2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

2007年3月11日 (日)

雨の日は読書 ~ 周恩来秘録(上下)

今日は、朝から雨。久々に双眼鏡を持って遠乗りを目論んでいたのだが、朝からごろごろ、ベッドに入って、枕元においてある本を手当たり次第、サーフィンする。私の読書パターンは、まことに気まぐれ極まりない。乱雑に積み上げられたいろいろな本を定期的に整理するのだが。 最近の濫読にしたがって、気ままにブログって見よう(こんな表現あるのかな)

周恩来秘録(上・下)

最近出た新刊だ。「毛沢東の私生活」は、以前に読んだことがある。下巻の途中で置いたままだが、かつての侍医がアメリカに移住後にまとめた回想録というか暴露本であった。出版後、著者が自宅で謎の死?を遂げて世間は色めきたったというが。毛沢東は、ヒトラー、スターリンと並ぶ20世紀の怪物政治家だった。桁が違う。毛沢東なしでは、中国共産党は、蒋介石に勝てなかったかも知れない、と私は勝手に想像するのだが、毛沢東は、第一級の戦略家であり、又偉大な詩人でもあった。

一方の周恩来は?周恩来は中国では非常に人気が高いという。毛沢東の暴虐ぶりは、厳しい言論統制にある中国の普通の人にもすでに周知の事実であるが、しかし、帝国主義者を追い払い、アメリカから多額の支援を受けた国民党・蒋介石との内戦を勝ち抜き、中国を統一を実現した実績故に、やはり、中国共産党最大の功績者としていまも顕彰されている。周恩来は、ある時期までは毛沢東よりランクが上の共産党指導者だった。農民あがりのコンプレックスのかたまり、負けず嫌い、野心家であった毛沢東と違って、「読書人」 -日本人が文字通り理解する意味ではなく、「科挙の合格者を出す」教育を受ける意味。かつて中ソ論争が始まって険悪になったとき、フルシチョフの挑発に対し、周恩来は、お互いに我々は階級の裏切り者ですね、と切り替えしたジョークがあるらしい。つまり、周恩来は、「読書人」=中国の官僚階級を裏切り、フルシチョフはソ連の労働者階級を裏切ったという2重に皮肉- 階級のボンボン秀才であった。大変要領の良い調和型・実務派であったが、周囲をひっぱり統率しながら敵と戦う際に必要なエネルギー(胆力・決断力・非情さ)に欠けていた。

スターリンが指導するコミンテルン(都市プロレタリアートによる革命)と毛沢東の方針(三国志以来の中国革命である農民革命)の板ばさみになり、悩みに悩む。そしてある時(遵義会議、ちょうど、蒋介石の国民党と内戦になり、劣勢は覆いがたくいわゆる「長征」を行い中国の僻地にたてこもる決断をする直前)を境に、毛沢東に屈服し、それ以来彼の忠実な家来となった。しかし、どこかに毛沢東へのわだかまりがあり、距離を置いていた。毛沢東もそれはよく分かっていて、周恩来の弱点を承知しつつ彼の並外れた実務能力を利用した。毛沢東にいびられ、こき使われながら、必死に耐え、彼の尻拭いをしながらも職務を忠実にこなす、健気な恩来像が浮かび上がってくる。

それは、自分の良心と政治の非情さに身も心も引き裂かれながら、必死に耐え、何とか調和を保とうとする姿だった。中華人民共和国成立から毛沢東の死まで、中国は毛沢東に翻弄された(大躍進、文化大革命と迷走する元凶であった)。かつての戦友たちが、毛沢東の策略で失脚し非業の死を遂げていくなかで、しぶとく生き残った。

毛沢東は、晩年の周恩来が膀胱ガンの治療を受けるのを妨害して、彼の死期を早めたらしい。我の強い独裁者に共通するのは猜疑心の強さだ。毛沢東は最後まで、周恩来に心を許さなかった。周恩来が死んだとき、毛沢東は葬儀に参列しなかった。毛沢東の心中は、周恩来が先に死んでくれた安堵だったという。

