶であった。3人の子供を抱えて、切り詰めた生活を強いられる中、母は、何度か病に倒れる。家族はウィーンを去りスイス(チューリヒ)に移住する。サナトリウムに入る母と女子寮の中の唯一の男性として幸福な日々を送るカネティと全寮制の小学校にはいる弟二人はバラバラな生活を送る。

離ればなれになりながらも文通を通して母と固い絆で結ばれるエリアスだったが、スイスの平凡な田舎で本に囲まれて惰弱に育つ息子に危惧を懐いた母は、息子を打ちのめす批評をしてフランクフルトへ移住することを決意する。

以上が第1巻である。時代は1905年~1919年まで。第一次世界大戦というヨーロッパを揺るがす大事件を前半はウィーンで、後半はチューリヒで体験している。チューリヒでは、あるカフェで新聞をうずたかく積み上げて議論する禿頭のレーニンが登場したりもする。

読んでいて何より面白かったのは、この自伝がユダヤ人という日本人にとってはおよそ想像を絶する宗教の民の内情が、オスマン帝国の片田舎、ブルガリアの伝統的世界から両親とともに近代的な世界に抜け出ようとする新しい世代の「教養小説」(ビルドゥングス・ロマン)として、執拗で浩瀚な筆致であますところなく描かれていることだろうか。

筆者の記憶は美しい幼少時代のバルカン半島の風俗、母が実家の果樹園の中で子供の頃よじ登って本を読んだという桑の木や氷結したドナウ川を馬車で渡っていた厳寒のある日オオカミに襲われた話、カネティ一族の邸宅と中庭の様子、物乞いジプシー一団の描写、トルコによるアルメニア人虐殺で家族をすべてなくしたアルメニア人男が中庭で悲しい歌を歌いながら薪割りをする情景。イギリスと特にスイスへの親近感などが綴られる。

スイスはハプスブルク王家の起点となったところだが、ハプスブルク帝国の軛から自らを開放して自由を勝ち得たことに対するスイス市民への共感は、学校で学ぶ古代ギリシャ史の民主主義と共振する。ハプスブルク・ウィーンの皇帝・貴族・ブルジョア達の形式張ったものものしい世界と、スイスの世俗的で平等な市民社会との比較。マクロな歴史叙述では決して見えてこない数世代に渡る記憶と20世紀前半の革命と戦争の激動の同時代の目撃者として20世紀のドイツ語圏が生んだ希なる才能がその文学的泉からのとめどもなく語り続けるのだ。 読みながら、その深い囁きに耳をそばたて、時代を超えた人間のいとなみに共感を覚えさせられた。

読み終わっての余韻がなんとも言えない。著者と一緒にしばらくそのまま留まっていたい、そんな本だった。

第2巻は敗戦後の不穏なワイマール時代のドイツはフランクフルトが最初の舞台となっている。このままだと、一気に第3巻の1937年まで読めそうだ。

2008年6月28日 (土)

気ままに読書(2)

滅多に夢を見ないのだが、たまに見ることがある。人には言えないおぞましい夢を見たこともまれにあるが、大概見る夢は、何かを探していて見つからない、あるいは、どこかに目的地に向かって進みながら、どんどんずれていって、永遠に辿り着けない、そんな夢が多い。 そして、仕事で忙しくて疲れていたりすると、現実の仕事が夢の中に登場したりする。 つい最近も、あるイベントの場面が出てきて、それもいきなり当日の本番だった。何の準備も出来ていない。表彰状も記念品も準備できてない。何だ、何だ、何だぁ~、まったくぅ~、困ったぁ~。参ったナぁ~、ああ、もう間に合わない、助けてくれ~エ、と叫び声を上げたところで目が覚めたのだった。いい歳して、何て夢かと、苦笑してしまう。

歴史家の山内昌之氏の「嫉妬の世界史」をぱらぱらとめくる。著名な人たちの意外な側面を知る驚きの本である。 嫉妬深い森鴎外が登場する。明治の文豪と言えば、夏目漱石と森鴎外。(幸田露伴もいるが)。個人的には、夏目さんにより親近感を感じる。三島由紀夫氏は森鴎外の武士の末裔らしい感情の抑制のきいた文体に引かれたらしいが。秀才であったものの鴎外は、東京医学校では8番と成績が振るわず文部省給費留学生には選から漏れたという。先輩の手引きで、軍医として陸軍に入り屈折した心で外遊して、ベルリンで出会ったのがあの舞姫だったのだ。官界にはいっても先輩官僚に面倒を見てもらいながらあまりに高すぎるプライドで、自分の文学の中で関係者を揶揄・避難したり、意外とねちねち、嫉妬深く、卑怯な復讐ぶりには唖然としてしまう。

昭和の陸軍の天才参謀と言われた石原完爾は、逆に頭が切れすぎて凡人の東条英機の嫉妬を買い、主流から徹底的に外され干されてしまったという。恐らく、組織のなかでは扱いにくい人だったのだろう。部下としてもったら、持てあまして、振り回され大変な人、それが石原さんだったろうか?東条英機は、所謂、官僚型の秀才で気配りと調整能力は抜群だったという。片や、カミソリの如く切れまくった石原氏からすれば、東条さんは間抜けな馬鹿だったし、そういう態度で接したらしい。どうも、石原さんは、目立ちすぎて周りからは敬遠されて浮いた存在だったようだ。山本五十六みたいな人望がなかった。

似た本には、イギリス人ジャーナリストポール・ジョンソン氏の「インテレクチャルズ」がある。バートランド・ラッセルやトルストイの滅茶苦茶ぶりには驚かされる。特権階級、全てが思い通りに世界を動かせた人たちの善意の部分、ヒューマンな部分は、彼等の表の部分で我々が知っているのだが、無意識の部分での自分勝手振り、我々平凡な人間の価値基準では計り知れない脱モラル振りには驚くばかりだ。

続く

2008年6月27日 (金)

気ままに読書(1)

水を渡りまた水を渡る

花を看てまた花を看る

春風江上の路

覚えず君が家に到る

このところ、朝目覚めるとベッドの中で1時間、早朝の読書を励行している。気ままに周囲に散らかした本に手をのばす。さて、今朝は何かな、といった具合だ。 夜はさっぱりだ。ベッドに入って5分後には眠りに落ちてしまう。歳だネ。

最初の漢詩は、高校時代の漢文の教科書に出ていた漢詩だ。なかなかいいじゃないかぁ。しかし、当時こんな漢詩を学んだ記憶がさっぱりない。発情期で、もっぱら興味は体力を消耗することだったからだろうか?

月明らかに星稀なり。

日暮れて途遠し。

この辺りは、微笑ましい。ユーモア感じてしまう。

一犬、形に吠え、百犬、声に吠ゆ。

書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。

亡国と事を同じくする者は、存すべからざるなり。

うーん、一言一言が心に沁みます。そして、自分のいろいろな失敗が思い当たる。

振り返って見れば、いろいろなところで、いろいろなハットする言葉に出会ってきた。若い頃、自分にとって言葉は空気と同じようなものだった。文学青年ではなかったし、小説とか評論なんかもさっぱり読まなかったし。

体力が衰え始めた30代に突入したことのある春、当時住んでいた武蔵境の桜並木の美しさにハットさせられたことを思い出す。それまで、花見なぞ、まったく興味がなかったし、なんであんなに群れ集って楽しいのかさっぱりわからなかった。それは、30数歳にして、私の中の何かが、桜の花に感応した瞬間だった。

三島由紀夫氏の自伝的小説「仮面の告白」の最初の方で、「子供心に外の世界にはヒリヒリするような欲望の世界を感じた」、というくだりがあったと思う。この点で、三島先生は、尋常ならざる人だったのだと思う。天才とは、どこかしら、異常に研ぎ澄まされた感性があって、そのするどい嗅覚と直感に苦しみながら大人になって表現方法を確立して、結果的に大多数の凡人が作る世間に認められた人、ということだろうか?アインシュタインも相対性理論をすでに子供時代に直感で理解していたという。 認められなかった人、これすなわち、狂った人ということになるだろうか。

続く

2007年10月14日 (日)

気ままにおしゃべり(7) 寺山修司~丸山薫~小田実

ふるさとの 訛りなくせし 友といて モカ珈琲は かくまでにがし   「歌集」

グローバリゼーションの時代と言われて久しい。ネスカフェのインスタント珈琲しか知らなかった田舎の学生が東京に出て味わった本格的な珈琲の香りと味。しかし、今日では「喫茶店」はもう死んでしまったのではないか?娯楽があまりなかた学生時代、私は友人と喫茶店によく足を運んだものだ。今じゃさっぱりだが。

当時は、クラシックやロックやジャズを専門に流す喫茶が結構あって珈琲一杯で何時間も粘ったものだ。あるいは、友人と馬鹿話する一方で真面目なおしゃべりも少しはしたと思う(天皇制をどう思う、から始まる政治の議論や、ヘッセの「デーミアン」読んだか?とか、M君は「ハイデッガー全集を読破したらしい」ゼ、オレはさっぱり分からなくて放り投げたよ、などなど)。 

運動部や文化サークル活動に熱中するならともかく、私は、何となく体育会系の雰囲気に馴染めずテニスクラブをやめて、悪友とマージャンをするか、パチンコするか、真面目に図書館にこもって勉強するか、4畳半の裸電球がぶら下がった殺風景の部屋で難しい哲学書を読むか、とにかく授業をサボって部屋で惰眠を貪るそんな日々を送っていた。

8月のブログで登場したN君とはよく喫茶店でモカを飲んだものだ。キリマンジャロ、ブルーマウンテンなど時には奮発もした。山形出身の友人だったN君は寺山修司の声帯模写が絶妙だったナ。 