周恩来を三国志の劉備玄徳に仕えた諸葛孔明になぞらえる向きもあるという。劉備亡き後も、暗愚な息子の皇帝に、朝から晩まで身を粉にして忠実に仕えた為、命を縮めたとも言われる。しかし、周恩来が仕えた皇帝は、毛沢東自らが譬えた秦の始皇帝、つまり有能ではあったが、それにも増して周囲を振り回し多くの命を奪った暴君でもあった。

著者は、党のエリート学者でかつは党の秘密資料にアクセスする機会を持っていた。1989年の天安門事件をきっかけにアメリカへ出国し、研究を続けている私とほぼ同じ世代の人らしい。長い間、周恩来の本当の姿は、タブーだった。輝ける中国共産党による建国と神話化。この本は、毛沢東の脱神話化に続く、中国の文化大革命を身をもって体験し、鄧小平の改革解放と天安門事件による民主化の挫折を経験した新しい世代による、周恩来の脱神話化の試みだろうか。

訳者の後書きで、米中国交回復に際してのキッシンジャーと周恩来の会談で、周が日本について「彼らはより狭いということですね。彼らは島国の集団です。」「日本はアメリカの制御がなければ暴れ馬です」と発言していることに触れながら、そろそろこの政治家の見直しをしても良い時機ではないかと言っている。ひとつの時代の意味は、その時代が終わったときに始めて明らかになる。本人たちの意図を超えてということだろうが、中国というのは、日本人の感覚で捉えるにはあまりにも巨大で複雑すぎると思う。

2006年10月31日 (火)

靖国神社に行ってきた!

仕事が一段落して、昨日、今日と休みを取った。 年老いた両親は父が80歳、母が75歳。 今年の冬に、九州旅行に一緒に行こうと思っていたのだが、母が病で倒れて、願いは叶わなかった。 

そこうするうちに、母は全快したものの、自宅療養、私は、偶然にも地元で職が見つかり、勤め始めて半年が経ってしまった。 前の会社を辞めるとき、旅行券をもらったのに、期限切れ直前と気づいて、あわてての東京一泊旅行であった。

もう、東京で見るものはない、と言う父だが、中国・韓国ともめている靖国神社にはちょっと言ってみたいナの一言で決まった。 実は、私も、九段下をうろうろしたことはあっても、意識的に避けてきて、鳥居を見ただけで中を見たことはないのだ。

上野から地下鉄を乗り継いで11時前に到着した。 九段坂をとことこ歩いて、鳥居をくぐり、大村益次郎の銅像をうろうろした後、ゆっくり歩きながら本殿にたどり着いた。 平和な風景である。 韓国人の団体がグループ写真を撮っているかと思うと、どこかの企業研修であろうか、リクルートルックの若者達の団体もあった。

お賽銭を入れて、平和を祈り、神社の方に親子スリーショットの写真シャッターを押してもらって、それから、問題の遊就館を見学した。 入場料は大人一人800円で安くはない。

日本古代から始まって、日本人の心、大和言葉で歌われた和歌と一緒に日本の武具が展示してある。 鎌倉、室町、江戸と続いて、幕末・戊辰戦争・明治維新、西南戦争、日清戦争、北進事変(義和団事件)、日露戦争、満州事変、日支事変、太平洋戦争と続く。 最後は、太平洋戦争で日本の為に命を捧げて散って行った軍人の写真、名前が壁という壁に展示されていて、圧倒される。 戦争の悲劇に思いを馳せて、うなだれてしまう。 つい60数年前のあの激しい憎しみと戦いは一体なんだったのだろうか? 日本人・日本史から見た戦争博物館というものかも知れない。 イギリスはロンドンに大英帝国戦争博物館なるものがある。 私は、ロンドンに数年住んでいたが、残念ながら、ロンドンの戦争博物館を見損ねている。

たままた、PHP新書で出たばかりのイギリスのジャーナリストで著名なビル・エモット氏の「これからの10年、新黄金時代の日本」というのを読みかけていて、靖国神社の「遊就館」と南京の「大虐殺の館」を考える、という章を読んだばかりでもあった。