吶々と早口で語る寺山氏。競馬狂でもあった。 井伏鱒二氏の漢詩訳「花に別れの譬えもあるさ、さよならだけが人生だ」をもじって、「サヨナラだけが人生なら、また来る春は何だろうか」と同氏の競馬エッセイの本の帯にあった。

N君の家に一度遊びに出かけたことがある。蔵王でスキーをしたり、寒河江の実家のそばのパチンコ屋に出かけて遊んだりした(当時はパチンコに凝っていた時期だった)。教師だったお父様と話していたとき、何かの拍子で詩人の丸山薫氏のことが話題になった。 丸山氏はもともとは本州愛知の出身だが戦中から戦後にかけて山形に疎開していて地元ではとても有名だとのことだった。丸山薫氏の詩はたまたま一つだけ知っていた。

汽車にのって

あいるらんどのような田舎へ行こう

ひとびとが祭りの日傘をくるくるまわし

日が照りながら雨のふる

あいるらんどのような田舎へゆこう

この詩を知ったのは、先日亡くなった小田実氏の「何でも見てやろう」だった。思うに自分はまともに詩集なぞ読みきったことがない。どこかの誰かがイイ、と言った詩を拾い読みして原典を買ってきて読む、というのが多いのだ。

小田実氏の「何でも見てやろう」は高校時代に出会って感激した本だった。描かれるアメリカは、1950年年代後半であり、まだ公民権運動もベトナム戦争もなかった。ソ連と冷戦が始まっていたが、世界一豊かなアメリカがキラキラ輝いていた時代だったと思う。 21世紀の今日のアメリカと何と遠く隔たってしまったことか!今や、アメリカは世界のお荷物となり始めているのではないか!これについては、また近々別に論じたいと思う・・・。

小田実がアメリカにいた時代はアメリカの絶頂期だった。マリリン・モンローもジョン・F・ケネディもまだ生きていた。この本は、フルブライト留学生としてのアメリカ体験と、ヨーロッパ、中近東、イラン、インドと巡って日本に戻るまでの11ドル旅行だ。元祖バックパッカーではなかっただろうか?同氏の本は大学時代まではあらかた読んだが、ベトナム戦争終了後から、ボートピープル問題、カンボジア問題、北朝鮮問題が出てくるなかでの同氏の政治的スタンスにはついて行けないものを感じて決別した。しかし、良いものはいい、ということで「何でも見てやろう」は1969年の新装版を今も大事に保管して数年に一度は思い出したようにページをぱらぱらめくって拾い読みしている。 

(続く)

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2007年10月13日 (土)

気ままにお喋り(6)フレイト・トレイン~97セントのブルース、そして寺山修司氏

しばらく途切れていたシリーズだが、Elizabeth CottenFreight Trainを聴いていたら連想が次々と広がった。

Langston Hughesという黒人の詩人がいた。アメリカ人だ。私は彼の良き読者ではなないが、一冊の詩集(翻訳)をたまたま持っている。もう大分黄ばんでしまった本だ。Collected Poems of Langston Hughes (ラングストン・ヒューズ詩集) 思潮社海外詩シリーズだ。彼は列車の詩を沢山書いた。そのなかの一つに「75セントのブルース」というのがある。書き出しがイイ。

どっかへ 走っていく 汽車の

七十五セント ぶんの 切符を ください

ね どっかへ 走っていく 汽車の

七十五セント ぶんの 切符を くだせい ってんだ

どこへいくか なんて 知っちゃあ いねえ

ただもう こっちから はなれてくんだ。

    ・・・・・・

(木島始訳)

すーっと言葉が心の中に入ってくる。自分の波長に合う詩なのだ。だから、文句なしにイイ。他人がどう何を言おうが知っちゃことない!アメリカに連れてこられた奴隷の末裔として生きる黒人としての鬱屈する怒りだろう。公民権運動が全米に火をつけた1960年代よるさらに30年も前の大不況時代のアメリカだ。

アーサー・ケストラー氏の自伝「目に見えぬ文字」の中に、1930年代前半にソ連の中央アジアを取材旅行していたケストラー氏がヒューズ氏に出会うシーンの記述があった。その時もこの詩を思い出した。ヒューズ氏は当時の共産主義ソ連の招きでアメリカ黒人の解放の映画を作るために招かれていたが、アメリカがソ連を承認する政治的な駆け引きの中で滞在中に話しが流れて中央アジアで足止めを食っていたらしい。

ラングストン・ヒューズ氏のこの詩に出会ったのは、実は意外なところだった。寺山修司氏の「ポケットに名言を」という文庫本だ。二十歳前後の私は同氏の本をよく読んだものだ。田舎出の自分にとって東京はある意味で別世界であった。カルチャーショックまでとは言わないが、やはり地方出身者として違和感がどこかにあったのだろう。青森出身の寺山氏の短歌やエッセイにはいたく共感するものがあった。

(続く)

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