同氏は、最近、この靖国神社(遊就館)と南京大虐殺館の両方に足を運んで取材もしたらしい。 2005年、ロンドンで同氏は、大英帝国戦争博物館でアラビアのロレンス特別展が開かれる中、エコノミストと日頃から関係の深い高位高官関係筋を招待してカクテル・パーティをしたらしい。 かつての敵国のドイツ大使も来たし、イギリスの植民地として激しい搾取にあえいだインドの大使も来たという。 エモット氏は、別に両大使から異論は唱えられなかったが、日本の靖国神社や南京の大虐殺館では、このようなイベントは不可能であろう。 何故かと問う。 同氏はポーランドのアウシュビッツ博物館(世界遺産になっている)と併せてこの3つは「未解決の歴史を記念している」ように感じると言っている。 一方、大英帝国戦争博物館は、「現在ではなく過去の歴史に捧げられている」と言う。 アウシュビッツ、南京、靖国のそれぞれの博物館は、過去をテーマにしているが、現今の人の考え方に影響を与えるために利用されている、という。

大英帝国博物館について、イギリスの場合の帝国主義が、免罪になってるようなエモット氏の解釈がなりたつかどうかは疑問だと思う。

ユダヤ人問題については、日本人として差し迫った問題として意識しにくく、本質を理解するのがむつかしい。 大体、日本人にユダヤ差別など存在しないと思う。 むしろ、中近東の状況を見ていると、ヨーロッパであれだけいじめられたユダヤ人がなぜにあのように、アラブ人を虐げるのか? アメリカが肩入れして、やり過ぎじゃないか、とすら私には思える。 

日中の確執についてだが、同氏は、南京の30万虐殺という数字が、当の中国人学者も首をかしげていて、躊躇していること、又、アメリカのアイリス・チャンの銅像がたっていたりして、明らかな政治宣伝の道具であることを指摘して、日中の学者が歩み寄って本当のところを突き止めるべきだし、靖国の「遊就館」のいわゆる、日本史の見直し(太平洋戦争敗戦後の東京裁判に関しては、インド人パール判事の無罪論を大きく訴えて、極東軍事裁判の不当性を主張している)についても、苦言を呈している。 

日本人として、南京については、同氏のコメントに同感である。 一方、靖国の「遊就館」の歴史解釈の見直しに関してはどうだろうか? 日本の国論は分かれるのではないだろうか? 講和条約を受け入れたということは、東京裁判を肯定しているのだから、東京裁判否定は、すなわち、戦後の日本が存続した講和以後の体制を否定することになる、という人もいる。 両親などは、敗戦以前、明治以降から1945年までの歴史は、日本が悪である、というコミンテルン・テーゼそのままに、素朴に信じているようである。 

靖国神社見学後、タクシーで築地に移動して、おいしい寿司を食べ終わって、ひとしきり、昔の話をした。 小学生の頃、東京見物に来たこと。 浅草、上野公園、 秋葉原の交通博物館、東京タワー、 中学生のころ、テニスの全国大会に出場してプレーしたのは、今も残る日比谷公園のテニスコートだった、などなど。 そして、靖国の話になった。 「海ゆかば・・・・・」 海軍の歌だが、この原作者が、大伴家持であることを私も含めて3人とも知らなかったことで大笑いした。 

東京裁判史観と言われる、現在の歴史の見直し、ということについてだが、私が、明治維新から、日清戦争、日露戦争というのは決して日本がひとり「悪」を背負うものではないこと、満州事変・日中戦争だって、現在では、考え方として、蒋介石率いる国民党軍と日本帝国軍を戦わせて、漁夫の利を得る、ソ連・スターリンと毛沢東率いる中国共産党の謀略が本質だった、という考えもあるという話をしたら、両親は押し黙ってしまったままうなずくだけだった。 かく言う私は、歴史には正しさなぞない、というニヒリストである。 勝てば官軍、ということだろうか。 イギリス・アメリカ アングロサクソン連合軍が第二次世界大戦の勝者であったが、結果的に良かったと思っている一方で、日本があのような悲劇的な戦いをしたことが、間違っているとも思わない。 日本が意図する・意図しなかったに関係なく、日本は19世紀から20世紀にかけて、世界史の中で光芒を放ち、アジアを開放したことは間違いのない事実である、と思っている。 アングロサクソンにあれほど盾突いたドイツにも敬意を感じている。ヒトラーは余計だったが。 戦後、奇跡の復興を果たしたのはドイツであり、日本である。戦勝国のイギリスもフランスも中国も、或る意味で敗戦国でもあったのだ。 

しかし、歴史は勝者の歴史であることも事実である。 そして、歴史はここ300年近くずーっと勝者であり続けたイギリス・アメリカというアングロサクソンの言語・論理が正しいのである。 日本人にとっては悔しいことであるが、日本人としてすべき当然の自己弁護は執拗にしていくべきではないか、というのが私の率直な考えである。

2006年10月 7日 (土)

ドイツ・ベネルクスの歴史を自己流に考える

昨夜からの続きで、今日は、ドイツ、ベネルクス(オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)だ。

ドイツ語圏は、紀元後9年、同じフランク族でもローマ軍がアルミニウス(ドイツではヘルマンというそうだ)にトイトブルクの森(オランダ国境に近い、現在のOSNABRUECKの近くらしい)で殲滅されて、ライン河畔を防衛線にしたことから、ローマ化されなかったフランク人の末裔が現在のドイツ人ということになっている。 このゲルマンの各地に割拠する諸王達の有力な人たちが神聖ローマ皇帝になったようであるが(あってるかな)、意識としては、ローマ帝国を引き継いだということだったようだ。

ローマ帝国って、5世紀だかに崩壊とか世界史の本にあるけれど、当時の人たちとしては、そういう感覚はなかったらしい。 ローマ教皇が力を持ってローマ皇帝はいつのまにかいなくなり、代わってゲルマンの世俗王達が、各地にローマ文明を意識しながら割拠していたわけだ。

ちなみに、東ローマ帝国=ビザンチン帝国からオスマン帝国をへて生き延びた古代ギリシャ人の末裔たちは、近世に至るまで自分達をローマ人と意識し、自らを呼んでいたらしい。ギリシャ人という今日の意識は、19世紀になって初めて出てきた意識だという。 又、驚きなのは、ヨーロッパの由緒ある貴族の系図を辿っていくと、ローマ帝国時代の入植ゲルマン人郡団長(部族長)に繋がるという。

ウィーンとかケルンとかトリエとか古代ローマ文明と蛮地の境界の砦であった。ライン川とドナウ川が境界であった。 この未開なフランク人たちが、ローマ文明に触れて、教化を受け独自のドイツ性を発展させ、同じフランク族のフランスとは違ったアイデンティティを作りながら、現在の東欧からロシア方面に殖民していった。 ベルリンからモスクワの間も、基本的にはドイツ文化圏である。 フランス以西からすると、ローマ化しなかったゲルマンがドイツということ。 だから野蛮だと。 

その中で、ハプスブルク家はスイスの小さな所領から「数奇」な運命を背負って、中世から20世紀初頭まで、一時はスペインとも縁組して世界帝国まで築いたり、最後は、腐臭を放ちながら、19世紀末に最後の光芒を放ち、20世紀文明に多大な貢献をして、いまはその役割を終えて静かに、余生を生きている。 これが、今日のオーストリアである。 EUの経済の牽引車として、第2次世界大戦後、敗戦国でありながら日本と同様、経済力ではダントツなのがドイツである。 

スイスのドイツ語圏の人もオーストリア人もベルギーやルクセンブルクのドイツ語を話す人も、ドイツ語文化圏というのを共有している。 ドイツというのは、文化概念である。 国をまたがって文化圏が成立している。

日本語の「国籍」という言葉に相当するドイツ語にはStaatsangehoerigkeit(意味的には、国の所属)とNationalitaet(意味的には、民族性という意味。)の二つがあって、前者はスイス人、とかドイツ人とかオーストリア人ということ。 後者は、「ドイツ語文化圏所属」という意味である。 このあたりは、日本人には想像を絶する。 

ベネルクス諸国に言及すると、 スイス、フランスのブルゴーニュ地方、ルクセンブルク、ベルギー、オランダあたりは、もともとフランク王国が3兄弟に分配されたときの長男が受け継いだ土地で、歴史的には、現代のフランスとドイツ・オーストリアの間の勢力争いで翻弄されて来た地域で共通している。

1617世紀のオランダ独立戦争は、当時の支配者であった、ハプスブルク・スペインに対する戦争だった。反ハプスブルクだったフランス王(ルイ何世だったか)は、イギリス王と組んで、
オランダ独立を助ける。 当時、オランダはヨーロッパ一番の富裕な国だったらしい。 財源は、ニシンとフランドル地方(今のベルギー)の毛織物。 イギリス、フランスは後進国だった。 

オランダ絵画は富の絶頂にあった頃のオランダ市民(正確にはネーデルラント=現在のオランダ、ベルギー)が、飽食し、バブルに浮かれていた風俗を描いている。 いずれも市民が飲み食いしている情景が描かれている。 精妙なニシンや牡蠣など、中世の宗教画とはまったくちがう、写実的な描写も、この背景があってこそ、レンブラントの様な絵が何故生まれたのか、つまり、実利的な市民社会の出現を理解できるのではないか。

欧米諸国の「欧」とは、フランス、ベネルクス、ドイツである、と最初に書いた。 イタリア、南フランス、スペイン、ギリシャなどいわゆる地中海世界はヨーロッパアルプスを境に分かれているのだ。 地中海世界と同様、ドイツの東側の諸国、旧東欧も位置づけとしては、ヨーロッパの周辺国なのである。 

イギリスは、同じ英語圏である北米(アメリカ・カナダ)に連なる、ヨーロッパのもう1つの周辺、と言うには、政治的力が段違いに強く、アングロサクソン文明というヨーロッパ大陸文明とはかなり音色の違うカウンター文明の趣きをなしているように思える。

と、ここまで、自由自在、勝手気ままに、自分流ヨーロッパの歴史のおしゃべりを繰り広げてしまった。 支離滅裂の感を免れないような気がする。 今までの蓄積と最近の読書で、興味はいろいろな方向に展開し、いろいろな想念が沸き起こり、なかなかまとまらない。 イタリア論だとか、旧ハプスブルク帝国のこととか、バルト3国のこととか、ギリシャのこととか、も語りたいのだが、今日は、このあたりで・・・・。

2006年10月 6日 (金)

フランスの歴史を自己流に考える

大学時代にドイツ語を勉強して以来、いろいろ歴史、哲学関係の本は読んで勉強してきたし、卒業後は、民間会社に就職して、主としてヨーロッパ方面と関わる仕事をしてきた。 それでかどうか、分からないが、ヨーロッパに対する興味というのは途切れることなくずーっと続いている。

今日、アメリカを無視しては世界を語れないことは確かだ。 「欧米諸国」と言う言葉がよく使われるが、「欧(=西ヨーロッパ諸国)」の厳密な対象は、近代化に成功した主としてフランス、ドイツ、ベネルクス地域が主体で、実は、イタリア、スペインはもちろん、そして、当然ながら旧東欧諸国は、「欧(西ヨーロッパ)」とは違うのである。 フランスもロワール川以南の南フランスもやはり違うようだ。 

そして、英語圏が作り出すアングロサクソン諸国(イギリス、カナダ、アメリカ合衆国、オーストラリア、ニュージーランド)は、ヨーロッパ大陸とはまた一味違う独自の世界である。 

北欧は、「欧(西ヨーロッパ)」に入れても良いかも知れないが、ロシアはまったく違う。 旧東欧はゲルマンがスラブ化する過程、ロシアはスラブ人がモンゴル、トルコなど騎馬遊牧民の影響を受けて変質している国(同居している)ではないだろうか?

まずは、ヨーロッパの両翼、フランスとドイツの比較をしてみよう。

クイズダービーという昔のテレビ番組にも出ていた学習院の篠沢秀夫氏(仏文学者)が書いた「フランス三昧」(文春新書)はとてもいい本で、現在のフランス共和国にいたる歴史がわかりやすく書いてあって、面白く読んだ。 この人は、学識の深い人で歴史学者ではないのだけれど、実に見事にフランスの歴史を日本人に分るように説明している。 碩学にしか出来ない技だと思う。 フランスをもっと知りたい、と知的好奇心を満たしてくる。

今のフランスは、もろもとローマ帝国を滅ぼす原因となった入植ゲルマン人の一派であるフランク族の王様の小さな所領(現在のパリ周辺、所謂イル・ド・フランス)から始ったらしい。 そのイル・ド・フランスの王様がどんどん回りの部族長(別の王様)の領地を奪って大きくなって行った。 フランス革命までは、土地も人々も皆、王様が所有していた。フランス革命で、王様の首がギロチンで刎ねられ、普通の人々が王様に代わって土地と人々の所有者?になって、今日でいう国民国家が出来た。 

フランスという名前は「フランク族」から由来するという。 フランス人というのはゲルマン人なのだ! というと???と思うかもしれない。 正確に言うと、昔世界史で習った、ゲルマン民族の大移動、早い話が、狩猟民族である野蛮な侵略者が北欧や中央アジア(コーカサスあたり)からこの地にやってきて、もともとの住人(ケルト人)を征服・君臨した。 すでに、当時住んでいた、ケルト人は、抹殺されたわけではなく、これら少数派のゲルマン人と同居する状態で融合してというか、その慣れの果てが今日のフランスらしい。 フランス精神を、別名「ゴール精神」というそうだが、ゴール人とはガリア人(ラテン語)のことである、ケルト人のことである。

フランク族は、サリカ法というゲルマン部族法で統治されたそうだが、当時において、ロワール川以南から地中海にかけては、まったく別世界だったそうだ。 所謂、プロヴァンス地方。 ここはジュリアス・シーザーにいち早く制覇され、ローマ法で各所領の部族長(王様)が治めていた。 もともとは、ロワール以北と同じケルト人(ガリア人)である。キリスト教が布教される前の話だ。

 このあたりの経緯は難しい歴史の本だけでなく、「Asterix」というフランス版の漫画(私の愛読書でもある)があって、大変楽しく、歴史の勉強にもなる。 パリは、当時Lutecia(ラテン語)と呼ばれていた。 そう言えば、パリにこの名前のホテルもあったな。 ついでに、スイスはHelvetiaと呼ばれた。 イギリスは、ご存知、Britania。 スコットランドはCaledoniaである。

そう、地中海世界なのだ。 マルセイユはマッサリアと当時は呼ばれていて、もともとはギリシャ人の殖民ポリスからスタートしたのだった。 イタリアもスペインも対岸の北アフリカ沿岸もそうだった。 プロヴァンス地方は、当時はラテン語でプロヴィンキアと呼ばれたそうだ。 現在の名前の語源である。 言葉も、ラングドックという地方があるように、オック語であり、現代フランス語のもとであるオイル語は、ロワール以北からベルギーに掛けてのフランク族の言葉で系統が違うらしい。

中世までは、プロヴァンスが経済的にも優勢で、文化的にも高かった。イタリアのダンテは当時最先端の文化語であるオック語を参考にして、イタリア語を開発したそうな! 現代フランス語は、フランス革命後、共和国政府によって強制的に広められた「人工語」だそうだ! ベースはオイル語。(現在のウィ(ハイ)を昔はオイルと発音していたそうだ。 オック語は「ハイ」をオックと言っていたので、この呼び名があるという) つまり、18世紀末のフランス革命以来、フランスが邁進した「国民国家」を作るに当たって、国民はすべからく同じ言語を喋るべしと!ということで、こういう事態が起こったのだ。

プロバンスのオック語は死語と化した。 日本では明治政府が言文一致体の国語を作ったのが篠沢氏によるとフランスに遅れること約80年です。(フランス革命が1789年、明治維新が1868年)。 つまり、篠沢教授曰く、フランスというのは、言語的には統一されているものの、一つの共通の民族がすむ日本みたいな国ではないのだ、ということをおっしゃっている。

と、今日は、ここまで。 明日は、ドイツ語圏のことを語ってみたい。